六.ルベウスの花

「さて、行こうか」
 朝食を終えて少ししてから、ドアの向こうで空澄の声が響いてきた。俺はやや緊張気味ながらも大きく息を吐き、レポートと昨晩遅くまで調べたメモを手にし、意を決してドアを開ける。するとそこにはあの強気な眼差しの空澄が小さな笑みをもって立っており、俺の手元にあるレポートを見るなり、一つ頷きを見せた。
「用意はいいのかな?」
「あぁ、レポートだけあればいいよな。それじゃあ、行こうか」
 梶原邸を出て、研究所までの道をやや足早に歩く。それは暑いからではない、少しでも早く研究に着手したい表れ。だがそれは期待以上に、焦りからくるものが大きかった。わからないから、なるべく早く手をつける。そうして心の充足を得たい。そのため、輝きを増した陽光にどこかニヒルな笑みを見せる草花に目もくれず、二人は研究所の入口へと急いだ。
「暑いね、今日も」
 そう言いながら、ポケットから研究所の鍵を取り出し、開錠する空澄に俺は生返事しかできなかった。そんな意味の無い会話よりも、これから待ち受けているだろう現実に一体どれだけ対応できるか、どこまで理解できるか、自分は何をできるのかと言うのに頭が一杯で、気が気でなかった。
「中に入ると、外の日差しが強い分、幾らか涼しいね。でもやっぱり暑いからかび臭さみたいなのが際立って、あまり快適じゃないよね」
「慣れるしかないな」
 確かに直接日光を浴びるよりはいいのだが、このかび臭さと陰湿な匂いは気を滅入らせる。それにさして涼しいというわけでもなく、エアコンも無いだろうから、これからの事を考えると溜息が出てきた。
 空澄の案内により、正面左手のドアをくぐり、その先にある角部屋、即ち爺さんが過去に使っていた部屋へと通された。俺は周囲をぐるりと見回してから、空澄に向き直った。
「なぁ、どうしてここなんだ。ここよりも、空澄が帰省した時に使っている部屋を使った方が、機械の整備とかもしっかりされているんじゃないのか?」
「まぁ、そうかもしれないけど」
 空澄は僅かに二の句を逡巡したが、修吾を見詰めるなり、はっきりと口を開いた。
「重光さんのところでやった方が、気分も出るだろうし、それに当時重光さんが使っていた機材でやった方が、より忠実に再現できると思わない? まぁ、この部屋を使うのは他にも理由があって、私の今使っているとこは別の実験をしているから、あまり環境を変えたくないからってのもあるんだよね」
「まぁ、どこでもできればいいんだけど、肝心の整備とかどうなっているんだ?」
「それは大丈夫、私の使っているところだけじゃなく、この研究所の機材全て、私が帰省する前に整備してもらっているから。全部の部屋に同じものがあるわけじゃないから、色んな部屋に行ったり来たりするんだよね。そこで使えないものがあったりすると、困るからさ」
「じゃあ、ここも問題無く使えると」
「そう言う事。それじゃ、まずはレポートの解読からしよう」
 空澄に促されて長椅子に腰を下ろすと、向き合うようにして彼女もそうした。そしてレポートを広げるなり、修吾がメモをすっと差し出した。
「もう知っているかもしれないけど、一応元素記号や化学式、用語なんかを調べておいたよ。まぁ、ネットで簡単に調べただけだから、用語に関しては少し説明不足のところもあるかもしれないけどさ」
 空澄がそれを受け取り、目を通すと、感嘆の溜息と共に驚いた。B5のメモ三枚にわたって書かれたそれは非常に丁寧で、よくわかる出来となっている。
「ありがとう、これ役に立つよ。私も知らないのがあったから、これで余計な手間も減るね。うん、それじゃ早速取り掛かろう。えっと、まずは」
「まずは素材集めからだな」
 僅かに照れた笑顔のまま、修吾がぽんとレポートを叩いた。
「酸化アルミニウムや酸化クロムなどの材料が無いと、研究もできないだろう。そうしたものはここにあるのか?」
「少しはあるけど、この研究に必要な量をまかなえているかって言われると、ちょっと不安かも。どのくらい必要かわからないし、失敗するかもしれないから、多めに用意した方がいいよね」
「そうだな。でも、それをどこで入手すればいいんだ?」
 まさか、そこらのスーパーや薬局で売っているわけなどないだろう。けれど他にどうやって入手すればいいのか、さっぱりわからない。
 けれど空澄の表情には修吾のような悩みは無く、いたって平静である。
「お父さんの会社にあるだろうから、そこからもらってこようよ。この近くに工場があるから、車ですぐ行けるし」
「いいのか?」
 さすがはケーエスの社長令嬢、そうしたパイプを持っているとは当然と言うか、恐れ入ったと言うか。
「前から実験の材料とかが必要になった時、もらいに行ってるの。工場長さんとは小さい頃から可愛がってもらっているし、無茶なお願いじゃない限りは大丈夫かな」
「そうか、なら行こう」
 すぐに空澄の車に乗り、懇意にしているという工場へ向かう。相変わらず運転している空澄に余裕は無く、話しかけられるような雰囲気ではなかったけど、今は世間話などで雑談をする気にはなれなかったから、丁度良い。事故にだけならないよう、祈るばかりだ。
 車はふもとまで来ると、西に少し走る。すると間も無く、それらしい工場が見えてきた。ここがそうなのだろうと思っていると、やはり車はその敷地内に入り、従業員専用の場所に駐車した。
 工場はそれ自体もそうだが、敷地もかなり広めで、この地域における影響力の大きさを推して測る事ができた。車から降りた俺はその周囲をぼんやりと見渡していると、空澄が先立って裏口らしき方へと歩き出していた。
「こっちだよ」
 空澄の後ろにつき、裏口から工場へと入る。中は二十数人の作業員が何やら大きな機械を使って、色々やっていた。それが何なのかよくわからないけど、こうしたものが何気無い日常生活を支えているのだと思うと、何だか妙に感心してしまう。
 空澄はそのまま入って右手の方に進み、ガラス張りとも言える視界の大きな部屋に入った。そうして中にいた、やや禿げ上がった五十男をつかまえると、空澄は親しげな笑みを向けた。
「こんにちは、坂本さんはいますか?」
「おぉ、空澄ちゃんか。えぇと、ここにはいないけど、呼び出せばすぐに来るだろ。なぁ、ちょっと呼び出してくれや」
 そう言われた三十そこらの地味な女性事務員はマイクのスイッチを入れ、工場長を呼び出す。すると間も無く、灰色の薄汚れた作業着を着た人懐っこそうな六十くらいの男性が、小走り気味にやってきた。
「あぁ、誰かと思ったら空澄ちゃんじゃないかい」
「こんにちは、坂本さん」
 空澄が頭を下げるのに合わせ、修吾も頭を下げた。そんな修吾を一瞥してから、坂本は空澄の方へ視線を戻した。
「この人はどちら様だい」
「藤崎さんと言って、今回新しく手がける研究を一緒にしてくれる方ですよ」
「どうも、藤崎修吾です」
 もう一度、二人は礼を交わす。そして坂本が再び空澄に視線を戻した時、何だか満足そうに笑っていた。
「いやぁ、空澄ちゃんもそう言う事か。ここにはいつも一人で来ていたのに、今回は彼と一緒だなんて、俺も年を取るわけだ」
「ちょっと坂本さん、何を勘違いしているの。私と修吾さんは研究を共にする仲間で、そうした関係じゃありません」
「ははっ、そんなムキになって否定したら、彼が可哀想じゃないか。なぁ、空澄ちゃんは可愛いだろう。ちょっと気が強いけど、なぁにこれで優しいとこがあるんだ」
 何と言っていいのかわからない修吾は、愛想笑いを浮かべている。
「ほら、修吾さんも困っているでしょう。もう、そう言う冗談やめて下さいよ」
「俺が四十年若ければなぁ。まぁ、兄さんだって、きっと俺と同じ気持ちさ」
「だから」
「まぁ、そうですね。確かに梶原さんはとても魅力的だと思っていますよ」
「ほらな、空澄ちゃん」
 ぐうの音も出ずに真っ赤になってしまった空澄は恨めしそうに二人を睨むと、殊更大きな息を吐く。そうして坂本を強い眼差しでもって、見詰めた。
「もう、そんな事はどうだっていいんです、今日来たのは研究に必要な材料をもらいに来たんですよ。はい、これが必要な物です」
 あらかじめ何が必要か書いてあったメモを差し出すと、坂本もそれ以上からかうのを止め、メモを受け取り、じっくりと目を通し始めた。
「あぁ、これなら全部あるよ。どのくらい必要だい?」
「とりあえず、各二キロずつお願いします」
「わかった、すぐ用意させるよ」
 坂本は側にいた先程の事務員にメモを渡し、指示を与える。するとすぐさま彼女は腰を上げ、どこかへと小走り気味に駆けていった。その背を見てから、坂本は空澄の方へと向き直る。
「ところで研究って、何をするつもりなんだい?」
「えっと、それがよくわからなくて。とあるレポートを見付けたんですけど、私達には何がどうなっているのか、よくわからないんですが、とにかくすごい事が書かれているらしいので、何とかやってみようと」
「なるほどね、それは是非がんばってもらいたいものだ。でも」
 坂本はそこで一旦言葉を切り、やや首を傾げた。
「この材料だと、作れる物はあれだと思うんだけどなぁ」
 坂本の言葉に、二人の眉が動いた。
 何ができるのか、この人にはわかるのか。レポートを見てもいないのに。いやでも、長年こうした物に触れ、それを仕事として取り扱っていたのなら、材料から何が作れるのかある程度の判断はできるのかもしれない。となると、その予想を聞いておくべきだろうか。完成予想図が描ければ、これからの事が少し楽になるかもしれない。教えてもらっても、マイナスにはならないだろう。
「坂本さん、お願いがあります」
 先に口を開いたのは空澄だった。
「もし何か予想できたりしても、何も言わないで下さい。これは今私達がわからなくても、一つ一つ調べていき、形にする事にも意義があるので」
「そうか、ならよしておくよ」
 それを聞いて俺は空澄を非難しようとしたが、思い留まった。確かに完成予想図を聞いて取り組めばスムーズに行くだろうが、そうしてしまうと爺さんが隠し通してきた秘密と言うものを軽んじ、ひけらかしてしまうような気もする。今回の研究において、なるべく早く完成させるのはもちろんだが、それ以上に叶わなかった恋の成就を今果たすという意味合いが、既に大きくなっている。だから、俺達だけでやらないとならない。
 そうこうしていると女性事務員が戻り、全ての材料を裏口前にある台車に載せておいたと、報告してきた。それを聞き、三人は礼を述べたが、彼女は眉一つ動かさず、また机に向かうなり、キーボードを叩き始めた。
「それじゃ、ありがとうございました」
「いやいや、何も。上手くいくよう、祈っているよ。研究も、彼との関係も」
「……ありがとうございました」
 空澄は苦々しげに一礼すると、足早に裏口へと向かっていった。修吾は慌てて坂本に一礼すると、慌ててその後を追う。その様子を坂本は実に満足そうに見ていた。
台車に積んであった荷物を空澄の車に載せると、車はすぐに梶原邸へと戻った。そうして車を研究所前に停め、研究をする部屋へそれを運ぶ。荷物は修吾が一人で運び、空澄は車を車庫へと入れに行く。
「いよいよ、か」
 目の前にある材料を見ていると、僅かな恐怖と大きな意欲が湧いてきた。やるしかない、やるからには持てる力を全て発揮し、必ず成功させなければならない。これを失敗させてしまうと、またあの生きているか死んでいるかわからない日常に戻ってしまう。
 じっと修吾が荷物を見詰めていると、入口の方から足音が聞こえてきた。それはやや小走り気味で、すぐに来るものだと修吾は思っていたのだが、意外にも別の部屋のドアを開ける音が届いてきた。
 一体どうしたものかと腕を組み、修吾がドアを見詰めていると、また足音が聞こえてきた。今度は修吾の方へ向かってきており、彼の眼差しにも力が入る。
「お待たせ。はい、これ」
 渡されたのは白衣だった。突然の事に修吾が困惑していると、空澄がそれに袖を通しながら顎で修吾の白衣を示した。
「それ着た方が汚れなくていいよ。私の予備のやつだからサイズは少し小さいかもしれないけど、無いよりマシでしょ」
「あぁ、ありがとう」
 慌てて修吾も袖を通したが、やはりサイズが合わないと見え、丈がやや足りないみたいだった。けれども無いよりはマシとばかり、修吾は脱ぎはせず、空澄に微笑みかけた。空澄はどこかばつの悪そうな顔で笑みを返したが、すぐに真剣な眼差しとなり、テーブルの上にあったレポートを手にした。
「さて、やろっか。まずこの研究はフラックス法と言うのを使うらしいけど、修吾さん、それについて調べていたりする?」
 修吾はレポートの側に置いてあった、昨夜調べて記したメモを取り上げた。
「えぇと……あぁ、調べてあるよ。フラックス法と言うのは酸化アルミニウムとクリオライトを混ぜる事により、低温で化合物を作り出す方法らしい。フラックスと言うのは溶媒の事で、溶質が水に溶けない場合などに溶媒とする物質の総称らしいね。まぁ、こんな細かい豆知識はどうでもいいか」
「なるほどね。当時としてはそんな高温を常に出し、調節するのが難しかっただろうから、なるべく低温でもできる方法にしかかったのかな。それとも、そうした高温を安定させる設備が不十分だったのかな」
 空澄は二歩三歩とテーブルの周りを歩く。
「まぁ、ともかくやろっか。そんな昔の事情より、今できる事について考えた方がいいもんね。えっと、まずは酸化アルミニウム五十グラム、クリオライトをその四倍の二百グラム用意し、乳鉢でしっかりと混合するみたい。それとそれの箱の中から、必要な物を出してくれないかな。私は計量器を持ってくるね」
 修吾が指定された箱から二種類の材料を取り出し、空澄はすぐさま別の部屋から計量器を持ってきた。そして計量器の上に白い紙を置き、それぞれを正確に量った後、乳鉢でよく混ぜる。
「次は酸化クロムね。これはちょっと取り扱いには気を付けてよ」
 空澄が量ったものを修吾が乳鉢で混ぜる。
「次は核を入れるらしいけど、その核となる花の種って持ってきている?」
