五.遺品

 差し出された桐箱を受け取るなり、結ばれてある紫の紐を解く。蝶結びであるから一方を引けば簡単に解けるけど、それが箱の両脇に垂れる様がどこか優雅で、これまでの旅の苦労や時の重さを感じさせる。
 この中に、一体何が……。
 ゆっくりと開けてみれば、中には一通の封筒とくすんだ銀色の鍵、そして茶色い小瓶があった。小瓶のラベルには『花の種』と書かれてある。鍵や小瓶に修吾は強く興味を引かれたけど、とりあえず用途不明のそれらよりもと封筒を手に取り、中から一通の書簡を取り出した。三つ折りにされた簡素なそれを開ける修吾の指は、僅かに震えている。


『我が遺言を解き明かし、ここへ辿り着いた子孫よ、これが道を示す最後の書簡である。多大なる苦労をかけさせてしまっただろうが、これも我が秘密のためと納得して欲しい。
 我が遺品は次の場所にある。
 岐阜県飛騨市古川町上気多にある梶原家を訪ねよ。もし移転していれば、旧梶原精機工業株式会社会社、またはケーエス本社にて梶原家を訊くがよい。
 そこに我が遺品を残してある。金庫の鍵はこれと共に入っていたものであり、小瓶はそれを適えるために必要なものである。我が遺志、願わくば果たされん事を。
 そして、多くの花が咲くように』


 自宅にあった少女の絵の裏にあった最初の書簡以来、初めて明確な場所を提示され、かつ次に行く目的地が最後とあったので、修吾と明日香の二人は満面に笑みをたたえ、互いに小さくガッツポーズを交わす。
「これで、間違いなさそうですね」
「はい、間違いありません。本当にありがとうございました」
 深々と福沢に礼をすると、修吾と明日香はそこから出て、すぐさま備中高梁駅前へと戻っていった。その間、これらに関する話題をするどころか、一切口を利かず、ただ黙っていた。それは無闇に他人に聞かれたくないと言う理由ももちろんあったが、それ以上にどこか落ち着いた場所で話したい思いがあったからに他ならない。
 昼食がてらは入ったファミリーレストランで奥の方の席を陣取り、注文した和牛ハンバーグセットとカルボナーラが届いて店員が離れるなり、それまで我慢していた想いが爆発した。
「はっきり書かれていたな、次が最後だって。いや一安心だよ、先の見えない旅だと思っていただけにこうしてゴールが見えると、俄然やる気も出てくるな」
「うん、そうだね。ようやくお爺ちゃんが残したものが何かわかるよね。ところでさっき箱の中にあった小瓶、花の種って書いてあったよね。愛媛で会った飯田さんが話していたけど、お爺ちゃんは花を咲かせたいって言っていたよね。きっとそれを使って咲かすんだろうけど、一体何の種なんだろうな」
「見てみるか」
 言うなり修吾はカバンからそっとあの桐箱を取り出し、蓋を開けて中から小瓶だけを手にする。桐箱を素早くカバンの中にしまうと、二人はまずじっくりと小瓶を見詰めた。茶色い瓶にややくすんだ白のラベルに書かれている文字は、花の種。修吾は開封し、掌に中身を少し出してみる。
「……何だこれ、花の種じゃないよな」
 三粒掌にある花の種をじっくり見詰めてみたが、どう見ても植物のそれではない。指先で触り、転がした感じはどちらかと言えば金属に近い。色は血の色に似た赤、大きさは直径一ミリか二ミリ程度の球状である。
「そうだね、何だろうこれ」
 これを土に埋めて水をやったところで、花が咲くとは到底思えない。となれば、もっと別の咲かせ方があるのだろう。それを示している物があるのは岐阜県にある梶原家、ケーエスと深く繋がりがあるだろう家だ。果たして訪れてもいいのだろうか、門前払いを食らったりしないだろうか。またそこが移転していて、遺言書にあるように本社に訊いたところで、教えてくれるものなのだろうか。不安は多い。
「ケーエスの社長クラスの家だよな、次行くところ。飯田さんも言っていたよな、爺さんが働いていた研究所を買収したのが梶原って人だと。そんなところに行ってもいいんだろうか。通報されたりしないよなぁ、不審者だと」
「いきなり通報されたりはしないだろうけど、厳しいだろうね」
 それもしかし、行ってみるしか手立ては無いのだから、考えたって仕方ない。それより気になる問題はまだある。
「あの三人組、一体どう動くんだろうか」
 明日香の表情がやや曇る。
「どうなんだろうね。その梶原家にもう行った可能性はあるし、そこに辿り着かない事も充分考えられる。でも、同時にそこで鉢合う事だってあるかもしれないよね」
「そうなったら、もう逃げられないから戦うしかないんだろうけど、正直言って難しいんだろうな。俺はそんなに力ある方じゃないし、向こうは爺さん除外したとしても男が二人もいる。遭わないのを願うばかりだよ」
 食事を終えると二人は岐阜県飛騨市の飛騨古川駅を目指そうとしたのだが、今から出発すればそこに到着するのは午後九時、いや十時になりそうだと気付いた。そこまで遅くなれば宿が取れないだろうし、また一晩明かせる場所も無ければ困ってしまう。飛騨古川町のホームページを見たところ、どうもそうした場所が少ないように思えた。
「行って何も無ければ、もう動けなくなるよな。十時に着いたら、他の場所へ移るのも一苦労しそうだし。となると、その手前の名古屋で一泊してから、翌日飛騨古川を目指すとするか」
「その方がいいかもね」
 一応名古屋市内のホテルの予約を取り、二人はまず名古屋を目指す。既に車窓を流れる景色に飽きている二人は各々売店で買った本を読み、目的地のアナウンスが流れるのをひたすら待つばかり。
 あぁ、気ばかり急いてしまい、こうして座っているだけの今がもどかしくてたまらない。すぐにでも立ち上がり、走り出したい気分だけど、そうしたところでどうにもならない事はよくわかっている。こういう時こそ冷静になって、的確な行動を心掛けるべきだ。そう、それこそ無駄な体力を使わずにじっと座っている現状が正しいのだが……。
 焦りが身も心も削っていく。つい本を持つ手にも力が入り、ぐしゃりと紙のひしゃげる音が明日香の耳にも届いたのか、不安げな眼差しを向けられた。目を合わせれば、明日香も俺と同じ思いをしているのがわかる。その目からは焦っても仕方ないから落ち着いて、そう口よりも雄弁に物語っていた。
 大きな溜息一つ吐き、俺は気晴らしに流れる景色へと目を向けた。移り行く景色をぼんやり見ていると家々や草木、陽光や雲など様々なものが溶け合い、全てが曖昧な墨流し模様みたくなっていく。白とも黒ともつかない世界の中、見えるものが幾つかある。
 その中で最も大きなものが、衝動だ。ともかく体を奥底から突き動かし、どこかへと動き出したい欲求が大きく、確かにある。しかしそれは同時に非常に曖昧でもあり、ともすればすぐにでも離れて消えそうな脆さをも伴っている。そんな衝動が自分の中で膨らんでいる。
 どうにかして抱き留めておきたいが、あまり強くそうしてしまうと衝動に呑み込まれ、身を焦がし過ぎてしまう。名古屋に着いてともかく歩き回れるのが先か、それともこのまま内なる衝動に苛まれて潰れてしまうのが先か。一度強く目を瞑ってから明日香を一瞥すれば、明日香も僅かに眉根を寄せて何か考え事をしているみたいだった。こいつも辛いんだ。そう思った途端、安心ではないけれども改めて同じ境遇なんだと知ると、何だか張り詰めていたものがほぐれ、小さく笑えた。
 電車を乗り継ぎ、ようやく名古屋に到着したのはすっかり陽も落ちた午後七時半だった。まず宿に行きチェックインを済ませると、とりあえず名物とばかりに夕食を求める。食べる物は既に車中で決まっていた。ひつまぶし。それはここに来る前から、いつか名古屋に行く事があれば食べてみたいと思っていた食事で、失望しないよう良さそうな店構えの所へ足を向ける。
 ひつまぶしとはウナギの蒲焼を細かく刻んだものをご飯に混ぜて食べる料理である。その食べ方も変わっており、一杯目はそのまま食べ、二杯目はワサビや海苔などの薬味を乗せて食べ、最後にお茶漬けにして食べるのだ。一つの料理で三種楽しめるとあって前々から期待していたのだが、今回のれんをくぐった店はそれを欠片も裏切りはしなかった。
 すっかり胃袋も心も満たされて、二人は微笑みをたたえてホテルに戻るなり、ベッドに体を投げ出し、大の字になった。ここ数日は心身共に擦り切れる時間を過ごし、くたびれてもなかなか休めなかったのに加え、この長旅だ。しかしそれもようやく最後が見え、かつこうして久々に落ち着く事ができているために、心からのびのびできる。
「いよいよ明日だね」
「そうだな、明日飛騨へ行けば終わるんだ。いや、きっと何か変わるだろうから、これが始まりになるかもな。一体どんな花が待っているのやら」
「綺麗な花だといいね」
 旅の目的でもある爺さんが咲かせたかった花、それがどんな物なのか全く見当つかないけれど、明日香の言う通り綺麗な花を俺も望む。花なんて小学校で育てた朝顔以来だ。上手く育てられるだろうか、枯らさず綺麗な花をつけさせられるだろうか……。

 名古屋を出発したのは午前九時頃だった。喫茶店でモーニングコーヒーがてら軽食をも胃に入れると、特急ひだに乗り込み、揺られる事三時間。飛騨古川駅に着いたのは丁度正午だった。修吾と明日香は胸一杯に飛騨の空気を吸い込み、感慨深げに吐き出す。
 飛騨古川の町並みは時代劇にありそうな感じで、少し歩くだけで江戸時代にタイムスリップしたかのように錯覚してしまう。文明の進化に遅れているようにも見えるが、しかしそれよりも大事なものがここにはあり、普段意識する事の無い日本人としての心を強く想起させられる。過去が全て良いとは思わないけど、こうした町並みはロマンがある。それを確かめるようにして、俺も明日かも昼食探しのついでに散策していた。
 昼食は飛騨牛の串カツ丼にしてみたのだが、これが値段以上に美味しく、思わず笑みがこぼれる。肉は柔らかく甘い脂が乗っており、これだけでも美味しいのだが、その上に味噌ダレがかかっていて、甘辛さをより引き立てる。これだけでも飛騨に来てよかったと思えるが、これで満足するわけにはいかない。
 昼食を終えると、飛騨古川町上気多へとバスで向かった。駅からそう距離は無かったので適当なところで降りると、ケーエスと繋がりが深い梶原家はこの辺でもきっと有名だろうと、近くの商店に立ち入り、八十近い婆さんに訊いてみた。
「この辺りに梶原さんと言うお宅があるらしいんですが、ご存知ですか?」
「えぇ、知ってますよ」
「本当ですか」
 案外あっさりと頷いた事に、修吾も明日香も驚かずにはいられなかった。老婆はもう一度頷くと、呆れたように笑う。
「そりゃこの辺で梶原さんを知らない人はいませんよ。何と言っても昔からの名士さんですし、それにお家も大きいですしね。お家と言うより、お屋敷と言った方が通りも良いかもしれません。この道まぁっすぐ行ってね、山へ行くのと行かないのとの三叉路があるのを山の方に行けば、梶原さんのお屋敷が見えてきますよ」
「あの、いいんですか?」
「何がですか?」
 あまりに何でも話す婆さんに他人事ながら不安を覚えて聞き返せば、逆に不思議そうな眼を向けられ、思わず狼狽してしまう。
「いやだって、もし僕達が悪い人だったら、そこを襲うかもしれないじゃないですか。なのにこうも簡単に話しちゃって、いいもんなんですかね」
「面白い事言う兄さん達だね。本当に悪い事する人ならそんな心配、人に話さないでしょうし、もし兄さん達が悪い事しようにもあそこで何か起きたら、そりゃもうこの辺どころか全国でも目を付けられるでしょうし、それにあそこが何の防犯対策もしてないとも思えませんしね。いやまぁ、表立って知らん人に教えてもいいものじゃないでしょうが、私としては別にいい気もしましただけですわ。なんせ、みんな知ってるわけですしね」
「いや、ともあれ助かりました」
 深々と頭を下げてタバコを買い、外へ出る。木立から匂う緑のムッとしたどこか息詰まるものも、上からの太陽に下からのアスファルトによる照り返しも、何だか夏に歓迎されているみたいで心地良い。この道を行けば、もう全てがわかるんだ。
 こんな感動、久しく忘れていた。
 まるで灼熱とも言える真夏の日差しも、木陰によって幾分か軽減されているけど、焼け石に水だ。むしろそよぐ風が草むらの熱をも運び、息苦しさを覚える。意気込みは強く大きいのだが、どうにもこの暑さにはまいる。おまけに道が曲がりくねっているので、目的の家がまだ見えてこないのが疲労感に拍車をかけ、つい溜息が増える。
「そろそろかな」
「さぁな。山に行けとあったけど、どれくらいかかるかも聞いておけば良かったな。もう山道に入って二十分くらい歩いているけど、こんなにかかるなんてわかっていたら、大人しくタクシーで向かったのにな」
 ペットボトルのジュースを一口飲み、また一つ息を吐く。何て利便性の悪いところに住んでいるんだろうか。金持ちの性か歴史的なものかわからないけど、何もこんな山の中に構えなくてもいいじゃないか。あぁでも全て車で移動すればいいのか。俺達も素直に車で来れば良かった。
 そんな不満を抱えながら更に十分ほど歩くと、それらしい門構えの家が見えてきた。ここまで歩いてきてそれらしいのは初めてだったので、これに違いないと自ずと進む足も速まり、頬も緩む。あれがそうなんだ。そう思えばこれまでの疲れも、この日差しも全く苦にならず、ただひたすらそこが楽園とばかりに前へと進んでいった。
「ここか……いや、すごいな」
 二人は驚かずにはいられなかった。見るも立派な門には緑鮮やかな蔦が絡まり、高級感を醸し出している。そこから臨む邸宅も洋風ながら素晴らしく、見る者を呆然とさせる威圧感がある。それは白亜の城ではないが、バロック様式を思わせる荘厳かつ豪奢な造りをしていて、思わず見惚れてしまう美しさだ。
 大きな鉄製の門に備え付けてあるカメラ付きインターホンを押す。この他にもきっと色々なところに防犯カメラか何かあるのだろうが、あまりそれを探そうとすれば不審者に思われてしまうかもしれない。俺はなるべくぼんやりと目の前にそびえる豪邸を眺めていると、ややあってインターホンから物音が聞こえてきた。
「はい、どちら様でしょうか」
 若い女の声だった。決して柔和とは言えず、どこか鋭い物言いなのだが、割と高めで可愛らしい声質のためか。嫌な感じはしない。
「藤崎重光にゆかりのある者ですが、そちらに重光の遺品があると遺書にあったもので、本日訪れさせていただきました」
「遺品、ですか?」
「えぇ、そうです。藤崎重光は僕達の祖父で、昔ここにあったらしい研究所に勤めていたとの事です。その時、残したものがあると」
「そうですか、わかりました」
 言うなり、門が開いた。どうしてすんなり信じてくれたのかわからないけど、きっと防犯に関してすごい用意がある現れなのだろうと自分を納得させ、玄関までの石畳を歩く。その距離十メートル弱だが、なんだかやけに長く見える。けれど一歩歩くごとに頭が白んでしまい、気付けばもう石畳の終わりにまできていた。
 五段の小さな階段を上り、玄関の前に立つ。まだドアは開かれていない。自分達から開けるのは失礼だからしないが、まだ開かれていないと言うのは警戒されているからだろうか。軽くノックでもしてみようか、いやそれもどうだろう。なんて事を考えていると、開錠される音がはっきりと耳に響いた。
「いらっしゃい、どうもこんにちは」
 出てきたのは小柄で童顔の女性だった。いや女性と言うより、まだ高校生くらいの女の子と言った方が適切かもしれない。二十歳の明日香と比べても二つか三つは下だろうが、強気な眼差しで俺たちを見ている。
「どうもこんにちは。僕は藤崎修吾、こっちは妹の明日香です。今日は祖父である藤崎重光がここに残したらしい遺品を受け取りに来たんですが、重光の事はご存知ですか?」
「えぇ、よく知っていますよ。立派な人だったんですよね」
 驚いた。まさかこの子が知っているだなんて、思いもしなかったからだ。爺さんは生前そんなに旅行する事がなかったから、きっとここに訪れたとしても一度か二度だろう。けれどこの女の子は爺さんの事をまるで昔から知っているかのような口振りで答え、頷いた。
「ここでは何ですから、中でゆっくりお話しましょう。私からもお聞きしたい事があるので。さぁ、どうぞ」
 女の子は踵を返し、ゆっくりと歩き出した。俺と明日香は一礼してから靴を脱ぎ、その背を追う。外見と変わらず内装もシンプルながら所々立派で、さり気無く飾っているこの絵もかなり高価なものなんだろうというのは、素人目にもわかる。けれど俺はそんな素晴らしい内装より、更に気になる事があった。
 この人、どこかで見たような気がするんだが……。
 過去の記憶を必死に手繰り寄せても、この女の子との接点が見えてこない。道端ですれ違った程度なら記憶に残らないだろうし、そもそも自分の住んでいるところからこことでは距離があり過ぎる。昔の同級生やバイト仲間、または社員時代の同僚や知人を幾ら探ってみても、誰にも該当しない。
 けれど、確かに俺はどこかで見た事がある。それがいつ、どこだったのか全く思い出せない苛立たしさに一人密かに眉をひそめ、大きく鼻から息を吐き出していると、いつの間にか応接間らしき場所に出た。木目と照りが美しいテーブルに、黒皮張りのソファ。その上には豪華な造りのシャンデリアがあり、窓には備え付けられているカーテンが差し込む陽光を柔らかくしている。また壁際に置かれたショーケースには銀製の食器や、ヨーロッパ風の置物が所狭しと並べられており、改めてここが地元に名を馳せている名士の家である事を実感させられる。
 女の子がまず座り、そっと座るように俺達に手で示すと、向き合う形で腰を下ろした。何となし緊張してしまう俺達に向け、女の子が眼光緩めずに頬を綻ばせ、笑顔で軽く会釈してきた。
「初めまして、梶原空澄と言います。重光さんの事は祖母の忍からよくご活躍を聞かされており、お会いした事はありませんが、よく知っています。素晴らしい科学者との事ですから、同じ道を志す私にとって一つの目標なんです」
「そうなんですか……いや、自分達の祖父がそんな人だとは未だに信じられないので、何だか狐につままれた感じです」
 これに不思議そうな顔をした空澄はそのまま修吾の瞳を覗き、その真意を探ろうとする。
「いや、ここに来るまで祖父ゆかりの地を旅する事になったんですが、それによって祖父が研究者であり、しかも尊敬されている人だと知ったんです。もう亡くなってしまいましたけど、祖父は生前この事に関しては家族に一言も口にせず、ただひたすら秘密にしていたもので」
「じゃあ、何も聞かされていなかったんですか、あれだけの人の事を」
「えぇ、そうなんです。だから旅先で出会った人はその研究員時代の同僚とが多かったんですけど、空澄さんみたいに若い人が祖父の事を知っているのが不思議で。お祖母さんから聞いていたとの事ですが、よければ詳しく教えてくれませんか?」
 空澄はゆっくり頷くと、どこか遠くを懐かしむように目を細めたが、すぐに修吾へしっかりとした眼差しを向け、口を開いた。
「貴方達のお祖父さんである重光さんと、私のお婆ちゃんである梶原忍は昔の研究仲間だったんです。仲間と言っても重光さんの方が先輩であり、それはもう科学者として素晴らしい方であった一方、お婆ちゃんの方はまだ新米で雑用を主にやっていたみたいです。そんな関係だったけど重光さんは威張る事無く、とても親切に接してくれたらしく、私は幼い頃からお婆ちゃんに、空澄も重光さんみたいに立派な人になるようがんばりなさいと。会った事の無い人ですけど、事ある毎に重光さんのお話を聞かせられたので、よく知っているんですよ」
 俺と明日香は思わず目を丸くし、互いに見詰め合った。自分達の爺さんがこんなにも尊敬され、見習うよう教えられてきた人がここにいる事に、驚きと気恥ずかしさを隠し切れず、つい口元が緩んだ。
