三.第二の謎

 中に入っていたのは一通の書簡と、茶色い小瓶だった。小瓶にはラベルが貼られており、『酸化アルミニウム』と記されている。とりあえず小瓶はおいておき、書簡を開いてみた。そこに一縷の期待を伴って。


『それらは一つの箱の中にある。馬、鴉、のこぎり、島、魚。その中でも魚には目が無い。それをいっぺん食えば天にも昇る心地。ある者は叫び、またある者は踊り出す。彼らを若葉が祝福するだろう。その場に住む、飯田憲太郎を訪ねると良い』


 期待は見事に打ち砕かれた、また暗号を解いて指定された人物を捜せと言うのか。少し頭を使ってみたが、何の事だかさっぱりわからない。とりあえずそれを座卓の上に広げ、三瀬さんと明日香にも見せる。二人とも難しい顔をしながら首を捻っていたが、三瀬さんが何か思い当たったらしく、突然表情を明るくさせて顔を上げた。
「この暗号らしきものは何の事だか全然わからないけど、飯田憲太郎と言う人は知っているぞ」
「本当ですか?」
 思わず修吾どころか、明日香までも身を乗り出した。
「あぁ、同姓同名の別人でなければ俺の知っている人だ。昔の研究仲間の一人で俺の先輩、重光さんの親友の一人だよ。とても明るい人でね、所内の雰囲気をいつも良くしてくれていたなぁ」
「その方は今、どこに?」
 暗号なんて解かずとも居場所がわかるのならば、それに越した事は無い。今回の暗号は前回のより、更に難しい気がする。ここへの暗号には堅香子の花と言うキーワードがあったから、それを頼りに何とか辿り着けたようなものだが、今回のにはそれらしい言葉が見当たらない。もう半ば祈るような心地で、俺は三瀬さんに目ですがる。
「さぁ、もう何十年も連絡を取っていないから何とも言えん。俺も飯田さんも当時は安アパート暮らしだった上に、互いの実家になど行った事も無かったからな」
「では、どこの出身だったのか覚えていませんか」
 しばしの間、三瀬は埋もれた記憶を掘り返すために首を傾げていたが、
「すまない、思い出せないよ。あの頃の記憶は今でもよく覚えているけど、誰がどこの出身だったのかまではさすがに。それより、重光さんの手帳か何か残っていないのかい。全部処分したつもりでも、案外残っていたりするものだろうよ」
「家に電話してみたらどう? お爺ちゃんが自分で色んな物を処分したと言っても、お母さんとかが勝手に残していた物とかあるんじゃない。ほら、年賀状とかさ」
 年賀状、か。確かに親友と呼ばれたくらいの間柄ならば、そうしたやり取りがあっても不思議ではない。訊いてみる価値はあるか。
「では、ちょっと失礼します」
 ズボンのポケットから携帯電話を取り出し、実家にかける。数回のコール音が耳に鳴り響き、外出でもしているのかと思ったが、あわてた感じで母親が普段より二オクターブくらい高い声で出てくれた。もっとも、相手が俺だとわかるや否や、すぐにいつもの調子になったけれど。
「あのさ、爺さんの手帳とかって無いかな。無ければ年賀状でも葬式の時の帳簿でもいいんだけど、とにかく飯田憲太郎って人の住所を知りたいんだ。今すぐ探してくれないか。あぁ、俺と明日香なら元気だよ。今は富山の高岡。だから早くしてくれよ」
 近況報告もそこそこに用件を伝えると、母はちょっと待ってと言い残し、受話器から離れた。支配する沈黙、集まる二人分の視線に俺はただひたすらに早く何らかの答えをくれと念じるばかり。そう念じて一体どれくらい経ったろうか、受話器の動く重い音に思わず頬を緩ませながら、こちらも携帯電話を握り直した。
「もしもし。あのね、お爺ちゃんの手帳とかはやっぱり無くて、年賀状とかお葬式の帳簿、家の電話帳なんかも見てみたんだけど、その飯田って人のは見付からなかったよ」
「本当に?」
 静かに血の気が引き始める。
「本当だって、あんたに嘘ついてどうするのよ。それじゃお母さん、これからちょっと買い物に行ってくるから切るね。二人とも、気を付けてね」
 受話器を置く音が耳に響くと、俺は苦笑いを浮かべながら再び携帯電話をズボンにしまった。二人の視線が何らかの答えを聞き出そうと、より強い力を伴って俺に集まる。それにもう居たたまれなくなり、俺は目の前のお茶に視線を落とした。
「えぇと、結局よくわからないみたいです」
「そうか。それだけ重光さん、隠しておきたかった何かがあるんだな」
 本当にそれは一体何なのだろうか。これ程までに謎に謎を重ねているくらい知られたくないものならば、今後見付けられる可能性も低かろう。むしろ、見付けて欲しくないようにも思えるのだが、だとしたらこうして暗号文でも残したりはしないはずだ。残すか残さないかの狭間にある遺品とは、何だろうか。
「まぁ、暗号はいいです。ところで、これには何か見覚えとかありますか?」
 そう言って修吾が差し出した小瓶を三瀬が手に取ると、彼の頬がふっと緩んだ。
「アルミナか、懐かしい。若い頃を思い出すよ、本当に」
「あの、アルミナって何ですか?」
 恐る恐る訊く修吾に、三瀬が懐かしさと嬉しさを伴った表情で笑う。
「アルミナとはこのラベルに書いてある、酸化アルミニウムの別称だよ。研究所にいた時はいつもこいつと一緒だったもんだ」
 もしかしたら、この酸化アルミニウムにこそ次なる謎のヒントが隠されているのかもしれない。
「そのお話、詳しく聞かせてくれませんか。実は祖父からそう言った話を一切聞かされておらず、この旅の途中で祖父が昔、研究者をしていたと知ったくらいなので」
「重光さん、そこまで徹底してあの日々を隠しているのか。まぁ、何故かわからないけど突然その道を辞めてしまったから、何かあったんだろうな。あぁ、よしわかった。俺の知っている限りの事なら話そう」
 ぐいと一気にぬるくなったお茶を飲み干すと、三瀬はどこか遠くを見詰めるかのような瞳をして、口を開いた。
「もう五十年くらい前になるかな。当時俺は重光さんと一緒に森本精機工業研究所に勤めていて、そこでは主に研磨剤の研究などをしていたんだ。それらはレンズなどの加工技術に応用されて、今でもそれが基礎とされているものもある。その研究員のチームリーダーを任されていたのが、重光さんだったんだよ。まだ二十五、六と非常に若かったんだが、当時から有能な人でね、周りから認められていたよ。俺なんかは憧れすらあったな、先輩を立てるし後輩への面倒見も良くて仕事もできるなんて、正に超人だよ」
 遠い思い出を噛み締める三瀬の表情は清々しく、またどこか若々しくも見える。
「仕事の方をもう少し話すと、重光さんは何と言うか、発想がすごく柔軟な人でな、俺らからすればそんな事をしてもどうにもならないだろうと言うものや、そうしても失敗して成功など見込めないだろうと言ったアイデアを次々と出しては実現していってね、どんどんと全体の業績も上向いていった……かのように見えた。しかし、実際は我々が思っていた以上に経営は傾いてしまっていてね、結局研究所は大手企業に買収されてしまった。親会社共々ね」
 お茶を飲もうと三瀬が湯飲みを傾けたが、既に何も入っていない。気まずそうにそれを置くと、大きく息を吐いた。
「買収後、ある者はそのまま買収先に残り、ある者は納得できないと別の所へと行った。俺は別の所へ行き、しばらくそこにいたよ。けど、重光さんはどこにも行かなかったみたいだったな。あれだけ有能な人だ、話が来なかったとは考えられないから自分からその道を退いたか、見知らぬ所へ行ったんだろうけど、理由はわからん。前に会った時も結局、その事だけは話してくれなかったからな」
「そうですか」
 知らなかった爺さんの過去がこうして明らかになっていくのと並行して、また謎が増えていく。辞めた理由が今回の旅に関わっているのだろうか。いや、きっとそうに違いない。きっと今回の旅は爺さんの研究員時代に深く関わっているだろうから、遺品もそれ関係の物だろう。しかしやはり、こうまで遠回りさせる理由がわからない。
「俺が知っているのはこのくらいだ。何だかあまり力になれなくて、申し訳ないね。でも重光さんのお孫さんである君達なら、きっと彼が残したこの意味不明な暗号を解き明かせると信じているよ」
「ありがとうございます」
 円満に三瀬と別れて店を後にすると、もう街はすっかりネオンに彩られていた。これから何をするにもまず宿の確保だろうと再び駅前に戻り、ホテルを探してみたものの良さそうな場所が見付からない。仕方ないので今日はひとまずカプセルホテルに入ろうとしたら、明日香が女だからと断られ、その隣のビジネスホテルにチェックインした。やや割高だが、これもしょうがない。ひとまず空腹を満たすために、手頃なファミリーレストランに入店した。
「折角ここに来たなら、マス寿司食べてみたかったな」
「しょうがないだろ、寿司屋でノートパソコン開いて暗号がどうのこうの言っていたら、目立つなんてもんじゃないだろ。まぁ、明日の出発前に食べるか、駅弁でいいじゃないか。それよりほら、このハンバーグも美味そうだろ」
 鉄板を焦がす肉汁の音はすさまじく、またふわりと漂う香りが脳を甘く痺れさせる。
「全国どこ行っても、ハンバーグには勝てないものよね」
 それきり無言で平らげると、食後のコーヒーが運ばれてきてから、ようやく修吾が三瀬の家で受け取った第二の書簡を出し、テーブルに広げた。
「さて、どうしたものかな」
 再び暗号に目を通してみたものの、さっぱり意味がわからない。どこから調べれば良いかすら、見当もつかない。解けるのだろうか、これを。ここから何か、導けるのだろうか。じっと見ていると、先程のハンバーグの美味しさによる幸福感もどこかへと消えて行ってしまう。
「お前は何か思い当たったか?」
 ミルクをかき混ぜながら明日香は顔を上げ、手を止めずに暗号文を見詰める。
「答えとかわからないけど、半分に分けて考えたらいいんじゃないかな。ほら、その中でも魚には目が無いまでが前半で、それをいっぺん食えばからが後半ぽくないかな。もちろん謎は全て繋がっているんだろうけど、何て言うのかな、上手く言えないけど流れからしたらそんな気がするの」
「じゃあ、そうやって考えてみるか」
 となるとまず考えるのは馬、鴉、のこぎり、島、魚が入った一つの箱が何であるか、またその中にある魚が一体何を意味しているのかだ。有機物と無機物が混じっているし、陸のものも海のものも混じっている。一見すると何の統一性も見出せないのだが、一体これは何を示しているのだろうか。
『馬 鴉 のこぎり 島 魚』
 ネットで検索してみたが、それらしいものは出てこない。ネット検索は関連する語句を取り上げるだけで、必ずしも適切な答えを導き出すわけではないために、全く関連の無いだろうページも表示してしまう。まぁ、確かにこのままでは何のひねりも無いだろうけど、かと言ってどう区切れば良いのかと考えたところで、どうすればいいのかよくわからない。とりあえず、思いついたままやるしかない。
『馬 鴉』
 これで検索して出てきたのは中国やモンゴルの馬に関するページだったが、のこぎりや島、魚に関する語句はそこに見られなかったので、きっと違うのだろう。
『馬 鴉 のこぎり』
 有力な情報のありそうなページはやはり出てこない。いや、むしろよりわからなくなったように思う。たった三つのフレーズでこうも絞れなくなるとは……。このままでは、五つのフレーズに関連性を見付けるなど、不可能に近い。いやでも、気になる事がある。どうして鳥ではなく鴉としているのだろうか、そこに何らかの意味があるに違いない。検索だけでは見えてこない真実、それは何だ。
「箱はそのままダンボール箱とか木箱じゃなくて、もっと大きい入れ物としての意味として考えた方がいいんだろうな」
「だと思う。幾らなんでもダンボール箱に馬はともかく、島は入らないでしょ」
「そうだよな。しかし、入れ物かぁ……」
 大きな枠組みの中に馬、鴉、のこぎり、島、魚が一緒になるものとは何だろうか。馬、鴉、魚は有機物と言う一つの枠に収められる。ただ、島とのこぎりはどう解釈すればいいんだ。有機物と無機物の差、そして自然と人工物の差……あぁ、もしかしたら動物園なのかもしれない。馬もポニーならいるだろうし、鴉や魚だっているだろう。問題の島はペンギンや白熊なんかがいるあの小島でもいい、のこぎりは……事務所にある工具か?