「あぁ、一応持ってきているよ。ほら、ここにある」
 テーブルの上にちょこんと置かれてある小瓶を修吾が手にすると、空澄はそれを視認してから、再びレポートに目を戻す。
「それを混合剤の中に入れるみたい。上に乗せるんじゃなく、中に埋めるみたいだから、その中に穴を開けて……そうそう、それで覆って……うん、それでいいかも」
 乳鉢に全てをセットし終えた後、空澄がハッとした顔でレポートとそれを交互に見ると、申し訳なさそうな表情で修吾の方へと目を移した。
「ごめん、間違えた。乳鉢にセットするんじゃなくて、乳鉢で混ぜた後でこのるつぼに混合剤を入れてから、核をセットするんだった。悪いけど、これにセットしてもらえるかな」
 空澄からるつぼを渡された修吾は淡々と混合剤を入れ換え、その中心に花の種と呼ばれている謎の粒を埋め込む。それを見届けるなり、空澄が蓋をし、そしてそれを逆さにしたセラミック製のるつぼで覆う。つまり、るつぼは二重構造となった。
「これを電気炉にセットして、待つみたい」
 電気炉にるつぼをセットし、空澄がその操作方法を俺に教えながら、作業を進める。俺としても、一つでも色んな事を覚え、自主的に研究に参加したいので、食い入るように空澄の手を見る。
「これでいいね。タイマーもセットしたし、あとは自動でやってくれるけど、半日くらいかかりそうかも。続きは明日になるかなぁ」
「そんなにかかるのか?」
「うん。だってこれ、加熱してから冷却する方法とか書かれていないから、きっと自然に冷めるのを待つんじゃないかな。本当はそんなにいらないのかもしれないけど、時間はあるんだから、余裕を持たせてもいいじゃない」
 頷くしかなかった。俺と違ってこうした分野に限れば場数を踏んでいるのだから、それに従った方がいいだろうし、それにそこまで急ぐ必要も無いだろう。もっとこうして、一緒にいたいと、そう願っている俺が不自然ではなくなってきているのだから。
「上手くいけばいいな」
「そうだね、最初の段階くらい順調にいきたいよね。さて、一旦戻ろうよ。ここにいても暑いし、色々調べるにしても、涼しい場所のがいいよね」
 俺達は梶原邸に戻ると、空澄が用意した教科書や辞書、そしてノートパソコンによるネット検索などを駆使し、レポートをより詳しく解読していった。座学は退屈で、また今回学ばねばならないのは難しく、何度も放り出しそうになったが、あと一歩のところで堪えられたのは明確な目標があったからだ。
 これまで不明瞭な目的のまま旅をし、示された目的物もこれまた不明瞭なものだったけど、目標だけは明確となった。その唯一とも言える光のため、全力でぶつかってみるのも悪くはない。

 朝食を終えるとすぐに、二人は研究所へと向かった。本当ならば昨日の晩に結果を知る事もできたのだが、結果だけ知るのならば先が長いだけに意味も無いと、日を改める事にしたのだった。けれどお互い、それが非常に気にかかっていたらしく、食事を終えるとどちらから言うともなし、すぐさま支度をしたのだった。
 朝日の輝きも草木の匂いも、花々の彩りをも感じる余裕など無く、ただ足早に無言のまま、二人は研究所のドアをくぐり、研究の場へと赴いた。白衣を着るのも後回しに、空澄が電気炉の前に立ち、中からるつぼを取り出す。さすがにもう熱くはなく、素手でそれをテーブルの上に置くと、修吾を一瞥する。修吾が力強い眼をもって頷くと、空澄がそっと逆さにしてある蓋のるつぼを取った。
 二人はその中を覗く。
「成功した、のか?」
「だと思うけど……」
 二人が覗くるつぼに入っていたもの、それは小さな赤い塊であった。いや、塊と呼ぶには小さく、粒と言っても差し支えないだろう。まじまじとそれを見詰めていてもそれ以上わからないので、二人は白衣を着て支度を済ませると、すぐにそれを取り出した。
 それは確かに赤い球体だった。ピンセットで摘み、光に透かしてみると、透過性のある物質だと言う事もわかった。また、ピンセットから伝わる感覚として、それがそれなりに硬い物質だとも実感できた。
「崩れていないし、見た感じも失敗じゃなさそうだから、これは一応成功なのかな」
「そう思って次の段階に進んだ方がよさそうだね。さて、次は」
 切り替え素早く、空澄がレポートに目を通す。その間、修吾はその赤い粒と空澄の横顔を見ていたが、やがて窓の外へと視点が落ち着いたのか、ぼんやりとゆらめきもしない木々を眺めていた。
「あぁ、そういう事ね。なるほど」
 空澄が修吾を見遣る。
「次にやるのは、ほとんど昨日と一緒みたい。酸化アルミニウムとクリオライト、酸化クロムを混ぜるんだけど、昨日と違うのはその赤い粒を核として使うみたい」
「分量さえ間違えなければ、楽だな」
 修吾が酸化アルミニウムの入った瓶に手を伸ばそうとしたところでふと動きを止め、数瞬考えた後、すっと空澄の方へ顔を向けた。
「あのさ、もし失敗した時のためにもう一つ同じ物を作っておかないか。一度加熱してから冷却し、作業に取りかかるまでこんなに長いのに、もし失敗なんかしたら、またかなりの時間を使う事になる。そうなると、やる気だって落ちるだろうからな」
「そうだね、あってもいいかも。それじゃ、修吾さんは予備のをお願い、私は二段階目のをやるね。乳鉢はそこの戸棚の中にあるから」
 空澄は側にあった乳鉢を手元に寄せると、計量器で酸化アルミニウムの重さを量る。修吾はそうした空澄の手際の良さに見入っていたが、空澄が視線を合わせると、慌てて戸棚から乳鉢を取り出し、空澄と交互に計量器を使う。
 そう難しい作業ではないため、三十分もせずに二つとも電気炉にセットできる状態となった。修吾が二つとも電気炉にセットしようとすると、空澄が手で制してきた。修吾は何事かと見返す。
「待って、別々に入れよう」
「どうしてだ」
「これって、中の混合剤が熱によって反応して、あぁした赤い球になるんだよね。でも、二つあったりすると上手く加熱されないかもしれないじゃない。二つのるつぼの間にできる空間と周囲の温度が少しでも変わると、反応のズレが起きるかもしれないでしょ、だから別々にしようって。その方が確かだと思うの」
 確かにその通りだ。最初の実験で成功したのは電気炉に一つしか入れなかったからで、二つ入れても成功する保証は無い。しかし、一つずつにすると結局時間がかかりすぎてしまうじゃないか。
「そうした方が成功する確率が上がるかもしれないけど、でもそれだと時間がかかり過ぎて、予備の意味合いが薄まるじゃないか」
「大丈夫よ、電気炉は二つあるもの」
 平然とそう言った空澄に俺は言葉が止まり、ぽかんとしてしまった。
「隣の部屋にもあるのよ。だから、一台一つずつでも大丈夫なわけ。さ、ここは二段階目のを入れて、隣のやつに予備のをセットしよう。修吾さん、操作は覚えている?」
「あ、いや、まだしっかりと覚えていないから、もう一度教えてくれないかな」
「いいよ、えっとね」
 何だ、二つあったのか。
 密かに肩を落としながら修吾は空澄から操作を教わり、そして隣室の電気炉を空澄立ち会いの下、一人で操作した。取り立てて難しい操作ではない上、つい昨日見たばかりなのでミスも無く終えられた。
「戻って、ちょっとだけ勉強しよっか」
 研究所を出ると、体を刺すような暑さに襲われた。今日も暑くなるのを実感しながら、その暑さを愛しむように二人はゆっくりと並んで歩く。そして時折立ち止まり、成長した花々に目を奪われてはともに口の端に笑みを浮かべ、滲む汗を心地良さそうに受け止めている。修吾も空澄も、楽しんでいた。そして、大事にしていた。
 梶原邸に戻ると少しだけ勉強した後、昼食までの休憩とばかり、それぞれの部屋に落ち着いた。一人になった修吾はドアの閉まる音に何とも言えぬ寂しさを感じつつ、部屋の中央まで歩を進めると、天を仰いだ。
 俺は、俺の役目を果たしているのだろうか。
 実感が抱けなかった。働いていた時は商品を売ったり、客の笑顔を見届け、給料を手にすれば達成感をきちんとした形で感じる事ができた。けれど、今回はまだそれを感じられないでいる。それは研究の途中でもあるし、また爺さんや空澄の言う通りになっている立場だから、自分でしているという意識が薄いのかもしれない。
 仕方が無いんだ、これが今の実力なのだから。そう諦め、一つの歯車として動くのはプライドさえ捨てれば簡単だった。けれど、それはできない。プライドのせいではない。それができないのは、己の中にある空澄のせいなんだ。
 このままだと、認められる事は無いだろう。そうかと言って、どうする事もできない。今はただ、嫌われないでいる現状維持に他ならず、空澄を求めつつあるこの心にそれは到底満足できるものじゃないので、無力な自分をひたすら責めてしまう。
 もう、自分にも言い訳なんてできない。俺は空澄が気にかかっている、それも単なる興味ではなく、一人の女として。きっかけは何だっていい、今こうして心騒がせているのが現実であり、疑う余地の無い事実なのだ。
 恋という殻に包まれ、俺は空澄の本質が見えていないかもしれない。ひいき目でもって見てしまい、冷静になれていないのもまた事実だ。けれど、恋なんてそんなもの。相手の全てが好きなんじゃなくて、恋しているというひいき目から生まれる姿を見て、素敵だと思えているんだ。冷静かそうじゃないかと問われれば冷静ではないが、幸せかそうじゃないかと問われれば、俺は今、幸せだ。誰かを好きでいるのだから。
 窓辺へと歩く。鋭い角度で差し込む日光を受け止めながら、修吾は窓の外をやや薄目で眺めていた。そこには相変わらずの草木が茂っていたが、そのどれもが胸を張って輝いているように彼には見えた。
 昼食後、すぐにでも研究所に行って研究をしたかったのだが、まだ冷却が済んでいないだろうからと、応接間で俺達は冷たいお茶を飲んでいた。まぁ、クーラーも無い研究室でこの暑い最中研究でもしようものなら、ミスしてしまうかもしれないから、丁度良い。
「なぁ、空澄」
 ぼんやりと外を見ていた空澄が振り向く。
「俺達が作っているのって、一体何なんだろうな。爺さんは花を咲かせたいとあったが、あの研究を繰り返しても赤い玉にしかならないだろうから、一体何が花なのかなって。空澄は何かこう、完成形みたいなのが見えていたりするか?」
「完成形とか、そういうのはわからないけど」
 難しい顔をした空澄が腕を組む。
「何回か同じ作業を繰り返した後、別の作業が後半にあるって書いていたよ。今は土台作りみたいなもので、その後半の作業が花になる何かじゃないのかな」
「なるほどね」
 ではその後半の作業に秘密が隠されているのだろうが、どうしても腑に落ちない事がある。それはあの老人がレポートを放棄した事だ。時代には勝てない技術と言っていたが、あの赤い球が花になる技術なんて見た事も無いぞ。もしあの爺さんが思っている技術がそんなにも身近でありふれているものなら、一度くらい見ていてもおかしくない。
「あっ、もしかして」
 修吾が目を輝かせるのと同時に、空澄がその顔に目を遣った。
「あの爺さん、花の種の事を知らなかったから、レポートに価値を見出せなかったのかも」
 まだよくわからないらしい空澄が小首を傾げるのももどかしそうに、修吾が身を乗り出してレポートを広げる。
「ほら、ここ。花の種の部分なんだけど、種って書いてあるじゃない。俺達は花の種だとわかるけど、あの爺さんは単なる核と思ったのかも。その後も花の種の記述は明記されず、略号のHaNaとだけ。これだけ見れば、何らかの化学式と間違って、大事な何かを見落としていたとしても、不思議じゃないかなと」
「あぁ、確かにそう言われたら、納得できるね。深くを知っているから、表層の簡単さに騙されちゃったって感じなのかな。でも、どちらにしても、最後までやらないと正確な答えが見えてこないんだろうね」
 そう言う空澄の瞳はどこか冷めていて、俺の心にほんの僅かなしこりを残した。確かに自分の想像が全て正しいわけじゃないけど、可能性としてありうるわけであって、それを空澄も同調しているのに、何でそんな眼をするのだろうと。もっと喜んでくれても、いいじゃないか。
 そこまで考えて、気付いた。もしかすると空澄は何か掴んでいるんじゃないかと。だからこそ、こんな眼になっているんじゃないだろうか。いや、何でも憶測で物事を考え、猜疑心ばかり膨らませても良い事なんて無い。ここは空澄の言う通り、最後までやらないと正確な答えなんて見えてこないのだから、それを確実に見極められるようになるべきだ。
 俺はお茶を一口飲むと、また窓の外を見た。八月の景色は相変わらず猛っており、最近雨が降っていないのか、水遣りをしていない雑草地帯は狐色になってしおれているけれど、それでも半分以上は緑を保っており、天よ抱かんとばかりに伸びている。そうした心意気を見習おうと思いつつも、かんかんに照りつける太陽の一端を見ていると、気持ちが折れるのもまた感じていた。
 夕方の四時を迎えた頃、二人は研究所へと向かった。やや曇り気味で風が出ていたけど、相変わらずまだ暑く、研究所内に入っても二人の額はほのかに光っていた。それでも白衣に袖を通し、レポートを広げれば、いっぱしの科学者の眼差しへと変わっていった。
「さて、まずはるつぼの確認だな。俺は隣室のを取ってくるから、空澄はそこのを頼む」
 そう言うなり修吾は隣室に急ぎ、電気炉の前に立った。そうして昨日見た手順通りに開け、中からるつぼを取り出す。けれどそれをすぐ確認せずに、空澄の待つ部屋へと持っていった。
「もう見たか?」
「まだだよ、どうせなら一緒に確認しようと思ってさ。それじゃ、こっちの方から開けてみるね」
 空澄が二回目の冷却を終えたるつぼを開けてみると、中には直径一センチ程の赤い球が入っていた。それは一段階目のものよりも一回り大きく、けれど透明度に変化は無かった。透き通る赤が美しく、成功を実感させる。
「成功かな」