「いや、何だか恥ずかしいですね。自分達にとっては単なる爺さんだと思っていたのに、こんなにも尊敬されていただなんて」
「私にはそれが信じられないんですよ。私も一応そういった道を目指しているんですけど、お婆ちゃんから聞いた重光さんの技術論や方法論、また残されたレポートなんかに触れる度、今でも通用しそうなものがあって本当に驚かされますよ。これを当時からしていたなんて、お婆ちゃんが言うのは誇張でも何でもなく、重光さんは素晴らしい科学者なんだと心から思っています。それに重光さんは科学者としての心得と言うか、人生訓のようなものもお婆ちゃんに伝えていて、それは私にとっても大切なものなんです。昔からお婆ちゃんは何かとあれば重光さんを引き合いに出していたので、何だか私の人生の一部であり、越え難い目標の人なんですよ」
 空澄の瞳に嘘の色は無く、またその口振りから滲む説得力でもって、修吾と明日香を頷かせる。
「ところで、そのお祖母さんは今、どちらに」
 何気無い明日香の問いかけに、空澄の顔にふっと影が差す。
「お婆ちゃんはもう十年近く前に亡くなっています。私はお婆ちゃん子だったので、当時は本当に悲しく、長い間泣いていましたね。でもいつまでもそうしていられなかったし、何より重光さんのようになればお婆ちゃんも喜んでくれるに違いないと思い、今は大学で理工学を学んでいる最中なんです」
「では、今は大学生なんですか」
 てっきり高校生くらいかと思っていたんだが……。
「はい、今はT大学の二年生なんです。家が家なので、私もこうした知識を身に付けておかないといけないかなって。えぇと、みなさんは学生なんですか?」
「いえ、僕は違います。昨年勤めていた会社が潰れ、今は休職中の二十三です。明日香はN大学の二年生ですね、ストレートで入ったんで今二十歳ですよ」
 途端、パッと空澄の顔が明るくなる。
「では、明日香さんと私は同い年なんですね。私も今年で二十歳なんですよ。でも明日香さんの方がずっと大人っぽくて、何だか格好良いですね」
 今度は明日香が僅かに照れたように、はにかみながら視線を斜め下へ落とす。
「そんな事無いですよ、私なんかとても。空澄さんだってすごく可愛らしく、綺麗じゃないですか」
 互いに褒め合い、謙遜し合う二人を見ながら俺は密かに驚いていた。明日香は確かに二十歳にしては落ち着いていて、年より上に見えるかもしれないが、空澄さんが明日香と同い年だとは信じられない。どう見ても高校生くらいだと思っていただけに、何となく不思議な感じである。
「ところで空澄さん、ご両親は今ここにいないんですか?」
「両親は仕事のため、家から離れているんですよ。実家と言っても家族がいる事の方が少なくて、私も大学の夏休みを利用して帰省しているだけなんです。それと、私の事は空澄と呼び捨てにしてもいいですよ、修吾さんに明日香さん。私の方が年下ですし、それにお二人ともあの重光さんのお孫さんですから」
 真面目にそう言う空澄に、修吾も幾分か苦笑いを浮かべる。
「爺さんの事は関係ないですよ。まぁ、そう呼んでくれと言うのならそう呼ばせてもらいますけど、こちらからも一つ。年が互いに近いので、敬語とか丁寧語とかそう言うのは無しにして、なるべく普段話すような言葉にしませんか。ほら、これだと堅苦しくて仕方ないし、何だか互いの腹を探り合っているみたいで、どうにもすっきりしない。だから、もしよかったら……」
 快い笑顔で空澄が頷く。
「それは私にとってもありがたいです。正直、何だか変に緊張しちゃって、疲れそうだったから。お二人もそんなに堅くならず、もっとリラックスして下さいよ。なんて事を言っている私自身、まだどこか緊張しているんですけどね。ともかく、改めてよろしくお願いしますね、修吾さんに明日香さん」
「こちらこそよろしくお願いします、空澄さん」
「ではお言葉に甘え、よろしくお願いするよ、空澄」
 ようやく同じ目線での挨拶ができた事に、二人は喜びと気恥ずかしさを伴って笑った。それは互いの祖父母を忘れた、近い年頃の者達が共有できる嬉しさと安心感。どちらも相手に抱いていた距離感が短くなった第一歩である。
「あぁ、そうそう。旅の途中でこんな写真を手に入れたんだが、見覚えあるかな」
 修吾が思い出したようにカバンを漁り、そこから一葉の写真を取り出した。それは旅の途中、重光の遺品の一つとしてあった森元研究所での全体集合写真。セピア色に彩られた写真の中の重光や忍は、時を感じさせないほど今を生きている。
「これって……ちょっと待っていて」
 その写真を見るなり空澄は驚き、目を丸くしたかと思うが早いか、慌てて応接間から飛び出して行った。これを見て一体何をそんなに驚く事があるのかと修吾と明日香は不思議に思い、小首を傾げながら写真を注視していると、ややあって空澄が戻ってきた。小脇には一冊の赤いアルバムがある。空澄が再びソファに腰を下ろすなり、パラパラとアルバムをめくって、そこからある一葉の写真を指した。
「これ、同じ写真だよね」
 確かに二つの写真は紛れも無く同じものだ。
「これが私のお婆ちゃんで、この方が重光さん。この人が当時の所長さんで……」
 余程当時の事を聞かされて育ったのだろう、ほとんど会った事の無いだろう人達を淀みなく解説してくれる。だが正直、誰がどういう仕事をしていたかなど全く興味が無い。それよりも気になるのが、空澄のお祖母さんの事だ。
 どこかで、どこかで見た事がある。
 空澄と会った時、そう感じたのは前にこの写真を見ていたから、お祖母さんの面影を見出したからだろう。実際、二人はよく似ている。しかしお祖母さんの方はこれまで会った事も見た事も無いはずなので、どうしてそう思ってしまうのかわからない。
「色んな写真があるんだね。私のお爺ちゃんは当時のものを何一つ残していなかったから、すごく新鮮。こんなに笑っている写真が多いのなら、少しくらい残していてもよさそうなものなのに」
「そうだな、何でうちの爺さんは全部処分しちゃったんだろうな」
 これもそうだ、この旅をしていてわかった大きな謎の一つだ。写真を見る限り、爺さんはよく笑っている。所内旅行での写真、研究の合間での写真、爺さんと空澄のお祖母さん二人きりの写真など、様々な場面で色んな顔をしているが、基本的に笑っているものばかり。どうしてこれらを自分の手元に残さなかったのだろうか。
「何だか空澄さんが羨ましいな。こうして昔の写真があるのっていいよね、自分達のお爺ちゃんお婆ちゃんの若い姿とかを見る事ができて」
「どうして重光さんは残さなかったのか、訊いていなかったの?」
 静かに問いかける空澄に批判の色は無く、不思議そうに二人を見ている。
「まさかこんなに写真を撮っていただなんて思ってなくて、最初から無いものだとばかり。それに爺さん、過去の物は残さない人だったので、死ぬ前に自分の物をほとんど全て処分してしまったから。子供の頃に何度か昔の写真は無いかと訊いても、色々あってなくしてしまったとしか」
 だから、こうして他人のアルバムの中で笑っている若い頃の爺さんを見ていると、嬉しくもあり、またどこか寂しくもあった。
「そう言えば気になったんだけど」
 じっと写真を見ていた明日香が顔を上げ、涼しげな眼差しで空澄を見る。
「お爺ちゃんと忍さんとで写っている写真、多いね」
 何となくそう思っていたが、確かに爺さんと一緒に写っている写真は多い。自分のアルバムなのだから好きなように載せ、また尊敬していただろう人と一緒に写りたい気持ちはわかるけど、それにしても多い。空澄はこれに関して何か知っているのかもと目を遣れば、打ち解け合いつつあったとはいえどこか眼光鋭かった空澄が、ふっと一瞬柔和になるのを見て、思わず目を見張った。
「直接それについて話してくれた事は無かったけど、きっとお婆ちゃんは重光さんの事が好きだったんだと思う。前にたった一度だけ話してくれたんだけど、自分には当時好きな人がいた、でも研究所存続のために私のお爺ちゃんと結婚したんだと。当時、お婆ちゃんの親が運営していた森元研究所と言うのがそこそこ優秀な人が集まるところだったんだけど、経営状態が悪かったらしいの。そこでお婆ちゃんは当時めきめきと業績を伸ばしていた梶原精機工業株式会社の跡取りだったお爺ちゃんと結婚して、何とか研究所を残せる事になったみたいだけど、そこで大幅な人員編成があったみたいで、事実上研究所は解散となったみたいなの」
「じゃあ、政略結婚みたいなもので、騙されていたの?」
 明日香が悲しげに問いかけるが、空澄はなお穏やかに微笑みながら首を横に振る。
「ううん、色々あったみたいだけど、お婆ちゃんはお爺ちゃんの事がすごく好きだったみたい。それと言うのも、お爺ちゃんも親同士の取り決めに不満を持っていて、お婆ちゃんの事をすごく気にかけていたみたいなの。だからずっと仲が良かったみたいだけど、二人共亡くなった今となってはよくわからないんだ」
「いい人だったんだ、お祖父さん」
「口は多少悪かったけどね」
 やや自嘲気味にそう言う空澄の瞳はどこか誇らしげで、どちらからも愛されていたというのがうかがえる。そんな彼女を見て明日香は涼しげな笑みを返すけど、修吾の方は一つ頷くなり、じっと重光と忍が二人きりで写っている写真を見詰めていた。
 一体、爺さんはそれに対してどう思っていたのだろうか。この人の気持ちに気付いていたのだろうか。昔の事を一切言わず、残さずだったのはこれが原因なのだろうか。互いに好きだった人と離れ、その傷を永遠に封印するために、身近にあった過去の遺物を全て捨ててしまったとしても、何となく理解できる。失恋とは辛いものだし、それが相思相愛だったとしたらなおさらだ。
 けれど、爺さんと婆さんの夫婦仲が悪かったかと言えば、そんな事は無さそうだった。婆さんは俺がまだ小さい時に死んでしまったけど、爺さんの悪口なんか言わなかったし、爺さんも婆さんの事を悪く言った覚えは無い。もしかしてうちの爺さんと空澄のお祖母さんは互いに好き合っていたが、それぞれの事情により別れざるを得なかった。けれどその後、選んだ道に過去を引きずる事無く互いの相手を愛せたのは、俺が言うまでもなく偉い。これが大人の恋愛なのだろうか。
 それからしばらく三人で色々な事を話した。互いの祖父母の事、家庭環境の事、学生時代の他愛も無い話など。頷き、笑い、眉を下げたりしていると、ふと窓から差し込む陽光の弱さに気付いた。何気無く修吾が腕時計に目を落とせば、午後六時少し前。
「っと、本題忘れたまま盛り上がっちゃったな。そろそろお暇しないと、今日の宿が取れないかもしれないので、そろそろ」
「本題? 宿?」
 訝しげに空澄が眉を寄せる。
「あぁ、ここを訪れたのも爺さんの遺品を受け取るためだったけど、ついつい話が盛り上がって手に入れずじまい。それにこの近くで宿を見つけずにここに来たので、あまり遅くなると泊まる所が無くなりそうだ」
「なら、うちに泊まったらどう?」
 空澄の思いがけぬ提案に、俺と明日香は目を丸くする。
「いやいや、それは迷惑かかるから」
「迷惑って、私に?」
「あぁ、いや空澄にもそうだけど、この家にさ。ほら、親御さんとか帰ってきたら、お邪魔だろうから」
 それを聞き、空澄が涼やかに微笑む。
「そんな心配しなくてもいいよ。さっきも言ったじゃない、うちの両親は仕事のためここを離れているって。空いてる客室もあるし、住み慣れた我が家と言っても一人だと少し寂しくもあるから、今夜はここに泊まっていってよ。今日会ってすぐの人を泊めるなんて、幾ら尊敬している人の孫だと言ってもそれだけじゃしないけど、こうして話してて信用できる人だろうから、特別にね」
「本当にいいのか?」
「いいって言ってるじゃない、どうせまだ宿とか決めていないんでしょ」
 苛立ったように語気を強める空澄だけど、顔や声の幼さと相俟って何だか微笑ましさすらある。しかしそれを言うのはまだあまりに失礼なので、俺は丁寧に頭を下げた。
「ありがとう、本当に助かるよ。それじゃ、お言葉に甘えさせてもらうかな」
「まぁ、私も大好きなお婆ちゃんが尊敬していた人の孫の話を、もっと聞きたいって好奇心だけで決めたから、そんなに感謝される覚えなんて無いよ。それよりもそろそろご飯の時間だけど、お腹空いている?」
 素っ気無く言い放つ空澄の優しさにやや苦笑しつつ、腹具合を確かめる。減っている事は減っているが、まだそこまでではない。けれどこれから作るのなら、丁度良いかもしれない。俺は明日香と顔を合わせると、同時に頷いた。
「そう、じゃあ何か出前を取るけど、食べられないものって何かある?」
「別に店屋物じゃなくても、私が何か作りますよ。泊めてくれるお礼に、少しでも何か返せたらなと」
「いいよいいよ、そんな。二人はお客様なんだから、そんな心配しなくてもいいよ。それにお米炊いてないし。折角遠い所から来てくれているんだから、ゆっくり休んでいてよ」
 必死に制す空澄に俺も明日香もそれ以上何も言えず、言われるがまま大人しくしている事に決めた。まぁ立場が逆だったら、俺も空澄と同じ事をしていただろう。客人を働かせるわけにはいかないし、会って間も無い人に冷蔵庫の中を見られたり、勝手にうろつかれたりしたくないだろうから、大人しくしてもらいたいはず。無闇に動くべきではないな。
 しばらくして届いたカツ丼を平らげ腹を満たすと、修吾はお茶を飲みながら所在無げに視線をさまよわせていた。いや、修吾だけではない、明日香も、この家の住人である空澄も何だか落ち着かなさそうにしている。やけに掛け時計とクーラーの送風音が響き渡り、暑い夜なのにどこか一部抜けたように寒々しい。
「そう言えば」
 沈黙を破ったのは空澄だった。空澄は目を引き締め、やや体を前方へ傾ける。
「重光さんの遺言書を見てここに来たみたいだし、遺品を受け取りにここに来たって言っていたよね?」
「そう、遺言にここに自分の遺品があると書いていたし、それをしまっている金庫もあると。えぇと、ちょっと待っていて」
 修吾はカバンを漁り、中からあの桐箱を取り出した。そしてくすんだ銀色の鍵を手にし、テーブルの上に置く。空澄がそれをまじまじと見詰める。
「これがその鍵。それで訊きたいんだけど、その金庫はどこにあるんだ?」
「金庫……」
 眉根を寄せた空澄が小首を傾げる。
「そんな金庫があるだなんて話、知らないよ。私は本当にお婆ちゃん子で、昔から当時の色んな話を聞いてきた。その中には胸張って言えないような事まであったけど、重光さんがここに金庫を残しただなんて話、一度も聞いた事無いよ。でも、遺書にそう書いてあるのなら、あるのかもしれないね。うちは昔からここにあるから、そのどこかにあってもおかしくないし。けど、あるのかなぁ。少なくとも私が知っている限り、ここに重光さんは来ていないと思う。見たらわかるだろうし、お婆ちゃんが何か言っただろうからね。でももしかしたら私の知らされていない事もあるだろうから、調べてみないとわからないってのが本音かな」
 空澄は今二十歳で現役T大生の二年と言っていた。となるとストレート合格だ。爺さんが死んだのが二年前で、その数ヶ月前からは遠出なんてしていなかった。つまり、爺さんはここに来ていない事になる。空澄が高校以下だったなら、平日午前中にこっそりここへ来て、何か託す事だってできたかもしれないけど、そんな素振りは無かったと言う。ならば空澄が生まれるよりも前に、爺さんがここへ預けていたのかもしれない。
「俺たちの知らない間、二人の間でひっそりと金庫の件を済ませていたのかもな」
「どうなんだろう、うちのお婆ちゃんが嘘とかつけない人で、隠し事してもすぐ態度でバレる人だったんだけど……とにかく調べてみるね。一緒に来てくれないかな。これから色んな部屋を見て回ろうかと思っているの」
「わかった」
 一緒に同じ部屋を見るよりも分かれたほうが短時間で発見できるはず。何と言っても鍵付きの金庫だ、そう小さな物じゃないから隠し場所なんて限られているだろう。しかしそうしなかったのはやはり他所様の家だし、今日会ったばかりの人間から目を離したくないからだろう。それに俺達も後々、あらぬ疑いをかけられたくないし、仮に勝手に探してもいいと言われたところで気が引ける。
「まずお婆ちゃんの部屋から見ようと思うから、こっちへ」
 応接間を出ると玄関とは反対側、家の奥の方へ向かう。突き当りを右に曲がり、少し歩いて左に曲がる。そうして裏手口近くにある右側の部屋へと入った。ここがお祖母さんの部屋なのか。
 修吾の意に反して、忍の部屋は和室ではなく洋室だった。梶原家の外見からすれば何の問題も無いのだが、重光の部屋が和室だったため、少々面食らったらしく目を剥いていたけれど、すぐに落ち着きを取り戻したらしく、じっくりと周囲を観察する。
 室内は全体的に茶と城を基調としており、シンプルながらも高価そうな調度品が多い。化粧台にベッド、クローゼットなど細かい所に金細工が施されており、嫌味無き豪華さを演出している。シンプルに感じるのはそれ以上に綺麗に片付けられているからなのだが、もう使われていないからか、そのどれにも薄らと埃がかぶっている。そうした部屋を見渡しても、パッと見た感じ金庫らしき物はどこにも無い。
「無さそうだね」
「さすがに見える場所には無いんじゃない。もし見える場所にあれば私の記憶にも残っているだろうし、お婆ちゃんが亡くなった時に何らかの問題にもなっていただろうしね。でも、そんな事は一度も無かった。だから、もしここにあるとしても結構わかりにくい場所にあるんじゃないかな」
「そっか。なら、失礼だけど調べさせてもらうね」
「いいよいいよ、気にしなくて。今は私がここの主なんだし。私がいいって言えば気にする事なんて無いよ」
 あっけらかんとして微笑む空澄に、明日香も同じように微笑み返す。
 お言葉に甘えてとばかりに、俺はまずクローゼットを開ける。けれどそこには服の一着も無く、がらんとしていた。ではこの隣にある茶色の開き戸に何かあるかと思ったが、やはり同じ。ほとんど何も無く、寂しげだ。次に押入れを調べてみるけれど、ダンボール箱が少しあるだけで金庫らしきものは見当たらない。
「なぁ、このダンボールって何だ?」
「あぁ、それはアルバムとかお婆ちゃんが昔書き残したレポートとかだよ。お婆ちゃんは色んな事を調べるのが好きで、事ある毎にそうしては自分の見解をまとめていたんだよね。科学だけじゃなく、自然とか人間関係とか心模様とか色んな事を書いていて、半ば日記みたいなものだけど、読んでみたら結構納得する事も多くて」
「なるほどね、色んな疑問を持って解決しようとしていたんだ。そう言うのってすごいよな。いや、俺なんかわからない事とかあっても、これはこういうものなんだって納得して、そこで終わらせる事が多いからさ、そういう人を尊敬できるよ」
 強気でやや鋭い眼差しの空澄がふとそれを緩め、子供のように微笑む。まるで自分が褒められたかのように振舞う彼女に、修吾もなんだかおかしくなり、気付かれないよう小さな笑顔を作った。
「だから、お婆ちゃんから色んな事を学んだの。科学を志すなら、本ばかり読むんじゃなくて、世界に目を向けろって。一見関係の無い事柄と思っていても、そこから学ぶ事はあるだろうし、新たな刺激によってそれまでにない発想が生まれる事もあるって」
「良い事言うね」
「でしょう。だから……って、今はこんな話より、探すのを優先しないと」
 我に返った空澄は再び眼に力強さを込め、部屋探しにかかる。修吾も明日香ももう少し話を聞いていたかったが、のんびりしていても仕方ないとばかりに、作業を再開した。
「やっぱりここには無いみたい。おばあちゃんが死んだ時に色々整理したし、生前からここによく出入りしていたけど、金庫らしき物なんて無かったしね」
 一頻り探した後、空澄がそう言うなり一つ溜息をつき、足早に部屋から一歩出た。
「次、行きましょ」