 しかしそうなると、次の『その中でも魚には目が無い』と言う部分が意味不明になる。目の無い魚なんて深海魚くらいのものだろうけど、それを扱えるのは専用の水槽がある水族館ならともかく、動物園にはいないだろう。また例えそうした水族館が併設されていたとしても、のこぎりが問題だ。少し考え直せばこじつけも甚だしく、繋がりがあるとは思えない。そもそも工具ならバールでもペンチでもいいじゃないか。うん、動物園説は間違いだな。
「コーヒーおかわりしようと思っているんだけど、お兄ちゃんもいる?」
「頼む」
 正直言ってコーヒーなどどうでもいいのだが、何も飲み食いせずに店に居座るのは悪い気がして、免罪符代わりに注文してしまう。運ばれてきたコーヒーを自分好みに味付けしながら、再び思考の海に飛び込む。
 あと考えられるとしたら、箱が町を表すとして、鴉が真っ先に思い浮かぶ。京都の鴉丸通りだ。もし鴉がそのまま鴉丸通りからきていて、京都の地が答えであるとしたら他にも馬や魚、島やのこぎりと言った地名もあるのだろうか。
『京都 地名 馬』
 まだ熱いコーヒーを啜りながらネット検索をしてみるが、それらしい地名が出てこない。馬の部分を魚に変えてみたけれど、これまた同じ。どうやら京都ではなさそうだ。けれど京都以外で地名に鴉が付いている場所なんて、聞いた事が無い。いやでも、俺が知らないだけであるのかもしれないから、別の土地に……とりあえず保留としておこう。
 思考を変え、他に箱、入れ物、枠となりうるものは無いだろうか。施設か、地域か、それとも何らかの種族の一つか。のこぎりだけならばノコギリザメと言うのがいるけど、それだと魚と同じカテゴリに入ってしまう。あぁ、でもサメは魚じゃないか。
 修吾は溜息一つ吐くと、明日香を見遣った。
「どうだ、何か思い浮かんだか、それらしいものは」
「ううん、全然。前のに比べて、今回のは考える事が多いから、どうすればいいのかよくわからない」
 静かな微笑み一つ浮かべている口元にコーヒーを運びながら、明日香は小首を傾げている。修吾もそれに合わせてまた溜息を吐くと、乗り出し気味だった体を再びソファに預け、中空をぼんやり見詰めた。
「広岡に訊いてみるか」
 どうにもならなくなった時に考えの詰まった人達でうんうん唸っていても、解決なんか図れない。明日香に聞いても駄目ならば、今頼れるのは広岡しかいないと思い、俺は携帯電話を取り出し、祈るような気持ちでかける。コール音が一つ終わる度、胸の鼓動も自ずと大きくなっていく。
「もしもし、俺だけど、どうしたんだ?」
「広岡かちょっと訊きたい事があるんだが、今いいかな」
 興奮する自分を抑え、ここが店内である事を強く意識して、声量を下げる。
「いいけど、どうしたんだ。まだ詰まっているのか? もしかして進展でもあったのか? ちょっと教えてくれよ」
「進展があったんだ」
 それから修吾は高岡市に来てからの事を簡潔に説明した。思った通りここが謎の答えであった事、遺言書に書いてあった人物から酸化アルミニウムの入った小瓶と新たな謎を受け取った事、そしてその謎の内容を。その間、広岡は一切口を挟まず、黙っていた。
「と言うわけで、まず箱が何なのか解き明かそうと思っているんだけど、全然わからなくてね。動物園も違うみたいだし、もしかしたらどこかの土地なのかもしれないが、これじゃ見当もつかない。そこで広岡の考えなり推理なりを聞いてみたくてね」
「そうだなぁ、馬、鴉、のこぎり、島、魚を収める一つの箱かぁ……」
 うんうん唸る広岡に、修吾も次第に何か一つでも解決への要素を与えたく、同じように悩む。ただ一人、明日香だけが休憩とばかりにイチゴパフェを注文しては美味しそうに頬張っていた。
「じゃあ、酸化アルミニウムのほうはどうだ。もしかしたら、次の場所に関係しているのかもしれないけど」
「それはないだろう。その酸化アルミニウムは研究員時代の名残か、または全ての先にあるものの象徴じゃないのかな。他に別のメッセージがあるのかもしれないけど、今必要なものとは思わないね」
「となると、やはりこの暗号文に目を向けていくしかないのか」
 前回のは堅香子の花と言うある意味わかりやすい固有名詞があったので、一度は間違ったものの、こうして割とすんなり答えを導けた。けれどこれは、どうすれば良いんだ。こうしてしっかり考えてみれば、所々に引っかかる言い回しや単語はあるけれど、どれも普段よく耳にする特徴の無い言葉だ。こうして二つに文を区切って考えているが、果たしてこれが良いのか悪いのか、解けるのかもわからない……。
「あ、悪い。ちょっと急な用事が入ったから、これで切るよ。後で調べておくから、何かわかったらまた電話するよ」
「あぁ、わかった」
 広岡の慌て具合につられ、俺も慌てて電話を切った。大きく息を吐きながらポケットに携帯電話をしまい、すっかり冷たくなったコーヒーで喉を潤す。
「こっちが一生懸命考えているってのに、何を呑気にパフェなんか食ってるんだよ」
「いいじゃない、どうせ私はその話に入れなかったんだから。あっ、食べる?」
 底に残ったクリームとイチゴムースをスプーンでかき集め、明日香が差し出す。
「いらないよ。それよりこれだけれども、パフェ食っている間に何か思い至る事とかあったか?」
「ううん、何も。でもこういう時ってさ、箱そのものの意味を調べたらどうかな。箱自体の意味って、案外知らないんじゃないかな」
「箱本来の意味、か」
 言われてみれば、箱とは何かの入れ物と言う意味しかしらないけれど、他にも何かあるかもしれない。地域だの何だのと勝手に決め付けて話を進めるより、実際に一度調べた方がいいだろう。俺はノートパソコンに入ってある辞書機能を立ち上げ、『箱』と入力してみる。
「結構あるんだな」
 思っていた通りの物を収めておく器と言う意味の他に、便所にて糞を受けるもの、三味線を入れるもの、牛車の屋形、得意技、また東北地方においては岸壁で囲まれた渓谷の一部とある。この中であの暗号に適合しそうなのはやはり物を収めておく器か、もしくは東北地方における岸壁で囲まれた渓谷の一部というものだろう。
「何かわかったの?」
「わかったと言う程でもないんだけど、とりあえず二つ気になる意味があったよ。一つは俺たちがよく知っている、物を収めておく器という意味、もう一つは東北地方における岸壁で囲まれた渓谷の一部を表す意味らしい。前者は行き詰まっているからおいといて、後者は答えになりそうかなと思っているんだ」
「そうだね、一応具体的なものが示されているわけだし。でも東北と言っても広いよね、どうやって絞ろうか」
 そう、東北地方かもしれないと思ったものの、どうやって地域を限定しようか。それが馬や鴉、のこぎり、島、魚に関わるのだろうけど……。あぁ、思いつかない。同じような考えがぐるぐると回るだけで、何ら新しい何かを見出せない。
「あのさ、今日はここまでにしないか。昼は移動に次ぐ移動だったし、今はもう考えるのも疲れた。もう宿で寝て、続きは明日考えようぜ」
「賛成、私もそれを言おうか迷っていたの」
 よく見れば微笑む明日香の表情も、疲労の色が濃い。疲れていたから甘い物を食べていたのかなと思うと、幾ら一緒に行きたいと言ってきたとはいえ、長旅に付き合わせている事にやや悪い気がしたけれど、パフェの分まで割り勘にさせられた時、そんな考えは夜風に呑まれてしまった。

 翌日、昼前は適当に高岡市内をぶらついた。折角こうして馴染み無い土地に来ているのに、一日中ずっと考え込んでいたのではもったいないとの明日香の意見を受け、高岡古城公園や高岡大仏などを見学した。屋外で見る大仏、緑豊かな公園内で触れる彫刻など正直言ってそう面白いものではないのだが、何だか心に渦巻く不安を和らげてくれる力に出会えたのは大きい。こうしていると、肩の力が抜けていく。
 だがやはり俺達を最も楽しませたのは、他でもないマス寿司だった。やや年季の入った寿司屋ののれんを恐る恐るくぐり、カウンター席で注文をした時の緊張にも似た期待、そしてそれを口にするとその期待を良い意味で裏切ってくれた。まずその肉厚なマスの身に驚き、口に入れた時の脂の溶け具合と酢飯のすっきりとした味わいが絶妙で、気付けば二人ともそればかり食べていた。昼食にしてはそこそこかかったが、後悔はしておらず、むしろ感謝したいくらいだ。
 それから軽く散歩をし、適当なファミリーレストランに入ったのは午後二時くらいだった。時間が時間なので店内にはあまり客がおらず、少々長居しても大丈夫だろう。とりあえずドリンクバーとチーズケーキを注文する。
「さてと、充分に気分転換もしたところで、また考えるとするか」
 ノートパソコンを起動し、暗号の控えとして用意してあるメモを取り出す。
「昨日、箱の意味として東北地方における岸壁に囲まれた地域と言うのがあったよな。あれから色々と考えてみたんだけど、東北なら馬も鴉も魚もたくさんいるだろうし、島もあるだろうさ。それに鉱山なんかも多いだろうから、のこぎりだって多く作られているんじゃないかと思ったんだが、どうかな」
「そうだね、あの辺りって日本有数の漁港も多いから、魚には目が無いってのにもかかってきそうだもんね。あっ、もしかして漁師の事なのかな。魚を見たら夢中になっちゃうってのは、食べるのに必死とか深海魚だとかばかり思っていたけど、生きるために夢中になって魚を追い掛け回すって意味もあるのかも。とりあえず、漁獲量の多い県から探してみようよ」
 明日香の言葉を受け、早速キーボードを叩き始める。
『東北 漁獲量』
 最初はすぐに答えを導けるだろうと思っていたのだが、甘かった。漁獲量と一言で言っても色々な魚がおり、それごとにページが分かれているので、どこが多いのかよくわからない。有能な港が多いのも、今は考えものだ。仕方ない、魚がよくわからないのならば鉱山だ。山が多い日本だが、東北の鉱山となればある程度絞られるんじゃないだろうか。
『東北 鉱山』
 これまたどの県にもあり、特定のどこかが有名というのは特に出てこない。鉄の産出量が多ければ必然的にのこぎりなどの金物産業も発展しているだろうと思ったのだが、どうもこれと言った決め手が無い。東北は違うのだろうか、それとも俺の調べ方が甘いのだろうか。もう少しだけ、東北にこだわってみよう。
『東北 馬』
『東北 島』
『東北 鴉』
 どれもこれも、これと言ったものが見当たらないが、唯一福島県がそうかもしれないと思えた。福島県には相馬市があり、漁港もある。県内には鉱山もあり、飯崎字鴉内と言う土地もあるので、候補として相馬市を挙げておいてもいいだろう。俺は明日香に簡単に相馬市説を伝えると、高岡市から相馬市までの距離を思い、溜息をついた。
「次は相馬市……福島か、遠いな」
「そうかな、沖縄とか北海道よりはよかったじゃない」
「極端な場所を挙げるのはどうかと思うけど」
 また溜息一つ吐き、修吾がノートパソコンに向き直る。
「ともかく、明日出発しよう。ただ、前のように調べもせずに乗り継いでいたら、とんでもない時間がかかってしまうから、今回はしっかり調べて行こう。えぇと、高岡駅前から相馬市までがどう行けばいいのかな」
 インターネットで路線を検索してみると、たくさんの路線情報が出てきたので、条件を絞り込んでみる。とりあえず八時半頃の出発と仮定して、飛行機は使わないようにするならば……。
「八時四十四分のこれだな。えぇと、昼飯は郡山駅で買うか。大宮駅で買うと、時間が無いからな。郡山まで行けば着いたようなものだから、多少乗り遅れても平気だろう。夕方の四時頃到着して、それからすぐに宿を見付ける、と」