「だと思うけどね。形もいびつじゃないし、ひび割れとかも無く、綺麗に整っているから。これはひとまずここに置いておいて、次はその予備のやつを見てみようよ」
 空澄の指示により、修吾が隣室から持ってきたるつぼを開ける。中には初めて見た時とほとんど、いや寸分の違いも無いだろう大きさの赤い粒があった。それをそっと摘み上げ、修吾は様々な角度から見る。
「大丈夫だと思う。一応、空澄も確認してくれよ」
 修吾からそれを受け取った空澄もまた、様々な角度からおかしな点はないかと確認するけど、特に何も見付からなかったらしく、修吾の方のるつぼに戻した。
「大丈夫じゃないかな。うん、二つとも成功だね。それじゃ、次の作業に移ろう。と言っても、どっちもまた前と同じ作業の繰り返しだけどね」
 また同じ作業、か。一体いつになれば花になるのだろう。
 そう思いつつもレポートに従うしかないので、修吾は材料を量り始めた。もうかなり作業にも慣れたのか、その手際は良くなってきている。混合剤を作る過程までならば、空澄とそうスピードは変わらなくなってきていた。
 しかし、電気炉の操作はまだ完璧ではないらしく、空澄にアドバイスを求めていた。だがそれも一から十までやってもらうのではなく、修吾が操作するのを確認したり、間違いをたまに正す程度のものであった。
 作業が終わるのに、もう三十分もかからなくなっていた。二つとも電気炉にセットすると、修吾と空澄は互いに顔を見合わせると、小さく笑った。
「もうかなり慣れてきたな」
「慢心はよくないよ。こういうのは単純作業だけど、だからこそ軽く見てミスする事があるんだし、こういった積み重ねが次のステップに役立つんだよ」
「いやぁ、頭ではわかっているんだけどね」
 研究所を出ても、まだ暑さはやわらいでいなかった。一歩進めば熱い空気が体にまとわりつき、そよ風がそうした熱を覆いかぶらせる。すぐに汗が滲み、衣服が湿る。けれど、それに際して思うのは自分の不快感ではなく、相手がどう思っているのかと言う事。汗臭くないだろうか、見苦しくないだろうかというものに頭が一杯になり、ついわずかに距離を取ってしまう。けれど本心ではもっと互いを知りたいらしく、空澄は花壇を彩る花の説明をし、修吾がそれを関心深げに相槌を打っていた。
 そうして知っても、真に求め合う心には触れられない。ただ二人、厚みの無いガラス越しに見ているだけで、知識を得ても感触なんてわからないままだった。
 夕食を食べ終えると修吾は自室に戻り、ベッドに寝転がっていた。ゆっくりと目を閉じ、満腹を味わいつつも、すぐ先の未来にあるだろう不安に気を揉み、溜息をつく。
「どうしたものかな」
 考えるのは研究の成否ではなく、空澄の事だった。何とかして、より親しくなりたいと思っているのだが、さてこのままでは打つ手が無い。研究も黙々とこなしているだけだし、食事時や休憩時に話す事はあっても、深いところまで踏み込んだ話をしていない。いや、していないのではなく、するタイミングが無い。
 なので、このまま一緒にいたところで、どうなるわけも無いだろう。ここに来る前まではひたすら平穏と目的を求めていたのに、いざそれが手に入ると、今度は方法と機会が無い。あぁ、まったく何だと言うのだ。
 やるべき事はわかっている。けれど、それを実行する意思や勇気が少し弱い。でも、誰だってそうで、だからこそこんな世の中なんだと思う。安易にやれやれと言うのは自分に責任が無いと思っている楽天家だし、神妙な顔付きで言うのは相手にではなく自分に助言を向けているだけ。そして、こうして冷めた眼で考えている俺はニヒリストでも何でもなく、ただの臆病者。
 あぁ、暑い。クーラーをつけていてもそう感じる。学ぶには意欲湧かず、かと言って仮眠するには寝苦しい。けれど、起きていても同じ事を堂々巡りさせて悩むだけだろうから、本でも読んでいた方が幾らかましかもしれない。
 修吾は眠るためにカバンから読みかけの小説を取り出したが、三十ページ四十ページと読み進めても、疲労感こそあれ、眠りには繋がらなかった。ただひたすら、修吾はベッドの上で右へ左へと気持ち良く眠れる位置を探していたが、結局それは叶わなかった。
 それにも飽きて、何となし修吾がノートパソコンを開き、ネット検索であの赤い球の正体を探ろうとしていたら、不意にドアがノックされた。修吾はすぐ立ち上がり、何の警戒も無くドアを開ける。
「あっ、今は大丈夫?」
「平気だけど、どうした?」
 空澄はシャワーを浴びたらしく、先程とは違ったシャツとスカートを身にまとっている。まだ僅かに濡れている髪が、照明と相俟って、どこか艶っぽい。
「もし大丈夫なら、今から研究所に行かないかな。ほら、もう冷却終わっているだろうし、作業もすぐ終わるだろうから、ぱぱっとやっちゃわないかなって」
 時計を見ると、午後十一時までもうすぐだった。
「いいけど。それじゃ、ちょっと待っていてくれ。すぐ支度するから」
 身支度を終えると、俺達は研究所へと歩き出した。昼間と違って、夜のこの辺は木々のざわめきとフクロウとおぼしき鳥の声が不気味で、何となく腰が引ける。おまけに懐中電灯を点けているので虫が寄ってくるが、点けていないと足元が危ない。ただ、空澄はこんな状況に慣れているらしく、俺よりも幾分か軽快な足取りだ。
「空澄はこういう暗がり、平気なのか?」
「ううん、あんまり。こうして歩けるのは自分の家だし、知った道だからこそで、知らない道なら怖くて歩けないよ」
 空澄はその足取りを止める事無く、進む。
「その割には平然と歩いているじゃないか。幾ら知っている道でも、俺ならゆっくりした歩みになりそうだ」
「こんな所で止まりたくないもの」
 よくよく見れば、空澄の顔がやや引きつっている。それを見ると何だか気も楽になり、少しばかり遅れがちだったけど、並んで歩けるようになった。
 研究所に入り、明かりを点けると、すぐに虫がそれに群がってきた。眉ひそめなるべく近寄らない、近寄らせないようにしながら修吾と空澄はロッカーにしまってあった白衣に袖を通し、すぐに向き合った。
「まずは電気炉に入っているのが成功しているかどうかの確認、それは成功していたら、前と同じ分量で混合剤を作って、再加熱。やる事はこれまでと同じね」
「それじゃ、俺は予備のを取ってくるよ」
 隣室の電気炉から修吾がるつぼを取り出し、すぐに空澄の待つテーブルに戻る。空澄は既にテーブルの上にるつぼを置いてあり、準備ができていた。
「それじゃ、同時に」
 目を合わせ、同時に頷くとそれぞれ逆さにかぶせてあるるつぼを取り外し、中から赤い球を取り出した。
「どちらも成功みたいだな」
 互いに取り出したそれは透き通った赤色の球で、ひびやくすみ、歪さは見られなかった。二人はそれを確認すると淡々と頷き、言葉を交わす事も無く、すぐに例の材料に手を伸ばした。二人にとって、もうこれはいちいち喜ぶようなものではない。できて当然、できなければおかしいとばかりに、黙々と作業を進めていった。
 電気炉のセットが終わると二人、言葉少なに研究所を出、星空の余韻を味わいもせず自室へと戻った。それは単に険悪だとか不信だとかではなく、どう接していいのかためらっている風であった。何だかぎこちなく、些細な一言でもって全て崩れてしまいそうな感じを互いに強く抱いていたため、つい息苦しい雰囲気となり、何もできずにいた。けれど、修吾はどうにかしたかったと見えて、一人椅子の上で頭を抱え、溜息をついていた。
「まいったな」
 この調子だと、数日後に完成するかもしれない。既にレポートの半分以上は進んでいるのだから、そう思ってもいいだろう。なのに、俺の方は何の進歩もしていない。研究に参加しているが、ただそれだけだ。このままだと、何もできずに終わってしまう。
 そうだ、失敗すればいい、そうしたらもう少しだけ長くいられる。
 しかしすぐ修吾は苦笑し、顔を上げた。
 何を考えているんだ、俺は。そんな事をしたって一時的な時間稼ぎにしかならないし、このままだと幾ら時間があったところで、何の進展も見込めない。それにわざと失敗なんかしたら、逆効果だ。
 拳を握り締めた修吾はじっと床の一点を見詰め、口に溜まりかけた唾を飲み込むと、そのまま固まった。彼は困惑していた。再び失いかけているかもしれないといった焦りがひどく心を乱し、静かな汗を滲ませている。
 進展の手段、そしてルベウスの花を完成させた後の自分。これが修吾にはわからず、ひたすらまとまりの無い考えを頭に巡らせては苦しんでいた。そしてその考えが落ち着く先は決まって、あの旅に出る前の無気力な自分の姿。もう二度とあぁなるまいとの決心を抱いているだけに、自ずとそれを考えてしまう自分に、またそうなるかもしれない未来に、修吾の心はヤスリで削られていくように疲弊していく。
 頭をかきむしろうとした手を止め、思い直したかのように指を広げ、そのまま顔を覆う。指先に力が入るが、その圧迫感を感じていないとどうかなりそうな心。そうしたまま修吾が小さく呻いていると、小さなノック音が響いた。慌てて修吾が顔を上げると、続けてもう二度。
「どうぞ」
 表情をいつものようにと心掛け、ドアが開くのを待つ。ドアはどこかゆっくりと開けられ、どこかしおらしい空澄が顔を覗かせた。
「今、ちょっといいかな」
「あぁ、どうぞ」
 空澄は入るなり、ゆっくりと周囲を見回す。そして修吾に視線を落ち着かせると、傍にある椅子にも腰かけず、じっと見詰めていた。
「空澄も眠れないのか」
「うん、まぁそんなとこ。何か色々考えちゃってさ、一人でいると。だから、修吾さんどうしているかなって、様子とか知りたいって言うか、その……声を聞きたくて」
「あ、あぁ、まぁ、俺も同じような感じだったから、別にいいよ。俺も空澄の事、考えていたんだ」
「そう、ならよかった」
 苦笑とも照れ笑いともつかない空澄の笑み、そしてその言葉に俺の心は激しく騒いだが、まだ気持ちを前面に押し出すのは早いと我が身に言い聞かせ、平静を装う。
 それきり、二人は黙ってしまった。互いに何か言いたそうだけど、簡単にそうさせない雰囲気が二人を縛り、またそれが甘さを伴っていたため、心地良い諦めすらあった。
 それを先に破ったのは修吾だった。
「あのさ、何か言いたい事があるんじゃないのか」
 空澄は眉を上げ、修吾を見詰める。
「あぁ、いや、何だかそんな気がするだけだ。違うのなら、ごめん」
「……ううん、違わないよ」
 すっと空澄が視線を外した。
「お礼、言いにきたんだよね」
「お礼?」
 今日、取り立てて何もした覚えが無いのに、どうして礼などされるのだろう。虚をつかれ困惑していると、空澄が小さく頷いた。
「そう、お礼。さっき一人でいた時、思ったんだよね。こんな研究を手がけられるだけじゃなく、一緒にやってくれるなんて、嬉しいなぁってさ。楽しいんだよね、何だか」
「俺もそうだよ」
 修吾が微笑み返す。
「こういう知識が無いのに、こうしてできるのは空澄がいてくれているからだよ。空澄一人でもできるだろうに、こうして立ち合わせてくれているんだ、ありがたいね」
「そんな事無いよ」
 ぴしゃりと空澄が言い切った。
「一緒にやっているから、意味があるんだよ」
「……そうだな、悪かった。まぁ、俺も本当にこうしていられるのが幸せだと思っているよ。こうして話しているのもそうだし、もっと一緒に、何かしていたいなと」
 不意に空澄の携帯が鳴った。
「あっ、ごめん。メールだ」
「あぁ、気にしないで見てもいいよ。覗き見なんてしないから」
「そう、ごめんね」
 空澄は受信したばかりのメールを見るやいなや、何だか神妙そうに顔を強張らせた。それがあまりにも深刻そうだったので、修吾は心配そうに空澄を見る。
「なんだ、重要な用件か? もし大変なようならば、俺はもうここを出るけど」
「あっ、違うの、明日香さんからなの」
「明日香から?」
「うん、何だか意気投合して、メアドとか電話番号交換してたの。それで、ちょくちょくメールのやり取りとかしてるんだよね。うん、本当に大した事無いんだ」
 突然、空澄が踵を返した。そしてドアの方へとゆっくり歩む。
「もう寝るね。遅くにきてごめん」
「あぁ、おやすみ。嬉しかったよ」
 振り向きもせず空澄が出て行くと、修吾はドアと先程まで空澄がいた場所を交互に見詰め、そして目を細めた。その表情からは先程抱いていた苦悶は見えず、むしろ安らぎの色が濃かった。
 このまますぐに寝よう、この気持ちのまま眠れたら、きっと明日もいい一日になるだろう。余計な事を考えず、この温かみだけを噛み締めていたい。成功のイメージを強く抱き締めていたい。それが幸せと言うものなのだから。

 午前九時の陽光に照らされた研究所への道は昨晩のような不気味さは無く、清々しさが満ちていた。その中を歩く二人は何だか気恥ずかしそうにしており、言葉も無いまま、そよ風がくすぐったいのか時折笑みを浮かべている。特に空澄にはそれが顕著で、修吾と今日顔を合わせてからずっとこんな感じだった。
 それも白衣に袖を通すまでで、白衣を身にまとうと二人の顔が途端に引き締まった。二人は頷き合うと、空澄も修吾もそれぞれ担当しているるつぼを取りに、電気炉へと向かった。そしてそれを手にするとテーブルの上に置き、逆さにしているるつぼを取り、中から生成物を取り出す。
「どうだ?」
「……大丈夫みたい。綺麗な球状だし、傷やくすみ、歪みも無い。成功かな。そっちはどうなの?」
「問題無いな」
 じっくりと赤い球を見詰めた二人がそれをるつぼの中に置くと、安堵の溜息をついた。それを受けても、二つの赤い球はその美しさを変えない。
「よし、とっとと作業終わらせようぜ」
「うん、そうだね。えっと、もう一度加熱と冷却を繰り返したら、次はやっと違う作業が待ってるね。何か模様を書くみたいだけど、まぁそれは後でいいよね」
 そう、先の事はまだいい。今は目の前にあるものをしっかりこなすだけだ。
 慣れた手つきで混合剤の中にそれを埋め、電気炉にセットすると二人は梶原邸に戻った。次は夕方からの予定だったのだが、食料品の買出しにいかなければならなかったので、研究は夕食後に持ち越しとなった。