 二人は空澄の後に続いて、次に向かいの部屋に入った。ここは一見すると物置として使われている部屋だけど、数年前までは祖父の梶原定男が使っていたとは空澄の言。ただ忍の部屋と違い、空澄の出入りが少ないからか更にほこりっぽい。
「何だかこの部屋はすごいな、高価そうな彫刻だとか壷だとか色々あって。迂闊に触れそうにもないな」
「お爺ちゃんの趣味だったの、こう言うの集めて飾るのが。でも、あまりに多いし、飾り過ぎても何だかゴテゴテして見えるから、必要最小限の物以外はここにしまうようにしたんだ。正直、私もあまり価値とかわからないけど、確かに修吾さんや明日香さんは触らない方がいいかも」
 机の中や部屋の隅、クローゼットや収納棚を調べながら、空澄が振り返る事無く答える。確かに下手に触って壊したりでもしたら一大事なので、俺と明日香は入口でじっと見守るしかない。
「お祖父さんはどんな人だったの?」
「ちょっと怖い感じだったかな。でもそれって、真面目の裏返しだったんだろうなぁって、今になって思うの。お爺ちゃんはうちの会社の跡取りとして育って、死ぬまで経営に全てを捧げてきたから、どこか威圧的にならざるを得なかったのかも。そのせいか、家族に対してもそう言うのが抜けなくて、お爺ちゃんの前に立つとどこか緊張したんだよね」
「うちの爺さんも割と静かな人だったけど、怖いイメージは無かったな。まぁ、背負っている物の違いなんだろうさ」
「そうかもね。でも、お婆ちゃんから聞いたあるエピソードを知って、お爺ちゃんがただ怖い人じゃないんだって思えたんだ」
「へぇ、それってどんな話?」
 探す手を止め、空澄は大きく息を吐くと中空を見詰めた。
「お爺ちゃんとお婆ちゃんの結婚って親同士が決めたもので、お爺ちゃんもそれをすごく気に病んでいたみたいだったらしいの。それで結婚する数日前、お婆ちゃんの前で土下座したらしいんだ。何と言ったかまでは教えてくれなかったけど、でもその話を聞いてからそれまでより怖いとは思わなくなったんだよね」
 決められた結婚とはいえ、果たして相手に土下座なんかできるだろうか。自分にいざと言う時、そんな覚悟があるだろうか。俺はもう少し、そうした覚悟が必要なのかもしれない。今まで俺はそこまでの覚悟を決めた事が無いだけに、どこか羨ましく思う。
「ここには無いかな、次行こうか」
 あらかた見終えたらしく、空澄が寂しげな微笑を浮かべながら修吾と明日香の間を擦り抜け、次の場所へと向かう。そんな彼女に遅れないよう、二人は急いで後を追った。
 廊下を正面玄関の方へと戻り、階段を上って二階へ行く。そうして右側の客間二つを通り過ぎ、中程より奥の部屋の前で空澄が一旦立ち止まる。
「ここは私の部屋だけど、ここには無いよ。あと、客間にも無いと思う。もしそんなのが客間にあったら、どうされるかわからないしね」
「まぁそうだな。だとしたら、どこがありそうなんだ?」
 ぴたりと空澄が立ち止まり、眉根を寄せて中空を見詰める。
「うぅん、父さんと母さんの部屋は無いだろうね。だってお婆ちゃん、重光さんの事は父さん母さんに言ってなかったみたいだから」
「何で?」
 呆れがちに空澄が小さく笑い飛ばす。
「あまり言うとほら、幸せな家庭が崩れるかもしれないでしょ。お婆ちゃんはお爺ちゃんの事が好きだったみたいだけど、あまり重光さんの事ばかり言っていると、何だか上手くいかなくなるでしょ。だから両親にはあまり言わなかったみたいなんだよね」
「でも、空澄は聞かされていたんだよね、お祖父さんの事を」
「それでも、ある程度分別が付いてからだけどね。それに、私も何だかあまり口外しちゃ悪い気がしたから、私とお婆ちゃんだけの秘密みたいにしていたかな」
 爺さんはこの件に関して一言たりとも外へ漏らさなかった。空澄のお祖母さんもまた、ほとんど話さなかった。きっと二人の間に研究仲間以上のものがあったんだろうけれど、それを隠し通したのは単なる約束だろうか。それとも、未来を向いての暗黙の了解だったのだろうか。今となってはわからない。
 二階では使われていない客間、洋間、また物置部屋二つを調べてみたが、結局それらしき物は見付からず、三人は一旦応接間に戻った。必ずここにあるはずなのに、どこにも無い。そんなもどかしさが心をかきむしり、何だか皆苛立っている。修吾は落ち着き無く視線をさまよわせ、明日香はせわしなく指を絡ませ、空澄は右膝の上で人差し指を早いテンポで打ちつけていた。
「他に何かお祖母さんが関っていた場所とか、この家に思い当たるとこは無いか?」
「言われなくても考えているわよ」
 語気荒げ、けれど言い終わるとやや気まずそうに空澄は視線を外す。その姿や態度に修吾も明日香も何も言えず、ただ黙って空澄の答えを待つより他無かった。
「使っていたかどうかわからないけど」
 沈黙が場を占拠するより先に、空澄が口を開く。
「地下室があるんだよね。そこは大した広くないけど、割と昔から物置として使っていて、滅多に片付けたりはしないから、結構昔の物手付かずのままなんだ。もしかしたら、そこにあるかもね」
「行ってみる価値はあるな」
 黙って心逆立てながら座っているよりも、一縷の可能性にかけて動いた方が納得も行く。俺と明日香は空澄の後に続いて応接間を出ると、裏手口の方へやってきた。そこには外へ出るのとは違った扉が向かって右手にあり、それを開けると地下へ通ずる階段があった。
 どこかこもった、ほこり臭いようなカビ臭いような匂いが鼻をつく。入口にあったスイッチを入れると下の方で明かりが灯ったけど、どこか不気味さを拭い切れない。それでも思っていたよりは清潔だし、傾斜も急でないため、怖気付く事無く付いていける。
 十五段そこらの階段を下りた先には扉があり、あらかじめ持っていたのだろう、空澄がポケットから取り出した鍵を使って中へ入る。そこは高さ二メートル、広さ十六畳分くらいの何の飾り気も無い部屋だった。ここには本棚やダンボール箱、また木箱などが所狭しと置かれており、どれも古そうだった。
「何が入っているか私にも全然わからないから、適当に調べてもいいよ」
「でも、もしすごく高価な物とかあって、間違って壊しちゃったりでもしたら……」
 不安げな明日香を空澄が軽く笑い飛ばす。
「ちょっとくらいならバレないだろうから、大丈夫だよ。それに、そんな大事な物だったらこんなとこに置いていないだろうしさ」
 なるほど。ならばそこまで怯える必要も無いだろうが、気を付けるに越した事は無い。
 空澄に続いて俺も手近にあったダンボール箱を開けて、中を物色してみる。思い出の品だろうか、古びた海水浴の道具が入っていた。その隣にあったダンボール箱には何やら研究の道具らしき物が入っていたが、求めている物とは違うだろう。
 結局一時間くらい調べてみたが、それらしき物は見付からなかった。普段立ち入らない場所ならば奥隅の方へ置いておけば大丈夫だろうと、そう空澄のお祖母さんが考えていると踏んで目に付きにくい場所を重点的に探したのだが、すっかり予想が外れてしまい、今また俺達は応接間に戻って肩を落としている。
「お茶淹れてくるけど、ダージリンでいい?」
「あ、私がしますよ。空澄さん疲れているでしょうし、何か少しでもお礼したいから」
 立ち上がろうとした空澄より早く、明日香が立ち上がった。
「お礼とか、そんなのいいよ。お茶くらいなら私でもできるし、遠いところから来てくれたんだから、ゆっくりしていてよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 再び腰を落ち着けた明日香に代わり、空澄が部屋から出て行った。客人残して離れるなんて、多少信頼されたのかなと考えつつ、俺は手持ち無沙汰に周囲を見回す。明日香も何となし口を開くのをためらっているらしく、見慣れない調度品ばかり眺め、俺と視線を合わせようとしない。
 そうこうしていると、空澄が銀のトレイにティーカップ三つ乗せて戻ってきた。ゆっくりとそれをテーブルに置き、空澄自身もソファに腰を落ち着かせる。漂うダージリンティーの繊細で香り高い匂いが各々の鼻孔をくすぐり、苛立ち気味な心を静めていく。
「本当はもっと美味しいはずなんだけど、ちゃんとした淹れ方知らなくて、ごめんね」
「いやいや、充分だよ。喫茶店なんかで飲むのより、ずっと香りが良くて美味しいよ」
「そう、ならよかった」
 パッと明るくなったのも僅かな事で、またすぐ空澄の表情は曇りがちになる。そんな彼女につられるまでもなく、修吾や明日香の色は既に暗く、視線が常に下ばかり向いていた。
 明るくなんてなれなかった、そんな余裕は誰も持てなかった。どこにも無い、必ずここにあるはずなのに、そんなもどかしさが例えようも無い不満になり、ダージリンの心地良い香りをも打ち消す。
 もしかして捨てられてしまったのだろうか。中を見ずに自分達に用が無いからと、空澄や空澄の両親が捨ててしまったのだろうか。それとも、もっと前に。そう、空澄が物心付く前に捨てられていれば空澄の耳にも入らないだろうから、永遠に闇の中だ。
 けれど、その可能性は低い。何故なら、爺さんの暗号は少なくとも三年前に作られたものだからだ。それには確信がある。
 梶原精機工業株式会社会社とは子供の頃から耳馴染みのある会社で、ケーエスと名前が変わったのはここ五年くらい前の事だ。そして三瀬さんは三年くらい前に爺さんから暗号文など渡されていたと言っていた。その爺さんは二年前に死んでいて、死ぬ数ヶ月前からはずっと入院しており、外出許可もロクに下りなかった。
 ならば、三年前までには全てのパーツが揃っていたはず。五年前から三年ほど前の間に、爺さんは今回の謎を作り上げたんだ。いや、しかし待てよ、もしかしたら爺さんはここに来ていないはずだ。となると、作れるのだろうか。
「なぁ、空澄って二十歳だよな。高校はこの近くだったの? 部活とかしていた?」
「部活はしてなかったけど、この近くの高校に通っていたよ」
「それで確か、お祖母さんは十年近く前に亡くなっているんだよね」
「うん」
 五年前から三年前の範囲の中で、この家に爺さんが遺品を置いたとは考えにくい。そしてケーエスと名前の変わっていない時期に、空澄のお祖母さんに直接渡しているとも思えない。三年前までなら空澄に見付からず、受け渡しを済ませ、かつ全て秘密にできているとは到底思えないからだ。ならばその前、ずっと前に爺さんがこのどこかに隠し、その場所が変わっていないと知っていたからこそ、ここに隠したと書けたのだろう。
「なぁ、お祖母さんの大切な物ってどうしていたか、知っているかい?」
 空澄はしばし中空を睨むように考えていたが、やがて力無くかぶりを振った。
「よく自分の大切な物は全て金庫にあるからと言ってたけど、金庫の中に金庫があったりでもしたら両親が話題にしたかもしれないけど、そんな事も無かったはず。それに、重光さんの大切な物ならお祖母ちゃんが遺品で捨てるなとか言いそうだけど、そんな事も無かったんだよね」
「じゃあ本当に爺さんが一人でここに残したのか。でも、幾ら昔の仲間の家だとしても、勝手に侵入して隠したりなんてできないよなぁ」
「無理だと思う。だって私が生まれる前から何度か泥棒に入られているから、昔から防犯対策はバッチリだし、家の周りに垣根で壁みたくしているけど、あれも勝手に超えたらセキュリティ会社にすぐ通報されるようになっているんだ。それに正面から普通に来たとしても、家のどこかに隠すなんてちょっと考えにくいよね」
「じゃあ、爺さんは一体どこに隠したんだろう。ここ数年でないとすればもっと前なのか? でもそんな昔でも、同じだと思うけど……」
 手詰まりかもしれない。家主の空澄がそんな物見た事も聞いた事も無いと言うのは、きっと本当だろう。この家のどこにも無い。そんな事実が重くのしかかり、既にぬるくなったダージリンティーをもってしても癒えない。
「あっ」
 不意に空澄が思い出したかのように短い叫び声をあげると、修吾と明日香はびくりと肩を震わせ、何事かと彼女の顔を覗き込んだ。空澄はその視線を嬉しそうに受け止めつつ、瞳を輝かせて身を乗り出す。
「あった、あったよ、重光さんが一人で隠せた可能性のある場所が。あそこなら、お婆ちゃんにも誰にも気付かれず、隠せていたかもしれない。あぁ、何で忘れていたんだろう、灯台下暗しってやつなのかな」
「どこだ、そこ?」
「研究所よ、研究所。重光さんやお婆ちゃんが働いていた研究所。あそこなら、全ての辻褄が合うと思うんだよね」
「いやだから、その研究所の場所だよ」
「うちの敷地内にあるのよ」
「なんだって」
 広いし、社長宅だから自分の及びもつかない事があると思っていたが、まさか自分の家の敷地に研究所があるとは。住む世界の違いに半ば呆然としていると、空澄が慌てて俺達の考えを制そうと手を伸ばしてきた。
「それと言うのも、元々ここはお婆ちゃんの家の方の土地だったらしいの。結婚の時にお婆ちゃんとお婆ちゃんのお父さんが結婚する唯一の条件として、研究所の存続を願ったらしいのよ。お爺ちゃんはそれを受け、研究所のあったここに家を建てる事にしたみたい。だからこんな山の中に、この家があるんだ。でもその研究所もお婆ちゃんが結婚してからはあまり使われず、いつしかただあるだけになっちゃったんだよね。だからお父さんとか、もういらないだろうからって壊そうとしたの」
 空澄は乾いた喉を潤そうとティーカップを口に運んだが、そこにはもう潤せる程のものは無かった。ばつの悪そうにそれを置き、再び二人に目を遣る。
「でも、それをお爺ちゃんとお婆ちゃんが大反対したらしいんだよね。何度も取り壊しを提案したらしいんだけど、その度にお婆ちゃんが頑なに拒否していたみたいなの。結局、お爺ちゃんやお婆ちゃんが死んでからも何となく壊すのをためらっているらしく、当時の研究所がそのまま残っているんだよね」
 となると、そこにあっても何ら不思議ではない。いやむしろ、そこにあるのだろう。当時からあるものならば、爺さんが若い頃に隠してそのままと言う可能性が高い。そして死ぬ前にここを訪れ、研究所が無事であったからこそ、ここにあると記したのだろう。
「なら、行こう。そこにあるのなら、今から行って見付けてこようぜ」
「ううん、今日はやめよう」
 意気高揚とする修吾に対し、空澄がやや冷めた目付きでかぶりを振る。
「もうそこ、あまり電気通っていないんだよね。いや、一応通っていて、実験のための機械とか使えるようにはなっているんだけど、古いままでさ、使っていないとこは整備なんかもしていなくて。だから、全部の部屋を照らせないだろうから、どうせ調べるのなら明日の方がいいかなって」
「もう使われていないのに、電気が通っているのはどうしてなんだ?」
「えっとね、たまに私が使っているの。必要な部屋だけ電気を通して、使えるようにしているんだよね。ほら、私もその道だし、家にそういうのがあると、使えるなら使っちゃえって。だから使っていないところは電気が通っていないから暗いままだし、結構物とか置いてあるから、暗い中歩いたら怪我するかもしれないよ。だから、明日にした方がいいかなって」
 そうまで言うのなら、やめておこう。早々に手に入れたいけれど、家主を無視してまでやるものではないし、それにもう手に入ったも同然なのだから。
「まぁ、明日にするか。すぐ手にしたいけど、もう見当はついたからな。何も今日中に見付けないとどうにかなるわけじゃないし、明日じっくり調べるのもいいかもしれないな」
 修吾が頬を緩めると、空澄も明日香も同じようにそうした。それは安堵もあったけど、それ以上に切羽詰った現状に対しての希望を持とうとする現れでもあった。そこに無ければ見当も無く、完全にわからなくなってしまう。そんな不安を覗かせまいと、またあるわけがないとの一縷の望みにすがり、誰もが虚しいとわかっていても、それでもなお笑顔を浮かべて明日の成功を祈り合った。

 不意に目が覚め、手元の時計を見ればまだ午前四時。きっとまだ誰も起きていないだろうからもう一眠りしたいのに、波が引くように眠気が逃げていく。どうせ眠れそうにないならばと俺は上半身を起こすと、目をこすりながら大きな溜息をついた。
 ここは二階にある客間の一つ、宿の当てが無い修吾達に空澄が貸してくれた部屋。空き部屋は他にもあるので、明日香にも一部屋与えられ、三人別々になる事ができた。久々に一人になれた修吾は気も楽になるかと思っていたのだが、そんな事も無さそうだった。
 落ち着かないな。まぁ、それも当然かもしれない。ようやく目的地に着いたし、遺品の隠し場所も目処がついた。とはいえ、ここは他人の家、それも空澄一人しかいない。女の家に上がったり、関係を持った事もあるから慣れていないってわけじゃないけど、どうしてか緊張している。いや、別に空澄をどうこうしようと言うわけじゃない。
 きっとここが自分達とは住む世界の違う場所だからだ。だから、こんなにも緊張してしまい、こんなに朝早くから目が覚めるんだ。
 どうも気が立っているみたいだ、少し落ち着こうと何度か深呼吸を繰り返しているうちに、ようやくカーテンからこぼれる青い陽光に気付いた。外を見なくとも、朝日が遠くから僅かに顔を覗かせ始めているのだとわかる。そんな事に心馳せていると、今度はここに来た目的を強く思い出し、ぼんやりと中空に浮かぶイメージを投影する。
 空澄の話だと、爺さんに空澄のお祖母さんが想いを寄せていたとの事だが、やはり爺さん自身も想っていたに違いない。そうでなければ、ここに自らの遺品を残さなかっただろうし、研究所が潰れたからだけでは研究者としての道を閉ざさなかっただろう。多分、研究所存続のために結婚せざるを得なかったお祖母さんの立場を誰よりもわかっていたつもりでも、心は到底納得できず、研究を続ける事が苦痛になってしまったのだろう。そこに身を投じていれば、どうしても思い出してしまうだろうから。
 だから最後に、ここへ自分の思い出の何かを隠したに違いない。そしてその何かとは花、爺さんが夢として描いていた花なのだろう。この旅で入手した花の種、それは普通の植物の種ではなくて、どこか工業的な物だけど、その花を咲かせるためのものが隠されているに違いない。
 そう考えれば、これまでの辻褄が合うかもしれない。ただ、それに関してここに着いた時からの疑問がある。それは何故、鍵のかかった金庫をここに隠したかだ。そしてそれをどうしてあんな絵の裏なんかにヒントを隠し、生きている間に何も言わなかったのだろう。まるで見付けられたくないかのように、ひっそりと子孫に残したのかが不思議だ。あの絵だって、俺が次の世代に引き継ぐとは限らない。つまり、この爺さんの遺言自体が見付けて欲しいものではなく、見付けられなくてもいいものなのかもしれない。
 だったら、それこそ何故に子孫に託したのだろうか。見付けられたくないのなら、あんな回りくどいヒントを残さなくてもいいのに。これこそ、今回最大の謎であると言えよう。
 空澄のお祖母さんはそれを当然知らなかったはずだ。もし知っていれば自分が爺さんを好きだったと、幼い空澄に匂わせていたくらいだ、空澄に金庫の中身だって教えていたに違いない。仮に口止めされていたとしても、どんな物かさりげなく伝えていたに違いない。
 だが、空澄はその存在すら知らなかった。空澄が知らないのであれば、きっと爺さん以外の人間は誰も知らないのだろう。
 遺品をここに隠したのは間違いなく、研究所がここにあるからだ。憶測だが、きっと爺さんはここが残る事を知っていたに違いない。そうでなければ、幾ら思い出深いとはいえここに隠したりしないだろうから。取り壊されたり、その予定があるのならこんなに回りくどい遺書なんか作っていないだろう。だから、当時研究所がいつまでも保存される事を知っていたはずだ、恐らく空澄のお祖母さん経由だろうけど。