「ゆったりした電車での旅も風情あるかれど、疲れたらそれどころじゃないもんね。それじゃ、今日は新幹線の予約だけして、後はまた観光でもしようよ」
「気楽だなぁ」
「だって、今は他に何も思いつかないし。何かあるの?」
「いや、何も無いな」
 俺はノートパソコンの電源を切ると、タバコに火を点けた。
 それから宿に戻るまで、俺と明日香は市内観光を続けた。確かに色々な場所へ行き、何かに触れるのは楽しいけれど、徐々にこうしていていいのだろうか、こうものんびりしていてもいいのだろうかと言う疑問が胸の奥をかきむしり始めてきた。もちろん、金銭的な事情もある。貯金が幾らかあるとはいえ、このままのペースだと二ヶ月ももたずに消えてしまう。再び金を貯めてから旅に出ようにも、三瀬さんのように高齢の人に遺品を託していたとしたら、いつどうなるかわからない。もし火事にでもなれば、永遠に手がかりが失われてしまうのだから。
 それにS大学で出会ったあの変な爺さんも気になる。見ず知らずの俺を掴んで遺言書を見せろと詰め寄ったくらいだ、そうまでするくらいならばもしかしたら、いやきっと昔の知り合いを訪ね回っているだろう。あんな胡散臭い爺さんに横取りされたくない。だから、こうして訳のわからない謎に頭を捻っても進めない現状に、ひどく苛立つ。
 落ち着け、こうして苛立ったところで一体どうなる。今は無駄な考えを巡らせる時ではない、この不確定な未来への旅のため体力を温存しておく時だ。そう、明日の福島行きのために……。

 午前八時四十四分発の電車は二人を乗せ、まず越後湯沢へと向かう。二時間少々のこの揺れは退屈さを景色で紛らわす事が難しく、だが耐え難いかと言われればそうでもなく、やや感じる肩や腰の鈍い重さに苦笑いしながら、越後湯沢から大宮行きに乗り込む。ホームでした事と言えば缶ジュースを買ったのと、盛大に伸びをした事くらいだ。
 大宮に着く頃には、もう昼食時だった。腹も減ってきたので何か駅弁でも買おうかと考えたが、ここで買うよりも次の郡山駅で買った方が時間の余裕もあるし、何より郡山駅の方が普段食べられないような物があるのではないかと思い直し、我慢。けれど空腹の我慢は電車の揺れを更に大きく感じさせ、やけに心をも揺さぶった。一時間半も満たない旅路が長く、ひたすら長く感じ、ようやく郡山駅に着いた時にはただその空気を吸うのに、得も言えぬ感動と懐かしさを胸一杯に抱いた。
 駅弁は松茸駅弁にしようか迷ったものの、鳥釜めし弁当に決めた。どこでもありそうなもので面白味が無いかなと思ったのも蓋を開けるまでで、箸を進める程にそうした考えを抱いていた事に申し訳なく思ってしまった。伊達鶏もも肉の美味しさがご飯にもしっかりと染み込んでおり、他の具もレンコンやししとう、きんぴらごぼうに松茸など豊かな味わいが値段以上の満足を心に響かせる。
「これは美味いな」
「うん、何だか今までの疲れが一気に消えていくような……あっ、もう次で降りないと」
 郡山から福島、そうして仙台を経て相馬市に入った時には午後四時を少し回っていた。陽はまだ高く、充分に活動できそうではあるが、いかんせん座り過ぎた。腰の痛みもそうだけど、全身ひどく疲れている。錆びたロボットのようにゆっくり歩きながら、俺達は駅前にある適当なシティホテルにチェックインした。
「疲れた。もう今日は動きたくない」
 ベッドの側に荷物を置くと、すぐさま寝転んだ。そんなに柔らかくないベッドだけど、体が深々と沈んでいく感覚があり、心地よい。このまま眠ってしまいたい……。
「ちょっと、駄目だよ。やる事はたくさんあるんだから、しっかりしてよ」
「はぁ、そうなんだよな」
 妹に叱咤されては、兄として形無しだ。そうだ、疲れがなんだ。ようやくあの泥沼の日々を抜け出して何かに向かう、生きている実感を再び手にしたんだ。その火が燃え尽きるまで走り続けないとならない、走りたいとあんなに願っていたじゃないか。いつでもあると思っていたら、いつの間にか消えて無くなっているものだ。不安はある、だから同時に弱音を暇があるなら行動をして、悔いを残さないべきなのだ。
「それじゃあ、どうしようか。まず暗号では魚に目が無いとあるから、漁港から聞き込んでみようか。相馬市で漁港と言えば」
「違う違う、それもあるけど、違うよ」
 ノートパソコンを開き出した修吾を制し、明日香がやや照れたように笑う。
「私が言いたいのは、今日の晩ご飯の事。ほら、この辺りだったら喜多方ラーメンが有名だけど、他に何かあるのかなって」
 こいつはご当地名物しか頭に無いのだろうか、爺さんの遺品に関して興味が無いのだろうか。確かに俺だって滅多に行かない、いや初めて立つ地の名物を食べてみたくなるけれども、何よりも優先するのはどうかと思う。こんな気持ちの奴が傍にいれば、燃える我が心も消沈してしまいそうだ。
「お前はこの旅を何だと思っているんだ」
「お爺ちゃんの遺品が何かって事でしょ」
 間髪入れず答えた明日香に、俺は用意していた説教の言葉を失ってしまった。
「わかっているよ、これが大事な旅だってくらい。考えたら、不安になる事もすごく多いよ。だからこそ、考えてもどうしようも無い時や、その必要が無い時はせめて、楽しもうと思うの。じゃないと、わけわからなくなっちゃうだろうから」
 難しく考えすぎているのかもしれない、明日香の言う通り、もう少し肩の力を抜いて物事を捉えても今はいいだろう。爺さんの遺言書により俺は再びやる気を見出したが、それに伴ってどこか苛立つ心を抑えられなくなってきている。変化は深海のようだった俺の心を水面に浮上させて光を与えたが、波の荒さもまた思い出させた。さて、乗り方はどうだったかな。
 肺の底から搾り出すかのような溜息を吐き、修吾はノートパソコンを起動させるとキーボードに手を滑らせた。重苦しい修吾の様子に明日香はやや不安げな視線を向けながら、ひたすらに次の動きを見守っている。
「喜多方ラーメンもいいけど、折角海の近いところにいるんだから、あんこう鍋とかどうだ? 夏だからこそ、熱い鍋もいいんじゃないかな」
「いいね、そうしよう」
 それからしばらくホテルでゆっくりと休んで英気を養うと、あんこう鍋を食べに地元でも評判らしい店へと向かった。あぶり焼きや煮物も美味しかったのだが、やはり一番は鍋の残り汁で作った雑炊だった。既に満腹だったのにあまりにも美味しかったので二杯も食べたら、会計するのもやっとの有様。食休みに適当な喫茶店でデザートでも食べながら色々考えようと思っていたのだが、もう食べ物を見るのは嫌だとどちらからと言うともなしに、大人しくホテルに戻った。
「さて、明日はどこから探そうか」
 ようやく落ち着いた修吾は検索サイトにアクセスしながら、明日香の方へと目を向けた。明日香もまた、人心地ついたらしい。
「やっぱり、魚には目が無いって後半の文章がきているくらいだから、そう言う場所を調べるべきだよね」
「魚に関する場所か。そうだな、漁港とか寿司屋とかかな。後半の文にある『それをいっぺん食えば天にも昇る心地。ある者は叫び、またある者は踊り出す。彼らを若葉が祝福するだろう』とあるから、もしかしたら若葉と言うすごく美味しい寿司屋があって、そこの近所にいるのかもしれない」
 早速検索サイトで若葉と名の付く寿司屋を調べてみたのだが、それらしいのが見付からない。まぁ、全ての店が紹介されているわけもなく、個人経営の穴場ならば尚更だろう。そんなに美味しい寿司屋なら、地元の人に訊けば知っているかもしれない。
「二手に分かれようと思っている、寿司屋と漁港の二つにだ。やっぱり魚と言えば漁港は外せないだろう。そうだな、俺が漁港を回るから、明日香は寿司屋の方を探してくれ。もし何かあったら、携帯の方に連絡をくれ」
「わかった」
 果たして見付かるかどうか。確証なんてものは無く、半ば運任せ。けれど日本にそう何ヶ所もこの条件に当てはまる場所は無いだろう。いつか見付かるのいつかが、ここだと良いのだけど……。

 朝日はどこか彼らを祝福しているかのようだった。適当な喫茶店で朝食をとると、二手に別れた。とりあえず修吾はタクシーに乗り込み、相馬漁港へと向かう。相馬駅前から見た風景も、地元と違ってやや寂しい感じを受けたものだが、漁港に近付くにつれ、それがより強くなった。けれど周囲に全く何も無いかと言えばそうでもなく、民家に商店などが一応あり、漁港周辺も緑が多く、それほどまでに殺風景と言う印象は受けなかった。
 けれどタクシーから降り、さっと潮風が駆け抜けると、言い知れぬ寂しさが胸を貫いた。広い埠頭に大小の船舶、縦横無尽に走り回るフォークリフト、耳を響かせ心打つ波音など一見活気ある様子が逆にここの広さを強調させ、己の小ささを痛感してしまう。浜風のベタつきが、そんな感傷を呼び起こしているのだろうか。
 とりあえず誰に話しかければいいのか迷いつつ、怖がりながら気の良さそうな人を探す。海の男は気が荒らそうだし、体格も良い。下手な事言えば海に突き落とされるのではないかと、行き過ぎた心配に煩悶しながら、人の集まっている倉庫へと近付いて行った。
「あの、すみません」
 魚の仕分けをしていた恰幅の良い中年女性に声をかけてみると、面倒臭そうな視線を不躾に向けられた。修吾はいつも以上に人懐っこそうな笑顔を向け、少しでも警戒を解こうと試みる。
「何です?」
「この辺で飯田憲太郎さんと言う方、ご存知ないですかね?」
「飯田、憲太郎さん?」
 首を捻り中空を見詰めていたが、やがて記憶の中に無いと思ったらしく、すぐさま周りで働いている人に訊いてくれた。こう言うところがありがたく、見習うべきものかもしれない。俺は発泡スチロールに入っているよくわからない魚を眺めながら、物知ったように頷くばかり。
「飯田光吉さんならいるけど、憲太郎さんって方は知らないね。お兄ちゃん、それって本当にここの人なの?」
「あぁ、いや、それがよくわからなくて。もし知っていればと言う話でして、知らなければいいんです。それより、この魚は何ですか?」
「あんこうだよ、相馬の名物。冬になれば松葉ガニも揚がるよ。お兄ちゃん、外からの人でしょ。だったらカニなんだろうけど、今は時期じゃないから、ごめんね」
「あぁ、いえ。あんこうも昨日鍋とかで食べましたけど、美味しかったですよ」
「そうかい、それはよかった」
 にこやかに一礼し、その場を去る。ここには知らない人がいただけで、まだいなかったと言う証明にはならない。気を取り直し、磯を鼻で味わいながら別の場所へと向かう。
 けれど、どの人に訊いても飯田憲太郎と言う人物を知らないとの答えが返ってくるばかりで、手がかりの一つも掴めなかった。ここではないのだろうか、相馬港は間違いなのだろうか。もしかしたら福島県内全ての港を探す必要があるのかもしれないが、別行動をしているのにあまり離れすぎるのもよくないだろう。俺はポケットから携帯電話を取り出すと、天を仰ぎながらコールした。
「もしもし、明日香か。今どの辺りにいる。……あぁ、そうか。なぁ、一旦合流しないか。こっちは相馬港を一通り調べ終えたから、そっちの手伝いでもしようと。あぁ、わかった、ホテルのロビーで会おう。それじゃ」
 来た道を戻り、明日香と合流する。色々がんばったのだろう、明日香の顔にやや疲れが見えたけど、だからと言って休ませる気にはならない。どうせ夜には動けなくなるんだ、日の高いうちはがんばってもらうしかない。
「港はどうだったの」