 夕食を終えるとすぐに研究所へと向かった。相変わらず昼間とは打って変わって不気味な道であるが、昨日よりは幾分か修吾の足取りも落ち着いていた。それでも足早に研究所に入ると、さっそく白衣に着替え、それぞれの担当している電気炉に向かい、るつぼを持ってきた。
「開けるね」
 空澄が取り出した赤い球は加熱前より一回り大きく、また歪みやひび割れも無い、綺麗な出来であった。修吾のも同じで、どちらも成功に間違いなかった。けれど修吾はその赤い球をじっと見詰め、何やら考えている。空澄は訝しく思って声をかけようとしたが、その視線があまりに熱心だったため、ついと視線を外すと窓辺へと歩き出した。
「ところで、ちょっと空澄に訊きたい事があるんだけど、いいかな」
 じっと赤い球を見詰めていた修吾が、ついと空澄に視線を移した。
「空澄はこれが何なのか、もうある程度想像がついているんじゃないのか?」
 空澄は何も言わない。それが修吾にとって肯定と思ったのか、顔を寄せる。
「なぁ、どうして気付いているのなら、言ってくれなかったんだ。言ってくれさえすれば、俺だって自分なりに調べようがある。だけどわからないままじゃ、ルベウスの花が何なのかも、わからないままなんだよ」
「何て、言うのかな」
 ややうつむきがちだった空澄が顔を上げ、振り絞るように声を出す。
「信じたくないってのが、大きかったのよ。二回目の冷却が終わってそれを見た時、もしかしたらって思ったの。でも、その想像が本当だとしたら、あの変な爺さんが言っていた『天才も時代には勝てない』ってのが嫌ってほど突き付けられている気がして、何だか言いにくかった。私の中で重光さんはもっとすごくて、そんな嘲笑されたくない人だから。でも……」
 空澄は何とも言えない表情で奥歯を噛む。
「それに、研究をしている最中に予測すべきではないと思っているの。だって、そうしたらそれに沿った考えになり、ミスリードされてしまうだろうから。でも、今はその予測を前提に言ってもいい気がする。あのね、このレポートで私達が作っている物って、人工宝石っぽいんだよね。ルビーの人工宝石」
「人工、宝石?」
 どこか呆然とする現実感を喪失した修吾に、空澄が続ける。
「うん、調べてみたんだよね。そうしたら、あの材料はルビーの構成物らしく、人工宝石として作るのにも使うもので、その分野では一般的らしいの。それにルベウスってのも、ラテン語だかでルビーの事らしいんだ」
「そうなのか」
 様々な期待、想像がこうもはっきりと形にされると戸惑ってしまう。人工宝石だなんて、最近の技術だと割と簡単にできるものじゃないだろうか。以前テレビでものすごく大きな人工宝石を作っていたり、工業においてもそうしたものを使っていると聞く。あぁ、だからあの工場の人は何を作るのか予想がついているなんて言っていたのか。確かにこれらを扱っていると、同じような物を作っているかもしれないな。
 でも、人工宝石は果たして天才の悲願となりうるのだろうか。
「なぁ、これが爺さんの作りたかった物なんだろうか。素人の考えなんだけど、人工宝石って結構昔から作れたんじゃなかろうか。だって、当時の設備で作れたんだろ。だったら、そう大した物じゃないよな」
「人工宝石自体はそうだね。でもさ、これって完成したらルベウスの花になるんでしょ。これだとただのルビーなんで、まだ花にはならないよね。きっと修吾さんと同じ事をあの人達も考えてたから、帰っていったんじゃないかな」
「そう、なのかな」
 まぁ確かにルビーの花と言う名前が付けられているのに、ルビーができただけで全てを決め付けるのは早い。それに、ここから花をつける作業に移行するんじゃないか。思わず早合点してしまったが、気を取り直そう。
「さて、それじゃ隣のを再加熱してから新しい段階へと移るか」
 隣室から持ってきたルビーを傍に置き、さっそく混合剤を作る。そうしてその中へ人工ルビーを埋めると、隣室の電気炉の中へ入れて加熱。これはもうすっかり手馴れたもので、さしたる時間をかける事無く、再び重光の研究室へと引き返していった。
「ここからが本番だな」
 二人は机の上にあるレポートをめくり、該当ページをじっくりと見る。傍らにはここに来るまでに自分達なりにまとめたメモが数枚。ここからが何か重大な変化を与えるだろうと踏んでいるので、かなり詳しくまとめているのだが、どうしてもわからない、いや理解し難い方法が書かれている。
「じゃあ、やるぞ」
 空澄が頷くのを見てから修吾は花の種と書かれた小瓶を手に取り、中からそれを一粒取り出す。それを乳鉢の中に入れ、すり潰さないとならないのだが、花の種が球状なのですり潰そうにもつるつると逃げられ、なかなかできない。
「これってハンマーか何かでやったら、当然駄目なんだよな」
「もちろんだよ。ここに不純物は極力混ぜないようにって書いてあるでしょ、うちに今あるやつはちょっと錆びているのしかないから、使ったら駄目だと思う」
「仕方ないな」
 けれど、幾らやっても潰れはしなかった。力がかかったかと思えばするりと逃げられ、ピンセットで摘んでも逃げられる。次第に修吾も苛つき始め、表情が険しくなり、舌打ちする回数も増える。途中空澄と代わったものの、やはりどうにもならなかった。
「やっぱり、ハンマーか何かで一度叩き潰すしかないな。こんな事していても、時間ばかりかかって、上手くいかない」
「けど、変なの混じったりでもしたら、ここまでしてきた事が無駄になるんだよ」
「わかってる。それもちゃんと解決できるよ。その錆びているハンマーと輪ゴムをここに持ってきてくれ、早く」
 訝しげな眼を向ける空澄だったが、修吾の迫力に押されて、渋々研究室を出て行き、程無くしてそれらを持って戻ってきた。やや茶色い錆がある、ホームセンターなどでよく見かけるハンマー。修吾はその先に三枚の白い紙をあてがい、輪ゴムで固定する。
「これで叩けば、錆も混ざらないだろう」
 パッと空澄の顔が喜びに弾ける。修吾は乳鉢から花の種を取り出すと、中央をへこませた白い紙の上にそれを置き、ハンマーで叩く。最初は硬さを確かめるようコツコツと小さく軽い力でやっていたが、やがて割るために力を込め、激しく叩く。何度かやっていると花の種は砕け、どんどんと崩れていく。ある程度崩れるとそれを乳鉢に戻し、すり潰す。今度は成功し、粒状だったそれがどんどん粉状になっていく。
「このくらいでいいかな」
 すっかり粉末となった花の種を一瞥してから、修吾は空澄に確認を促した。空澄は乳鉢の中をじっと覗いてから頷くと、レポートへ目を移す。
「次はまずこの人工ルビーを軽く濡らしたタオルで拭き、ホコリなどを取り除いたら薄くデンプン糊を塗る。そこにこの図の通り花の粉を並べるんだけど……」
 空澄の歯切れが良くないのも、もっともだ。レポートにある図の通りやれと書いてあるけど、それは複雑を極めている。まるで幾何学文様で、完成形が全くわからない。それを大きくなったとはいえ球体のルビーに施すのだから、尻込みもする。もしここで失敗してしまうと、また一からやらないといけなくなるからだ。
「これが最後の山場っぽいな。この後はまた加熱と冷却を二回繰り返すだけだし。うん、やるしかないよな。ここで立ち止まってもどうにもならないしさ。よし、俺がこのルビーを拭くから、空澄は糊を持ってきてくれ。デンプン糊って事は普通のやつでいいんだろ」
「わかった、ちょっと待っていてね」
 空澄が小走り気味に出て行くと、俺はガーゼを水に濡らし、人工ルビーを丁寧に拭き始めた。親指の先くらいにまで大きくなったけど、ここにあの模様を描くのは至難の業だ。やらなくてはならないのは充分わかっているんだが、果たしてできるだろうか。失敗は許されない。だが決して手先がそこまで器用ではない俺に、できるのだろうか。
 不安だ、そして怖い。
 ぴたりと修吾の手が止まり、気弱そうな溜息だけがやけに広々とした室内に響く。外を見ても月明かりが照明にかき消され、ただただ真っ暗にしか見えない。まるでそれは俺の心模様と同じだ。やるべき事がわかっていても、それより大きな不安で見えなくなっている。静かなようで、騒いでいる。
 それでも、これをやり遂げれば花が何なのか掴めるんだ。そうすれば俺も更に高みに上れるだろうし、喜ばせる事だってできる。がんばろう、あのこちらへと小気味良く近付いてくる足音を、更に小気味良くさせるために。
「お待たせ」
 ほんの僅かに息を切らした空澄がドアを開け、左手に水色のチューブ糊を持って入ってきた。修吾にそれを渡すと、空澄はじっとその手元を見詰める。
「これ、一度に塗ったら駄目だよな。乾くし、そんなに早くもできないだろうし、何度も塗り直して厚さに偏りができたりでもしたら、加熱した時の反応も変わってくるだろう」
「そうだね、少しずつやった方がいいのかも。じゃあ私が塗るから、修吾さんがその粉をつけていってよ」
「でも、どうやってこの粉を綺麗に描けばいいんだろう。ピンセットだと周りにもこぼれるだろうし、指でなんてとてもじゃないが無理だ。何かそういった時のための道具ってないのか?」
「私の知っている限りじゃ、無いけど……」
 重々しい溜息が吐かれたのはほぼ同時で、二人とも何かしらの答えを求めるよう周囲をせわしなく見回すけど、なかなか視点が定まらない。五分経ち、十分経っても変わらず、眉間のしわばかりが深くなっていく。
「あっ」
 突然修吾が短い叫び声をあげ、目を丸くした。驚いて肩をびくつかせながらも、期待のこもった眼差しで空澄が修吾を見詰める。
「どうしたの、何か思いついた?」
「あぁ、きっとこれならいけるんじゃないかとね。そうだよ、うん、丁度いいくらいだ」
「それって何なの?」
 顔を寄せる空澄の目の前に、修吾が手元にあったボールペンを突きつける。
「ボールペン? それでどうするの、まさか書くの?」
「そう、書くんだよ」
 真意を掴めず小首を傾げる空澄に、修吾は得意気に満面の笑みを浮かべ、ボールペンのペン先を回して外し、中にあるインク管を取り外した。
「これで中に粉を入れて、傾きを調節しながら出したら、書くようにできるんじゃないかな。もちろん、一面に糊を塗ったら上手くいかないから、あらかじめ針か何かで溝を作ってさ、そこに。溝を作ったとしても多少の粘着力はあるだろうし、そうでなくとも溝の横にある糊にくっつくだろうしな」
「すごい、それならいけるかも。あっ、でもボールペンの先って思ったより穴が大きいから、出過ぎるんじゃないの?」
「だったら、ライターを使えばいい」
 インク管を抜き取ったボールペンの先をポケットから取り出したライターで軽くあぶり、指先で柔らかくなったプラスチックを指で押し、穴をやや狭める。きちんとした円ではなくなってしまったが、粉を出すには何の問題も無さそうだ。それを視認するなり、空澄はチューブから糊を少し出し、小さな金属のヘラにそれを乗せ、ピンセットに摘まれてある人工ルビーの頂と定めた場所に薄く塗りつける。そうすると修吾はすぐにレポートに書かれている通りの模様をつまようじみたいな金属棒で溝を彫り、ボールペンに詰めた花の種をすり潰した粉をそこに乗せていく。
その作業は精密を極めた。一ミリでもずれてはいけない緊張感、二度塗りしてはいけないだろう恐怖に近い圧迫感が二人を襲い、滲み出る汗という生理現象すら疎ましく、黙々と作業を進めていく。
「あぁ、ちょっと、そこずれた」
「悪かった、またやり直しだ」
 これで五度目。空澄はあからさまに苛立たしげな溜息をつき、修吾が苦虫を噛み潰した顔で短めの吐息をつくと、すぐにそれぞれの作業に取り掛かった。修吾がハンマーで花の種を砕き潰し、空澄は水道で人工ルビーを丁寧に洗い、糊とその粉を綺麗にしてからよく拭く。まるで水分の僅かな名残すら残さぬよう、何度も何度も。そして再び研究の準備が整うと、空澄が糊を塗りながら溝を作り、修吾がボールペンの先から粉を丁寧に流していく。
「おい、そこ塗るのはみ出ただろ。粉にかかったから、やり直しだ」
「ごめん」
 再び洗い、糊を塗る。修吾は身長に粉を流し、空澄も細心の注意を払って作業する。
「あぁ、まただ。だからもう少し塗るのを丁寧にやれよな。何度も失敗していると、成功できないどころか、やる気だって削がれてしまう。この花の種だって何かわからない以上、替えなんて用意できないんだしよ」
「はいはい、ごめんね。すみませんね」
 細かい作業に重なるミスのため、徐々に二人の言葉遣いは荒くなり、ぎすぎすとなっていく。相手の一挙手一投足に不満が募り、どちらも笑顔を忘れて苛立たしげな吐息の中で作業をしている。
「あっ、ほらそこ、出過ぎ。しっかりしてよね、修吾さん」
「空澄のミスが続いたから、つられたんだ」
「へぇ、人のせいにするんだ。自分のミスのくせにさ」
「……わかった、わかった。俺が悪い。だから早く、それを洗ってくれよ」
 無言で空澄が背を向け、やや乱暴に蛇口を捻り、綺麗に人工ルビーを洗う。その間、粉が足りなくなったので、修吾が小瓶から花の種を一粒取り出し、ハンマーで叩き潰す。そしてそれを乳鉢の中ですり潰していると、空澄がぶっきらぼうに人工ルビーを差し出してきた。修吾がそれを一瞥するなり、白く小さな手が糊を塗り始める。
 ゆっくりと、慎重に作業が進められていく。糊の溝に花の種の粉を走らせ、それが貼り付くと空澄が糊を塗り、溝を彫り、そしてまた修吾が粉を詰めていく。苛立ちと疲労に集中力が切れそうになるけれど、二人は失敗したらまた険悪な空気が流れ、かつそれが自分のせいにされてしまうという、ある種の強迫観念に苛まれ、鬼気迫る様子で作業を続ける。
「あっ」
 それは修吾の短い叫び声だった。残り二度の糊付けと言うところで加減を間違え、粉がどっと出てしまった。それは溝を越え、その周囲にはみ出しているため、溝の糊にもついてしまい、修正するのは難しい。
「……今日はもう、やめましょう」