 さて、それでは金庫の中にある物は一体なんだろうか。花に関する物に違いは無いだろう。爺さんは何らかの花を科学の力で咲かせたかったらしいし、花の種と書かれた小瓶もある。となると、それを咲かせるための材料だろうか、もしくは咲かせ方を記したメモだろうか。いや、完成品があるのかもしれないぞ。
 そこまで考えると、修吾は苦笑い一つ浮かべ、またその身を布団に潜り込ませた。
 そんな事、考えるだけ無駄だよな。これからもう一度寝て、起きてから三人で確認すればいいだけの事。もう全国各地を探すわけじゃない、この家の敷地内、いや、研究所の中だけだ、楽勝に決まっている。金庫の中の物を見てから、爺さんが何を思ってそうしたのか考えればいいだけだ。寝よう、今は体力を温存しよう。
 ゆっくりと目を閉じ、余計な雑念を入れないよう枕に意識を染み込ませていると、やがて修吾からまた寝息が聞こえてきた。

 二度寝したためか、修吾が明日香に起こされて食卓に行けば、既に朝食の用意がされていた。家中に漂うような朝食の匂いは活力と空腹を与えるが、それは三人とて例外ではない。エプロンを外している空澄に修吾が挨拶し、笑顔を向ける。
「美味そうだな、これ一人で作ってくれたのかい?」
「まぁ、ね。でも、そんな大した物じゃないよ、有り合わせの物ばかりだし、お味噌汁は出汁切らしていたからインスタントだし」
 そう言うが食卓には目玉焼きにハムサラダ、味噌汁に白米、そして野沢菜と特段不満があるものではない。空澄と向き合うようにして修吾と明日香が席に着くと、箸を手にした。
「いや、泊めさせてもらっただけじゃなく、朝ご飯までご馳走になるなんて、何だか悪いなぁ。本当にありがたく思うよ」
「そんな事無いよ、大した物出しているわけじゃないんだから、そんな考えしなくてもいいってば。泊めたのは何だか信頼できる人達だって思えたし、重光さんの話とか聞きたかったってのもあるんだよね。ご飯くらいはほら、出して当然の事だしさ」
 やや赤くなって視線を外す空澄に気付いていないのか、修吾がよりにこやかに笑いかける。
「いや、突然現れた俺達をこうまで信用してくれたのが何よりも嬉しいし、それにこう言ったもてなしを当然と言ってくれるのは、なかなかできない事だと思うよ」
「そうだね。私からも空澄さんへありがとうって、たくさん伝えたいもん」
「褒めすぎだってば。ほら、そんなお世辞なんか言っていたら、冷めちゃうよ」
 空澄は視線を合わせぬまま、味噌汁を口に運ぶ。その様子に二人が小さく笑うと、空澄がやや鋭い視線をぶつけてきたので、修吾は慌てたように愛想笑いを返した。
「私の料理はもういいじゃない、そんなに大した物じゃないから、あまり言われると逆に何だか……。それより、明日香さんはどうなの? すごく家庭的なイメージあるんだけど、得意料理とかはあったりするの?」
「特にどの料理って言うのは無いけど、洋食が得意かな」
「明日香は割と何でも作れるし、上手なんだよ。もう趣味みたいなもので、よく台所に立っては何か作っているよ」
「すごいね、何でも作れるなんて。私も今度教えてもらおうかな」
 驚く空澄に明日香が照れ笑いを返す。
「本当にそんな大した事じゃないし、人に教えられる程じゃないよ。それにお兄ちゃんだってたまに料理するでしょ、シチューとかハンバーグとか、濃厚で美味しいよ」
「その二つくらいしかまともに作れないけどな。そう言う空澄の得意料理って何だ?」
 やや困り顔の空澄が僅かに視線を外す。
「私は得意料理とか、別に胸を張れるものは無いけど、まぁ人並みにはできるかなぁと。それより、早く食べて探しに行こうよ。今日明日に消えるものではないだろうけど、私もそれが何なのか気になっているから」
 雑談もいいが、確かに空澄の言う通りだ。それに、遺品を見付けてからでもこう言った話は幾らでもできる。俺は再び胸に湧き上がった遺品への探究心を抑えつつ、箸を動かす手を早めた。
 食事を終えて一休みしてから、空澄に連れ立たれ修吾と明日香は外へ出た。山の自然に囲まれた梶原邸は庭木もそれなりに整然と揃えられており、朝日を浴びて緑に輝いている。一方花壇はそこまで整然とされてはおらず、色とりどりの花が自由に咲いて、そこを賑わせていた。
「昨日も思ったけど、やっぱりすごいな」
「まぁ、確かになかなかこういうのは無いだろうね。でも、思春期あたりはすごく嫌だったんだよね、ここの家に生まれてきたって事が。車での送り迎えとか、何かあれば特別扱いとかさ、そういうのが嫌で嫌で」
 なるほど、確かにこれだけの家に生まれたんだ、嫉妬はおろか怖い目にも遭ってきた事だろう。俺だって何度か近いものを体験してきたからわかるけど、もっとも、俺の場合は比べるまでもなく些細な話なので、そう安易に比較などできないけど。
 通りから離れるように敷地の北西へ百メートル程歩くと、二階建ての白い建物が姿を現した。汚れた白い外壁のそれは何の装飾も無く無骨で、たがそれが落ち着いたたたずまいすら与えてくる。入口近くの壁には朽ちかけた木製の看板があり、そこには力強く『森元研究所』と記されていた。
「ここがそうなんだ」
 立ち止まり、俺は感慨深く見上げる。ここで爺さんは働き、人々から天才だと言われていたのか。古ぼけた建物もそう思えば、歴史ある荘厳なものに見えてくる。ふと隣にいる明日香に目を移せば、同じように感慨深そうに見上げていた。
「ここがお婆ちゃんの方の家が運営していて、重光さんがいた研究所。当然今はもう誰もここで働いていないけど、年に何度か掃除しているし、私もここで簡単な実験とかしているからそう汚くないし、そんなに気にする程の様子では無いから、気軽に入って」
 空澄はポケットから鍵を取り出すと、正面玄関前の扉の施錠を解いた。赤茶色のドアが開くなり空澄が中へ入ると、修吾と明日香もそれに続いた。
 中は年代を感じさせるがしっかりとした木製の床、白いコンクリートの壁にには過去に貼り紙や掲示板などがあった跡があるが、既に取り外されており、何とも殺風景に感じる。しかし空澄が先程言った通り掃除されているのが、汚れの様子からもわかる。思っていたよりも、綺麗だ。
 入口からすぐ左手には二階へと通じる階段が見え、正面にはすぐ目の前に二つのドア。そこから少し進んだところで、廊下は右へと折れている。研究所と言うものに入ったのはこれが初めてなので、多少興奮気味に周囲を見回していると、前にいた空澄が右側のドアに手をかけながら、おかしそうに微笑んでいた。
「ここが私の使っている部屋。昔は何人かの人が共同で使っていたみたいだから、一人じゃちょっと広いんだよね。とりあえず、ここから探そう」
 空澄に続いて入ると、中はそれなりに広く、見慣れない機材が幾つも置かれていた。印象としては高校の理科室をやや専門的にした感じだろうか、そこまで別世界の空間というわけではない。それはフラスコやビーカー、顕微鏡といった、どこか馴染みある物も陳列されているからかもしれない。
「帰省した時、よくここで実験したりするんだ。それぞれの機械は古いから、先端技術の実験なんかには向かないけど、確認だとかそういったものに対しては有用なんだよね。私は工業化学ってのを勉強していて、簡単に言うと色んな鉱石や植物、または食品などから新しい物を作り出そうとしているんだ。主に今やっているのが、プラスチックに代わる物質の研究。軽くて安価だけど、結構処分に困る物だから、もっと土に還元しやすくコストを抑えられる物ができないかなってね」
「すごいな、実現できたらノーベル賞とか取れるんじゃないの?」
「できるかどうか、わからないけどね。でも、そうした高いハードルに挑戦し続けていたいって思うの。より上へと行くために」
 目を輝かせ、でもどこかしら寂しげな空澄は照れたように小さく笑った。
「そんな事より、今は重光さんの遺品探しだったよね。ここはよく使っているけど、私の知らない隠し場所があるかもしれないから、何か見付かるかも」
 空澄の言に修吾と明日香は頷き、動き始めた。まずは並べられている机の中や、棚を隅々まで調べてみるが、それらしい物は一向に見付からない。また床や壁なども調べてみたものの、特別おかしなところは何も無さそうだった。所々に置いてある機材になるべく触れないよう調べるのは二人とも気を遣ったが、空澄がそこまで気にしなくてもいいと一言言ってくれたため、丁寧にだがそれら周辺も調べる事ができた。けれど、どこにも金庫らしき物は見当たらず、三人は一頻り探した後で共に肩を落とした。
「ここにはやっぱり無いみたいだね。隠すスペースもないし、ちょくちょく使っているからね。金庫なんてあったら、とっくに開けていただろうしさ。さぁ、気を取り直して別の部屋に行こう」
「あぁ、ちょっと待ってくれ」
 廊下に出るなり、修吾が空澄を飛びとめた。
「ここって他にどんな部屋があるんだ。空澄はここが昔どう使われていたのか知っているだろうから、ちょっと教えてくれないかな」
「いいよ。まずこの向かいの部屋も研究室で、多くの人が働いていたみたい。そして、この廊下を真っ直ぐ進み、右に曲がって正面に見えるのが当時の主任室。つまりお婆ちゃんのお父さん、私から見てひいお爺さんが主に働いていた部屋ね。その右手が物置で、そう広くないし、ごちゃごちゃしているかな。左手が……応接間だったかな。今はテーブルもソファも無くて、がらんとしているけど。そこと、この向かいにある部屋に挟まれた角のところが、重光さんが働いていた研究室。と言っても、一人用じゃなくて、もちろん何人かで働いていたみたいだけどさ」
「二階はどうなんだ?」
「二階は四部屋かな。研究室が三部屋に、休憩室が一部屋。でも、ほとんど片付けられていて何も無いよ。だって私、一階しか使っていないから」
 二階部分が片付けられていると言う事は、研究所を引き払った時に大掃除したに違いない。となると、もしそこに金庫があったのならば、とっくに見付けられていてもおかしくはない。
「じゃあ、次に爺さんが使っていた部屋から見て回ろうか。ここにあるとすれば、最もある確率が高い場所だろう」
「それじゃあ、こっちに」
 向かいのドアをくぐり、整然と並べられた机の間を通り抜け、右手のドアを開ける。角地のため、まばゆく陽光差し込むその部屋は他とさして造りに変化が無いけれど、どことなく綺麗だった。それは機材が整然とされているからと言うよりも、よく掃除されているといった風である。おそらく空澄が帰省の度、定期的にそうしているに違いない。
「ここがそうなんだ」
 感慨深いものが込み上がってくる。まったくの謎だった爺さんの過去に、今こうして立っているのだ。軽く見渡せば収納場所がそう多く無さそうなので、探すのにそう手間取る事も無いだろう。
「爺さんが隠すとしたら、ここに違いない。誰しも何か隠す時は自分の手元からすごく離れた場所か、すごく近い場所のどちらかになるはず。ここに当時隠していたとしたのなら、この部屋に間違いないだろう」
「そうかもしれないね。さてと、見付かりますようにと祈りながら、探すとしますか」
 修吾、空澄、明日香の三人が分かれ、様々な場所を探し始める。戸棚や引き出しの中、部屋の隅にあるカゴや木箱、およびダンボールの中、棚の上に机の下などあらゆるところを調べてみても、一向にそれらしい物は出てこない。
「どこだ、ここにあるはずなんだが」
 徐々に苛立ってきた。隅々まで探せど見付からず、目に付くもの全てが憎くなってくる。そしてそれは一緒に探している空澄や明日香へとも向かい、つい目つきがきつくなる。
「ちゃんと探しているか? ここにあるはずなんだけどなぁ」
「探しているよ。でも、ここにあるかどうかわからないじゃない。あるはずと言われても、こうして無いんだから当たってもしょうがないでしょ」
「何言ってるんだ、もし隠すとしたら自分の側が一番安全だろ。けど、家にもその側にも無く、昔の職場にあると言うのなら、この部屋に間違いないだろ」
「それが勝手な思い込みなんじゃないの」
 見付からない苛立たしさは修吾だけではない、明日香も負けずに真っ向からぶつけられる視線を受け止める。
「じゃあ、明日香はどう思う? どこにあると思うんだよ」
「ちょっと待ってよ」
 次第に険悪になる二人の間に空澄が入るなり、愛想笑いを浮かべた。
「もしかしたらここにあるかもしれないけど、でも今は一頻り探しても見付からなかったんだよね? だったら、一度別の場所を見て回ろうよ。そして他も調べてみて見付からなかったら、またここに来てみようよ、ね」
「……まぁ、そこまで言うなら」
 渋々納得してみたが、やはりここ以外にあるとは思えない。ここの他にありそうなのは物置、応接間、そして主任の部屋くらいだが、そんなところにあるのだろうか。爺さんがどのタイミングで隠したのかわからないけど、この研究所を離れる時に隠したとしても安易な場所なら、他の人に見付けられるのではないか。また、見付けにくい場所を爺さんがひっそり作るのも、考えにくい。
 苦々しげに舌打ちし、修吾は周囲をもう一度じっくり見回す。けれど怪しい箇所はどこにも見当たらないのか、軽く床を蹴り上げた。
 従う、か。
 次に向かったのは隣の部屋の、応接間だった。空澄の言葉通りそこはガランとしており、目に付くのは空のガラス戸棚と片隅に置かれてある古びた木箱が幾つか、そして床の汚れくらいだった。
「何も無いね」
 ありのままを口にする明日香に、誰も何も否定しなかった。ただ空澄は当然のように、修吾と明日香はどこか拍子抜けしたようにこの驚くほど何も無い応接間を呆然と見回しては、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「まぁ、探す手間もかからないでしょ」
「見付かる可能性も低そうだがね」
 戸棚や木箱は当然として、天井や床なども変わったところが無いか注視してみたが、どうにも怪しい場所は見当たらなかった。調べれば調べるほど何も無い部屋だとわかり、失望と苛立ちが各々に膨れ上がっていた。
「どこにも無いな」
「そうだね。見付からないよね」
「ここにあるんじゃなかったのか?」
 修吾が空澄を見れば、鋭い視線が返される。
「ここにあるとは断言してないでしょ、あるかもしれないとは言ったけど」
 次第に修吾と空澄が交わす視線が厳しくなり、空気が張り詰める。
「研究所と言うか、この辺で爺さんに関係する場所はここくらいなんだよなぁ」
「だと思うけどね。さすがに当時の事をそう細かく知ってるわけじゃないから、何とも言えないけど。言っておくけど、私だって何から何まで知ってるわけじゃないんだからね。ただ、こう言う場所もあるよって紹介してるだけだから、無かったからと言って、あまりどうこう言われたくないんだよね」
「見付かれば文句なんて言わないさ」
 睨み合う二人をよそに、明日香が廊下へのドアノブに手をかけていた。
「お兄ちゃんも空澄さんも、落ち着いてよ。まだどこにも無いって決まったわけじゃないんだし、そもそもこの研究所だって候補の一つであって確定じゃないでしょ。ほら、次に行こうよ」
「明日香さんが冷静なのはさすがね、いつもこうだからかな?」
「自分の家の事もロクに把握していないのは問題あるよなぁ」
「二人とも、いいかげんにしなよ」
 明日香の一喝により、ひとまずいがみ合うのを止めた修吾は空澄に続き、廊下を挟んだ向かい側にある物置部屋を調べる事にした。そこは広さ八畳程あるが、古ぼけたダンボールやら用途不明の機械がかなりあり、随分と狭く感じる。
「ここは何だか、すごくホコリが溜まっているな。あまり使っていないのか?」
「もう何世代も前の機械だとか、古い資料の置き場だからあまり出入りしていないの。捨てるのは面倒だし、かと言って使える物も無いから、もうずっとここには入っていないよ。だからこの有様」
 修吾が小さな溜息をつきながら、うんざりしたように周囲を見回した。
「ここにあればいいんだけどな」
 三者三様に探し始めるが、積もったホコリは少しでも物を動かすともうもうと舞い上がったり、服に付いたりするのでどうしても探すペースが鈍る。おまけにクモの巣や、どこからか入り込んできた虫の死骸も多く、空澄も明日香も奥へと立ち入れず、悪戦苦闘。
「ったく、ひどいなここは」
 嫌々ながらも自分がやるしかないとばかりに、修吾一人部屋の奥へ体を滑り込ませ、それらしき物を探す。そうして少しでも怪しげな箱を見付ければ入口付近にいる二人に渡し、中を確認してもらっていた。
「これも無し、か。……もう渡された箱は全部見たけど、金庫なんて無かったよ」
「こっちももうそれらしき物は無いな。他に隠せそうな場所も無いみたいだから、ここには無さそうだ」
 ぼやきながら入口に戻った修吾の服はすっかり汚れていた。
「あぁ、もう、ひどい有様だ。これじゃ鼻の中も真っ黒だろうな」
「早く見付けて着替えたいよね。私達も大分汚れたし」
「後でシャワー使っていいからね。洗濯機も貸すよ」
 とりあえず簡単にホコリを払うと物置部屋を後にして、一階最後となる主任室の前に三人は立った。ドアに付いている銅製のプレートは錆びすぎてよく見えないが、主任室とでも書いてあるのだろう。これまでの部屋と同じ造りのドアだが、どこか特別な重量感があるように三人の目には映っていた。
「二階には無さそうと言っていたから、ここが実質ここでの最後の場所か。ここに無ければ、研究所内には無いって事だよな」
「多分、そうじゃないかと」
 見る程に入るのがためらわれた。ひたすら怖い。もしここに無かったら、もう他に当てなど無いのだから。空澄もここの他に何か当てがあるなら、とっくに候補として挙げているだろう。しかし、未だそれが無いという事は他のどこにも無いと言う証明でもある。研究所内ではなく庭に埋めたのかもしれない、空澄も爺さんも知らない間に廃棄されたのかもしれない。もしそうだとすれば、一体何のためにここまでがんばったのだろうか。
 否定されるかもしれない恐怖が、踏み出す足を躊躇させた。だが同時に、怖がっていてもどうにもならないとわかっている自分がいて、やや迷ったものの、結局自分を説得して空澄にドアを開けるよう促した。空澄もまた、何か覚悟したようにドアノブを回す。
 ドアの先には当時の幻影が一瞬浮かび、そしてすぐ消えた。まるで昨日まで使っていたかのような間取りと配置、そして様々な物が幾らか片付けられているといえ、ありのままを残しているみたいだった。まるでそれは、浦島太郎が持ち帰った玉手箱を開けたかのような感覚。
 目の前には年季の入ったこげ茶色の机があり、その上には筆記用具に照明、朱肉などが置かれている。椅子は黒革張りで、今も充分使えそうだ。その後ろには三つの本棚があり、七割程専門書で埋められている。手前左手には顕微鏡やら試験管、フラスコにビーカー、シャーレなどが置かれたいかにも実験用の机があり、右手にはそれらをより活用するためか、何やら大型の機械が三つ並んでいた。
「ここはほとんど当時のままらしいの、と言っても重要な書類とかはさすがに片付けたみたいだけどね。何でも、お婆ちゃんがお爺ちゃんにここを残してもらう時に言ったらしいんだよね、他は片付けてもいいけど、ここはそのままにして欲しい。ここには幼い頃からの思い出がたくさん詰まっているから、どうかなるべくこのままにして欲しいって。それで、ここを掃除する事があっても、なるべく物とか動かさず、当時のままにしておいてるの。それがお婆ちゃんの遺言って訳じゃないけど、昔から残しておいてくれと言われていたから、今でもそうしているんだ」
「なるほどね。だがそれは幼い頃の思い出の中だけなんだろうか?」
「どう言う事?」
 訝しげに修吾を見る空澄の瞳は、それでもどこか期待が込められていた。
「空澄のお祖母さんはここを荒らさず、そのままにしてくれと言っていたんだろう。ならば、ここにあるかもしれないじゃないか。上手く隠したとしても、何度も人の手が無雑作に入れば、隠しきれないはず。それこそ、壁の中に埋めていない限りはな。でも、触るなと言えばそうしなくても気付きにくいだろう。だから、ここにあるんじゃないかと思うんだ。もちろん、すぐわかる場所には無いと思うけどね」