「手がかりなし。一応港にいる人に聞き込みをしてみたが、誰も知らないってさ。お前の方はどうだ」
「何軒か回ったけど、同じく駄目」
「そうか」
 相馬港での活動報告をしても、特に落胆はされなかった。そこに一片の安堵を覚えつつ、明日香が調べた相馬市内の寿司屋の住所メモに目を通す。幾つか斜線が引かれているのは、既に行った店なのだろう。とりあえず、これからは明日香と共に寿司屋を巡る事に決めた。市内に寿司屋は結構あるだろうから、元々相馬港に行った後でそうしようと決めていたのだが、案外早くそうなってしまったのがやや悔しい。
「それじゃ、これを分担するか。ここまでを俺が調べるとして、ここからがお前に任せる。何かあったらまた、連絡するから」
「うん」
 その店に電話をして知っているかどうか訊いてもよいのだろうが、やはり自ら出向いた方が心許し、教えてくれるだろう。それに、電話口だと面倒がってすぐに切られるかもしれない。そう信じてバスや電車、タクシーを駆使して各店に赴いてみたのだが、どこもかしこも答えは一緒。そんな人物を知らないとの、一点張りだ。
「どこにいるんだよ、まったく」
 相馬市ではないのだろうか、それとも着眼すべきポイントを間違えているのだろうか。どうもこうもいかず、ただぼんやりと青空を眺めていたら、不意に泣き出したい衝動に襲われた。立ち止まって空を見上げても風は流れ、人は行き交い、鳥はさえずる。それが堪らなく不条理に思え、けれど太陽の眩しさには勝てず、顔をしかめる。
 爺さんが偉大だったらしいのは認めよう。けれど、こうしてインターネットで色々な事を調べられるのに、それでも解けないだなんて、俺はどこまで劣っていると言うんだ。悔しくて堪らなくて、叫びたいのを抑えようとしても我慢できず、地面を蹴り上げる。そうしても僅かな砂埃が舞うだけの現状に更に苛立ち、心で吠えながら両拳を固く握り締め、天を仰いだ。
 再び明日香と合流したのはJR相馬駅前で、時刻は午後七時少し前だった。
「何か見付かったか?」
「ううん、何も。お兄ちゃんは」
「雰囲気で察しろ」
 結局互いに何の成果も無く、得たものは疲労だけ。それを少しでも癒そうと、二人で駅前にあった喜多方ラーメン屋に入り、それを食した。どんなに疲れていても食事をすれば不思議なもので、再び活力が湧いてくる。錆びた能面の様だった二人の表情も、店を出る頃には周囲のネオンにも負けないくらいのものになっていた。
 すぐに宿に戻るのもなんなので、近くにあったファミリーレストランに入り、デザートタイムと共に今後について話し合う事に決めた。入店して適当な席に落ち着くなり、修吾はノートパソコンを開く。
「今回何の収穫も無かったけど、相馬市ではないのだろうか」
「どうなんだろうね、私にはよくわからない。でもどちらにせよ、もう一度あの暗号を見直した方がいいかもね」
「そうだな」
 パソコンの中にあるメモ帳機能を開き、暗号をじっくりと二人で見る。
『それらは一つの箱の中にある。馬、鴉、のこぎり、島、魚。その中でも魚には目が無い。それをいっぺん食えば天にも昇る心地。ある者は叫び、またある者は踊り出す。彼らを若葉が祝福するだろう。その場に住む、飯田憲太郎を訪ねると良い』
 しばらく眺めていたものの、やはりわからない。どこから答えを導けばいいのか、その第一歩すら見付からないのが、心をかきむしる。どこか、どこか何か糸口のようなものを見付けられれば、芋づる式にわかりそうなのだが。あぁ、日も経って、こうして福島まで来たのに何も考えが変わらないだなんて……。
「鴉……なんでここ、鴉なんだろう」
 明日香の呟きに目を向けると、難しい顔のまま視線を合わせてきた。
「前半の中で、鴉とのこぎりだけが固有名詞だよね。ここに何かあるんじゃないかなって思ったんだ」
「確かにそれは工具でも鳥でもいいだろうに、わざわざ鴉やのこぎりにしている以上は、何らかの意味があるんだろうな。うぅむ、それじゃ、鴉の事を調べてみるか」
 調べてみると、すぐに大量の情報が得られた。まずは鴉本来の意味としてあげるなら、鴉とはスズメ目カラス科カラス属の総称であり、日本では主にハシブトガラスとハシボソガラスの二種がいるとの事。雌雄同色で黒くて光沢があり、雑食性。またその性質から口うるさい人、物忘れをする人、意地汚い人、土地から土地へと渡り歩いている人などを指したり、見た目から黒い人と言う意味を表すみたいだ。
「これはちょっと、気になるな」
 注目したのは、神話に鴉が登場している事だった。何でも古来から吉兆を示す鳥であり、神武天皇が東征の際には三本足である八咫鴉が松明を掲げ導いていたとの事だ。そして鴉は熊野三山の御遣いであり、熊野は神武天皇が八咫鴉と出会った地でもあるらしい。
「熊野って、今だとどこなの?」
「えぇと、和歌山県だな」
「和歌山なら海に接しているから、漁港もあるよね」
 明日香の言う通り、和歌山には魚場も鉱山もある。島も中ノ島と大島があり、馬に関しても救馬渓観音と言うのが有名らしい。箱を和歌山県とすれば、全て当てはまるのではないだろうか。また、熊野の地には宗教も盛んだったらしく、特に熊野本宮大社では一遍上人が時宗を開いている。
「暗号のいっぺんって、この事じゃないの?」
「そうかもしれないな」
 時宗は踊念仏を基とした仏教宗派の一つである。ある者は叫び、またある者は踊り出すと言うのはこれを指しているのではないだろうか。
「なぁ、いっぺんのくだりはこれで間違い無いんじゃないか」
「そうかもね。これだと思うよ、私も。ほら、最初の暗号もそうだったけど、答えになるのってこれ以外無いってくらい、ぴったり当てはまるからさ」
「となると、次は和歌山県の熊野本宮大社か」
 福島から和歌山となると、かなりかかるだろう。予想される退屈と腰痛に今からうんざりしつつ、熊野本宮大社へのバスがある和歌山県新宮市への路線をネットで調べるため、路線検索サイトを開く。
「明日の出発、九時くらいでいいな」
 無言で頷く明日香を視認すると、すぐに条件を当てはめて検索してみる。九時七分発のがあり、到着は夜の七時五十分。丸々一日電車に乗りっぱなしかと思うと、自然と溜息も出てくる。
「ほとんどが新幹線の乗り継ぎだ。それだけに相馬市から仙台、津から新宮までが長いな。昼食は仙台で駅弁でも買うとして、晩飯はどうする。新宮まで待つか? それとも途中で降りて、何か適当なところで食う?」
「津から新宮までの間にどこかで降りるより、一気に新宮まで行こう。気持ちも楽になるし、早く宿とか決めた方がいいだろうし」
「そうだな。まぁ八時ならそこまで遅くもないだろう。問題は宿だが、明日の朝にでも予約しておこうか。これはホテルに戻ってから、ゆっくり決めよう」
 ケーキを食べ終え、ホテルに戻る途中の足取りは心なしか軽やかだった。前半と後半の謎が上手く合致した手ごたえが確かにあり、夜風に頬をくすぐられたわけじゃないのに、ふっと緩んでしまう。夜の街でにやけていると変な人のように思われるだろうなと心配し、隣にいる明日香を一瞥すれば、明日香もまた口元が僅かに緩んでおり、思わず噴き出しそうになったのを堪えて、夜空を見上げた。
 ホテルのベッドで横になりながらテレビを見ていると、携帯電話が鳴り出した。広岡からだ。俺は跳ね起き、明日香にテレビの音を小さくするよう伝えると、通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし」
「もしもし、広岡だけど、今いいかな。色々俺なりに調べてみた事を話したいのだが」
「大丈夫だけど、何かわかったのか?」
 俺達の推理と同じだろうと思いながらも、別の意見が出てきたらどうしようかと恐れ、俺はそっと生唾を飲み込んだ。
「いいや、それがこれと言った答えを見付けられなくてな。一応、鹿児島に鴉島展望所と言う場所があり、高山も魚場もあり、鹿児島神社では初午祭と言う馬に装飾を施して踊らせたりする見世物があるらしいんだが、どうも違うような気がしてなぁ」
 苦しそうに言葉を紡ぐ広岡に、悪いと思いながら心中笑いを止められず、口元を勝者のごとく歪めてしまう。
「広岡よ、もうそれはこっちで片付いたよ」
「本当か?」
 素っ頓狂な声を上げる広岡に、俺は声無き笑いが止まらない。
「あぁ、本当だ。それと言うのも、鴉は神話にある八咫鴉が神武天皇と深い関わりがあって、そこが和歌山県の熊野本宮大社らしいんだ。それにそこは一遍上人が時宗を開いた場所らしい。時宗と言えば踊念仏らしく、あの暗号文にあるように、ある者は叫びある者は踊りって言うくだりからして、間違いないだろう」
「なるほど、言われてみれば確かにそうかもしれない。えぇと、熊野本宮大社は」
「和歌山県田辺市本宮町、そこへは新宮駅からバスが出ているらしい」
「何だ、もうすっかり調べてあるのか。こりゃ、やられたな」
 広岡の笑い声につられ、俺も笑う。何事かと眉をひそめる明日香にも笑いかければ、雰囲気を察したらしく、にこやかに微笑んだ。この答えは正解だろう、明日は良い旅になる。そんな確信めいた実感が力となり、希望を灯らせた。
「それじゃ、健闘を祈っているよ。また何かあったら、連絡くれよ」
 広岡との通話を終えると、満面に笑みをたたえながら勢いよくベッドに寝転び、右手の中で携帯電話を回した。明日、いや明後日には全てわかる。そう考えるだけで嬉しくて、今までの旅全てが輝いて見えてきた。

 早々にチェックアウトを済ませると、相馬駅へと向かった。薄曇りな空だけど、それがかえって心地よい気温となっていて、足取りも昨晩同様に軽い。今日明日で決まるかもしれない、そんな思いがこれからの長旅を逆に楽しみにさせている。
「それにしても」
 相馬から仙台に着き、牛タン弁当を買って一息ついてから、不意に明日香が口を開いた。俺は弁当の包装を開ける手を一旦止め、目を向ける。
「本当に何だろうね、お爺ちゃんがこうまでして残しているものって」
 流れ始める景色を尻目に、俺は小首を傾げる。
「さぁな。研究員時代の物だろうと思うけど、一体なんだろうな。家に一冊も残していないアルバム、日記、もしくは当時の思い出の品か何かだろう。よくわからないんだよな、爺さんの事。ほら、昔話なんてしなかったし、訊いても忘れたとか覚えていないとか言われて、上手くはぐらかされていたからな」
 再び手を動かし、包装を取る。
「もしかして、昔はすごい事していたとか」
「すごい事って、何だ?」
「例えば、人を殺したとか」
「馬鹿かお前は」
 思わず口から飛び出した怒声に明日香はおろか、周囲の乗客も驚いた様子で、数多くの視線を思いがけず集めてしまった。その居たたまれなさに心持ち体を小さくしながら、明日香を睨む。
「そんなわけあるか。大体、そんな後暗い人があぁも偉大だのすごいだのと言われるわけが無いし、あんな穏やかな顔をできるわけも無い。それに、お前は自分の爺さんがそんな犯罪者だと思っているのか?」
 声量は小さく、けれどはっきりと怒りを込めた修吾の言葉に、明日香も時期外れのヒマワリのごとくうなだれる。
「そうだよね、あのお爺ちゃんがそんな事、するはずないもんね」
「当たり前だろ。さて、メシでも食おうぜ。東京まで時間があるとは言え、ぼんやりしていたらすぐ着いてしまう。弁当持って、うろうろしたくないしな」
 修吾が笑いかけると、明日香もやや硬くなりかかっていた表情をほころばせ、駅弁に手をかけた。蓋を取って立ち上る匂いが肺に染み渡る頃には、二人とも先程の事を忘れたかのように箸を動かし、舌鼓を打ち鳴らしていた。