 空澄が嫌味混じりの溜息を大きくつき、背を向ける。
「……悪かった」
「別に、謝らなくてもいいよ。素人の人がいきなり難しい研究とかしているんだもん、失敗して当たり前よね。それに気付かなくて、苛々してしまった私の方こそごめんなさい。気配りができてなかったよね」
 殴ってやろうかと思った、その下らない事を言う口を潰すくらい、泣き声もあげられないくらい徹底的に。確かに俺はこういう事に関して素人だし、今またミスをした。けれど、こうまで言われる覚えは無い。見返してやりたいと思う以上に腹が立ち、拳に力が入る。
 あと一言、何か罵倒してきたら殴る。
 殴る場所は決めている、左頬から思い切り殴り飛ばし、そこから胸座を掴んでわかるまでだ。泣いて認めるまで許さねぇ。そう静かな青い炎を燃やしていたのだが、空澄はそれきり何も言わず、足早に去ってしまった。一人残された修吾は呆然とも肩透かしともつかない現状をぼんやりと抱き締めていたが、やがて虫の合唱が激しく聞こえてくると、机を全力で叩いた。
 手の痛み、痺れに気を取られる間も無く、修吾も研究所を出て梶原邸の用意された部屋に戻っていった。途中、空澄の足音が聞こえてきた時に頭に血が昇った修吾だったが、何とか自分をなだめて、事無きを得た。
 部屋に入り、一人きりになった途端、それまでの怒りや苛立ちがぐるりと反転し、言いようも無い自己嫌悪が修吾を襲った。苦しげな溜息を吐き、今にも泣き出しそうな顔を覆いながら、うなだれる。
 こんなはずじゃない、こんな事したくないのに、どうして……。できる事なら空澄と仲良く、和気藹々と作業をしたい。今日もいい一日だったと満足して、布団に入りたいんだ。それがどうだ、細かい作業に苛立って、ついぶつかってしまう。言ってはいけない、やってはいけないとわかっているのに、つい自分の力不足を誤魔化そうとしてしまう。
 どちらが悪いわけじゃないけど、どちらかと言えば俺が我慢しなければならないんだ。空澄の家を使わせてもらっているし、あいつの方がこうしたものに対して先輩でもあるし、何より俺の方が年上だから、余裕を持って接しないとならないんだ。
 悔いても、反省してもなお心の奥底では先程の苛立ちがくすぶっており、頭の片隅で嫌悪一色の瞳でこちらを見ている空澄が立っている。見てはいけない、見てしまうとまた余計な憎悪を生むだけだと自分に言い聞かせるけど、意識すればするほど、そんな空澄の存在が大きくなっていく。
「明日はいい日にしたいもんだ」
 そう呟く修吾の眼は憎しみに彩られ、月明かりすら黒く映していた。そうしてタバコに手を伸ばすが、灰皿が無い事に気付き、苛立ちながら箱に戻す。誰に聞かせるわけでもないが、殊更大きな溜息をついて修吾は空澄に対し色々考えていると、不意に携帯が鳴った。画面を見れば、明日香からだ。
「もしもし、どうした」
「あっ、お兄ちゃん。いや、私はもう無事に帰ったんだけど、そっちはどうかなぁって」
「どうって、何がだ?」
「ほら、実験の事とか、空澄さんの事とかさ。上手くいってるのか心配で」
 空澄については上手く言ってないのだが、それを明日香に言ったところで恥にしかならない。
「まぁ、それなりだよ」
「……あんまり進展なさそうだね」
「難しいからな。爺さんのレポートはよくわからない化学式ばかりだし、今までやった事も無い事をやってるわけだしな」
「そうじゃなくて、空澄さんの事よ」
「空澄がどうかしたのか?」
 何となく察しはつく、女はこういう話が好きだからな。
「だから、ほら、いい感じになったのかなぁってさ」
「さぁな。そもそも、空澄が人を寄せ付けないと言うか、嫌味ったらしい態度で接していたら、間違ってもそんな事は無いね。偉ぶって、皮肉屋で、可愛げもない。一緒にいて腹が立つよ」
「……そうなんだ。でも、空澄さんは空澄さんで色々思うところがあるんだろうし、辛いこともあるんだと思うよ。プレッシャーとか人一倍感じてるんだと思うの。だって、お兄ちゃんよりはこういうの先輩でしょ、だからなおさら色々背負い込んでるんだと思うんだよね。お兄ちゃんももっと冷静になって、気遣ったらいいと思うよ」
「……そうだな。まぁ、もう寝るよ、おやすみ」
 もうこれ以上話す気にはなれず、一方的に電話を切ると、俺はベッドに寝転がった。明日香の言わんとしている事はよくわかる、俺だって冷静に考えればそれくらい思い至る。けれど、だからといってあぁいう態度に出られると腹が立つし、立場を考えようという気にはなれない。俺は我慢している、だから空澄がもっと我慢すれば話し合いだってできるかもしれない。それが叶わないのは、空澄のせいだろう。
 子供じみた考えと頭の片隅で思いながらも、修吾は苛立ちを抑え切れなかった。そしてそれはやがて煌々と輝く月に静かに、だが深く向けられた。

 翌日も昨日の雰囲気を引きずったまま、二人は研究室へと向かった。
 朝食を作る時に二人は顔を合わせたけど、どこかぎこちなく、挨拶もそこそこに無言のまま調理を進めていた。当然、食事中の楽しげな会話なんてのも無く、ただ一言、九時にここを出て研究を始めるからという、空澄の極めて事務的な発言に対し、修吾があぁと短く頷いただけだった。
 研究所にて白衣をまとうと、まず隣室へ赴き、電気炉の中からるつぼを取り出した。しっかりともう一つのそれと同じくらいの大きさになっていたが、二人の顔に安堵の様子はどこにも無い。できていて当然、できていなければ内に秘めた爆弾をすぐにでも爆発させてやろうとでもいった表情で、人工ルビーを取り出した。
「これで二つ同じのができたね。それじゃ、一人一つずつの担当にしましょ。その方が効率的だろうし」
「そうだな」
 温かみの感じられない言葉を交わした後、俺と空澄は爺さんが使っていた研究室に戻り、作業を始めた。向かい合うように座っているが、会話もせず黙々と糊付けし、花の種をすり潰した粉を描いていく。
 ……こんなはずではない、こんな事を望んでいるわけじゃない。違うんだ、ギスギスした雰囲気で楽しげな会話もせず、どこか意地張ったり、いがみ合ったりしてまで完成させたいわけじゃないんだ。そもそも、これは爺さんと空澄のお祖母さんとの叶わぬ想いの架け橋のはずで、こうも互いを嫌悪し合って作るものじゃない。
 なんて頭ではわかっているんだが、こうも目の前に不機嫌な奴がいると、こっちの気分も否応無しに荒んでしまう。同時に、昨日寝る前に悔やんだ自分、空澄にときめいていた自分が何だか愚かしく思えてきて、悲しくなってきた。
「できたから、ここの電気炉使うね。もし修吾さんができたら、隣のでお願い」
 もしできたら、だと。その一言余計な物言いに一瞬頭に血が上り、爆発しそうになったが、ここで当たっても仕方ない。実際まだできていないんだ、堪えておこう。そう、競ってるわけじゃないんだ、どちらかができたらそれでいいじゃないか。
 そんな修吾の苛立ちに気付かぬよう、空澄は淡々とるつぼを電気炉の中へ入れ、温度と時間をセットする。
「それじゃ、私は戻っているから」
 それだけ言うと、空澄はそそくさと研究室を出て行った。一人残った修吾はその足音が完全に遠ざかるのを確認してから、大きな溜息をついて窓の外を見た。
 昨日よりもどこかくすんで見える自然は俺のせいだろうか。一日で草木や花々が枯れたり、輝きを失ったわけじゃないだろう。今はきっと、俺の目が淀んでいるんだ。苛立ちや憎しみ、呆れなどが見るもの全てを濁らせ、つまらなくさせているんだろう。あぁ、やめたい。一体こんな事をして何になる。爺さんの想いを叶えたい、空澄と仲良くなって振り向かせたい、自分がもっと高みに進みたいなど様々な思惑から手を付けたこの研究も、こんな状態だとやる気も起こらない。いい加減、諦めて帰ってしまおうか。
 そうだ、失敗したら帰ろう。こんな事、元々自分の手に負えなかったと諦めつけて、帰ってしまおう。でも、失敗するまでは一応やるだけやってみようじゃないか。区切りをつけるには丁度いい。
 修吾は数瞬目を閉じ、音も無い小さな溜息を吐き出すと、再び作業に没頭した。
 ようやく人工ルビーに花の種の粉で奇妙な模様を描き終えると、そっとるつぼの中に用意しておいた混合剤へ埋め、それを隣室の電気炉にセットした。温度や時間などの設定は既に覚えているので、素早く操作をしてから腕時計に目を落とす。
「十二時四十分、か。やっている最中はわからなかったけど、こうして一息つくと、腹減っているんだなぁと嫌でもわかるな」
 ふうと息を吐き、脱力しながら廊下のドアを見る。
「空澄はもう一人で食っているんだろうな」
 修吾は寂しそうに笑いながら、のんびりとした足取りで梶原邸へと戻っていった。
 思った通り、食堂に空澄の姿は無かった。けれどまだ食べていないというわけではなく、ふわりと漂う卵を焼いた匂いに、簡単な料理をもう済ませたんだろうとすぐに察しがついた。大きく息を吸い込んだ修吾だったが、これ見よがしな溜息は当てつけにしかならず、もし近くで耳をそばだてられていたら、また無意味な対立を引き起こすだろうと考え、静かに吐き出すと、冷蔵庫へ歩を進める。
 そんなに、俺ともう顔も合わせたくないか。
 寂しさより、憎しみより、釈然としない気持ちが強く、口に運ぶ食事も味気無い。もう溜息すら出ず、ただぼんやりと儚さを噛み締める。まるで六月の空。光を求めるけれど、厚い雲に阻まれて雨に腐るんだ。俺もそう、このやるせない雨の様な現状に腐ってしまいそうだ。
 夕方頃まで応接間でゆっくりしていたけど、空澄は現れなかった。家の中には人の気配は無く、もしかしてと思い、修吾がやや駆け足気味に研究所へ向かうと、重光が使っていた研究室には既に白衣を着た空澄がいた。空澄はドアの開いた音、修吾が歩み寄る音が当然耳朶を響かせているはずなのに、ぴくりとも反応しない。
 ほぉ、そこまで徹底するのかよ。
 苛立ちが急激に増し、噛み合う歯にも力が入る。胸座掴んで怒鳴ろうかとも思ったが、こんな事でそれをやっては幼稚だと自分を諌め、とりあえず正面へと回った。
「あっ」
 短い叫び声は空澄をよりうつむかせた。そして肩を小刻みに震わせ、そっぽを向かせる。修吾はその原因となるものから目を離せず、まじまじと見詰めていた。
 潰れ、いびつに砕けていた。空澄が取り扱い、加熱した人工ルビーは失敗したらしく、潰れて変色しており、修復は不可能そうだった。るつぼの中で静かに横たわっているそれを一頻り見詰めた後、修吾は空澄に向き直った。
「まぁ、こういう事もあるだろうさ」
 より一層空澄がうつむいたため、その表情がどうなっているのか確認できない。
「研究には失敗がつきものだって、言ってたよな。だからめげず、気を取り直して一からやり直すんだな。それしかないだろ」
 なるべく高慢にならず、上から物を言わないようにと丁寧かつ柔らかな物腰で喋っていると、つかつかと空澄が窓際へと歩き出し、外の景色を見るようにして顔を上げた。
「言われなくてもわかってるわよ。ちょっと失敗したくらいでうだうだ言わないでよね、滅入っちゃう」
 途端、修吾の眉が釣り上がり、鼓動が荒ぶる。けれど背を向けている空澄は知ってか知らずか、なおも続けた。
「ほんと、小さいんだから」
 風も鳥も虫も、音という音がまるで消えてしまったかのような静寂がさっと訪れた。呼吸と鼓動、そして僅かな耳鳴りだけが感じられ、それがかぼそくもしっかりとあった理性を粉砕してしまった。
「へぇ、自分のミスを俺に八つ当たりかい、小さいのはどっちなんだか。自分のミスをも冷静に受け止められないくせに研究者志望と言うんだから、まったく気楽なもんだよな。せいぜいガキみたいに一人でかんしゃく起こしながら、現実逃避でもしてろよ」
 小馬鹿にした物言いに、さすがの空澄も振り返った。その顔は怒りで染まっており、普段の凛とした様はどこにも見当たらない。
「つい数日前に会った人の、それも私とは関係の無い事をわざわざ手伝ってあげてるって言うのに、何その言い草。信じられないくらい、非常識な人ね」
「その割には空澄も、材料取りに行く時はかなり乗り気だったじゃないか」
「あら、修吾さんは恩を感じる心も無いの? まぁ、修吾さんのせいであんな目に遭ったんだけどさ」
 皮肉めいた笑みを向ける空澄に、修吾はどこかしら残酷な眼をしながら薄く笑い返す。
「それはすまなかったね。ただそれを恩着せがましく言うのは、いかがなものか。哀れだね、そういう姿勢が。泣きそうなのを怒りや皮肉に変えて、ぶち撒けちゃってさ。すぐに冷静さを失って当たるのは人としてどうかと思うね、大学まで行っててよ」
「そんなに嫌なら、出てってよ。そんな失礼な事言われて、泊まらせておく筋合いなんてこっちにはどこにも無いわよ」
 真っ赤になりながら空澄が叫んだ。
「ははっ、最後にはそれか。ありきたりな文句だよ、伝家の宝刀とでも言ったところかな。それで何だ、俺に泣いて土下座でもすれば許すとでも言うのか? 一切口を挟まず、物言わぬ奴隷にでもなれと?」
「そんな事言ってないでしょ」
「じゃあ、どうして欲しいんだよ」
「もううるさい、黙ってよ。喋らないで。早く出てってよ」
「あぁ、そうさせてもらうよ。自分の失敗一つ直視できず、逆ギレして追い出そうとする奴のとこにいても、まともな研究なんてできるわけないしな」
「うるさい、もううるさい。早く行ってよ」
 修吾は呆れたように首を傾げながら机の上に置いてあったレポートを手にし、研究室を出て行った。空澄は既に涙目で、ぶるぶると体を震わせていたが、ドアが閉まったその衝撃で涙が一つ二つこぼれ、そのままうずくまって泣き崩れた。泣き声は静かな研究室はもちろんの事、廊下にまで響いたが、もう修吾はそこにいなかった。
「やってられないな」
 研究所から離れた修吾はすぐ梶原邸へと戻らず、一服するために敷地を出て、山道の途中にある木陰に落ち着くと、ポケットからタバコを取り出した。梶原邸にいる時は吸わないのだが、何となく習慣として入れていた物。黄色い百円ライターに火を点け、風で消えてしまわぬよう手で覆いながらタバコに移すと、大きく一呼吸した。それは単に紫煙を吐き出すというよりかは、溜息に近い。