「言われてみればそうかも。ここだけじゃなく、他の色んな部屋もお婆ちゃんにとっては思い出深いはずなのに、ここだけそのままにして、あまり触らないようにって……うん、今まで以上にしっかり調べないとね」
 ここに無ければ、もう当てが無い。そんな不安を拭おうと三人は散り、隅々まで注視する。戸棚、机、テーブルの下、ロッカー、そこらに置かれているカゴやダンボールを念入りに調べ、金庫は当然として鍵穴のありそうな物は無いかと調べてみた。その間、会話は一切無く、ただ漁る音と風の声だけが所内を沈黙から防いでいた。
 しかし沈黙は強い二面性を持っている。気心知れた仲間や恋人との柔らかな沈黙は心地良いが、その安からかバランスが崩れた時、沈黙はすぐに苛立ちや憎しみ、果ては狂気への呼び水と変貌する。修吾は今正に、負の沈黙の扉を開けつつあった。
「無いな。それらしい物はどこにも無い」
「私の方も、無かった」
「こっちにも無いかな」
 苦々しげに各自報告するなり、修吾は肺の空気を全て吐き出すような溜息をついた。
「ここに無いのなら、もうどこにも無いんじゃないか。二階には何も無いと言うのなら、ここしかない。でも、ここは見た通りそれらしい物が見付からなかった。お手上げだ」
「……どこにも無かったもんね」
 明日香も続いて溜息を漏らす。そんな二人の態度に空澄はどこか居心地悪そうに背を向け、窓の方へと歩く。
「家に無いとしたらここ以外考えられないんだけど、どこか見落としているのかも」
「じゃあ、別の場所なのかもね。重光さんとお婆ちゃんしか知らない場所でもあるのかもしれないね」
「それじゃあ、わからないも一緒だ」
 三人はじっと各々の顔を見合わせた。言葉にしたくない言い分、言葉より力強い説得力を持つだろう無言の圧力、表現できない心模様。それらが混ざり合う中、やがて視線の先が空澄に集まっていった。空澄はそれを受け、苛立たしさを前面に押し出したように強気な眼差しを返す。
「何よ、私だってどこにあるのかもわからないのに、そんな目されても困るよ。何さ、そんな目をするのなら自分達で見付ければいいじゃない、できもしないくせに」
 修吾も明日香も何も言わなかった。言えなかった。明日香はそっと視線を外し、窓の外を見遣る。切り取られた景色は夏の陽光を受けて強く輝き、美しさよりも荒々しさをかもし出している。ガラス越しにも充分伝わり、それが各々の心を逆撫でしていた。そして、それを最も強く受けているのが、頻りに部屋の中をうろついている修吾である。
 空澄にあたるのは的外れだとわかっている。でも……あぁ、くそっ。空澄の言う通りだ、八つ当たりするくらいなら、自分で納得するまで探せばいいんだ。だけど、どこにも無い。ここに無いのなら、どこを探せばいいんだ。この広大な敷地を掘り起こせと言うのか。もし本当に土の中に埋まっているとしたら、遺書の中に何らかのヒントがあってもいいはずだ。あぁ、どうして最後の最後にヒントが無い。
 見付からない、見付からない、見付からない、どこにも無い。
 そんな焦りばかりが修吾の胸を占め、視線を下にさまよわせながら部屋をうろつく。そんな彼を苦々しく空澄が見、明日香は相変わらず窓の外ばかり見ている。
 どこにある、ここに無いのならばどこにあると言うんだ。家にも研究所にも無いと言うのなら、どこか別の思い出の場所だろうか。だが、あの遺書には他に何のヒントも無かった。何も書かれていないのなら、連想しやすいと言うか、関連深い場所だと思うし、それはここの他無さそうなのだが……おや、何だこれは。
 不意に目に付いた床はどこかしら違和感があった。それはすごく些細なものだったが、よくよく見てみると、はっきりと違和感の正体がわかった。
「ここの床、切れ目が変だ」
 その言葉に、空澄と明日香がすぐに目を向け、近寄る。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとここを見てくれよ。板の張り具合だとか木目とか抜きにしても、何だか切り取られたみたいに溝ができているじゃないか。もしかしてここ、何かあるんじゃないかな。なぁ、バールか何か、床をはがす道具か何かそこらに無いか?」
 それを受けて空澄が部屋の隅にあった鉄の棒を持ってくると、修吾が手にするなり溝の隙間にそれを差し込み、てこの原理でその床を持ち上げた。
「あっ、外れた」
 四角く切り取られた床が浮き上がり、溝に詰まっていたホコリがやや舞い上がる。空澄と明日香は急いで持ち上がった床の端を掴むと、一気に引き倒した。その衝撃で中からよりもうもうと舞い上がるホコリをよけるように三人は後ろへ下がり、落ち着くのを待つ。その瞳はどれも一様に期待で輝いていた。
「この中か」
 ある程度収まるなり、修吾がまだ僅かに舞い上がっているホコリを手で払いながら、中を覗き込んでみた。
「えっ……そんな、馬鹿な」
「なに、どうしたの」
 驚愕する修吾に反応して二人が駆け寄り、同じように中を覗いてみた。ホコリにまみれ、汚れて光もそう当たらない穴の中を。
 そこには何も無かった。
「ここにも、無いのか」
 期待していた分、それがそのまま絶望へと変わり、俺は思わず膝をついた。ここだとは確実な証拠など無いが、こんな隠し場所をやっと見付けたと言うのに無いなんて……もう、探す気力は失せた。怒る気力も無い。ただただ虚脱感ばかりが胸を占め、目の前の景色すら認識できない。
「待って、ここ見て」
 不意に耳に響いた空澄の声に、修吾は言われるがまま再びそこを覗き見てみたが、何がおかしいのかよくわからなかった。
「何も無いじゃないか」
「よく見て、この床。微妙に隙間があるように見えない? もしかしてこれ、二重底なんじゃないかな。ここにとりあえず大事な物を隠すけど、更に大事な物はその下にって。ほら、こんなとこに何かあれば、大抵はもう終わりって思うじゃない。ここはそう言う心理をついているんだと思うの」
「そうだろうか」
 絶望にまみれ疑い深い目の修吾に、空澄が力強い眼差しで見詰め返す。
「やってみないとわからないでしょ、ほら」
 再び棒を渡された修吾は意を決したような息を大きく一つ吐くと、立ち上がってそれを握り直し、その床の隙間に突き立てた。そして先程と同じようにぐいとてこの原理を使ってみれば、床はやや重々しくも持ち上がった。すぐさま空澄と明日香がそれに手を伸ばし、引き立てると、修吾は棒を傍らに投げ捨てて、持ち上がった床を掴むなり一気に引き上げた。穴の壁面と同じ色をした床が鈍い音を立てて、日の目を見る。
「何かある……これか?」
 奥底にある箱に手を伸ばす修吾。そのため体を寝そべらせ、汚れもいとわず引き上げた。やや重くはあったけど、五キロ程度の灰色のそれは鍵穴もついており、金庫と言っても差し支えが無い代物だった。
「これ、これだよな。こんなとこに隠されたままなんだ、きっとそうだよな」
「鍵あるんでしょ、なら合うかどうか試してみればいいじゃない」
 修吾も空澄も興奮しながら言葉を交わす。明日香も会話にこそ加わっていないが、やはり心模様は同じらしく、表情を変えずも目を輝かせながらその動向を見守っている。そんな二人の視線を受け、何かあるかもしれないと一応持ってきた謎の鍵を修吾はポケットから取り出し、数瞬じっと見詰めた。
 合えよ、開けよ、頼むぞ。
 祈りながら鍵穴に鍵を差し込み、回してみる。やや抵抗があった後、カチリと長年忘れていたかのような音が指先にも、三人の耳にも響いた。途端、三人の顔がこれ以上無いくらいに、破顔した。
「やった」
 開いた、鍵が合った。これなんだ、爺さんが研究員時代に残し、俺と明日香が必死になって追い求めていたものがこれなんだ。俺達だけじゃない、あの妙な三人組も含めて色んな人が知りたくてたまらなかった物、それがこの中に入っている。
「開けるぞ、いいな」
 修吾が各々の顔を見、頷いたのを確認するなり、恐る恐る開けてみた。溝に僅かに詰まっていたホコリのせいでほんの少しだけ抵抗があったものの、それすら嬉しいのか、修吾の頬が緩む。
 そして、長い時を経た金庫は久々に新しい空気を吸い込んだ。
「何だこれ?」
 中には紙束だけが入っていた。束と言っても二十枚も無いような薄っぺらい冊子で、その他にはどこをどう見ても何も入っていなかった。三人ともやや拍子抜けした顔をしながらも、とりあえずその冊子の表紙に目を向ける。
『ルベウスの花』
 手書きで力強くそう書かれてあった。ルベウスの花、その文字を見た途端に修吾と明日香は短い驚嘆の声をあげ、ほぼ同時に目を丸くした。そんな二人を訝しむように、空澄が顔を軽く交互に覗き込む。
「ねぇ、どうしたの、そんなに驚いて。何かこれに心当たりでもあるわけ?」
「あぁ、あるよ。この旅をしている最中に爺さんと一緒に研究していた人から聞いた話なんだけど、何でも爺さんは科学で花を咲かせたいと願っていたらしいんだ。造花とかではない、花を。だからこれを見て、あぁここにその方法が書いてあるのかなって」
「それじゃ、これはもしかしたらその方法を記したレポートなのかもね。見てみようよ。私も気になるんだ、お婆ちゃんが気にした人の、天才と呼ばれた人のレポートってどんなものなのか」
 空澄の瞳は未来の喜びを見詰め、輝いていた。修吾や明日香も同じで、例え何が書かれているのかわからなくとも、空澄が概要を掴んでくれるだろうと期待し、自ずと瞳や拳などに力が入っていった。そうした緊張感の中、修吾がゆっくりと表紙をめくる。
 ルベウスの花と題された冊子の中身は、タイプライターで書かれた論文だった。ざっと見てみたところ、この論文はその花の作り方を書き記しているらしい。それはどんな花なのかと続きを見てみたけど、何やら化学式ばかりであり、最後のページを見てもどんな花になるのか一切書かれていなかった。最後の一文はただ一言だけ、こう残されている。
『我が想い、この花に込める』
 ここに込められた意味とは、そのままのものだろうか。単にこの研究を完成できなかったから、後世の人に託すという意味だろうか。それともやはり、空澄のお祖母さんとの思い出を込めたという事だろうか。もしそうなら、どうして自ら叶えなかったのだろう。何故自分ではなく子孫に託したのだろう。いいや、それよりも大きな問題がある。
 爺さんはこれを作れたのか?
 もしも作れたのなら、それはそれでいい。完成品を渡せばいいだけなのだから。もし、空澄のお祖母さんが既に婚約していると知っていたのなら、渡さずに隠していたのかもしれない。そうならば確かに、今ここに完成品が存在しない理由も何となくわかる。
 そして完成品を作ったとして、それを保管するのなら、ここだ。この金庫に隠していても不思議じゃない。しかしこの金庫には一冊のレポートしかなく、花にまつわりそうな物は何一つ無かった。
「完成品は無し、か」
 どこかしらやり切れなさと言うものが心に広がり、思わず小さな溜息をついた。天才と呼ばれた科学者が最後に残したのがこのレポートだとは納得すれども、期待外れだ。てっきりその時代に稼いだ金か宝石の一つでも入っているのではないかと密かに期待していたし、また爺さんの事だから金品ではなく日記やアルバムかとも思っていたのだが、こんな……。
 いや、そう考えるのはまだ早い。俺や明日香にはこのレポートが何を意味するのか全くわからないけど、空澄なら、空澄ならどうだろうか。彼女なら理系の大学に行っているし、この施設を使って実験をしているとも言っていた。ならばここに書かれたものが何を意味するか、どうなるかわかるかもしれない。
「なぁ空澄、俺にはこれが何の事だかさっぱりわからないんだが、これを見て何かわかるかい?」
 空澄は修吾からレポートを受け取り、目を通す。けれど読み進めるその目は険しく、眉根も寄りっぱなしだった。
「断片的にはわかるけど、何がどうなって、何になるのかは私にもわからない。私もこんな化学式を使った生成実験とかしているけど、まだそこまで詳しくないから。馴染みの無い化学式とか、方法とかあるし、その……ごめん」
 力無くレポートを返す空澄に、修吾は努めて明るく笑う。
「いやいや、いいんだ、別に謝らなくても。俺もわからないんだしさ。ただ、断片的にわかると言ったけど、言い換えれば少しはわかるって事だよな」
「えぇと、このレポートの十二枚目から十八枚目まで同じような化学式が載っているし、ほらここに繰り返すみたいな事が書かれてあるから、多層式の何かかなって」
「多層式?」
「うん、言葉通りに言うのなら、同じものが幾つも重なっているって事。例えば鉄なんかはFeと言う元素が幾つも組み合わさっている状態なんだよね。でもこれは単一の元素が組み合わさっているだけだから、多層式とは言わないの。えぇと、サンドイッチみたいに色んな物が交互に重なっているのがそれだと思ってくれたら早いかも」
 よくわかったような、わからないような。
「とりあえず、戻ろうか。居間かどこかで落ち着いて話したいし、ホコリっぽいここから一度出たいしね」
「シャワー貸すから、使ってよ。私もすぐに綺麗にしたいしさ」
 三人は研究所を後にすると、梶原邸へと戻った。そうして順々にシャワーを浴びてこざっぱりするなり、応接間に集まった。テーブルの上には先程のレポート。しかしそれに触れる者はおらず、各自じっとそれを見詰めているばかり。
「何が言いたいんだろうな、これ」
 沈黙を破り、手にとって改めて読み返してみたものの、やはり何の事だか全くわからない。これが爺さんの求めていた花、ルベウスの花と言うものらしいけど、どうすればいいのだろうか。やはり一つ一つ調べていくしかないのだろうけど。
「何だろうね、私にもわからない。辞書とか教科書とか見れば何かわかるかもしれないけど、どうかなぁ。天才と呼ばれた人が残したものだから、普通の人じゃわからないようになってるかも」
「いや、逆だと思う」
「逆?」
 訝しげに空澄が修吾を見詰める。
「天才と呼ばれているからこそ、自己完結なんてしないと思うんだ。自分にしかわからず物事進めていたら、変人と言うレッテル貼られるだろうからね。天才と呼ばれたからには、当時の人々にもわかるように伝えていたと思うし、そうでなければならなかったと思う。それに何十年も経っているんだ、わからない技術なんかじゃないと思う。それに爺さんだって子孫が同じような天才だとは考えていないだろうから、そこまで手に負えない程難解な書き方なんてしていないんじゃないかと思うんだよね」
「てことは、勉強不足なのかな、私達」
「だと思う。きっと見る人が見たら、すごく簡単に書かれているのかもな。その基本的な事がわかっていない俺達がこれを見ても、何もできないんだろうね」
「でも、完成品の予想もできないんじゃ、作るにしても難しいだろうね」
「まぁな」
 さて、これからどうしたものか。地道な方法だけれど、これから勉強し、少しずつ解読していくのが一番いいかもしれない。幸いあの研究所が使える状態であるから、実験する事も可能だろう。しかし、それまでにどのくらいの時間を要するのか見当が付かない。二、三日でできるものならばいいのだが、一年も二年もかかるのならば、きつい。
 てっとり早いのが、空澄のつてで大学教授だとか学のある人に見せ、解読してもらう方法だ。これならば一日もあればどんなものかわかるだろうけど、爺さんがこれほどまで大事に隠してきた物だ、何だか気が引ける。それにもしそうして解決したとしても、達成感はおろか、爺さんが伝えたかった本当の意味を見逃してしまうかもしれない。何しろ、あの絵に隠されていた遺言書には、血族の者に相続させると書いてあった。俺や明日香がやらないと駄目なんだろう。
 だとしたら、ここで勉強しながらやるしかないのか。空澄には悪いけど、他に使えそうな施設を貸してくれそうなつては俺に無い。まぁ、ある方が珍しいんだけど。
「一つ一つ、自力で解くしかないのか」
「そうだね。でも、絶対不可能ってわけじゃないと思う。何十年も前の研究なら、明らかになっている技術がほとんどだし、教科書や辞書と照らし合わせていけば、何なのかわかってくるだろうから」
「それはいいとして、だ。なぁ空澄、図々しい質問だけど、ここっていつまでいていいものなんだ?」
 意外な質問だったらしく、空澄はキョトンと修吾を見詰める。そんな修吾は申し訳無さそうに苦笑いしていた。
「いやな、もし解読したとしても実践できる場所って無いんだよ。知り合いに理系の人間はいても、研究施設使わせてくれそうな当てが無くて、ここしか……。明日香はどうだ、そんな知り合いがいたりするか?」
 ゆっくりと明日香が首を横に振る。
「だから、もしよければ、研究所を使わせてくれないだろうか。あぁ、寝泊りさせろとまでは言わないよ。それはさすがに厚かましいから、ふもとでどこか宿を見付けて、そこから通うよ。いいかい?」
「駄目」
 あっさりと返答する空澄に修吾は面食らい、慌てて頭を下げる。
「頼む、お願いだ。ようやくここまで来て、何もかも手に入れ、あと一歩なんだ。あとほんの少しで、全てわかるんだ。だから、頼む。会って間も無いから信用されないのもわかるけど、お願いだ、この通り。迷惑にならないよう、なるべく邪魔しないから」
「駄目よ」
「頼むよ、誓って悪い事なんかしないから。住所も実家の電話番号も、俺の携帯番号も教えておくよ。これなら何かあっても、即通報できるだろう。それともあれか、これから忙しくなるのか?」
「一ヶ月くらいは暇だよ。でも、駄目」
「空澄さん、私からもお願いします」
 頭を下げる二人に空澄は苦笑いを浮かべる。それはどこか嬉しそうでもあった。
「その条件じゃ、ちょっとね」
「じゃあ、どうすれば」
 より一層、空澄の両唇端が釣り上がる。
「他のとこで寝泊りなんかしないで、ここにいてくれたらいいよ」
 今度は修吾と明日香がキョトンとする番だった。そんな二人を見て、つい空澄が声をあげて笑ったが、すぐにはにかんだ表情となった。
「ふもとで宿取るとか、迷惑かけないだとか、そんなの気にしなくていいよ。さっきも言ったけど、一ヶ月くらい暇なんだよね。ここにいると地元の友達と会うのもちょっと面倒だし、親は帰ってこないし、退屈なんだよね。だから、話し相手になってくれたら嬉しいかなって。それに、そのレポートは本当に私も興味があるし、ずっと見ていたいから、その、終わるまでここにいてもらいたいんだよね。もし親が帰ってきても、私が友達だって言えば平気だし」
 それを受け、ふっと修吾と明日香の頬が緩んだ。
「一月で完成させろ、か。厳しいな」
「長いくらいよ」
 三人は覚悟にも似た微笑を浮かべ、テーブルの上にあるレポートをじっと見詰める。現時点ではこれが何を示し、どんな花を咲かせる設計図なのか三人にはわからない。しかし、ここに天才と呼ばれた科学者の想いが込められている事だけは、間違い無かった。
 そうこうしていると、不意に玄関チャイムらしき音が鳴り響いた。
「誰か来たみたい、ちょっとここで待っていてね」
 すぐさま空澄は立ち上がり、玄関へと小走り気味に向かっていった。そうして足音が遠ざかるのを確認するなり、修吾と明日香は大きな息を吐き、深々とソファに背を預けた。
「いい人だね、空澄さん」
「そうだな。彼女一人なのに、会って間も無い俺達をしばらく居させてくれるって言ってくれているんだからな。正直、泊まらせてくれなかったら大変な事になっていたよ。もうそこまで貯金に余裕があるわけじゃないからな、助かったよ」
「それに応えるため、しっかり勉強とかして、一刻も早く解読しないとね」
「そうだな」
 決意込め、二人は頷いた。あとは空澄が戻ってきて、一歩一歩確かめながらやるだけだ。しかし、その空澄がなかなか戻ってこない。訪問者は知人なのだろうか、それとも押し売りか何かなのだろうか。後者なら、余程商魂たくましいんだろうなと思いつつ、修吾はぼんやりと空澄が出て行ったドアを見詰めていた。