 仙台から東京、そして名古屋へと新幹線や快速を乗り継いだ後、津に到着。長らく座ってばかりいたので、立ち上がって外の空気を吸える事に喜びを改めて感じ、ホームで大きく伸びをした。これからまた長く退屈な、けれど気を引き締めていかねばならない道程がある。明日のため、やるしかない。そう人知れず誓い、別の乗り場へと向かった。
「あっ、ちょっと待って。トイレ行ってくる」
「早くしろよ」
 女子トイレのすぐ前で待っているのはさすがに気が引けたので、少し離れた所に立って待つ事にした。最近は何かと物騒なので、盗まれないように荷物をしっかりと前で抱えながら、広告を瞳に映す。
「おや、君は」
 明らかに自分に向かって尋ねかけている調子の声に振り向けば、そこには陰気臭い老人が立っていた。その後ろに寄り添うよう、三十そこそこのやや体格の良い神経質そうな男と、金髪にピアスと言った、いかにも悪そうな面構えの二十くらいの男がいる。
「おぉ、そうだ、重光の孫だ」
 言われて思い出した。この爺さん、S大学で俺の手を掴んできて、貸し金庫の中にあった物をよこせと言ってきた奴だ。面倒な人に見付かったな、逃げるべきか。しかしすぐに駆け出せば怪しまれるし、明日香を取り残してしまう。いや、荷物を持っている俺が果たして逃げ切れるかどうかすら怪しい。爺さんは振り切れるとしても、この二人からは厳しいだろう。
「何の用ですか?」
 ぎろりと多田が修吾を睨む。
「何の用だと? 君こそ何だ、そんな荷物を抱えて」
 これは不味いな。
「旅行ですよ、ただの。それでは」
「待て」
 踵を返して足早に立ち去ろうとしたら、すぐさま爺さんが刺すような声で呼び止めてきたので、思わず立ち止まってしまった。内心恐る恐る振り返ると、まるで何かの仇を見るかのような凄まじい形相で睨んでいるその姿に、心臓を鷲?みにされたかのような恐怖が俺を襲った。
「君は重光の秘密の研究について探っているのだろう。あの貸し金庫の中には、それにまつわる物が入っていた。そうだな、そうに違いないな」
「何の事か僕には」
 そう言って一歩二歩と静かに後退するが、それよりも早く多田が詰め寄ってきた。
「嘘をつくな。知っているはずだ、そうでなければあの時に逃げたりなどしないし、何があったのか話したはずだ。絶対に話してもらうぞ」
「逃げるも何も、祖父の遺品なんてそうそう他人に見せれるものじゃないでしょう。えぇ、あの金庫にあったのは祖父の若い頃のアルバムですよ、アルバム」
「そんなはずはないだろう」
「ではどう証明すればいいんですか。無いものを疑われても、証明のしようが無いじゃないですか。アルバムを見せても疑われたら、ねぇ。それにもう、話す事なんて何も無いですから。それじゃあ」
 さっと逃げようとしたけれど、一歩踏み出して二歩目と行きかけた途端、かなりの力で肩を掴まれた。驚きつつもここで止まるのは危ないと思い、振りほどいたけれど、やはり勢いが殺されたからか、目の前には金髪ピアスが立っていた。ヘラヘラとした気持ち悪い笑顔を浮かべながら、俺の顔を舐め回すように見ている。
「やましい事があるから逃げる、そうだろう」
 誰だってこんな人相の悪い三人に囲まれたら逃げたくなるだろうと反論したくもなったが、下手に刺激するとより危なくなってしまう。それよりも、さてどうしたものか。話したって信じないだろうし、そもそも話す気は無い。大声を出して、助けを求めようか。
 そうこう思っていると、三十男に引っ張られて、やや人目に付きにくい場所へと連れて行かれた。殴って逃げようかと考えもしたが、三十男を殴っている最中に金髪ピアスから殴られたらどうにもならないので、ひとまず様子を見ておくのが得策だろう。俺は角に追いやられながらも、三人をじっと見る。
「そんな怖い顔をしなくてもいいだろう。ただ知っている事を話しさえすればいいだけなのだ、難しい事じゃない。さぁ、私に話してくれないか」
「一体何の事だか」
 多田の顔が醜悪に歪む。
「この期に及んでまだそんな事を言うか。いいだろう、ではこちらからもう一度詳しい要件を話そうじゃないか。用とは重光の研究についてだ。重光は悔しいが、才能のある男だった。それも生半可なものではなく、ずば抜けたものを持っていた。そんな男が秘密裏に何か研究していたらしいのだが、結局それが何だったのか未だわからない。いや、そもそもあの研究所が潰れてから、重光の消息すらわからなくなった」
 悔しがっていた多田の表情が一変し、眼を爛々と輝かせながら修吾を視線で射抜く。
「ただ、私にもまだツキはあった。君が大学に来ていたり、ここでこうして会えるなど、僥倖以外の何物でもない。君がこうして動いているのは、重光絡みのものに違いないだろう。もし今それが重光絡みでなければ、あの大学で知った事を話してくれてもいいじゃないか。あの大学の金庫にアルバムがあったなんて、嘘なんだろう。さぁ、話してくれないかな」
 後ろは壁、右手も壁、左手に柱があるけれど、そこを通り抜けるのは難しいだろう。正面からしかないのか。ただ、もし突破できなかったり、荷物を奪われたりでもしたら有無を言わずにやられてしまいそうだ。
「大人しく私に話してくれれば何もしない、しかしそうでないと言うのなら……なぁ、加賀谷君」
 加賀谷と呼ばれた三十男は爺さんに目配せされると、一歩前に出てきた。
「おいお前、先生の言う事は素直に聞いておいた方が身のためだぞ。お前が何者か知らないし、知るつもりもないし、知ったところでどうとも思わないが、先生の言葉に耳を傾けないだなんて、おこがましいにも程があるんだよ。お前が先生と対等に口をきいているのみならず、その態度。許せない、全くもって許せない……なぁ、木塚」
 木塚と呼ばれた金髪ピアスが多田の前に出て、加賀谷と並ぶ。
「そう言う事。俺はお前に何の恨みも無いけど、多田先生と加賀谷さんの言う通りにしねぇと、これで痛い思いするかもよぉ」
 そう言って木塚がポケットから取り出したのはスタンガンだった。相変わらずヘラヘラ笑いながらスイッチを入れると、青白い放電と共に独特の耳障りな音が鳴り響いた。
「お前これ、百万ボルトだぜ。まともに食らったら、十分か二十分は動けなくなるシロモノよ」
「ほう、そんな物をどこで?」
 多田が興味深げに覗き込むと、木塚が更に口元を歪める。けれど、視線は修吾を捉えたままだ。
「護身用っすよ。頭イッたのとかそこらにいるんで、そう言う奴等に襲われないためとか、今みたいに先生の言う事聞かない悪い奴を黙らせるために必要なんすよ」
「ははは、よく言ったものだ」
 不気味とも言える醜悪な笑顔を浮かべて、多田が二度三度と面白そうに手を叩く。
「聞いたかね。まぁ、私は誰かが苦しむ姿なんて見たくないので、こう言う事は遠慮願いたいのだが、彼らとて一人前の大人だ、私の意見を無視して動く事もあろう。止められないかもしれない。だから一応忠告しておくが、君だってそんな思いはしたくないだろう。だったら」
「わかりました」
 やや驚いたように目を丸くしたものの、多田はすぐに満足そうな笑みを浮かべた。
「僕だって痛いのは嫌だ。それに、爺さんが何だか偉い研究者だったらしいけど、僕にはそんな事関係無い。それに、何の事だかよくわからないものを見てこんな目に遭うくらいなら、渡しますよ。どうぞ受け取って下さい」
 投げやり気味に言い放つ修吾に多田達はそれでも満足そうで、じっとチャックを引く手を見ている。溜息をつき、ゆっくりとカバンの中に手を入れ漁る修吾は突然、そのままカバンを盾にして木塚にぶつかって行った。木塚は咄嗟にスタンガンを修吾に向けたけど、電流が修吾に当たる事無くそのまま突き飛ばされ、後ろにいた多田と共に倒れ込んだ。
「き、貴様」
 加賀谷はよろめいただけで、そのまま修吾を追おうと悪鬼のような表情になったが、木塚の下で呻く多田に気付き、慌てて木塚を怒鳴りながらどかせる。その様子を一瞥して、修吾は明日香が待っているだろうトイレの方へ全力で走る。
 明日香は女子トイレの前にいた。修吾に気付くなり、やや拗ねた感じの目を向ける。
「ちょっと、もう新幹線出るよ」
「わかってる、だから全力で走れ。死ぬ気で走れ」
 凄まじい修吾の形相と雰囲気にやや苛立ち気味だった明日香も気圧され、共に走り出す。ヒールではなくローファーなので、明日香も修吾にそこまで遅れずホームに着いた時には、出発のベルが鳴り響いていた。
「早くしろ」
 先に新幹線に乗り込んだ修吾が、必死に駆け込んでくる明日香に檄を飛ばす。明日香も不穏なものを感じているのか、それとも単に乗り遅れまいとするためか、普段修吾もあまり見ない必死さで靴を鳴らし、息せき切らしながら飛び乗った。直後、ドアが閉まり、新幹線は動き出す。けれど明日香はデッキでへたり込み、ぜえぜえ喉を鳴らしながらしばらくうつむいていた。
「ねぇ、一体どこに行って、何していたの?」
 修吾は明日香の荷物を持ち、立つように目で促す。
「とりあえずここではなんだから、座ってから話すよ。ほら、行こう」
 まだ乱れた息のまま席につくと、深々と背凭れた。背中が汗ばんでいたけれど、背凭れている事でシートが熱や汗を吸収しないかと考えながら、明日香へと目を向けた。
「S大学で変な爺さんに俺が追われたってのは、覚えているか?」
「うん、お爺ちゃんが書き残したのを見せろって、お兄ちゃんに迫ってきた人だよね」
「そう。その爺さんと子分らしき奴等にたまたまばったり遭ってね、また見せろって言ってきたんだよ。断ったら見えにくい場所に無理矢理連れて行かれ、知っている事を全て話せと、スタンガンをちらつかせながら脅してきたんだ」
 明日香の顔からさっと血の気が引き、表情も強張るのが手に取るようにわかる。
「それでも何とか逃げ出して、振り切るようにしてこれに乗ったんだ。あいつら頭おかしいよ、何だよ一体」
「それで、その人達は今どこに?」
 修吾はぐるりと周囲を見回し、それからまた身をかがめ、明日香に顔を寄せる。
「今はいないみたいだけど、乗り込んでいるのかどうかはわからない。もし乗り込んでいるのなら、十分や二十分以内に現れるだろう。大人しく座っているのも変だし、名古屋に着いたらもう俺達を捜しようも無いじゃないか。だからもしこの新幹線に乗り込んでいるとしたら、次の駅に着く前に捜しに来るはずだ。もっとも、都合良くこの新幹線の切符を持っているとは考えにくいけど」
「そうだね」
 一旦会話が止まるとなかなか新たに切り出しにくく、二人とも視線を定められずに流れる町並みや暇そうな乗客、時たま過ぎ行く車内販売のワゴンなどを見遣りつつ、腕時計に目を落としたり、出入り口を注視したりする。
「二十分、経ったね」
「そうだな、ひとまず安心と言ってもいいんじゃないかな。幾ら何でも、二十分あれば先頭から後ろまで見る事ができるだろうから、もう大丈夫じゃないのかな。仮に余裕を持たせるとしたら、あと十分くらい見てもいいが……」
 言葉の通り十分待っても、何も起こらなかった。車窓に流れる夏の富士が心を包み、平穏を説いてくれるけれど、今はまだそれを素直に受け入れられず、溜息でもって彩ってしまう。
「来ないみたいだけど……」
「言おうとしている事はわかる、俺もそうだ。けど、来ないと言う事はとりあえず大丈夫だと言う事なんだろう。それを信じて、今は無事に名古屋に着くのを祈るだけだ。そこさえ過ぎれば、もう本当に安心だろうから」