「何であんな事、言っちゃったんだろうな」
 仲良くしたい、仲良くしようと誓ったはずなのに、あぁまで酷い言葉を並べ立ててしまった。売り言葉に買い言葉、確かにあの態度と拭い切れなかった苛立ちがあんな結果をもたらしてしまったが、どうにかならなかったのだろうか。わかっていながらも、つい最悪の選択をし続けてしまった。年上だから自分が堪えるべき、頭でそうわかっていながらもついついあぁなってしまうのは、まだまだ俺もガキなんだろうな。
 一本目を吸い終えて踏み消すと、すぐまた二本目に火を点け、中空を紫煙で染めた。
 どうもこうも、もうあそこにはいられないだろう。あそこまで啖呵を切り、また出て行けと言われたんだ、いられるはずが無い。それに頭を下げるのも尺だし、そこまでする必要も無いだろう。酷い事を言ったのは悪いと思うけど、あんな態度しか取れないやつなんかに媚びてまで、居続けたくない。
 そうだな、帰るか。ここで終わらせてしまうのは不本意だけど、あぁなってしまった以上、謝ってもどうにもならないだろう。何だかやるせないが、これもまた運命ってやつなのかもな。そう、仕方ないんだ。
 二本目も吸い終わるなり、またすぐ三本目に火を点ける。今度はややうつむき、足元へ煙を吐き出す。そうして木に凭れかかり、熱された緑の匂いを風と共に感じながらぼんやりと、ただぼんやりとしたままで気だるそうにタバコを吸い続けた。
「さて、荷物でも取ってくるか」
 三本目をギリギリまで吸ってから足元で踏み消すと、ゆったりとした足取りで梶原邸へと向かっていった。その足取りは決して感傷によるものではなく、ひたすらに面倒だと言った感じで、歩みを進める。けれど門の前に立つとやや顔が強張り、そこまでではなかった足取りもどこか重々しそうになった。
 勝手に荷物取って、勝手に出て行くのは不義理かもしれないが、それも仕方ないだろう。挨拶しに顔を合わせればどうせまた喧嘩になるだろうし、それこそ別れをより最悪なものにしてしまうだろう。もうこれ以上は無いかもしれないが、万が一会えばきっとそうなってしまうに違いない。
 正面玄関から入り、二階へと上る。どことなく重く疲れた足取りで階段を上りきると、荷物などを置いてある客間へと足を向けた。茶色いフローリングに目を落としながら歩いていると、ふと前方に気配を感じた。
 ここでかよ……。
 顔を上げると、そこには思った通り空澄がいた。丁度使わせてもらっている部屋の前に立っており、どうやら待ち伏せされていたらしい。うつむいている空澄の表情はわからないけど、きっと憎しみや恨みで一杯なのだろう。正直話しかけたくないのだが、一言何か言わないとどけてくれないだろう。あぁ、本当に何なんだ、面倒臭い。
「悪かったな、まだいて。もう出て行くからどいてくれよ。荷物取ってくるからさ」
 目を見ずに素っ気無く、しかしはっきりと聞こえるように修吾は言ったのだが、空澄はどこうとしない。修吾は軽い溜息をつく。
「そこ、どいてくれよ。荷物取ったら、すぐ出て行くから」
 さっきよりも更に大きな声で言うも、空澄はうつむいたまま動こうとしない。修吾は一際大きな溜息をつくと、もう言葉では無駄だろうとばかりに歩を進め、手でどかそうと空澄の肩に触れた途端、
「待ってよ」
 不意の言葉に修吾が訝しげな眼差しを向け、その手を引っ込める。
「……待ってよ、出て行くの」
 何言ってるんだ、この上まだ俺をどうこうしたいのか? 訴訟でも起こす気か? 今更俺に何の用があるってんだ。
「その……私が、悪かったわ。だからまだ、一緒にやって欲しいの。このまま帰らずに、一緒にやって欲しいの。私が悪かったから、本当に」
 振り絞るその声は冬の曇天の様で、重々しく、悲しみにまみれていた。そんな意外な空澄の言葉に修吾は面食らい、数瞬の間目を大きく見開き、唖然としていた。
「確かに修吾さんの言う通りなんだよね、私が失敗したのに、それに腹を立てて、怒りのまま暴言ぶつけちゃってさ。問題外だよね、人としても、研究すべきパートナーとしても。あれは単なる注意で、私が怒る事じゃなかったのに、つい、変なプライドが」
「待ってくれ、それ以上言うな」
 慌てて修吾が声を荒げる。
「何言ってるんだ、そんな事言われたら……俺だって、悪かったんだからさ。その、何と言うか、いや、何も言い訳できないんだが……ごめん」
 互いに目を見れず、ばつの悪い顔でうつむき合っている。
「言い方はもっと他にあったはずなのに、あんな言い方して、怒るのも当然だよ。だから、あれは俺が悪かった」
「そんな事は」
 顔を上げ、必死な表情で空澄が一歩前へ踏み出すも、修吾がそれを手で制す。
「あるよ。もしこれから空澄が謝るのなら、そのほとんどは俺の責任だよ。あぁ、わかってる、責任は自分にあると言い合ったところで何にもならない、不毛だってね。空澄もわかってるだろう、だから……もう止めよう」
「それでも、これがきっかけで帰るだなんて、身勝手だけど、私は認めたくない」
 ふっと修吾が溜息をつくと、それまで必死にすがっていた空澄の瞳から力が失せていった。徐々に視線が落ちていく。
「止めるのは全てのいさかいだ。それさえ無くなれば、俺はまた一緒に作業したいと思っているけどね。つまんない事で全部壊して、後味悪いままにしたくないからさ」
 パッと空澄の顔が晴れたかと思うが早いか、すぐに落ち着きを取り戻し、凛とした顔立ちに戻った。けれど照れ臭いのか、視線を合わそうとせずにそっぽ向いている。
「私はもう、ずっと前からそう思っているんだけどね」
「そっか。じゃあ、またよろしくな」
 修吾が微笑みかけると、空澄もたまらず笑顔になった。
 二人は再び並んで研究所へと向かった。暑さは相変わらずで、そう遠くない道程を歩いているだけで汗ばむけれど、修吾も空澄もそれすらどこか心地良さそうにしていた。そうして胸一杯に自然と、隣を歩く互いの息遣いを吸い込みながら研究所のドアをくぐる。
「正直、今まで急ぎすぎていたのかもしれないな」
 白衣に袖を通しながら、独り言のように修吾が呟く。
「やる事はわかっているんだし、またわかっていてもすんなりとはいかない作業だ。だからこそ、心に余裕を持ってやるべきなんだ。焦らなくても、結果は出るさ。そうだろ」
「そうだね。それじゃ、これからもし詰まったり、上手くいかずに苛々するようになったら、一緒に外歩こう。お互い、よっぽどじゃない限りは。そうでもしておかないとまた、忙殺されてつい喧嘩腰になるかもしれないからさ」
「あぁ、約束だ」
 指切りなんていらなかった、ただ見詰め合い、頷き交わすだけでよかった。
「それじゃ、私はもう一度始めからやるね。あれ、壊れちゃったからさ」
「あぁ、俺は隣で加熱冷却の終わったやつを取り出してくるよ。俺のもきっと失敗しているだろうけど、まぁ上手くいってたら、一緒に喜んでくれよな」
「期待してるよ」
 修吾は一つ笑いかけると、そのまますぐに隣室のドアを開けた。そうして既に静まり返っている電気炉に近付くと、そっと中からるつぼを取り出した。
 成功してますように。
 祈りながら、逆さにかぶせてあったるつぼを取り外す。あの空澄すら失敗した工程を、無事クリアできているだろうか。あれは知識の有無よりも、手先の器用さが物を言うのはわかっているけど、それでもやはり不安だ。
 そっと修吾はるつぼの中を覗き見る。
「……これは」
 丁寧にそれを手にすると自分で感慨に耽る間も無く、空澄の所へと持って行った。そうして空澄に自分が手にかけた人工ルビーを興奮気味に差し出すと、空澄の目が大きく見開かれた。
「潰れて、ない?」
 様々な角度から見てみるが、どこも破損している様子は無い。今までのより、少しばかり大きくなった深紅の人工ルビー。
「成功かな」
「だと思うけど」
「けど、何だ?」
 訝しげな修吾に、空澄もやや困惑気味に見詰め返す。
「不思議なの。ねぇこれ、綺麗すぎると思わない?」
 修吾がそれを手に取り、じっくりと観察する。曇り無き赤を抱いてる人工ルビーは実に美しく、またその色から情熱さすらも感じられる。
「それがどうかしたのか」
「だから、何も無いのがおかしいのよ。ほら、これを加熱する前に糊付けして、粉で曲線を描いたじゃない。糊は加熱によって消失してもおかしくないけど、問題はあの粉よ。花の種って、金属みたいな感じじゃない。何なのかよくわからないけど、少なくとも本物の花の種とは違う。そうしたものをあぁして熱したら、周囲の物質と化学反応するはずなのよ。変色したり、新しい物になったり、また消えたりしても空洞になるでしょ。なのにその痕跡が見当たらない。それって、おかしいんだよ」
 確かにそうだ。糊はともかく、粉にした花の種まで消えてしまうのはおかしい。これが本当に成功しているのなら、何故粉の跡がどこにも無いんだ。わからない。
 難しい顔をしながら腕組みしている修吾に、空澄は言葉を重ねていく。
「焼失ってのは考えにくいんだよね。となると、この人工ルビーと同化したって事に他ならないんだけど、だったら何で傍から見ても変化が無いんだろう。大きくさせるだけなら今まで通りの混合剤でいいと思うんだけど。それに、失敗したら私が扱ったやつみたいに、潰れて砕けていてもおかしくないんだけど……」
「じゃあ、あの行為には何らかの意味があるんだろうな」
「そのはずなんだけど」
 唸りながら二人はじっと曇り無き人工ルビーを見詰めては、小首を傾げる。けれどそれも五分程度で、どちらからともなく大きな溜息をつくと、二人とも腕組みを解いた。
「考えていても仕方ないよな、動かないと何の解決にもならないんだから。ともかく、やろうか。壊れなかったって事は成功に違いないんだ、ならばこのまま続けてもいいだろう。俺はこれを担当するから、空澄は手順一の続きをやってくれ」
「そうだね。うん、わかった」
 同じテーブルにつき、二人は作業を始めた。空澄が乳鉢で混合剤を作り、修吾は再び人工ルビーに糊付けし、花の種の粉でまたレポートに書いてあるよう、奇妙な模様を描いていく。書くといっても好き勝手な場所からではなく、しっかりと基点が定められている。修吾は当初それがどこかわからなかったが、よく見れば尖っている面がある。綺麗な球体ではなかった。そこを基点とすれば良いらしいのだが、やはり作業は難航を極め、思うように進まない。
「ねぇ、手伝う事ある?」
 先に自分の作業を終わらせた空澄が、伺うように修吾の顔を覗き見る。けれど特に何も無いため、修吾も唸るばかりで口を開けず、黙々と手を動かしていた。
「特に何も無いのなら、家に戻ってるね。今夜のご飯、まだ炊いていないから、その支度とかしてくるね」
「あぁ、頼むよ。こっちもなるべく早く終わらせ、晩飯の手伝いするから」
 顔を上げない修吾に対して満面の笑みを浮かべた空澄は踵を返し、梶原邸へと急いだ。ドアが閉められても足音が遠ざかっても、修吾は顔を上げずにレポートと人工ルビーを交互に見、ミリ単位の間違いも無いように細心の注意を払いながら作業を進めていった。
 ようやく作業を終えて研究室を後にする頃には、もう午後七時を回っていた。修吾は電気炉の設定を再三再四確認してから研究所を後にし、空澄の待つ梶原邸へと歩を進めた。まだ日は没しておらず、花壇の花々も月光を浴びた妖艶さは無いし、また日光を受けた時の清々しさは無いけれど、黄昏の陽を浴びてどこか物憂げにたなびいていた。いつ散ってもおかしくないような色の下、そんな運命に抗うかのようにしっかりと存在感を示している名前もわからない花を見ている修吾の瞳は、どこか泣きたくなる程の優しさがあった。
 夕食は一緒に作った唐揚げがメインだった。一緒と言っても主に空澄が手を動かし、修吾はと言えば指示していただけだった。けれどこれは空澄からの提案で、料理の腕を上達させたいといった意欲の表れであった。
「アドバイスしてくれたからだと思うんだけど、思っていたより料理って難しくないのかも。何か今まで、思っていた以上に難しく考えすぎていたのかもしれない」
「まぁ、コツとか流れを覚えないと何でも難しく感じるからね。一流を極めるのならともかく、家庭料理ならやればほとんどの人ができるよ。そうじゃなかったら、家で食事なんてできないだろうさ」
 唐揚げを箸で取り、見詰めながら修吾が軽い調子で口を開くと、空澄もくすりと笑いながら皿に箸を伸ばした。
「うん、だから余計に思っちゃう。ちょっとした料理はできるようになってきたのに、どうしてルビーは上手くいかないんだろう。レポートがあって、もう全ての道が見えているから、本当は失敗するはずなんてないのに」
「失敗と言っても、たった一度じゃないか。幾らレポートがあるからと言っても、初めてやってる作業なんだ、失敗くらいするさ。俺が手にかけていたルビーが壊れなかったのが、本当に不思議なくらいさ」
「そうだね、その通りなんだけどさ」
 落ち込んだ溜息をつく空澄に、修吾はかける言葉を見付けられず、つい黙り込んでしまった。箸を動かすのもためらいがちになる重苦しい雰囲気の中、最初に動いたのは空澄の手だった。そっとお椀に手を伸ばし、一口味噌汁を啜る。そうしてお椀を置くと、パッと笑顔を咲かせた。
「暗くなったら駄目だよね。修吾さんの言う通りまだ一回目だし、そこまで落ち込んでいても仕方ないもんね。上手くいくよ、きっと。さっ、食べよう。折角良くできたんだよ、暖かいうちに食べてよ」
「そうだな」
 一度は失いかけた幸せが、またこうして目の前にある。些細な事かもしれないけれど、こうして笑い合えるのが嬉しくてたまらない。そしてそれはもう、空澄以外に想像できなくなってしまっている自分がいる。あぁいう事があって、よりはっきりとそれを認識した。ふとした瞬間、色んな未来を空想してしまっているんだと。
 だけどそれも、明日で終わるかもしれない。