 そんな時間を過ごしていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。それは何かが壊れたと言うよりは、誰かが上がりこんできた、そんな感じだ。宅配便や知人ならば家に入る事も考えられるが、そんな穏やかなものではない。どこか荒々しさを感じさせる。
「何だろうね」
 どこか不安そうな面持ちの明日香に俺はかける言葉も見付からず、黙って頷くしかなかった。本当に、一体何だと言うのだろうか。
 足音は徐々にこちらへと近付いてきている。それも一人ではなく、何人かいるらしい。宅配業者ならばこんなところまで連れてきたりはしないだろうし、知人ならば話し声の一つや二つあってもおかしくない。沈黙のまま、幾つもの足音がするこの状況がおかしいのだ。思わず俺は息を飲む。
 足音はドアの前で止まった。すりガラス越しに見える影は空澄ではなさそうだ。何とも言えない緊張が修吾と明日香を身構えさせ、いつでも動けるようにやや前傾姿勢のままドアを注視する。
 ドアノブがゆっくりと回り、引き開けられていく。
「やはりここだったか」
 見覚えのある、いや、修吾と明日香にとって決して忘れられない顔がそこにあった。不敵に笑う多田、それに追従笑いをしつつも鋭い眼光で睨みつける加賀谷、そして恐怖に怯えきった空澄の腕を捻り上げている木塚。彼らを視認するなり、修吾はテーブルの上にあったレポートを素早く手に取ると、明日香と共に弾かれたかのごとくソファの後ろに回り、距離を取った。
「こんなところにまで」
「やっとまた会えたな、重光の孫よ。あれから他にも当時一緒に仕事をしていた仲間達の所を回ったが、やはりここだったか。よくよく考えてみれば何の事は無い、第一候補となるべき場所なのだが、灯台下暗しとでも言うのかね、失念していたよ。まぁ、研究所が閉鎖されたから、既に無いものだとばかり思っていた先入観に邪魔されたのだろうが」
「そのまま忘れていてくれれば良かったのにな。そろそろボケる頃だろうに」
「貴様、先生に向かって」
 激高する加賀谷を多田が片手で制する。
「ははは、老いてなお気丈でありたいと思っているから、そうはいかんよ。それに年々老人も健康になっている世の中だからね、私も多分に漏れたくないのだよ」
「ねぇ、修吾さん、この人達とどう言う関係なの? 重光さんと知り合いで、修吾さん達とも知り合いだからって言われたんだけど、何なの……」
 今にも泣き出しそうなくらい怯えた空澄が、すがる瞳で修吾を見る。そこにはそれまでの刺々しいまでの眼光は無く、見た目通りの幼さが前面に出ている。
「あぁ、一応知り合いだよ。この旅の途中で初めて知り合った、爺さんの遺品を狙っては俺をぶん殴ったりした、クズ共だ」
「はぁ、何言ってんだテメェ。俺達がクズだと、この野郎」
「あぐぅ、痛い」
「やめんか」
 怒りに任せて腕をより捻りあげた木塚を多田が一喝すると、木塚は逃げられない程度に緩めた。そうしてまた多田は不遜な笑みを浮かべ、修吾をねめつける。
「すまないね、血気にはやる者が多くて。私はただ、紳士的に交渉したいだけだよ。しかし、私の部下はほんの少しそう言うところが欠けていてね、たまに抑えられなかったりもするんだ。だからあらかじめ謝っておこうと思う、すまないね」
「謝るのなら、あらかじめしつけを徹底してもらいたいものだね」
 加賀谷と木塚の眼光がより一層強まるが、多田は意に介さず笑っている。
「不徳と言われても、仕方ないだろうね。それより、本題に入ろうか。無駄話ばかりしていたら、ここに折角来た意味が無くなってしまうからね」
 絡み合う修吾と多田の視線の間に、より緊迫感が増す。
「目的の物は既にあるみたいだな君が手にしている、そのレポートらしき物が重光が残した、最後の研究結果らしいな。どれ、どうかそれを私に見せてくれないかね」
 多田が重々しく一歩前へと踏み出すなり、修吾はポケットからライターを取り出した。
「おっと、それ以上近付くなよ。あんたの言う通り、これが爺さんの最後の研究成果なのかもしれない。だけど、それを渡す義理も義務もどこにも何も無いね。それに、これが燃えたところで俺には何の痛手も無い。元々無かったようなものだし、この価値も実感できなければ大した事無いだろうからな」
「貴様が決める事ではない。全ては先生が、偉大な先生が決める事であって、お前のような下衆が決める事ではないと何度、何度言えばわかるんだ、低脳」
 目を血走らせ、一歩踏み出す加賀谷の形相は正に悪鬼そのものであった。それを見た修吾はすぐライターに火を点け、レポートに近付ける。
「待て、加賀谷君」
 加賀谷の足が止まった。
「血気に走るなと言っておろう、この馬鹿者が。少しは状況を考えて動け。もし本当に燃やされでもしたらどうなる、君がそのレポートを復元できると言うのか」
 多田の凄まじい怒声に加賀谷は頭を下げる。しかしその眼は修吾をとらえ、憎悪に燃え盛っていた。
「このクズが……」
「へぇ、交渉もロクにできない奴がクズ呼ばわりね。別に俺は本当に燃やしてもいいんだぜ、さっきも言ったけどこれに対して何の価値も見出していないし、これは俺の物なんだから」
 修吾が引火しないようライターでレポートを素早くあぶると、加賀谷の表情が一層怒りに染まり、手のひらを突き破りそうなくらい拳を握り締めた。
「そう、君の言う通りそのレポートは今現在、君の物だ。そこに異論は無い」
 そんな加賀谷とは対照的に、余裕の笑みで多田が修吾を見ている。
「そして君がそれを渡す義理も義務も、確かに無い。君の所有物なのだからね、好きにすればいいだろう。けれど、君は渡さないとならないのだよ」
 すっと多田が修吾から木塚へ視線を移すと、木塚は下卑た感じで口元を歪めながら空澄の腕をより捻りあげた。
「いやっ、痛い。折れる、あぁ」
「この野郎」
 痛みに顔を歪め、体を前かがみにして何とか逃れようとする空澄だが、それは叶わない。そんな空澄を修吾は歯噛みながら、手元にあるレポートと交互に見るしかなかった。
 こいつらなんかに渡したくない。爺さんの、いやもう俺達にとって大切なこれを渡してしまうと、これからずっと後悔するだろう。でも、渡さなければ空澄がどうなるかわからないのも怖い。こいつらが後で警察の世話になるとしても、大事なのは今だ。何が書かれているのかわからないレポートのため、ここまでする頭のおかしなやつらだ、渡さなければ空澄の腕一本くらい折るだろう。
 もしそうなれば、渡さなかった時以上に後味悪い記憶となる。それに空澄の腕を折ったからと言って、はい終わりじゃないんだ。渡すまで何かしてくるだろう。そうしたものに俺は耐えられるのだろうか。そこまでして、このレポートを守る価値はあるのだろうか。
「いいかね、君に選択肢は無いのだよ。大人しくそれを渡すだけでいいんだ、難しい事じゃないだろう。三歳児にだってできる事だ。なぁに、我々もそれを受け取ればこれ以上何もしないさ。この女の腕の一本二本折ったところで、何の得にもならないし、それに我々としても不穏な波風を立てたくないからね。わかるだろう」
「よく言うよ」
「では他に選択肢があると言うとでも?」
 にやつくこの爺さんの言う事は到底納得できるものじゃないけど、確かに俺に選択肢は無い。このままレポートを燃やせばやけになって何をしてくるかわからないし、殴りかかろうにも、こっちは男が俺だけ。対して相手は空澄を人質にしているし、爺さんが混じっているとはいえ、全員男だ。勝てない。となると、渡すしかないのだが……。
 空澄とは会って間も無いけど、幾らか仲良くなり、知り合えた。そうじゃなくとも、目の前で悲惨な姿、苦痛に悶える声なんて見たくも聞きたくもない。社長の娘だの、若い女だの、爺さんと懇意だった人の孫だの、そんなもの関係無い。ただ、無事でありたい。
 そうだ、さっき自分でも言ったじゃないか。これには俺自身、何の価値も見出していないと。自分達では何の価値も見出せないのなら、少なくとも今が丸く収まるものとして最大限利用した方がいいかもしれない。これはそういう物なんだ。下手に期待して大事にしてしまうと、より大切な物を失ってしまうかもしれない。
 修吾は一つ溜息をつくと、改めて多田をしっかりと見詰めた。
「わかった、渡そう。ただし、本当にこれ以上何もしないんだな?」
 修吾がライターの火を消すと、多田はこれ以上無いくらい満足げに笑った。
「あぁ、もちろんだ。この女には恨みも何も無いからな。それに、君達に突き飛ばされた事も無しにしようじゃないか。それさえ渡してくれるのなら、全て水に流し、また互いに何も知らない関係となろう」
 やはり言葉を重ねられても空々しさしか感じられず、その都度怒りが湧き上がる。だけど、これしか無い。これ以上に何があると言うのだ。そう自分自身を無理にでも納得させ、一歩踏み出す。
「本当に何もしないんだな」
「もちろんだ」
「もし約束を破るのなら、例え死のうとも、あんた達に何かするぜ」
「人間の爆発力、特に怒りのパワーと言う捨て身の力はすさまじいからな。私としても、それによりどうこうされたくないし、どうこうしたくもない。平穏無事に終わらせたいだけだから、約束なんて破らんよ」
 言葉を交わす度に一歩、また一歩と近付く二人。緊迫感は周囲を固め、まるで陽光も風の音さえも遮っているかのようだ。静かな歩みだけど、絨毯がすれる音ばかりが全員の耳を支配する。
「やめて、渡したら駄目。絶対に渡したら駄目だよ、修吾さん。それは重光さんが大切にしていたもので、ずっと探していたものなんでしょ、簡単に渡したら駄目だよ。私の事なんていいから、だから」
「うるせぇよ」
「あぐぁ、痛っ」
 空澄の言にうるささを抱いた木塚がその腕を捻りあげ、黙らせる。それを修吾が見咎めて睨むなり、多田が木塚に強い視線を向けた。すると木塚も渋々力を僅かに緩め、舌打ちしながらも従った。
「すまないね、これから取り引きすると言うのに手荒な事をしてしまって」
「まったくだ、次やったら目の前で燃やすぞ」
「何だと、貴様」
 加賀谷の声が怒りで震えるが、すぐに多田の視線がそれを射抜く。
「黙っていたまえ、加賀谷君。これ以上何かあるようなら、君をこの道から追放するぞ。大人しくしていろ、馬鹿者が」
 一喝された加賀谷は悔しそうに一歩下がる。それを視認するなり、多田が顎で木塚を呼び寄せた。
「さて、交換といこうじゃないか。君が私にレポートを渡すのと同時に、この女を解放しようじゃないか。異論あるまいね?」
 本当にこいつらは言う事を守るのだろうか。これまでも紳士的な取り引きがしたいと言いつつも、実際は恐喝と暴力で迫ってきた。幾ら他に手段が無いからといえ、まともに取り引きされないのは困る。レポートを渡しても、この金髪が空澄を離さなければどうにもならないんだ。一見対等な取り引きだけど、不利なのは俺達の方だ。
 けれど、そうして相手の得になる事は一体何だろうか。レポートを手に入れるために色々な事をしてきたのに、手に入れてからも何かするだろうか。いや、きっと無い。もしも俺が取り返そうとしようにも、爺さんはともかく、男二人を相手になんかできないからだ。つまり、渡した時点で全ての取り引きが終わる。レポートを渡せば空澄は無事なんだ。
「どうかしたのかね。まさか、今になって渡せないとでも?」
「いや、覚悟を決めていただけだ。そして、その覚悟ももう固まった。交換しよう。ただ、最後に確認させてくれ。このレポートを渡した途端、空澄を解放し、今後一切の危害は加えないんだな」
「もちろんだ。だからさぁ、早く」
「せっかちな爺さんだ……」
修吾と多田は互いに歩み寄り、ついにテーブルを挟んで対峙した。修吾の手には重光のレポート、多田の隣には逃げられないよう空澄の腕を捻りあげている木塚。それを見詰める明日香の顔は不安に、加賀谷の顔は期待と狂気に染まっている。各々の思惑が交錯する中で、修吾はレポートを多田に差し出した。多田はそれを右手で掴む。
「俺がこれから手を離した途端、空澄の手を離してもらうぞ」
「わかっている。これさえ手に入れば、どうでもいいのだから。さぁ、その手を離せ」
 一呼吸音も無く吐き出すと、修吾は指先の力を抜いた。途端、多田の顔が喜色満面に歪み、素早く手元へと引き寄せた。そうしてすぐ、爛々と光る眼を意味ありげに木塚の方へと向けた。
「その手を離し、解放してやれ」
 それを受け、木塚はどこかつまらなさそうに空澄の手を離した。空澄はよろめきながら捻られていた方の肩に手をやり、慌てて修吾の後ろに回った。
「やっと、やっと手に入れたぞ。これがあの天才と呼ばれた、重光最後のレポートか。ははっ、時の天才が人知れず残したものに一体何が書かれているのやら」
 興奮気味に下がりながらレポートに目を通す多田の周りに、加賀谷と木塚も自然と集まった。木塚はどうやら何が書かれているのかわからないらしいが、多田と加賀谷の興奮につられ、口元をにやつかせている。
 そんな姿を見て、俺の心は言い知れぬ虚しさが広がっていた。そしてその虚しさは次第に、今後どうすべきかと言う方向へ向かって止まなかった。そうして、考える程に目の前が段々と暗くなり、視線が下がっていく。
 もう、遺産は奪われた。あれほどまでに必死に追い求め、結構な旅費を投じ、頭を捻ってようやく辿り着いたのに、結局これだ。手元には何も残らない。あぁ、悔しいけど今日明日にでもここを去り、帰るべきだろう。最早、ここに留まる意味も無くなった。
 間違った事はしていない、これでいいんだ、これが最良の選択だったんだ。だが、この旅で得られたものは思い出しかなかったのか、それだけのために金も時間も頭も使ったと言うのか。まったく、後味の悪い思い出だ。いずれ悪くはないと思える時がくるかもしれないけど、やはり残念でならない。空澄と会えた事は良かったけど、別の機会にとは思わない。このタイミングで充分だった。しかし、もうこれで繋ぎとめるものが無くなってしまったのが悲しく、もどかしいんだ。
 うなだれる修吾を心配そうに見遣る空澄と明日香に対し、少年が知識を求めるかのような眼で、多田はレポートを読み進めていく。
 あぁ、きっとあれには素晴らしい事が書かれてあったに違いない。読む人が読めばとはわかっていたが、あんな眼をするんだ、さぞかし素晴らしいのだろう。あれを渡した事はもう後悔してもしょうがないけど、何が書かれていたのかだけが気がかりだ。爺さんが夢として求めていただろうルベウスの花、それが一体どんな花であるのか、それだけが知りたい。
 何とか平静を装っているが、修吾はひどく落胆していた。じっと多田達を見ている眼もどこか力無く、ソファについている両手を離してしまえば、すぐにでも崩れ折れてしまいそうだ。明日香と空澄も不安そうに身を寄せ合いながら、どこか沈んでいた。
 そんな中、険しい顔つきでじっとレポートに目を通していた多田が最後のページを見終えるなり、天を仰いだ。そこに晴れやかさは無く、むしろどこか力が抜けているかのようだ。そんな彼が次に何をするか、何を言うのか。彼以外の全ての人が固唾を飲んで見守っていると、天仰ぐその顔を下ろしながら溜息をついた。
 そして、レポートをテーブルの上に投げ捨てた。
「帰るぞ、加賀谷君、木塚君」
「ど、どうしたんですか先生。あんなにも追い求めていたものをここに残して、帰ると言うんですか?」
 加賀谷の問い掛けは多田以外の全員を代弁したものだった。そんな加賀谷に多田が薄く笑いながら、軽く首を横に振る。
「確かに、藤崎重光と言う人物は偉大だ。類まれなる科学者で、彼の才能をもっと世に知らしめる事ができていたのなら、多くの賞や名声を得ていたろう。悔しいが、今でもそう思う。しかし、これにはもう何の価値も無い。当時ならばすごかったろうが、天才も時代には勝てない。今の技術ならば当たり前すぎて、何の価値も無くなってしまっている。おまけに急いで書いていたのか、化学式すら間違っている始末。やはり、時を越えて価値ある発明とは幻なのか……芸術品と違い、こうした物は新しくなければ意味が無いしな」
 戸惑う加賀谷と木塚を置き去るように多田は踵を返し、ドアノブを手にした。
「帰るぞ、もうここにいる必要は無い。早く来ないか」
「待ってくれよ、先生」
 呼び止めたのは金髪の男、木塚だった。
「ちゃんとこれまでの報酬、あるんすよね? 探し物が期待外れだったから無しってのは、勘弁して下さいよ」
「大丈夫だ。だから帰るぞ。私ももう長旅は疲れた、寝慣れた布団で寝たいからな」
 三人はドアを閉め、立ち去って行った。足音はどんどんと遠ざかり、やがて玄関のドアを開けて外へ出て行った音が聞こえるなり、修吾はその場にへたり込んだ。
「本当に帰った、のか?」
「そうじゃないかな。私達を騙してもう一度レポートを取りに来る事なんて無いだろうし……助かったんじゃないかな」
 力無く笑い合う修吾と明日香がそのまま流れるように空澄を見遣ったけど、彼女はじっとうつむいていた。
「どうした空澄、大丈夫か? もしかしてさっき、腕を痛めたとか?」
 修吾が一歩近付くなり、空澄は修吾に抱きついた。
「怖かった、怖かったよぉ。本当にもう、殺されるんじゃないかと思って私、本当にもう怖くて、どうしたらいいかわかんなくなって、でもどうにもできなくて、本当に」
 大声で泣き喚く空澄を修吾は包み込むように抱き締めると、右手を背に、左手を空澄の頭に持っていき、安心させるように何度も何度も撫でた。空澄はそれでやや安心したのか、修吾の背を思い切り掴み、けれどまだ我を忘れて泣いている。
「もう大丈夫だから、な」
「うん、うん、わかってるの、ごめんなさい。でも、本当に怖くて、今やっと安心して、でも何だか……ごめんなさい」
「いいから、落ち着くまで待つから」
「ごめんなさい、ごめんなさい。もう少し、もう少しだけこのままで」
 胸元が濡れるのもいとわず、修吾はじっと空澄が泣き止むまで抱き続けていた。流れる涙が枯れ果て、しゃくりあげる声も肩も落ち着き、背を掴む力が落ちてきても空澄はしがみついたままだった。
「うん、ありがとう」
 しばらくして、すっと空澄が離れると目元を何度か拭い、照れ臭そうに修吾を見た。
「もう大丈夫だから。ありがとう、もういいよ。えっと、ごめん」
 気恥ずかしそうにしている空澄に修吾が優しく頷くと、より顔を赤くして空澄が窓の外を見遣る。外の景色は相変わらず陽光輝き、八月の心を広げていた。そこには不穏なものを感じさせる要因は見当たらず、山や木々が語る雄大さが三人を見守っていた。
「とりあえず、だ」
 修吾の眼が厳しさを取り戻し、ぐるりと周囲を見渡すと、応接間入口のドアに視線が落ち着いた。
「とりあえず、何があるかわからないから、もう一度戸締りをしよう。レポート置いて帰っていったけど、それが何かの罠かもしれないから、全ての窓や戸をしっかりしよう。そうしておかないと、不安だしな」
「そうだね。あと、今度誰か来た時、修吾さんや明日香さんも一緒でいいかな。さっきみたいになるの、嫌だし。それに、単独行動じゃなく、まとまって動こうよ」
「わかった」
 応接間を出て、まず正面玄関へと向かった。途中どこかに潜んではいないかと周囲を注意深く確認したが、特にそういったものは無く、素早く玄関の鍵をかけた。ただ、これではまだ不安だからと各部屋に赴き、窓にも全て鍵がかかっているのを確認して回った。無論、裏玄関も忘れてはいない。
 そうして一頻り戸締りし、家中の安全を確認し終えると、再び応接間に戻った。テーブルの上にはレポートとティーカップが三つ。中身は心を落ち着かせる効果があるらしい、ラベンダーを加えたフレーバーティー。
「さて、とりあえずこれで一安心かな」