 誰も来ませんように、声をかけてきませんようにと祈りながらの一時間少々は本当に長かったが、何事も無く名古屋駅に降り立つと思わず天を仰ぎ、柄にも無く神仏に感謝した。そして周囲にそれらしい人物がいないか注意深く観察しながら、俺達は津行きの電車に乗り込んだ。
「もう大丈夫かな」
「だと思うけどね。仮に東京から名古屋に行ったのがバレているとしても、名古屋からどこへ向かうかなんてわからないだろう。何も言っていないんだから」
 名古屋から東京へ戻ったとしてもわからないだろうし、戻らないと悟られてもそこからどこへ向かうかなど、予測のしようも無いだろう。生憎、目的地となる新宮駅は大きな駅だけど、名古屋から行けそうな大きな駅は数え上げればきりが無い。だからもう、追われる事に怯えるのは杞憂に過ぎないんだ。
 津に到着してから駅員さんに訊き、新宮行きの電車に乗り込む。もうすっかり身も心も疲れており、景色を楽しんだり、ご当地の駅弁などに食指を伸ばしたりする余裕も無く、ただ力無く揺られるがまま。真っ赤な夕日から顔を背けもせずに浴び続けながら、新宮のアナウンスを待つ。けれどそれは、なかなか耳に響かない。
 溜息ももう、出てこない。けれど幾つもの疑問が頭を巡る。
 あの爺さん達、どうしてああもうちの爺さんの事を知りたがるのだろう。確かに有名な研究者が残した秘密の研究とは、その道の人にしてみれば興味が尽きないものかもしれないけど、それにしても何十年も前の技術だ、今ではすっかり色褪せているだろうに。それなのにどうしてスタンガンで脅迫したりと、犯罪まがいな事までして入手しようとするのだろうか、疑問でならない。
 何で俺がこんな目に遭わなければならないんだ、どうして爺さんの遺品を探しているだけでこんな恐ろしい目に遭わないとならないんだ。呑気に駅弁食って各地を観光し、そして爺さんが残した物に心馳せるのが、そんなにも許されないものなのか。恐怖とぶつかり合わないと、手にできないなんて馬鹿げている。
 けれど逆の考えで言えば、そこまでの価値があるだろう遺産に、がぜん興味が湧いてきている。もしかしたら、考えられない価値があるのかもしれない。そこまですごい物を他人にみすみす渡したくない、例え俺には手に負えない物だとしても、あんな胡散臭い連中にだけは渡したくない。
 気付けばあんなにも赤かった夕日がすっかり姿を隠し、宵闇の薄暮が舐めるように身を包む。それが優しさなのかどうか修吾も明日香もわからなかったが、ただその心地良さだけは心の奥底まで染み、感じられた。
 新宮駅に着いた時には、既に午後八時になろうとしていた。電車から降りて改札を抜けると、ネオンの光浴びるより先に大きな溜息を吐き、よろよろとベンチに腰を下ろす。行き交う人々は能面のように波打ち、一人として同じ顔が戻らない。まるで灰色の住人、誰も彼もが背景と何ら変わらないけれど、生きているらしい。そんな彼らと同じような眼で、きっと俺達二人はそこらを見ていたのだろう。
 ようやく駅外に出て、胸一杯に空気を取り入れる。ここは和歌山県新宮市、その空気が何故だか滓のようにこびりついていたマイナスの感情をどこか洗い流してくれるみたいで、故郷の月のごとく夜空をしばし愛しんだ。
 とりあえず予約していた宿にチェックインして、荷物を指定された部屋に下ろすと、夕食を求めに夜の街へと赴き、名物を探す。新宮ではめはり寿司が有名らしく、歩きながら美味しそうな門構えの店に足を向けた。
 高菜漬けの葉でごはんを包んだおにぎり、それがめはり寿司だった。もっと美味しそうな外見を期待していたのだが、肩透かしを食らった気分だ。何でも元は地元農家の弁当だったと言うのだから、当然と言えばそれまでなのだけど。
しかし、食べてみて驚いた。中に高菜を刻んだものがまぶされており、味と食感のアクセントを生み出している。思いがけぬ美味しさに、正に語源通り目張り状態となってしまった。
「明日また食べたいな」
「こう言うお弁当、色んなとこに売っているだろうから、明日神社に行く前に買っておいてもいいかもね」
 宿に戻ってから特に何するわけでもなく、シャワーを浴びたりテレビを見たりしていた。目的地目前と言う安心からか、バラエティ番組を見て笑い合える余裕があるけれど、ふとした瞬間に昼間の出来事を思い出す。
 あの時は偶然カバンを前に持ってこられたし、あの配置、側に明日香がいなかった事、あの死角から出れば人が大勢いた事、そして何よりも不意打ちだったから逃げる事ができた。この広い日本、次に会うことは無いだろうが、もし次に会ったならば逃げられる保証はどこにも無い。
 偶然はそう何度も続かない。けれど、あの爺さんが昔の知り合いを片っ端から調べていけば、途中でまた鉢合わせるかもしれない。そしてこれこそありえない妄想なのだけど、もしかしたらこの宿をつきとめて、あのドアの向こう側にいるのかもしれない。油断した頃、急に襲いかかってくるかもしれない。鍵はかけたはずだが、本当にかけただろうか。そして、あのドアは頑丈だろうか。確かめに行きたいけれど、その途端に現れたらどうしよう。
 馬鹿げている。けれどそんな馬鹿げた妄想に心苛まれ、疲れているのは事実だ。妄想は現実に侵蝕し、やがて確かな現実となり、歴史に刻まれてしまう。切り替えが重要だ、いつまでも過去を思い悩んだところで、前進などできない。彼らは来ていないし、来ない、来られない。それが現実だ。
 それでも、心の奥底で何かが呻いていた。

 新宮駅からバスで一時間少々揺られ、有り体に言えば何も無い景色にすっかり飽きた頃、目的地の熊野本宮大社に着いた。遠目から見える大鳥居、バスから降り立ちすぐに感じた身を切るような荘厳さ、周囲から押し寄せる夏の匂いに思わず足が止まり、天を仰いだ。美しい、あまりにも美しくて、畏れ多くて、心が空になる。余計な考えが入らず、ただありのままの景色を映す心にひたすら満足し、様々な考えが巡る。生きる事、生活の中での宗教、根源的な憧れ、死生観、自然界と自分、畏怖、芸術への渇望、空想などととりとめの無いものが駆け抜け、最後に残ったものは単純な感想だった。
「すごいな」
「うん、すごいね。何かこう、上手く言えないんだけど、すごいよね」
「あぁ、言いたい事はよくわかる。でもやっぱり、すごいよな。それだけだ」
 呆けたようにすごいすごいと繰り返しながら鳥居をくぐり、まずは社務所を目指す。ゆっくりと観光してからにしたかったが、まず目的を達成してからの方が余裕を持てるだろう。それらしい人に場所を聞きながら、周囲の景色にも忘れることなく目を向け、俺達は社務所の方へ歩いていった。
 観光名所だからなのか、社務所の前にも観光客らしき人が数人いた。写真を撮ったり、周囲の風景を眺めたりして、なごやかな笑みを浮かべている。俺達も同じように厳かな空気の中で自然を感じていたいが、今は目的の達成が先決とばかりに、社務所の側にいた従業員らしき初老の男性に近付くと、俺は軽く頭を下げた。
「すみません、お訊ねしたい事があるんですが」
「はい、何でしょう」
「飯田憲太郎と言う方をご存知でしょうか。七十か八十くらいの男性で、この辺りの人らしいんですけど」
「飯田憲太郎……はて」
「近所に住んでいる人か、ここに勤めている人かわからないんですが、ともかくここに関係のあるらしい人なんです。何か本当に些細な事でもいいので、知っていれば教えて下さい、お願いします」
 右へ左へ天へ地へと視線をさまよわせ、頻りに首を傾げながらうんうん唸るこの人に、申し訳なさと苛立ちが同時に湧き上がる。早く思い出せ、早く教えろと心を掻き立てるが、それがどこまで不躾な事かわかっているつもりだ。けれどそれでも、目を背けて関わらないようにしているはずの焦りが、腹を空かせた鬼のように暴れている。
「申し訳ないが、私には心当たりが無いね。割と古くからいるんだが、そんな人聞いた事ないねぇ」
 鬼が慟哭し、消えていく。ここも違うと言うのか。誰かしら集まり、歴史を知るだろう社務所の人に、それも年配の人に訊いてもこれじゃあ、駄目なのかもしれない。諦めるには早いのかもしれないけど、どうにもそうした不安ばかりが先行してしまう。
「あぁ、でも本殿の方にはもっと詳しい人もいるだろうから、そっちにも行った方がいいんじゃないかな」
「本殿、ですか」
「本殿には神主さんがいるし、それに私よりここに詳しい竹内さんと言う方がいるから、その人達に訊けば何かわかるんじゃないかな。本殿はあの中央の建物だけど、もしかしたらいないかもしれないので、わからなければもう一度ここへ来なさい」
「ありがとうございました」
 一礼してから別れると、俺と明日香は本殿へと向かう。隣の建物の方が大きいので、そちらが本殿かと思っていたのだが、どうやら違うらしい。建物の大小は関係無く、中央の建物に主神である家都美御子大神が祀られているとの事。ただ、今は見えぬ神仏に祈りを奉げるより、生きた神主さんと竹内さんに話を聞くのが先だ。本殿に足を踏み入れ、神主さんに声をかけてみる。
「すみません、あのぅ、飯田憲太郎と言う方をご存知でしょうか」
「飯田憲太郎? いや、知りませんな、そんな人は。少なくとも、ここ十年二十年の間に神職を勤めた人の中にそんな人はいないと記憶しているが……。まぁ、ここは色んな人が出入りしているから、記憶に漏れているかもしれません。竹内さんと言う方に訊くのが一番でしょう。もう九十を超えていますが、恐らくここの誰よりも色々知っているので……あっ、あの方ですよ」
 神主が指した先には庭掃除をしている老人の姿があった。頭はすっかり禿げ上がっており、腰も曲がって、しがみつくように箒を持ちながら掃除しているその姿に、修吾も明日香も不安を覚え、すぐに言葉が出てこない。そんな二人を神主が微笑ましげに見る。
「驚くのも不安がるのも無理ありませんが、外見ではわからないものですよ」
「そうですね、ありがとうございました」
 そうは言われても、あんな爺さんが色々知っているとは思えないし、知っていても忘れているか錯誤しているかだろう。それでももう頼みの綱が彼しかいないのだから、訊くより他無い。なるべく驚かさないようにと前に回り、ゆっくり近付く。
「こんにちは、少しお聞きしたい事があるんですが、よろしいでしょうか」
「はい、何でしょうか」
 しゃがれているが、かなりしっかりとしたこの老人の言葉に、先程の神主さんの言った事に偽りはないかもしれないとようやく信じられた。一切の不安は熊野の風に流されて、心晴れやかに本題に入る。
「飯田憲太郎さんと言う、七十か八十くらいの人を知りませんか?」
「飯田憲太郎さんねぇ……憲太郎と言う人に心当たりは無いけど、飯田カツエと言う人なら知っているよ。年は七十くらいだから、もしかしたら夫婦なのかもな。他に知っている飯田さんと言えば、飯田正喜さんくらいか。この人は五十そこそこだったかな。カツエさんはあそこのテントにいるだろうけど、正喜さんはどうだろうな、社務所で聞いてみたらどうかね」
「どうもありがとうございました」
 社務所に向かうよりテントの方が近かったので、まずはそこへと足を向ける。テントでは熊野本宮大社ゆかりの土産などが置いてあり、年配の観光客がそれらを買っていたりと、そこそこの活気があった。後で祈願成就のお守りでも買おうかなと思いつつ、七十くらいの婆さんの所へと近寄る。
「すみません、飯田カツエさんでしょうか」
「そうですけど、どちら様ですか?」
 カツエは驚きと怯えの両方の色を表情から滲ませていたが、すぐに先程までの接客笑顔に戻した。