 深夜に雨が降ったようだったが、修吾が起床する頃にはすっかり晴れており、今日もまた暑い一日を予感させる陽光がカーテンを開けたと同時に感じられた。カーテンを開けてからしばらく修吾は窓べりに手をつき、外の景色をぼんやりと見ていた。まだ雨粒が葉や花びらに残っており、そのため幻想的なまでに煌いている。けれどそれに修吾は微笑まず、むしろ険しい顔つきのままだった。
「おはよう、よく眠れた?」
 食堂に行くと、空澄が料理の盛り付けをしていた。
「あぁ、おかげさんで。でも早いな、手伝おうと思ったんだけど、これじゃもう何もする事は無さそうだな」
「緊張していたのかな、何だか早く起きたから、修吾さんのアドバイス無しで料理をしてみようかなって。それに昨日、かなりがんばってたでしょ。だから、食事くらいは私ががんばってみようかなって」
 初めて空澄が用意してくれた朝食と違い、簡単なメニューながらもしっかりとした出来である。見た目も匂いも申し分無く、充分に美味しそうだ。
「いや、ありがとう。でも何だか悪いな、昨日は俺の方、何もしないで空澄にだけやらせていたのに、朝食まで作ってもらってさ」
「ううん、気にしないで。だって修吾さんのはもう一度、細かい作業しないとならなかったでしょ。疲れ気味だったのに無理してやったら、失敗したかもしれないから、適切な判断だったと思うよ」
「優しいな」
 昨夜、夕食を終えてしばらくしてから研究所に行こうと誘われたのだが、細かい作業に没頭していたし、その前のゴタゴタもあったので妙に眠く、早めに寝たかったら断ったのだ。少し手先が狂っても成功しないだろう作業をあのぼやけた頭でやろうなんて、無謀な気がしたからだ。そのため空澄一人で行かせたのだが、こうも気遣われると自然と率直な言葉が口をついていた。
「そんな事無いってば。それよりほら、食べようよ」
 すっと頬に僅かな紅を咲かせた空澄が視線を外し、椅子に座る。修吾はそんな空澄を見ていると、本当に今日完成させてしまってもいいのかと一瞬疑問に思ったが、一つ苦笑いをひっそり浮かべると、向かい合うように椅子に腰を下ろした。
 食事を終えて三十分ほどのんびりとしてから、二人は研究所へと向かった。未だ雨粒に濡れて映える花々を見て、綺麗だの美しいだのと自然への賛辞を並べているが、表情はどちらも心無し強張っていた。心の奥底に抱くある種の恐れを拭えず、悪足掻きとわかっていつつも、二人はゆっくりとした足取りにならざるをえなかった。
 研究所に入り、重光の使っていたとは今は昔、メインとして使っている研究室に入るなり、白衣に袖を通す。そうしてから二人、頷き合うとまず、空澄が手がけていた方の確認をするため、電気炉からるつぼを取り出す。
「成功、だね。まぁ、これで失敗なんて事は考えにくいし、当然の結果だよね」
 そうは言いながらも空澄の顔は安堵で一杯だった。けれどそれをおくびにも出さず、すぐ新しい混合剤を作り始める。
「それじゃ、取ってくるよ」
 言葉は軽やかだったが、足取りはどこか重そうだった。成功しているかどうかと不安になり、また成功していればほぼ確実に今日でこの研究が終わってしまう。そんな考えが片時も忘れられず、修吾は隣室に入ってから密やかに溜息をついた。
 電気炉の前に立つと、一層不安が増した。中からるつぼを取り出し、確認するしかないのだが、どうしてこんなにも心がぶれるんだろう。完成させるため、ここに来たんだろう。一体何なのかと確かめたくて、ここにいるんだろう。あの日見た絵から抱いた疑問と好奇心を納得させるべく、ここに立っているんだ。怖いとか不安だとか、もうそんなものはどうでもいい。立ち向かうしかないんだから。
 るつぼの中に入っている人工ルビーを取り出し、じっくりと回しながら出来を確認する。いびつになっていないか、潰れていないか、傷がついていないかなど。そうして隅々まで確認してからふうと溜息一つ吐き、人工ルビーを手に修吾は空澄の待つ部屋へと戻った。
「成功したみたいだ。これと言って特に傷とか無いみたいだし、この前の段階にあった僅かに尖った部分も無く、すごくなめらかな感じだよ。一応空澄も見てくれないか、もしかして見落としてる箇所があるかもしれないからさ」
 空澄は自分の作業を中断し、修吾の人工ルビーを様々な角度からまじまじと見詰める。
「そうね、特に何も無さそう。ううん、やっぱりそう……何も無さすぎるのよ」
「花の種の粉か」
 空澄は静かに頷く。
「最初のはもしかしたら同化して、周りのと上手く溶け込んだのかもしれないって思ったの。それこそ、奇跡みたいな確率で潰れもせず、周りのと喧嘩せず。でも、今のでわかった。二度もそんな事、起こらない。でも実際こうなってるって事は、別の何かがあるはずなの」
「別の何か?」
「うん、別の何か。きっと一見すると何でもなさそうなこのルビーに、何か隠されているのかも。そうじゃないと、説明つかないよ」
「何も無いのに、何か隠されているかぁ」
 粉で模様を描いていたから、きっと何かの文字や記号だと思うんだけど、幾ら見てもそれらしいものは発見できない。一応光に透かしてみたりもしたが、何も無さそうだ。
「わからないな。まぁ、こっちはあと一回加熱冷却するだけだから、それが終わってからじっくり調べてみるよ」
「そうだね」
 そう納得するしかなかった。未完の状態であれこれ考えるより、手を動かした方がまだ答えに近い。下衆の勘繰りなんて意味が無い。俺はレポートの最後手前のページを開くと、また人工ルビー表面に糊を塗り、花の種の粉で奇妙な模様を描いていった。
 こうした細かい作業にもかなり慣れてきているけど、一度でも失敗してしまうとまた数日かかるといった、取り返しのつかなさに対する不安が常にある。そして同時に、失敗すればもう少しだけ一緒にいられるかもしれないと言う、悪魔の囁きも。
 耳を貸してはいけない。仮に今これをわざとでも、そうでなくても失敗して壊したら、次に必ずゴールに達する保証なんて無い。きっとまた、同じ事を考えるだろう。それに、空澄だっていつまでも暇じゃない。大学に通うためここを離れる時が来るだろう。その時、完成させられないままだったら、一生後悔してしまう。
 余計な事は考えるな、集中しろ。完成こそ納得なんだ、達成こそ成長なんだ。何も見えず、ただぼんやりとした日々を抜け出すため、目の前の目的に全てを注げば、望む結果は自ずと訪れてくれるだろう。
 決意をはっきりと定め、レポートに描かれてある模様も以前のよりそう難しいものではないのだが、修吾は苦戦していた。糊付けされた所に粉を描いては拭い、拭っては描き、思うように作業が進まない。次第に苛立ちが表に出、舌打ちや怒りの滲んだ溜息が増え出してきた頃、すっと空澄が立ち上がった。
「ちょっと、散歩でもしようよ。いい気分転換になるだろうし」
「でも、今は」
「約束でしょ、こういうの」
 それもそうだった。手を止めて立ち上がると、大きく伸びをする。何だか全身に疲れがこびりついているかのようだ。俺は空澄の後に続き、外へと出た。
 さっと浴びる強く暑い陽光に、我に返る。生ぬるくともそよぐ夏風が、どれだけ苛立っていたのか気付かせ、木の葉の囁きが荒ぶった心をなぐさめてくれる。ゆっくりと空澄の歩調に合わせて花壇を散策し、色とりどりの花々に目を落とす。そこまで花に興味なんて無いけれど、こうして見ていると不思議と落ち着いてくる。
 ゆったりと花壇を案内する空澄の口は開かれず、ただ静かに歩くだけ。そんな沈黙は苦痛になるばかりかどこか気楽で、嬉しくて、修吾も口を開こうとせず黙って歩いた。胸一杯に自然の鼓動を吸い込んで。
 何一つ話す事無く研究所へと戻っても、修吾の心は凪のように静かで、けれどどこか幸せそうにざわめいていた。すっかり軽くなった心を一人で抱いているのが堪えられずに、先を歩く空澄の背に届かないよう、伝える。
 ありがとう、な。
 席に着き、作業を再開する。先程よりも幾らか落ち着いて指先を動かせ、思うように曲線を描ける。それでも過剰な自信は抱かず、おごらず、僅かな間違いも起こさないよう丁寧な仕事を重ねていった。
 そして、修吾の手が止まり、天を仰いだ。
「できた。これを電気炉に入れ、加熱冷却ができたら完成のはずだ」
 電気炉にセットし、稼動スイッチを押すと修吾は大きく息を吐き、空澄に向き直った。
「上手くいくといいね」
「あぁ、折角ここまできたんだ、上手くいって欲しいよ」
 修吾と空澄は研究所を出て、先程の散策くらいの足取りで梶原邸へと向かう。
 胸に広がるこの感情は喜びだろうか、それとも寂しさだろうか。手順に間違いは無く、きっと完成になるはず。なのに何故だ、それほどの嬉しさが胸をつかない。できていて当たり前だとか、そうした余裕とも違う。あぁ、こんなにも晴れ晴れとした空模様なのに、それがやけに哀しく見える。
 修吾の隣を歩く空澄もまた、眩しさとは違った意味合いで目を細めていた。
 昼食を終えてから再び研究所へと戻ったが、特にする事は無かった。修吾の方はまだ冷却がようやく始まったばかりだったし、空澄の方ももう少し待ってから混合剤を作って電気炉にセットするだけなので、ものの三十分もあれば終わってしまう。本当に何もする事の無い二人はただぼんやりと部屋を見回したり、窓の外を眺めたりしながら、いたずらに時間を潰していく。
 決して涼しいとは言えず、むしろ暑い研究室、セミの声だけがやけにはっきりと響いている。それでも梶原邸より研究所を選んだのは、終わりを迎えるのに適した場所だと、どちらから言うとも無く決まったからで、二人の表情はどことなく安らいでいた。
 午後三時頃、おもむろに空澄が立ち上がり、電気炉から空澄が担当しているるつぼを取り出した。そうして中にある人工ルビーの成功を確認すると、すぐに混合剤を作り、また電気炉にセットする。その様子を修吾はぼんやりと見詰めていただけで、口も手も出さないでいた。空澄もそれを不満に思う様子は一切無く、淡々と作業を終えた。
 ぼんやりと眺めていた窓の外の景色も、陽が傾き出すと趣が変わってきた。これから徐々に暗くなり、細かい作業をするには不向きになりつつあったが、今はそんな必要も無いので、そのままだ。もっとも、今の二人にはそんな気力すらどこか飛んでしまっているが。
 魂が抜けたかのように修吾と空澄の二人は机に肘をつき、そのまんま。この気だるい雰囲気に呑まれているからか、それともあと数時間後の未来を想像しているのか定かではないが、一言も喋らず一時間も二時間もそうしている。時折、座り疲れたと見えて立ち上がり、ゆったりと部屋の中を歩き回り、窓べりに手をついて小さな吐息の跡を残してから、また座る。
「散歩、しよっか」
 外がほんのり赤く染まり始めた頃、ぽつりと空澄が呟いた。
「もう少しかかるみたいだけど、いつまでもじっとしているのに何だか疲れちゃって」
「いいよ、俺もそうしたかった頃だ」
 夕焼けの日差しは暑さこそあれ、そう厳しくはない。そよ吹く風が汗ばんだ体に心地良く、それをじっくり感じるため、二人の足取りも自ずとゆっくりになる。時折勢いよく流れる風が木々をざわつかせるが、それ以外はいたってのどかな天気である。赤や黄、紫など彩り豊かな花々がゆらめいている中、研究所から東の方にあるひまわり畑に着いた。
 そのひまわり畑は大きな花壇の端にあり、三十本くらいのひまわりが無造作に生えている。けれどそれがかえって強い生命力、凛とした気高さを見る者に与える。そんなひまわり畑の前に立つと、おもむろに空澄が振り向き、修吾をどこか悲しげな瞳で見詰めた。
「本当は私、研究者になんかなりたくないんだよね。親や親戚、その他のしがらみから、いつの間にか自分の未来は決められているんだ、こう進まないといけないんだって自覚し、その道を懸命に走ってきた。周りからは『やっぱりあの家の跡取りだ』なんて言われるのが嬉しいと言うか、そう言われないと不安で、生きていたらいけない気がしたの」
 すっと空澄は修吾からひまわりに視線を向けると、溜息一つ。夕映えする空澄の顔は不思議な程に美しく、修吾が惹かれたあの少女の絵のような魅力があった。
 しがらみ、か。社会で生きる上で誰しも必ずつきまとうものだが、俺なんかよりもこうした空澄なんかの方が当然だけど、ずっと強いよな。そんな空澄に甘え、俺はどこか都合良く利用していたのかもしれない。ここにいるのは何て事の無い、一人の女なんだ。
「でもね、本当は私、研究者として生きる事に疑問を持っていたの。苦痛だって思う時もあったんだよね。だって本当は私、子供っぽい夢かもしれないと思われるかもしれないけど、花屋さんになりたかったの。研究室にこもって顕微鏡と向き合うより、花を育てて生きたかったんだよね」
 何かを諦めたかのような優しげな瞳で、空澄が側にあったひまわりを撫でる。
「花はいつでも私の心を癒してくれた。子供の頃から薬品に触れ、合成とか加工とかばかりしていると、何だか嫌になる事も多いんだよね。細かいデータとにらめっこしてさ、無機質な物とばかり触れ合って、またやり直して……。だから、ありのままの姿でありながら気高くもあり、美しくもあり、可憐でもあり、それでいてそれぞれ違った力強さがある花や草木を見ていると、安らぐの」
 どこか夢見心地のまま語る空澄に修吾は何も言えず、ひたすらに自分の中で浮かんでは消えていく心模様を掴もうとしていた。
「憧れなんかとは少し違うんだけど、私がこの先、周囲の期待を背負って何か産み出したとしても、花の持つ力と言うか、存在感には到底及ばないだろうから。……何だろう、圧倒されているんだろうね。別に勝ち負けじゃないのに、勝てないと思ってしまっているんだ。おかしいでしょ」
 寂しそうに笑う空澄に修吾も何と言っていいのかわからず困惑していたが、彼はそんな彼女を数瞬見詰めた後、ふっと頬を緩めた。