 空澄がティーカップにそっと口付けしてから、小さく頷いた。もう目は赤くない。けれど、当初のような視線の鋭さは無く、どこか柔らかい感じを受ける。
「そうだね、さすがにもういないでしょ。今度からはもう、両親とか私の友達以外は入れないようにするし、ガラスとか割られて入られたとしても、すぐ警備会社とか警察に連絡が行くようになっているんだ」
「まぁ、ここにいれば安全って事か」
「でもさ」
 口を挟んだのは明日香だった。
「研究所とかに潜んでいたらどうなの。あそこは古いから、そういう防犯装置とか無さそうだけど」
「明日香さんの言う通り、あそこにはそういうの無いから、もしいられたら……」
 不安げな二人に修吾が勤めて明るく笑う。
「大丈夫だろ。さっきも言ったけど、そんな面倒な事するくらいなら、さっさとレポート持って逃げているだろう。それをせず、レポート置いて出て行ったのなら、隠れている必要なんてどこにも無い。それより空澄、気になる事があるんだけど、いいかな」
 緊張した面持ちで空澄が修吾を見返す。
「警察に連絡しなくてもいいのか?」
 思えば前に襲われた時、しっかりと届け出ておけばこんな事にならなかったはずだ。あの時とは事情が変わったといえ、後顧の憂いを完全に断つにはしっかりと通報して捕まえてもらうべきかもしれない。
 しかし空澄は少し考えた後、決意とも寂しさとも諦めともつかない表情で、小さな溜息と共に言葉を紡いだ。
「そういうのはしない。何て言うのかな、こう言ったらあれだけど、私の家でそういうのが起こると、目立つんだよね。ニュースになったりとかさ。確かに私はまだ怖いし、あんなやつら逮捕して欲しいって思うよ。だって不法侵入の上、私を人質にとったんだもん。だけど、通報して大事になれば当然親も戻ってくるだろうし、そうなったら修吾さん達はいられなくなっちゃう。私はこの三人で重光さんのレポートが何なのか調べたいから、そういうのしたくないんだ」
「なるほど」
 空澄の言い分はもっともだ。通報でもしようものなら結構な騒ぎになるだろうし、色々な人から詰問されるだろう。空澄は保護されるだろうけど、今後何らかの行動制限がつくのは想像に難くない。だから、それらを天秤にかけた時、そうしない方が好都合と考えたのだろう。まぁ、俺にとっては騒がれない方が願ったり叶ったりなのだが。
「それじゃ、もう一度じっくりとこれを見てみる事にしようか。よくわからなくても、何度かじっくり見ていれば、何かわかってくるかもしれないしな」
「まぁ、どんなものかくらいはわかりたいよね。それに、あの人達が言ってた天才も時代には勝てないって意味も知りたいし」
「あぁ、当然そういう気持ちもある。でも、俺はそれだけじゃないと思うんだ」
「どう言う事なの?」
 明日香が修吾を不思議そうに見遣る。
「爺さんは当時天才と呼ばれ、すごい事をたくさんしてきたらしい。あいつらが言うように、当時としてはすごくても、今となっては大した事の無い技術だってあるだろう。でも、最後に残した物だ、それだけではないんだと思う。きっとそれは今となっては当然の技術かもしれないけど、一見しただけじゃわからない、すごい技術なのかも。……いやまぁ、俺の希望が大きく入っている予想だけどさ」
「私も、修吾さんと同じかな。すごくさりげ無く、とんでもない技術を書いていそうだもん。だってきっとこれ、お婆ちゃんのために研究したものだろうから、他の人にはすぐわからないよう、完成するまでわからないようになっていても、おかしくないよね」
 三人は互いの顔を見合わせ、同じ予感を抱いているとの共感を頷きでもって示すと、修吾主導の下、レポートを読み始めた。
 二十分後、三人の顔は曇ったままだった。
「やはり俺には何の事だかわからないな」
「私も。空澄さんは何か掴めた?」
「ううん、全然。何度じっくり見ても、何かの設計図らしいって事しかわからない。酸化アルミニウムと酸化クロムを使った、フラックス法を用いて生成する何かだってのはわかるんだけど、それで何になるかまでは……。習った事の無い化学式とかあるから、どうなるのか想像つかないんだよね」
「酸化アルミニウムだって?」
 修吾が驚きながら身を乗り出すと、空澄はやや身構えながら慌てて頷いた。
「それがどうかしたの?」
「いや、この旅の最中に色々な所を立ち寄って、幾つか爺さんの遺書と遺品、そして当時研究所で働いていた人達の話を聞いたんだけど、その途中で酸化アルミニウムとラベルに書かれている小瓶を手に入れたんだ」
「他にそういうのは?」
「あとは『花の種』と書かれた、よくわからない小瓶くらいかな」
「花の種?」
 訝しげに空澄が修吾を見遣ると、すぐに修吾がカバンの中からそれを取り出し、テーブルの上に置いた。空澄はそれを恐る恐る手に取ると、うかがうように修吾へ視線を送る。
「中のもの、見ていい?」
「いいよ。でも俺が前に見た時は植物の種と言うより、何か金属の粒みたいな感じだったな。それを土に埋めて、花が咲くとは思えないから、何に使うのやら」
 空澄が蓋を開け、手のひらへ静かに小瓶を傾けると、金属質の粒が幾つか出てきた。それを光に当てたり、軽く触ったりしながらも凝視していたが、やがて空澄は再びそれを小瓶に戻してテーブルに置くと、やや天を仰ぐようにしながら溜息をついた。
「やっぱり私にも全然わからない。確かにこれは植物による種じゃなく、何か化合物によるものだろうけど、これが何なのかは……。大学とかで成分分析とか頼めばわかるかもしれないけど、今は夏休みだから教授と連絡が取れないんで、そういう装置使えないんだよね」
「自力で何とかするしかない、と」
「そうだね、そう言う事。まぁ、重光さんが当時の施設でできたのなら、やってやれない事は無いよね。もうここに完成までのレポートがあるんだから、きっとできるよ。それにしても花の種かぁ、重光さんも花好きだったのかな」
「まぁ、好きだったんじゃないかな。若い頃は科学の花を咲かせるとか夢を語っていたみたいだし、このレポートもきっと花にまつわる何かだと思うよ。まぁ、俺が知ってる爺さんはそこまで花好きってわけじゃなかったんだけどね。空澄はやっぱり好きなのか、立派な花壇とか手入れしているくらいだし」
「うん、好きだよ。なんか子供っぽい夢と思われるかもしれないけど、お花屋さんになりたいって思っていたりもするしね。お婆ちゃんが花とか大好きでね、私もお婆ちゃん子だったから、その影響なのかな。影響とか抜きにしても、花に囲まれる生活っていいよね。こういう研究をしてるから、余計にそう思うのかも」
 やや恥ずかしそうに空澄が照れ笑いを浮かべる。
「いや、いい夢だと思うよ。俺は花とか全然わからないんだよね、チューリップだとか桜くらいしか。でも、名前とかわからなくても花を見たら心が和むというか、季節の移ろいを感じるよね、あぁいうの好きだな。空澄はどんな花が好きなの?」
「私は桔梗が好きなんだ。お婆ちゃんも桔梗が大好きで、本当にそれこそお婆ちゃんの影響なのかもしれない。うちの花壇に咲いているのはそろそろ散りそうなんだけど、もう少し早くここに来ていたら、綺麗な桔梗を見せてあげられたんだけどね。トルコ桔梗とかもあるんだけど、私は普通の桔梗のが好きかな。開花直前の丸く膨らんだ姿とか可愛いし、紫色の花がパッと咲く姿もいいしね」
「じゃあ、空澄が花屋をやるとしたら、桔梗だらけかな」
「さすがにそんな事は無いけどね。なんかこう、花をじっと見られる余裕って、今はみんなあまり無いよね。だから、そういう豊かさを支える一つになりたいかなって。……っと、ごめん、話が逸れちゃって。さっ、その重光さんの花を咲かせるため、がんばろっか」
 果たしてできるのだろうか。化学式なんて中学校で習った水や酸素、難しくてもアンモニアくらいしかわからない俺に、天才と呼ばれた爺さんが残したレポートを解読できるのだろうか。おまけに施設の問題だってあるぞ。空澄はあの研究所を時々使っているらしいが、当時そのままに全て使えるのだろうか。もしできなければ、どうするのだろう。
「なぁ空澄、知識は一旦置いておくとして、このレポートに書かれているような千度とか二千度とかって高温を扱える装置、ちゃんと動くのか?」
「うん、動くよ。ざっと見た感じ、必要な機械は全部使えるようになっているから、その辺の問題は心配ないかな」
「そうか、なら大丈夫そうだな」
「機械のメンテとかも、私が帰ってくるのに合わせてやってくれたみたいだから、その辺も問題無いよ。まぁ、壊れたり不具合があれば知ってる業者さん呼んで、直してもらうけどさ。……私ね、絶対にこれをやり遂げたいんだ。どんなに難しくても、やりたい。お婆ちゃんはきっとそれをもらっていないだろうから、私達が叶えてあげたい。何十年もの時を越えて結ばれる恋愛って、素敵じゃない?」
 時を越える恋愛、か。
「何か、いいね。お爺ちゃん達かっこいい」
「だよね。好きな人にはいつまでも愛されていたいし、自分もそうしていたいよね。でもそれが叶わなくってさ、離れ離れになってお互い自分達の家庭をしっかり守りながら、心の底ではずっと思って、けれど自分達じゃ叶えられないからって子孫に託すなんて、ねぇ」
 空澄と明日香は目を輝かせ、頷き合ったり手を取り合ったりして喜んでいる。確かにロマンチックだと思うけど、自分の爺さんがそんな事をしていたのかと思うと、何だか気恥ずかしい。あの静かな爺さんが、こんなにも激しい恋愛に身を投じていたなんて、信じられない。
「悪いが、ちょっとトイレに行かせてもらうよ。お茶飲み過ぎたのと、緊張が解けたからかもな」
 修吾は応接間を出ると、昨日教えてもらった道を歩いて、一階のトイレに入った。ぼんやり中空を見ながら用を足し、手を洗いながらふっと肩の力を抜いた。
 やっと、安心できた。いや本当に、誰にも怪我が無くて良かったな。あの場で何かあったら、洒落にならないし、万が一空澄が怪我でもしたら、大変な事になるかもしれなかった。空澄は否定するだろうが、それは事実だ。まぁ、何にせよ良かった。
 けれど、これから本当にできるのだろうか。設備があり、一応の知識がある空澄がいて、時間もまぁあるけれど、俺自身には何も無い。爺さん達の想いを叶えてあげたいけれど、自分にそれが勤まるのだろうか。
「大工でもないのに家を建てろってのと同じだよな、本当に」
 ぼやきながら応接間に戻ると、何だか雰囲気が変わっていた。空澄も明日香も先程までの明るさが無く、むしろどことなく気まずそうだ。きっと二人も俺がいなくなった後、これから挑まなければならない高い壁の事を考え、怖気づいているのだろう。とりあえず俺はソファに座り、ぬるくなりかけているフレーバーディーを口に含んだ。
「どうかしたのか、さっきまであんなに盛り上がっていたのに、随分落ち着いちゃって」
 空澄は一瞬修吾と目を合わせたけどすぐ外し、明日香の方を向いた。
「明日香さん、帰らなきゃならないんだって」
「なんだって」
 驚く修吾に明日香がどこか気まずそうな、それでいて意味深な微笑を口元に浮かべながら、涼やかな眼差しのまま頷く。
「手帳見たら、明後日って大学のサークル旅行があるんだよね。旅費とか事前に払っているし、今からキャンセルなんてできないから、今日にでもここを出ないといけないの」
「初耳だぞ、そんな事」
「言ってないし。私だってこの旅がこんなに長くなるなんて思っていなかったし、それにこれから研究となると、今日中には終わらないでしょう。だからお兄ちゃんや空澄さんには悪いけど、ここで失礼させてもらおうかなって」
 確かにこれからする事は一時間や二時間で終わるどころか、何日かかるのか想像もつかない。それにこれは強制ではないので、明日香を引き留める権利など俺には無い。
「まぁ、それなら仕方ないな。しかし、これだけ旅してきたのに、また旅か。疲れないか、そんなにして?」
「しょうがないじゃない。ともかく空澄さん、ごめんなさい。ご迷惑ばかりおかけして、何もできなくて。本当、何と言っていいのやら」
 明日香がぺこりと頭を下げると、空澄は慌てて首を振る。
「えっ、あぁ、いいのいいの、気にしなくて。それより、もう行くのなら車出すよ。もうお昼だし、ついでにご飯食べに行こうよ」
 明日香が手早く支度を済ませると、俺達は空澄が運転する黒のランサーに乗り込んだ。車内は割とシンプルにまとまっており、小さな芳香剤と後部座席にあるクッションの他に、これと言った物は無い。以前付き合っていた彼女の車は後ろが見えないくらい、びっしりとぬいぐるみが置いてあったものだが、あれに比べるとかなり好感が持てる。
「運転とかって、結構するの?」
「ううん、あんまり。と言うか、ほとんどペーパーみたいなものだよ。こっち帰ってこないとしないし、ドライブとかも滅多にしないからね」
「……大丈夫、なのか」
「大丈夫だと思うけど、あまり話しかけないでね」
 食い入るように前方を見詰め、しっかりとハンドルを握る空澄を見ていると何だか怖くなり、俺はシートベルトがちゃんとなっているか再三再四確認し、神に祈った。バックミラー越しにちらりと見えた明日香の表情がやや強張っていたのは、きっと気のせいではないだろう。
 車は梶原邸を出て山を下り、駅前へとやってきた。適当な駐車場に頭から入れ、無事に三人は地に足をつける事ができた。そうしてゆっくりと駅に向かって歩く。飛騨古川の夏は暑いながらも情緒に溢れており、軒先から風鈴の音が聞こえる。
「この辺は何が美味いんだい。地元だから、何かおすすめとかないかな」
「何だろう、逆に地元だから名産とかあまり食べないのよね。よく観光客の人とかが食べるのは飛騨牛かな。でもステーキとかだと、昼ご飯としてはかなり割高になるから……あっ、そうだ、コロッケとかどうかな。この近くに美味しい定食屋さんがあって、そこで飛騨牛を使ったコロッケを出しているんだ」
「美味そうだな。明日香はどうだ、そこでいいか?」
「私は遠慮させてもらうよ」
 申し訳なさそうに頭を下げる明日香に、修吾は不思議そうな眼差しを向ける。
「お前食わないのか、飛騨牛だぞ。こんなのコロッケとはいえ、滅多に食えないのに」
「うん、私も食べたいんだけどほら、ここから家まで結構遠いからさ、少しでも早く出ないと。さすがにどこかでもう一泊、なんて事したくないからね。だから残念だけど、飛騨牛は駅弁で食べるよ」
 別に昼飯くらい一緒に食ってもいいじゃないかと言いそうになったが、言ったところで明日香の決意を変えられないだろうからやめた。それに明日香が焦るのもわかる。もし一本ずつずれて家に着けなくなったら、無駄な金と時間を使う事になってしまう。
「本当にごめんなさい、空澄さん」
「ううん、いいの。むしろありがとう、短い間だったけど、仲良くなれてすごく良かった。だからもしよければ、連絡し合おうね。勝手だけど私、友達って思っているからさ」
「私も同じ。うん、今から帰るけど、これからもよろしくね」
 空澄と明日香は名残惜しそうに抱き合い、何度も頷き合う。そうして生まれた友情を確認し終えたからか、明日香は空澄から離れると修吾を見詰めた。
「これからがんばってね。手伝えないのは残念だけど、しょうがないしね。お父さんとかお母さんにはちゃんと言っておくから、心配しないで。あっ、完成したらすぐ教えてよ」
「わかった。それじゃ、気を付けて帰れよ」
 二人に笑いかけると、明日香は踵を返して駅舎の方へと向かって行った。その背が見えなくなるまで修吾と空澄は見続け、やがて見えなくなると、どちらからともなく顔を合わせ、何だか気まずそうに小さな笑みを交わす。
「いいのか、俺一人残って。もし何だったら俺も帰って、レポートを託すけど」
「いいのかって、何が?」
「だからほら、何て言うのかな、若い男と二人きりで泊まってもいいのかって。俺だって手出ししないなんて保証、どこにも無いしさ」
 真面目に話す修吾に空澄がさもおかしそうに噴出し、笑う。
「大丈夫だよ。だって、そう言う事が前提の人ならそんな事言わないしね。それに、修吾さんは信頼できる人だからいいの。それより、おなか空いたから食べよう」
「あ、あぁ」
 どう言う顔をすればいいのかわからないまま、空澄の後をついていき、俺達は『あざみ』と言う定食屋に入った。定食屋と言っても俺が地元でたまに利用していた所とは違い、どこか高級感のある店構えだ。全体的に黒を基調とし、漆喰の柱から滲む光沢がそれをよりよく演出している。客は九分入りと言ったところで、店内に活気があるものの、走り回るような下世話さは無い。あくまで落ち着いた忙しさが、ここを重みある名店だと教えていた。
 五分ほど待たされてから席に着き、飛騨コロッケ定食を頼むなり、俺は空澄と無言で微笑み合い、意味も無くメニューに目を落とす。空澄はそんな俺をちらちら見ながら、来慣れているであろう店内をせわしなく見回し、また俺を見る。そんな視線に耐え切れず、俺は溜息混じりに一呼吸すると、空澄と視線を重ねた。
「その、さっきは悪かった。爺さんや俺達の事であんな目に遭わせて。こうして謝ったところで、どうにもなるわけじゃないんだけど、一応な」
 空澄は弾かれたように驚き、慌てて首を横に振る。
「ううん、そんな事無い。それより、さっきは助けてくれて、本当にありがとう。修吾さんのおかげで、何事も無く済んだのは本当、どう言えばいいのか」
「あぁ、いや、別に。俺は何もしていないよ。それどころかすぐに渡さなかったから、空澄に痛い思いさせて、その、ごめん。もっと早くに取り引きに応じていれば、あんな目に遭わせずに済んだろうから」
 頭を下げる修吾に空澄は全力で否定する。
「謝らないで。いいの、あれは。あの時、きっとあぁする他無かったんだし、もう済んだ事だからいいの。それに私、嬉しいんだ。こう言ったら悪いのかもしれないけど、あの時修吾さんが重光さんのレポートと私の交換に応じてくれたのが、すごく嬉しかったの」
「何言ってるんだ。もう死んで価値のわからない物より、生きていて大切な人となんて比べるまでもないだろ」
 空澄はやや頬を赤らめならがも大きく首や手を振って全力で否定するが、その目はぎらぎらとしており、何とか修吾を見詰めてようとしている。
「そんな事言っちゃ、駄目だよ。重光さんは誰からも天才と呼ばれ、そんな人があれを残したんだから。そんな人のレポートはすごく大切な物のはずなのに、かけがえのない遺産のはずなのに、それなのに、会って間も無い私のため交換に応じてくれたのが、すごく嬉しくて」
「……当然の事だよ」
 素っ気無く言い放つ修吾に空澄はなおも視線を絡め、身を乗り出す。
「ねぇ、この際だから聞いてもいいかな。あのさ、もし私が……その、ケーエスの社長の娘と言う立場じゃなくても、した?」
 意を決し、睨むように見詰める空澄とは対照的に、修吾はさもつまらなさそうに視線を外し、一つ笑う。
「誰か危なくて困っているのに、それも自分のせいでそうなっているのに、立場もくそもあるか。それとも何だ、お前は誰か困っている時、そいつの地位や何かを鑑みて助けようとかしないとか決めるのか?」
「そんな事は……」
「じゃあ、もうそれでいいだろ。そう言う事だよ。それにあの時、あれ以外の選択肢なんて無かったんだよ。あのレポートだって価値を重々わかっていれば渡さなかっただろうが、あの時点ではよくわからない事が書かれた紙束なんだ。それと空澄となら、比べるまでもないだろ、だって」
 そこまで言うと、修吾ははっと言葉を止めた。目の前で空澄が目に涙を浮かべていたからだ。気まずそうに修吾が空澄の言葉を待っていると、空澄はややうつむいた。涙はまだこぼれない。
「それは修吾さんが優しいから、気遣ってくれているからだよ。人によっては私の事なんてどうでもいいと、レポート持って逃げたかもしれない。打算で取り引きを考えたかもしれない。けれど修吾さんはあの人達から逃げずに渡して、私の安全を考えてくれた。それも、打算とかそういうの無しで。それがすごく嬉しくて、その」