「藤崎と言う者ですが、お尋ねしたい事があるんです。あのぅ、飯田憲太郎と言う方をご存知ないですかね。七十か八十くらいの人なんですけど」
 夫か、親類にいるだろう。いや、いてくれ。目の前で考え込み、首を捻っている婆さんの口から期待する答えを、今はただひたすらに祈る事しかできない。
「ごめんなさい、心当たり無いです」
「そうですか、それでは失礼しました」
 ともすれば沈みがちな心を無理にでも奮い立たせ、頭を下げた。まだ大丈夫、もう一人いる。そう何でも心で呟きながら、もう一度社務所に戻ると先程の男性が出迎えてくれた。何だか嬉しくて、成果も無いのに笑顔で対応してしまう。
「何かわかりましたか」
「いいえ、駄目でした。けれど、ここに飯田正喜さんと言う方がいるみたいで、その方に訊いてみようかと」
「飯田正喜とは、私の事ですが」
 申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる彼に、俺はただひたすら絶望するしかなかった。そんな。だとしたら、どうすればいいんだ。
「すみません、何だか力になれなくて」
「あぁ、いえ、いいんです。それでは失礼しました」
 足取りが重い。観光をする気分でも神仏に祈りたい気分でもなくなった。ただもう、限り無く正解だと信じて疑わなかったものがこうも見事に粉砕され、手元に何も残っていないと言う虚無感と、再び暗号の闇に放り出されたような孤独感がのしかかり、苛み、嘲る。溜息すら出てこない。
「ねぇ、これからどうしよう」
 不安げな眼で明日香が俺を見てくる。
「わからない、どうしたらいいのか全くわからない。何だろうなぁ、偶然ここにいる人達が知らないのか、それともここではない別のどこかなのか、……とりあえず、新宮に戻るか。何も無いここにいても、どうしようもないだろう」
 新宮駅へ戻るバスの中、二人は言葉を交わそうとはしなかった。ひたすらに車窓から流れる景色に目をやり、溜息を流すばかり。そして記憶に無い郷愁がこの景色により刺激される。体験した事の無い昭和初期の原風景がまるで己の帰る場所のように思い込んでおり、知らないうちに現在と幼少を否定されてしまう。けれど、それでも今この打ちひしがれた心を包んでくれるのならいいかなと、修吾は夏の田畑を見て、一人感慨に耽っていた。
 新宮駅前に戻りと、とりあえず昼食のために近場のラーメン屋に入った。本当は名物料理に舌鼓を打ち鳴らし、楽しい思い出の一つにしたかったのだけど、今はとてもそんな気分にはなれない。どこにでもあるような醤油ラーメンを啜り、ひたすら腹を満たす事だけを優先する。満腹は心をも満たし、苛立ちを和らげると信じて。
 しかしもう、それだけでは収まらないみたいだった。食事を終えてもどこか苛立つ心は生きており、店を出てからも天に向かって呆けたように溜息をついてばかり。行くあても最早無く、明日香と共にどこかへ向かって足を動かす。
「引っ越したのかな」
「でも、あの神社にいた昔の事をよく知る爺さんも誰も彼も知らなかったんだ、元々いなかったと考える方が正しいかも」
「じゃあ、私達の推理が間違っていたのかな」
 質問に対する答えは重苦しい溜息一つ。それをせせら笑うようにして、夏風が二人の間を通り過ぎて行く。
 悪あがきかもしれないが、あれは間違っていたとは思えない。あの推理は正しいはずで、この辺りにきっと飯田憲太郎と言う人がいるはずなんだ。もしかしたら神社ではなく、あの町のどこかに住んでいるとしたら、あの人達が知らなくても納得が行く。幾ら物知りとはいえ、地元住民全て知っているはずもなかろうし、参拝者の氏名までは知らないだろう。そうだよ、捜し足りなかっただけだ。
 修吾は立ち止まり、明日香の顔を真正面から見る。
「あれ以外の解釈があるとは思えない。多分神社に直接関わっているんじゃなくて、その付近に住んでいるだけかもしれない。だから、市役所に行って、いるかどうか聞いてみようと思っている」
「そうだね、そうしようか。それでも駄目だったら……いいや、今はそういうの考えるのやめておこう。さっ、行こうよ」
 力強い言葉と互いの頷き、それらを心のどこかで空々しく思っていたのは確かだ。だがそれを認めてしまうと、本当にどうにもならなくなりそうな気がして、受け止められない。ここまで来て終わるのは金や時間の無駄だけじゃなく、再び目標に向かおうとする人間らしさすらをも失ってしまいそうで、また一日ぼけっとパソコンをいじるか飯を食うかだけの生活に戻ってしまいそうで、どうにか足掻いてでも答えに辿り着きたい。
 新宮駅から紀伊田辺駅へと向かうなり、すぐに市役所へと足を向けた。海に近いので、肌撫でる風が舐めるようでどこか誘惑されているみたいなのだが、そんなものに思い馳せる心の余裕など、今はどこにも無い。周囲の景色にも季節の匂いにも町並みの特色にも、無感動。機械のように市役所のドアを抜け、総合案内所に向かった。
「すみません、お尋ねしたい事があるんですけど」
「はい、何でしょうか」
 まだスーツに着られているような若い職員はにこやかな笑顔をもって、対応してくれた。
「人を捜しているんですが、そういうのはここでやっていますか?」
「人捜し、ですか。えぇと、お名前とご住所、あと免許証などの身分証明書の提示をお願いできますか」
 差し出された用紙に住所氏名を記入し、免許証を差し出す。職員はそれをコピーするなり、丁寧に返してくれた。
「それで、どなたをお捜しでしょうか?」
「飯田憲太郎と言う、七十か八十くらいの方を捜しているんです。祖父の知り合いなのですが、この辺りに住んでいるらしいと言う以外に手がかりが無くて……。それでもし、その方がいるのならば是非教えて欲しいのですが」
「少々お待ち下さい」
 そう言うなり職員はパソコンに向かうと、せわしなくキーボードを叩き始めた。その間は手持ち無沙汰で、周囲に張ってあるポスターを見たり、何やらデスクワークに勤しむ職員の姿を観察したりしていたが、どうにも落ち着かない。何を考えていればいいのか、どこを向いていればいいのか模索していると、職員が椅子を回してこちらに向き直った。
「えぇと、そのような方はここにはいないみたいですね。一応、飯田憲太郎と言う方はおりますが、そちらの条件に該当する方はおりませんでした」
 詳しく聞いてみれば、同じ名前の十代や二十代の人は一人二人といるか、死後十年以上経っている人達ばかりで、確かにどれも別人らしい。そんな結果に軽い眩暈を覚えつつ頭を下げて市役所を出ると、思わずうなだれながらへたり込んでしまった。
「結局、わからずじまい、か」
「そうだね」
「あの解釈以外に無いと思っていたんだが、そうでもなかったみたいだな」
「そうだね」
「今は動くのも、考えるのもだるい」
「そうだね」
「お前、それ以外に何も言えないのかよ」
「考えるの、面倒だから……」
 これ以上話すのもおっくうで、二人ぼんやりと空を見上げたり、海へと目を向けたりするばかり。青く、大きく、果てが無い。そんな呆けた考えに全てを委ね、敗れてしまった現実から少しばかりの間、そう、一時間か二時間ばかり逃げてもいいだろう。許してくれ。俺はそんなに走り続けられるほど、強くないんだ……。
 上を向くのも下を向くのも辛くなり、気付けば目前の海ばかりを見ていた。疲れた時、人は海に癒されに行くらしいけど、今この海は何も語らずに癒しの一片すら与えようとしてくれない。それをひどいと罵るべきなのか、それとも弱音を吐かずに歩いて行けと言う隠れたアドバイスなのか今一つ判然としないけど、一つだけわかった事がある。
 じっとしていても、どうにもならない。
 現状維持は後退に等しいと誰かが言った。時と場合によるのかもしれないけど、今は現状維持が明らかな後退となってしまう。そう、俺を狙うあの三人組が動き回っているだろうから、ぼんやりしていたら先を越されてしまうかもしれない。いや、しれないなんて曖昧なものではなく、確実にそうなる。
 こっちには爺さんの遺言書があり、そこに暗号だけれど答えが記されているが、あいつらにはきっと昔の研究者仲間の名簿があるだろう。そして東京駅でこっち方面へ向かったのがもしかしたらバレているかもしれないから、その線で名簿を調べられると先に辿り着かれてしまう恐れがある。無いとは言い切れない。
「そろそろ宿に戻ろうか。こうしているより、もう一度調べ直す方が建設的だよな」
「そうだね、行こうか」
 空の色も海の色も変わり始めた頃、修吾と明日香は再び新宮駅へと戻った。宿に戻る前に適当なレストランで食事を済ませ、もう一度夜風を胸一杯に取り込み、心機一転。市役所で味わった絶望感を全て払拭し、宿にて修吾は明日香の側でノートパソコンを立ち上げながら、缶ビールを傾けた。
「まず、広岡に電話してみるよ。あいつはもう俺達がこの問題を解決したと思っているだろうし、そうでなくとも何らかの報告を待っているはずだろうから」
 広岡に電話をかけると、六回目のコールでいつもの声が聞こえてきた。
「もしもし、どうした?」
「あぁ、俺なんだけどさ。暗号あっただろ、それらは一つの箱にあるってやつ。それで和歌山県の熊野本宮大社とかを回って色々と調べてみたんだが、どうやらここじゃないみたいなんだよ」
「そうなのか、あの説には納得させられたんだけどな」
 心なしか広岡の声のトーンも落ちる。
「あぁ、俺もだ。だが現実は違った。だからもう一度考え直したいから、お前の力を借りたいんだ。なぁ、あれから何か思いついた事はないかな」
「そう言われても、もう解決済みだとばかり思っていたから、特に調べたりはしていなかったよ。だってお前、自信満々だったじゃないか」
 言われてみればその通りだ。既にほぼ解決したと和歌山行きの前に宣言したから、それから更に調べるような事はしないだろう。俺が広岡の立場でも、そうした。
「ただ、直接それについて考えはしていなかったけど、間接的に役立ちそうな方法については調べていたよ」
「間接的とは、何だ?」
「暗号の見方だよ、読み方とも言うべきかな」
「例えばそれって、どんなのだ」
 それがわかれば、今後また何らかの暗号があったとしても、すぐに答えを導けるだろう。いや、今後の事など今はどうでもいい。この暗号文が解ければ、それでいいんだ。
「おいおい、慌てるなよ。まぁ俺も色んな本をざっと読んだり、ネットの知識に軽く触れただけだから、それが本当に確かなのかは」
「いいから早く教えてくれ」
 待ちきれないから、次第に語気が荒くなる。それを察した広岡が大きく息を吐いたのが、やけに耳に残った。
「わかったよ、だからちゃんと落ち着いて聞けよ。俺の言う事をパソコンに打ち込むくらいの余裕でな。まぁ、俺が知り得たと言うのは、暗号としてあるからには言葉の配列に何らかの法則が働いていると言うものだ。それと言うのも、暗号とは製作者が何らかの規則をもって作っているから、ランダムに作っているつもりでも自ずと一定の法則が生まれるらしい。またそうしなければ、暗号として成り立たないだろうし。まぁ、数字の寄せ集めならわからないが、こうした言葉を並べた暗号って、そういうもんだと思うね」
「なるほど、それで?」
「だからあの暗号にあった馬、鴉、のこぎり、島、魚と言うのも、何らかの法則があるんじゃないかと思ったんだ。もし俺たちがそれらを書き並べるとしたら有機物や無機物、またはもっとわかりやすい言葉で並べるだろう。まぁ、暗号としてバラバラに並べるとはいえ、きっとグループごとに分けてしまうんじゃないかな。それがこう並んでいると言うのは、この並びに何らかの意味があるんじゃないかと思うんだ」