「俺はそこまでの期待を背負って生きて来た事が無いから、こうだって的確なアドバイスをしてあげられないんだけど、空澄の勉強しているもので花とか自然を生かせる方法を考えたらどうだろうか。爺さんがルビーに花を咲かせたいってのも、そういうところからきているんじゃないかなぁ」
「私の勉強しているものって、工学で花を?」
 訝しげな空澄に修吾が頷く。
「まぁ、どうやるのかなんて考えもつかないけど、何かあるんじゃないのかな。何だろう、今まで学んできたものを無駄にする事は無いと思うんだ。今まで歩んできた道も、ずっと思い抱いてきた捨てられないのならば、その中で生かせる道を模索したらどうかな。そういうのも一つの手だと思う」
 思案深げな空澄はうろうろと花壇の前を行ったり来たりしていたが、やがて立ち止まると、真摯な瞳で修吾を見詰めた。
「修吾さんは何か見付けた?」
 腕組みし、中空を見詰めながら思案深げに眉根を寄せていた修吾はやがて小さな溜息をつくと、腕組みを解いて軽く手を広げた。
「いいや、何も。この旅を始めたのも、沈みがちになって目標を失いかけていた人生を変えるキッカケになるんじゃないかと思っていたからなんだが、今になってもこれからどうすべきなのか見えてこないんだ」
「そう……」
 寂しげな表情のまま、修吾と空澄はひまわりを見る。二人の苦悩など知らぬひまわりはただ夕陽を浴びて、生きる力をたくわえている。一秒一秒が生きるためであり、その姿はそよ風にたなびいていてもなお美しい。そんなひまわりを二人はじっと見詰めていた。
「そろそろ冷却も終わったかな、見に行こう」
「そうだね」
 ひまわりに背を向け、研究所へと足を向ける。出た時のような気だるさはさほど感じられないが、それでも重い。妙な緊張が鼓動を早め、後頭部から首にかけて熱を持ち出してきた。それでも俺は現実と向き合わないとならない。もう決まっているんだ、今更変えられない。
 既に稼動を止め、中の物も冷えただろう電気炉から、るつぼを取り出した。るつぼはすっかり熱を失っており、触れても熱くない。俺は一度空澄に目を向けると、力強く頷き返してくれたので、祈るように逆さにしてかぶせてあるるつぼを取り外した。
 下にあったるつぼの中には、崩れたり歪んだりしていない、まあるい深紅の人工ルビーがあった。
「完成、か?」
 それを摘んで様々な角度から見てみたが、どこにも損傷が無い。そして、どこにも何の変哲も無く、中は透き通る綺麗な赤しかない。空澄に渡して検証させてみたが、やはり何も見付からなかったらしく、微笑を浮かべながらそれを白い紙の上に置いた。
「綺麗だね」
「あぁ、何の曇りも無いくらいにな」
 確かにその人工ルビーは綺麗だ。宝石店で見る本物よりも、努力してきた分だけ感慨があるため、一際そう見える。しかし、あまり喜べないのも事実。何故なら、この程度の人工宝石なんて今の世の中に溢れているのだから。
「あの人が言っていた、天才も時代に勝てないって、こう言う事だったんだね。重光さんは天才で、当時これを自分で作ってプレゼントしようとした発想はすごいけど、今となってはね。あの模様を描く工程も、今はもっと単純化されているだろうけど、当時としてはあぁしないと作れなかった必要事項なのかもね」
「そうだな。でも、爺さんは本当にこれを送ろうとしたのかな。これを作って最後にその世界からも身を引いただなんて、ちょっとガッカリだよ」
「もしかして、別の何かに形を変えたのかも」
「別の何か……」
 もしそうだとすれば、一体何だろう。人工ルビーを使った物は数多く世の中にあるだろうけど、研究者としての名残を留めておくとしたら、きっと身近にあるはずだ。過去を捨てた爺さんが残した物……。
「あった、あったよ、爺さんが形を変えて残していた物が。絵だよ、絵。我が家に少女の絵があるんだけど、それが空澄のお祖母さんの若い頃によく似ているんだ。爺さんはそれを友人からもらったとか言ってたけど、きっと描かせたんだ」
「絵とルビーに何の関係が?」
 興奮気味に話す修吾は小首を傾げる空澄がもどかしいのか、落ち着きをやや失いかけている。
「だから、染料だよ。絵の具とかって昔から鉱石とかを使っているから、良質な人工宝石を作れたら、美しい染料になるだろう。同じ絵を描いたとしても、良い染料を使ったらそれだけいい絵になるんじゃないかな。実際、俺もその絵に対して不思議な魅力を感じていたんだよ。綺麗なんだよね、いつまでも」
「と言う事は、この人工宝石ってつまりは染料の材料って事なの?」
「まぁ、そうかもな。あぁ、と言う事はあの花の種の粉はそれを引き立てる物だったのかもな。ただまぶしたら崩壊するから、あぁいう風に模様にでもしないとならなかったんじゃないかな。家の基礎みたいにさ」
「なるほどね」
 二人はもう一度深紅のルビーを見ると、僅かに肩を落としながら苦笑いを浮かべた。
「でも、正直ガッカリだよな」
「まぁ、いい記念になったじゃない」
「そうだな。あぁ、それにしても気が抜けたよ。染料かぁ、ははっ。さて、時間も時間だし、そろそろメシの準備でもしようか。文字通り、最後の晩餐となるんだろうが」
 疲れたように笑う修吾は席を立ち、皮肉っぽく空澄を見た。けれど空澄は続かず、ゆるゆると首を横に振った。
「もう少しだけ、ここにいようよ。コーヒー淹れるから、ほんの少しだけ空腹も紛れるでしょ。私、まだもう少しだけここを離れたくないの。短い間だったけど、色々あったから」
「わかった」
 小さく頷くと、修吾はすぐ椅子に腰を下ろした。彼もまた、実の所では空澄と同じだったからだ。
 インスタントコーヒーのセットが研究所内にあったらしく、空澄がすぐに持ってきてくれた。何でも、ここで一人研究などをする時に愛飲しているらしく、常備しているとの事。修吾はそれを一口啜り、体の奥底から熱い息を吐き出す。
「終わったんだな」
「うん、終わったんだよね。何だかまだ、実感湧かないな」
「そりゃ、期待に反して普通の物ができたからじゃないかな。まぁ、過大評価し過ぎたのが悪かったのかもな。これがなぁ、もっとこう……いいか、そんな事。これは爺さんの青春だったんだろうし、俺達の記念だ。あまりぞんざいに扱ったら駄目だな」
 手にしていた人工ルビーをそっと白い紙の上に置くと、修吾は悟ったかのような優しさとも諦めともつかぬ瞳で、じっとそれを見詰めていた。
「これはここに置いていこうと思うんだ」
「えっ、持って行かないの?」
 空澄は目を丸くして修吾を見る。
「いいんだ、これはここに置いておく方がきっと幸せなんだ。爺さんと空澄のお祖母さん、そして俺達のささやかな思い出のために」
「そうね」
 夕陽を浴びている人工ルビーは美しく、どこか不思議な魅力を放っている。深紅の体に偉大なる自然の赤を受け、世にもきらびやかに輝いては、白い紙の上にそっとたたずんでいる。そしてその白い紙には人工ルビーを透過した赤が、中で別の輝きを浮かび上がらせていた。
 ……えっ?
 奇妙な違和感に修吾がその人工ルビーをすぐさま手に取り、じっくりと見詰めてみるが、何の異常も無い。空澄がそんな修吾を訝しげに見るが、修吾は小さな微笑み一つでそれを打ち消し、再び白い紙の上に人工ルビーを置いた。
 気のせいか。
 深紅に輝く人工ルビーは夕陽を浴び、美しく輝いている。一本筋の通った美しさではなく、どこか心を舐めるような魅力をもって輝いている。
 何だ、やはり何かあるのか?
 修吾が三度疑念を抱いて人工ルビーを手にすると、今度は夕陽にかざしたまま見詰めてみた。これまでの違和感を鑑みると、夕陽が何か作用しているとしか思えなかったからだ。角度や持つ手の位置を変え、じっくりと透かしてみる。
「何だ、これは」
 深紅に透き通るだけだと思っていた人工ルビーの中に、何かしらの模様が見えた。
「どうかしたの、何か見えるの?」
「あぁ……何だろう、花かな。うん、花だ。俺には何の花かわからないけど、とにかく何かの花がルビーの中に見える。普段見えないけど、こうして夕陽が当たると中にオレンジ色の花が見えるんだよ」
「ちょ、ちょっと見せて」
 修吾からそれを受け取るなり、空澄は夕陽にそれを当てながら、じっくりと浮かび上がる花の模様を見詰めた。
「これ、桔梗の花かな」
「桔梗?」
「うん、そうだ、桔梗に間違いないよ。お婆ちゃんが好きだった花。いつもお婆ちゃんがこの花を特別大事にしていたから、これを見てると思い出すんだよね。ただ好きだったのかもしれないし、それ以上の何かがあったのかもしれないけど、今となってはわからない。けど、私にとってもこの桔梗の花はそういう意味で、思い出の花なんだ」
「なるほどね」
 修吾はそっと空澄からその人工ルビーを手に取ると、まじまじと見詰めた。
「パッと見ただけではどうなるかわからないけど、こんな仕掛けがあったとはな。そして、桔梗。このレポートは空澄のお祖母さんのためだけに作られた、唯一無二の物だったんだ。自分の研究した物の中に好きな人の好きな花を入れ、夕陽で見えるようにするとは……うちの爺さんもやるねぇ」
 にやつきながらルビーを夕陽にかざす修吾に触発され、空澄も頬を緩める。
「でも、何で夕陽だったんだろう。朝日じゃ駄目だったのかな」
「多分、だけど」
 考えをまとめるように数秒の間を置いてから、再び修吾の口が開いた。
「自分の想いと重ねて作ったんじゃないのかな。決して叶わず、未来も無かっただろう自分の恋を斜陽と重ねたんだろう。沈みこそすれ、美しい……ってのはキザな考えかな。でも、多かれ少なかれそう考えたから、ルビーにしたんじゃないかな。夕陽もルビーも赤いし、情熱的だろう」
 今度は空澄がそっと修吾の手からルビーを取り、見詰める。
「ルビーが赤いのはルビーに含まれている数パーセントの物質が、赤以外の光を吸収するからなの。もしかしたら、あの花の種ってのはルビーの構成と非常に似た物質なのかも。それが何かってのは、さすがにしっかりした所で調べないとわからないけど、もし本当にそういう物質だとしたら、花が浮かび上がるのも説明がつくかな」
「どういう事だ?」
「さっき、ルビーは赤以外の光を吸収するから赤く見えるって言ったよね。夕陽も同じなんだ。赤い光は波長が長いから、日が傾いても届くの。その赤ばかりの光が届く頃に、微妙にルビーの赤じゃないものを入れたら、そこだけ色が変わって浮かぶってわけ。日中は色々な光が当たるから、同じような赤に見えてしまう、だから中の花が見えないんだと思うの」
「そんな仕掛けだったのか」
 人の手と自然が合わさった、まるで魔法のような輝きで浮かぶ桔梗の花を、二人はじっと見詰めていた。けれどもう黄昏時、夕陽の勢いは弱まり、次第に薄らいでいく桔梗の花模様。名残惜しそうに見詰めていたが、やがてそれはまた人工ルビーの中に溶けてしまった。もうただの人工ルビーとなったそれを手に乗せている空澄に、修吾は笑顔を向ける。
「ちょっとだけ、これからどうすべきなのか見えた気がする」
 空澄が人工ルビーを握り締め、修吾の方を向く。
「少し遅いかもしれないけど、爺さんのこの研究をもう少しやってみたくなったんだ。桔梗だけじゃなく、もっと別なのも表現してみたいんだ」
「……無理だよ」
 ぽつりと呟いた言葉は修吾の眉根を寄せるには充分だった。決意新たに顔を引き締めていた修吾は一転、訝しそうに空澄に目を遣る。
「何でそう水を差すんだ、これから新しい道を踏み出そうとしているのに。それに今回だって、上手くいったじゃないか」
「今回は重光さんのレポートがあったからこそできたわけで、一からやるとしたらとてもじゃないけど、無理でしょう。当時と比べて機材や方法は随分発達したけど、どこから学べばいいか、どうやって調べればいいのかなんて、まるでわからないでしょ」
 悔しいが、その通りだ。やる気はあるのに、そうした知識はほとんど無い。今回は爺さんが素人でもわかるようにレポートを書いていたのに加え、空澄と共にやり、設備を使えたからだ。もしどれか一つでも欠けていたとしたらできなかっただろうし、またこれから何も無い場所へ飛び出したとしても、何もできないまま終わるだろう。
 拳を握り、顔を歪める修吾に空澄は一歩近付き、その手を掴んだ。そして硬く握られている拳を開き、その中にそっと人工ルビーを入れると、空澄の両手が修吾の拳を包んだ。
「だから、一緒にやろうよ。少しは手伝えると思うし、それに」
 空澄がやや照れながらも、しっかりと修吾の瞳を見詰める。
「今度は私の好きな花、作ってもらえないかな。あの時叶わなかった二人の想いを今度はしっかり叶えてって、明日香さんにも言われたんだよね。あの日、全て見抜かれていたみたい、今日この瞬間が来るって事を。そして、私もそれに向けてやってきたの、この瞬間、修吾さんと叶えたくて。喧嘩とかも結構しちゃったけどさ。……あのね、色々あったけど私もそうしたいから、だから、一緒にやろうよ」
「それこそ難しいな」
 瞬間、空澄の顔が強張った。けれど修吾の顔は照れ笑いを浮かべている。
「だってそうなると、次は朝日で浮かび上がらせないとならないだろ。それに空澄は花屋になりたいってくらい花が好きなんだろう、だったら一体幾つ作らないとならないんだ? 十か、二十か? もっと多いか? そんないつ完成するかわからなくなるもの、短期間だけの協力じゃ困るぞ。最後まで付き合ってもらうからな」
 今度は修吾が空澄の手に人工ルビーを握らせると、両手で包み込んだ。
「最初に作ってもらうのはもう決めたんだ、気が早いって言われるかもしれないけどね」
「目標があれば、それだけがんばれるさ」
 二人は微笑み合いながら、互いの手の温もりを大事にしていた。手の中にある人工ルビーは数十年の時を越えて形となり、成就したのかもしれない。今二人が新たに願うのは、悲しい思い出にはしないという事。ただその一点だけを望み、修吾と空澄は力強い眼差しで、見詰め合っていた。
 空には仄かに星が瞬き始めている。けれど、その輝きは永遠に失われはしないだろう。

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