「そうかもしれないが、だからと言って」
 修吾が慌てて口を開いた途端、空澄が指で涙を拭うと、キッと睨みつけた。予想だにしなかったその表情に修吾が戸惑っていると、空澄がテーブルに手をつき、立ち上がった。
「私が素直に言ってるのに、信じられないの?」
 そんな空澄が突然可愛く見えた。と同時に、自分の中で隠そうとしていた気恥ずかしさがどっと溢れ出て、右手で空澄を座るようになだめながらも、つい笑ってしまった。
「そうだな、あまり言うのも空澄に悪いよな。でもまぁ、こっちも照れ臭くてさ、わかってくれよ」
「こっちはなおさらよ」
 空澄は再び腰を下ろすなり、赤くなってそっぽを向いてしまった。そんな姿がとても可愛らしく、同時にあの時の選択は間違っていなかったと思え、俺は一段と笑みを強めた。それがたまらなく恥ずかしいのか、空澄は厨房の方ばかり見て、注文した物が届くまで俺と目を合わせようとはしなかった。
 注文した物が届くと、しばらく無言で食べ進めた。俺は腹が減っていたからそうしていたのだが、きっと空澄も同じだろう。黙々と半分ほど食べ、ふっと満足が脳裏をかすめると、どちらからともなく手を休めて互いに見詰め合っていた。何となしそんな空気に居心地悪さを感じ、俺も空澄も居住まいを正す。
「えっと、その、前置きが長くなったと言うか、色々あったけど、改めてレポート解読と研究完成の間、よろしくお願いします」
 空澄が小さく頭を下げるが、修吾の顔はどこか渋いまま、何か考え込んでいるようだった。
「実はその事なんだけど」
 意を決したように修吾がしっかりと空澄の視線をとらえた。
「もう一度、空澄の家の中を案内してくれないかな。いや、昨日も教えてもらったけど、いまいちよく把握しきれていなくてさ。あぁ、トイレと風呂などの場所だけでいいんだ、別に両親の寝室なんて教えられても、困るからね。その何だ、寝泊りさせてもらうのに何もできないんじゃ、迷惑ばかりかけそうだからさ。あぁ、勝手に動き回られたり、見せたくないと言うのなら無理強いはしないが」
「何言ってるの」
 重々しく口を開いて、やっと言葉を紡いだ修吾に対し、空澄は半ば笑い飛ばすかのように修吾を見遣る。
「何を言うかと思ったら、緊張して損した。泊まらせるんだから、そうするのは当たり前じゃない。修吾さんは終わるまでうちに泊まってもらうんだから、もちろん我が家のように使ってもらわないとね。朝晩関係無しに研究するため、そうするのは当然でしょ」
「そっか、ありがとう。そう思ってくれていたなんて、願ったり叶ったりだよ。俺もできる事ならそうした方が負担かけずに済むと思っていたし、そうした方が互いに研究に集中できるだろうからな。いや、本当にありがとう、助かるよ」
「勘違いしないでよ。これは研究のためであって、それ以外に理由なんて無いんだからね。ただ私もこの完成を早く見たいし、一人より二人で、レポート所有者の見ているところでやりたかっただけなんだから」
「わかってる。でも、ありがとうな」
 柔和で素直な笑みから逃げるように、空澄はそっぽを向いた。
「別に、そこまで気にしなくてもいいよ」
 また耳まで真っ赤にしながら、空澄は特製ソースのかかったコロッケを口に運ぶ。そんな空澄が可愛らしくも面白く、からかってやろうかとも考えたが、時折向けられる空澄の強い眼差しにこれ以上は可哀想だと思い、やめた。
 何にせよこれで、泊まる以上のものを空澄は示してくれた。それは信頼。それが無ければ幾ら間接的に助けたとはいえ、爺さんのレポートがあるとはいえ、一人暮らしの家に長い間若い男を泊めようとはしないだろう。当然、これから朝晩関係無く研究が行われるだろうが、そこまで信頼してくれるのは嬉しい限りだ。
 そこに信頼だけじゃなく、男女の関係も想像して期待していたが、すぐに修吾はそれらを否定した。そうしなければ、すぐに空澄を裏切りそうだったから。だからそうした雑念を払うように、目の前の食事に集中した。
 食事を終えて店から出ると、風鈴を奏でる風がそっと二人を包み込んだ。日影恋しい陽光だけど、何度も見ている太陽を二人は本当にありがたがって浴びては、気持ち良さそうに微笑んでいる。まるで心にこびりついた恐怖や不安を洗い流すかのように。
「美味かったな、また来たいね」
「でしょう。焼肉とかも美味しいけど、やっぱりここのコロッケもいいんだよね。薄味のソースが濃厚な飛騨牛の旨味を引き出していてさ。さて、おなかも一杯になったし、帰って色々調べよう」
「あぁ、それなんだけど、ちょっと待ってもらえないかな」
 駐車場手前で修吾が立ち止まると、空澄もやや訝しそうに足を止めた。
「晩飯って何か考えている?」
「ううん、特に何も。何だったら、何か店屋物でも頼もうかなって思っていたけど」
「だったら、俺が何か作るよ」
 突然の申し出に空澄は目を丸くし、すぐさま首と手を振った。
「いいよ、そんな。何だかんだ言っても修吾さんは私にとってお客さんなんだし、そんな人に作ってもらうとか、すごく失礼だから」
「確かにそうかもしれないけど、これから何日か一緒に研究する仲間なんだし、いつまでもお客様だからなんて、寂しいね。むしろ、宿として寝泊りさせてくれているだけ、俺の方が何かしないとならないんだから。本当に些細な事だが、何かそういった恩返しがしたいんだ」
「いいよ、本当にそんな事考えなくても」
「頼むよ、何かしたいんだ。もし迷惑だと言うのならしないけど、そうでないのなら何かしたいんだよ。タダ飯食わせてもらい、寝床を借りながら何もしないなんてしたくないんだ」
 必死に頼み込む姿を見て、空澄の言葉が続かなくなった。それでも修吾が頭を下げ続けて拝み倒していると、やがて空澄はゆっくりと歩き出し、何か考え込みながら駐車場内にある自分の車まで進んだ。
「あのね、言いにくいんだけど、冷蔵庫には何か料理できるような食材は無いんだよね。今朝のもたまたま残っていたやつを使って、私ができる精一杯のやつだし……あっ、卵は大丈夫だよ。ちゃんと賞味期限内のものだったから」
「まぁ、空澄もそう家にいないんだし、両親も仕事で忙しいのなら仕方ないだろう」
「それもあるけど、違うの」
 次の言葉をすごく紡ぎにくそうにしていた空澄だったが、やがて意を決したのか、恥ずかしそうにうつむいたまま口を開いた。
「私、料理とか全然できないの。だからその、何と言うか……」
 追い詰めてしまったのは悪いけど、こうして告白する姿は何ともプライドの高そうな空澄らしい。思わず笑ってしまいそうになるのを必死にこらえ、俺は努めて優しい顔をし、彼女の恥ずかしさを和らげようとした。
「なぁに、大丈夫。何だったら幾つか簡単なのでも教えるよ、それが宿代って事でさ。料理も苦手意識を持つと敷居が高そうに思えるけど、ほんの少しコツがわじゃれば大抵の物はできるようになる。一緒にやろうぜ」
 すぐに頷かなかった空澄も、やがて大きな息を吐きながら目線を大きく外したが早いか、すっと修吾の視線を改まって捉え、不敵に笑った。
「美味しく作るから、しっかり教えてよね」
「ちゃんと覚えるなら、大丈夫だ」
 それから二人は車を走らせ、数日分の食材を買ってから梶原邸へと戻った。本来ならばすぐに戻ってレポートの解析にと考えていたのだが、予想外に買い物に時間がかかってしまい、車が車庫に入ったのは午後四時を回ってからだった。
 一時間や二時間でも研究に時間を当てようかとも、どちらからともなく提案されたが、全く知識の無い修吾と多少知識があるけれど解読までには程遠い空澄が話し合ったところでどうにもならないと合意し、今日は二人で何かせず、明日へ向けての前準備をしようと決めたのだった。
 修吾はそのため、基礎だけでも調べようとしたのだが、あの三人組の襲撃と今の安堵に精神が限界を感じたのか、つい眠ってしまい、空澄に起こされる午後七時まで気を失ったかのように眠っていた。
「起きてよ、名コーチ。教えてくれないと、今晩何も食べられなくなっちゃうよ」
 そう起こされた修吾は空澄と共に台所に立ったが、実際包丁を握り、フライパンを回したのは空澄一人だった。これは空澄の方からの申し出で、いずれ自分一人で作りたいから今からやるとの決意であった。そのため、修吾も手が出せないので教えるのにやや難航したが、何とか夕食の形となった。
 夕食は白身魚のムニエルと豚ひき肉のあんかけ風味、そして豆腐サラダなどであった。食材と共に買った簡単なレシピ本を見ながらなので、当然それなりに美味しくできたのだが、それ以上に力を合わせて作ったという達成感の方が二人には嬉しかった。苦手なものでも力を合わせればどうにかなる、わからないものでもレシピがあれば何とかなる。それはこれから待ち受けている研究に対しても同じだろうと、僅かな自信を二人の心に芽生えさせた。
「何だか、いつの間にか暗くなっちゃったね」
 食事を終えると修吾と空澄は食卓で向かい合いながら、冷たい緑茶を口にしていた。
「買い物だの料理だのとしていたら結構時間食ってしまったし、それに昼の騒動とかあったからね。色々疲れたよ。まぁ、区切り良く明日からやればいいさ」
「朝日と共に始めるのが、気分いいよね」
「あぁ。それに研究も、今日の飯のようにきっと上手くいくさ」
 にっと笑いかけると、すぐに空澄が視線を外した。
「だといいけどね」
 そう小さく呟いた空澄の顔は我が家にあったあの絵とほとんど同じで、思わず胸が高鳴るのを覚えた。あの日、何気なく気になった少女の絵から今回の旅が始まった。あの絵に何故惹かれたのかなんて、今までさして気にしていなかったけど、こうして空澄と二人で向かい合っていると、何となく理解できる。
 俺はあの絵の少女に、僅かながら恋心を抱いていたのかもしれない。幼い頃からずっと見ていたあの少女の微笑みに、知らず知らず惹かれていたのだろう。あの少女の絵は空澄のお祖母さんだったが、空澄ともそっくりだ。爺さんと好みが似ているというのも何だか滑稽だけど、こればかりはどうにもならない。
 ただ、だからと言って空澄を女として見るかと問われれば、それは早い。確かに信頼を置いているし、置いてくれてもいるが、だからと言って今度恋愛感情を前提として接すると、どこかで破綻し、その信頼すら失われるかもしれない。今の俺は折角生まれた信頼が壊れるのが、一番怖い。
「何か考え事しているみたいだけど、研究の事? 今からそんなに考えても仕方ないよ。今日はゆっくり休んで、明日から考えようよ」
「あ、あぁ、うん、そうだな」
 不意の空澄の言葉に思い切り驚いてしまい、みっともないくらい慌てふためきつつも、それを誤魔化そうと緑茶を口に運んだ。
「それじゃ、もう寝ようよ。明日は朝ご飯食べたら、すぐ研究に取りかかろう。設備の使い方とかも少しずつ教えるからさ」
「そうだな。それじゃ、おやすみ」
 二人ともぐいっと残っていた緑茶を飲み干すと、コップを洗ってから寝室へと戻った。部屋に入るなり、修吾は僅かに空澄に対してこれから訪ねようかとも思ったが、止めた。今はその時ではないし、行ったとしても何もできないだろうと思ったからだ。思いつきで行動するべきじゃない、そう自分に言い聞かせながら修吾はベッドに寝転がった。
「明日から、か」
 けれど明日になって、一体自分に何ができると言うのか。あと十時間もしないうちに朝日が昇るが、それを浴びればあのレポートが解読できるようになっているだなんて事は、絶対に無い。無能なままだ。ではどうしたらいい、どうすれば納得できる自分になれる?
 空澄は専攻が違っているとはいえ、工業系の大学に通っている現役大学生。対して俺は一浪し、結局大学に入れなかった男、おまけに文系。このままでは役立たずだし、口や手を出したところで足を引っ張ってしまうのは目に見えている。俺はゼロ、何もできない。
 爺さんは知る人ぞ知る、天才科学者だった。そして空澄はお祖母さんからそれをずっと聞かされ、少なからず俺にもそれを期待しているだろう。幾らそうした分野に知識が無いと宣言しても、きっとどこかで期待しているはずだ。俺はその期待をなるばく裏切りたくない。折角そう思われているんだ、何とか応えたい。
 しかし、今の俺にはその期待に応えられるだけの知識が無い。技術が無い。
 どうする、どうしたらいい……。
 俺はどうするべきだ。
 無機質に働く時計の針の音が、どれくらい悩み多きこの部屋に響いたのかわからないけど、やがて修吾はぐっと拳を握り、誰に向けるともなく小さく頷いた。その顔はまるで死を覚悟しているようでもあり、一方ひどく清々しいものでもあった。
 どうするも何も、何もできないのならば、できるようになるしかない。今は全くの無能かもしれないけど、研究開始までに何時間かあるんだ。その間にできる限りの事はしよう。今日の一歩、明日の一歩、明後日の一歩が達成へのマラソンに繋がる。化学式一つ覚えるにしても、やるとやらないとでは大違いだ。
 ベッドから跳ね起きると、傍らに置いていたカバンの中からノートパソコンを取り出し、起動させた。同時に紙とペン、そしてレポートを揃える。やや古い機種だから起動完了までに数分を要する。いつもならテレビを見たり、手元の本を何気無くパラパラめくっているといつの間にか完了しているそれも、今はひどく長く感じる。何かしようにも、何する気にもなれないので、じっと耳障りな起動音とにらめっこしていた。
 ようやく起動が終わると、すぐさまインターネットに繋ぐ。日課としていたニュース閲覧やお気に入りサイトの巡回などせず、すぐに検索サイトに接続した。と、そこで不意に心に余裕が生まれた。起動を終え、これからの準備ができたためか、それともノートパソコンに触れた事自体によるものなのかわからないけど、突然に。
 修吾はおもむろに携帯に手を伸ばした。そして最新履歴にある番号に通知する。数度のコール音の後、聞き慣れた声が耳に届いてきた。
「はい、広岡だけど」
「あぁ、もしもし、俺だ」
 広岡の相変わらず明るく包み込むような声に、膨れ上がっていた修吾の緊張感も雲散霧消し、強張っていた頬が緩んだ。
「おう、どうした。何か進展でもあったか? こっちはお前の電話が待ち遠しくてな。ほら、こんな事ってそうそうあるものじゃないから、俺まで参加している気分になれるんだよ」
「進展も何も、やっと遺書の謎を全て解いて、爺さんの遺産を手にしたよ」
「本当か」
「おいおい、嘘ついてどうする、本当だって。ちゃんと俺の手元に今あるんだぜ」
「なぁ、それって一体何なんだ?」
 広岡がここまで興奮するのは修吾にとってもそう無く、何だか面白おかしくなり、つい笑みがこぼれる。
「レポートだよ。何かの設計図のな」
「レポート、だと?」
 一転して広岡のトーンが下がるが、まだどこか期待しているかのようだった。
「あぁ、それも家とか機械のとかではなく、どうやら薬品とか使って作るやつみたいだ。ほら、中学高校で化学式って習っただろう。あの難しいやつが、このレポートに羅列されているんだ。だからパッと見た感じ、さっぱりだよ」
「じゃあ、自分で作れって事か? 完成品とかはあるのか?」
「自分で作れって事なんだろうな。完成品はどこにも無いから、これから何ができるのか全然見当もつかないよ。まったく、爺さんももっとわかりやすい形にして残して欲しかったのに、何でこんな……なぁ」
「まぁ、気持ちはわかるが、落ち着け。そのレポートに書かれている事って、どうやって実践するんだ? 知り合いの誰かに頼んだり、もしくは企業かどこかに売るのか? まさか、自宅とかでちょこちょこっといじってできる物じゃないんだろう」
「自分で作るよ、これは」
 決意込めた修吾の言葉に、広岡が呆れと軽蔑混じりの疑問をぶつける。
「どうやってだよ。それに使う薬品とか集めたとしても、ただ混ぜ合わせてはい終わりってなわけにはいかないんだろ。だったら、どうやってやるってんだ。まさか今から自分の家のどこかに、そうした施設でも作るのか?」
「いや、実はな……」
 修吾は広岡に、空澄の事を話した。彼女がケーエス社長の娘である事、空澄の祖母である忍が重光と懇意で、彼の研究所がまだ健在である事、そして空澄もまたその道へ進もうとしている事などを。全て聞き終えた広岡は長い嘆息の後、咳払いを一つした。
「何はともあれ、羨ましいな、おい。そんな若くて可愛くて、しかも社長の娘で才女ってお前、逆玉も狙えるだろ。おまけに二人きりなんてまぁ、絶好の機会じゃないか。俺がお前なら、今すぐ電話を切って口説きに行くね」
「ははっ、何言ってるんだか。結構気の強そうなとこもあるから、返り討ちに遭うのが目に見えるよ。それに今は俺、女よりこの研究を優先しているんだ。下半身で物なんて考えている暇なんて、どこにも無いね」
「軽口叩ける余裕も出てきたのなら、一安心だな。まぁそうじゃなくても、言うだけ可愛い子がいるのなら、この研究期間中に何とかなったりするんじゃないか。もし付き合う事になったら、ちゃんと教えて、写メなり何なりで見せてくれよ」
「何でだよ」
「今回の手伝いの報酬だよ」
 本当に広岡は心が広いと言うか、面白い事なら首を突っ込みたがると言うか、好奇心旺盛な奴だ。けれど、だからこそいつも助けられるし、任せられる。この電話も今後について不安になっていた心をリラックスさせてくれ、とても楽になった。意図してかどうかはわからないけど、とにかくありがたい。
「まぁ、ありがとうな」
「礼なんていい。それよりも、研究がんばれよ。完成させたらちゃんと、空澄ちゃんを俺に見せてくれよな。それだけがお前の旅での、俺の最後の楽しみなんだから」
「近いうちに叶えられるよう、がんばるよ。それじゃあ、またな」
 通話を終え、携帯をしまうと先程まで笑顔だった表情が一変し、、また険しく緊張した面持ちとなった。けれどそれも長く続かず、ベッドに体を横たえると、天井に向かって大きな息を吐いた。
「空澄、か」
 さっきの広岡との軽口が妙な現実感をもって、頭から離れない。電話の前にお茶を飲んでいた時もそうだ、徐々に空澄の中にある女の部分に目がいってしまっている。慕われ、好意を持たれているからどうしても意識してしまうけど、きっとそれは自惚れだ。空澄は爺さんの孫である俺だから、あぁやって接してくれているに過ぎない。怖いのはそうじゃなく、俺自身に目を向けた時だ。
 藤崎修吾という個人を見た時、誇れるものは無い。唯一あるとすれば、あの三人組との取引で空澄の安全を優先したことくらいだろうが、それだって今後の実験を進めていくと、薄れていくかもしれない。
「はぁ、何をこんな事で悩んでいるんだ」
 悩んで落ち込んでいたって、現状は解決しない。もしこの心の中にある想いを少しでも叶えたいのならば、動くしかないんだ。少しでも立ち止まると、悪い方悪い方へと考えてしまうのは、俺の悪い癖だ。
 修吾はレポートをめくり、目に付いた元素記号や化学式を検索サイトに打ち込み、調べ始めた。
「まずはこのAl2O3か。これは……酸化アルミニウムね。頻繁に出てくるし、小瓶にも残されていたくらいだから、きっとこれが基礎となるものなんだろう。次のNa3AlF6は溶媒の事らしいけど……クリオライトね。聞いた事も無いな。えぇとCr2O3は……酸化クロムか。これはちょっと聞き覚えがあるな、確か人体に有害だったはず。そしてこれは……」
 こうして、あらかじめ調べておけば何とかなるだろう。既に空澄は知っているかもしれないけど、それを俺も知っていれば、足手まといになる割合も少しでは減るかもしれない。今は役立つと言うより、いかに邪魔をせずについていけるかを目指すべきだ。
 眠い目をこすり、修吾はひたすらにレポートに載っている用語を調べ、それをメモ用紙に書き連ねていった。少しでも、僅かにでも認められたいがために。

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