「確かにすごく説得力があるな、それ」
 言われてみればそうかもしれない。暗号を作るならば言葉の配列によって意味が変わらないよう、正しい並びをもって作るはずだ。それなのに俺は前半と後半なんて乱暴に区切っただけで、その後は配列も何も考えずに推理していた。
「そうだな、これからそれも含めて考え直してみるよ」
「がんばれよ。それじゃこれから少し出る用事があるから、また何かあったら連絡をくれよな」
 通話を終えるとその余韻に浸る間も無く、明日香に今の内容を仔細に聞かせると、顔をほころばせながら目を丸くし、大きく何度も頷いていた。きっと、電話中の俺もこんな感じだったのだろう。この興奮冷めないうちにと、すぐさま暗号文に目を向ける。
「箱の中にある馬、鴉、のこぎり、島、魚の中で魚には目が無いとあるけど、これは実際に目玉が無いって事なんだろうか。ただそうなると、他の四つには目玉があると言う事になるだろうから……ややこしくなるな、一旦保留にしておこう。どのみち、魚が何を指名しているかわからないと、その後に繋がらないんだし」
「まず箱から考えた方がいいんじゃない。箱の中に収まるこの配列の何かを考えたら、答えが出るかも」
「箱、やっぱり箱なのか。あぁもう、何だかこれから箱と言う箱が嫌いになりそうだ」
「怒るのは後で、今は考えようよ」
 そう言われても思い付かないと苛立ちばかりで、どうにもならなくなりそうだ。箱を一つの地域として調べてきたが、それはどうやら過ちだったとわかった。他にこの五つが適合する土地があるのかもしれないが、ここよりもそれらしい土地は無いだろう。何故なら、地域というくくりで考えると、配列に何の意味ももたなくなるからだ。
 ならば、別の比喩があると考えるべきだ。箱と言えば四角、ダンボール、立方体に長方体、木製に鉄製、……木はありかもしれないぞ。木馬に木魚、木島と言う場所もあるだろうし、木製ののこぎりもあるはずだ、それに木製の鴉だって……いや、駄目だ。強引過ぎる上に、それだと箱でなくて木を主体として暗号文を作っているだろう。
 ならばもっと広い意味で、例えば宇宙とか死生観とかはどうだろうか。箱を一つの世界と見立てれば考えられなくも無いが、それだとどうにでも解釈できすぎて、やはり暗号として不充分となってしまう。ならば本か。爺さんは生前多くの小説や文芸書などを読んでいたから、そこから何か得たのかもしれない。けれどそれも、この五つのフレーズを使っているだろう小説はそれこそ数多くあるだろうし、小説に限らず映画なども同じだろう。もっと普遍的な何か、それが答えに違いないはずなのだが……。
「何か思いついた?」
「いいや、考えているうちにどれもこれも違うと思って、答えになりそうなのは見付かっていないな。明日香はどうだ?」
「わからない。CDとか本とかかなって思ったけど、そう言うのって時代によって新しい物が生まれるから、適当じゃないよね。例えば遺言を書いた時にはそれしかなかったけど、十年後や二十年後には同じようなのが二つも三つも出てきたら、どうしようもないじゃない。だから、時代に関係無いものなんだろうなぁって事くらいしか」
「それは俺も考えた、きっと普遍的な何かを箱として表現しているんだろうなぁと。だが箱の事を考えてもこれ以上発展が無いだろうから、箱は一旦置いておくとして、配列の方に絞って考えてみようか」
 そう、これこそが広岡との会話で得た最大のヒントとなりえるだろうもの。右からか、左からか。しかし文章の途中で逆から読むのも変だ。となると、片仮名や平仮名にして答えを導くのだろうか。うま、からす、のこぎり、しま、さかな。うぅん、どこにどんな法則があると言うのか。
 もしかしたら、単に右から左からと読むのではなく、こうした並びのものがあるのかもしれない。しかしこれらが並ぶものなんて、今まで見た事も聞いた事も無いぞ。
「あのさ、これってもしかしたら、人体の事なのかな」
 明日香の問いかけに、俺は眉をひそめた。
「人体?」
 そう言われてもすぐにはイメージが湧かず、首を傾げるしかなかった。人体を一つの入れ物と考える事はできても、そこにあの五つのフレーズがどう関わるのか、想像もつかない。俺が答えを言うよう視線を送ると、明日香は珍しくやや興奮した面持ちとなった。
「そう、人体。脳には海馬ってのがあるし、すい臓にはランゲルハンス島ってのがあるじゃない。中学か高校で習ったよね。この並びを上から下へと考えたら、配列としても正しいんじゃないかな」
「けど、その二つだけじゃ何ともな。鴉だとかのこぎりだとか魚だとか、人体の名称として聞いた事も無いし」
「でも今は他にこれってのが無いんでしょ。だったら調べてみる価値は一応あるんじゃないの」
「そうだな」
 どうせ代替案は無いのだから、これにすがってみるのも手だ。
『人体 名称 鴉』
『人体 名称 のこぎり』
 検索してみたけれど、それらしいものは出てこなかった。いや、目に付かないだけで、もしかしたらあるのかもしれないが、全てに目を通すとなると膨大な量である。調べられないのと同じだ。やはりこれではないのか、そんなにも有名なものじゃなければ探しようもないし、こうして子孫に残す暗号も意味を成さない。どこかでわからなければ、駄文や落書きだ。あぁ、もう、見付からない、やけくそだ。
『人体 名称 魚』
 すると、気になるサイトがひっかかった。そのサイトを見てみると、今まで知らなかった様々な人体の名称があり、中には暗号文に該当するだろう名称もあった。例えば鴉なら肩にある烏口突起、胸の肋骨付近にある前鋸筋、そして魚に関してはヒラメ筋と言うのがふくらはぎの辺りにあるらしい。そうなると上から海馬、鴉口突起、前鋸筋、ランゲルハンス島、ヒラメ筋となり、暗号にある順序と全く同じになっている。
「ほら、ほら、そうでしょ。順序同じだし、やっぱり人体を箱と見立てたらしっくりくるんだってば」
 声を弾ませ身を乗り出す明日香につられて、俺も顔がほころんでしまう。これかもしれない、いやきっとこれだ。けれどまだ本当に正しいかどうかわからない、幾らこれがしっくりくるものでも、後半の部分と合致しなければぬか喜びに過ぎないのだ。
「まだわからないから、続けて考えてみよう。次にその中でも魚には目が無いとあるから、これはきっとヒラメの事を指しているとしよう。次に続くそれ、いっぺん食えば天にも昇る心地から若葉までのくだりは、踊念仏の一遍上人の事に違いないと思うんだけど、一遍上人とヒラメって何の関係があるんだろうか」
「さぁ、わからない。調べみてよ」
 とりあえず一遍上人の事を調べてみると、次の通りだった。時宗の開祖である一遍上人は延応元年に伊代、今の愛媛県の豪族である河野通広の次男として生まれ、十歳で仏門に入る。三十六歳の時に熊野本宮証誠殿に参詣して時宗を開き、一遍と名乗る。それから十六年間仏の教えのために遊行し、五十一歳の時に摂津、今の兵庫県神戸市にある観音堂で亡くなる。
 顔が特にヒラメに似ていただとか、ヒラメを好んで食べていたと言う記述は見当たらないから、ゆかりの地がヒラメと関係深ければ、そこが答えになるかもしれない。となると生まれた愛媛県、悟りを開いた和歌山県、亡くなった兵庫県の三つが候補地だ。このうち和歌山県ではないみたいなので、調べるべきは愛媛か兵庫のどちらかだろう。
 次にヒラメについて調べてみた。ヒラメはカレイ目ヒラメ科に属する魚で、左ヒラメに右カレイと言われている通り、両目とも頭部の左側に偏ってついているのが特徴である。日本ではどこでも水揚げされ、沿岸部の砂泥地を好み、夜に活動する。またヒラメは青森県、茨城県、鳥取県の魚に指定されているらしい。
「愛媛に兵庫、それに加えて青森、茨城、鳥取かぁ」
「愛媛と兵庫以外は無視してもいいんじゃないかな、一遍上人とそんなに関係無さそうだしさ」
「となると、愛媛と兵庫のどちらがヒラメと関係深いかだな」
 修吾は頭を押さえ、難しい顔をしながらキーボードを叩く。
『愛媛 ヒラメ』
『兵庫 ヒラメ』
 検索してみた結果、兵庫よりも愛媛の方がヒラメに関しての記事が多く、中でも養殖ヒラメが有名らしい。ならば目的の地を愛媛に絞り、次の『彼らを若葉が祝福するだろう』のくだりを考えてみよう。
『愛媛 若葉』
 調べてみたけれど、どれもこれだと言うものには程遠い。それらしいのが愛媛の特産品であるらしい稲若葉そうめんくらいなのだが、何だか違う気がしてならない。別の面からアプローチしていくしかなさそうだ。
「若葉も何らかの比喩なんだろうか」
「どうなんだろう。もしそうだとしたらヒントになるのって祝福するって事くらいになるのかな」
「一遍上人もかもしれないな。直前に、彼らをとあるから、一遍上人や時宗とも関わっているのかも。まぁどのみち、もう一度一遍上人の事を調べる必要があるな。生まれが愛媛とあるけれど、愛媛と一口に言っても様々な場所があるから、どの辺りで生まれたのか知っておきたいな」
 俺はすぐさまキーボードを叩く。
『一遍上人 生まれ』
 どうやら一遍上人は愛媛県松山市道後湯月町の宝厳寺で生まれたらしい。となると、調べるべきは宝厳寺の若葉か、松山市の若葉かだな。
『宝厳寺 若葉』
 特にこれと言ったものは見付からなかった。季節によっては若葉が生い茂り、美しい景色となるなんて紹介されていたりもするが、それならばどこでも一緒だ。ここから発展させるのをひとまず止め、次に移る。
『松山市 若葉』
 これだと思えたのは松山市内にある若葉温泉と言うところだ。確かに温泉は長旅や謎解きの疲れを癒してくれるから、祝福してくれると置き換えてもいいのかもしれない。だが、本当にここなのかと疑ってしまっているのは紛れも無い事実だ。
 それと言うのも、前の暗号では各フレーズが普遍的なものであったり、歴史的なものであったりしているのに、これだけがそう歴史も無さそうな施設が該当するとは考えにくい。きっと別の何かがある、そう何の各章も無い考えがしっかりした芯となり、そこに落ち着こうとせず、別の答えを探したがる。別の答え、それは何だろうか。
『松山市 一遍上人』
 やはりどうしても、一遍上人が今回の暗号の核となっているだろうから、ここを起点に調べるしかない。そうした考えで調べてみたのだが、やはりこれと言ったものが見付からず、軽くうなだれた。
「わからないな、多分この流れだと愛媛っぽいのは間違い無いんだけど、そこから先が見えてこない」
「じゃあ、とりあえず行ってみない?」
 突拍子も無いような明日香の言葉も、一片の真実を含んでいる。迷うより先に動け。ここで色々考えを巡らせて悩むだけより、実際に行って調べ、確かめた方がよい。あぁ、でもどうせ兵庫を経由するのなら、ついでに兵庫から調べた方がいいのか。いやいや、それだと無駄足を踏む可能性もある。ただ、あても無く兵庫に滞在すればそれだけ時間のロスとなり、あいつらに先を越される可能性も高まる。どうしようか、俺はどうしたらいいのだろうか……。
「よし、行こうか。行ってみれば何かわかるかもな。最有力と思う愛媛で何も見付からなかったら、また何か見えてくるかもしれないし」
 行こう、やっぱり行ってみよう。ここまで愛媛だと証拠も揃っているし、何よりもうここだと半ば確信している自分を裏切れない。だったら行くしかない、目指すは愛媛県松山市。その前にやる事が二つある。その一つのため、俺はポケットから携帯電話を取り出すと、発信履歴の一番上の番号にかける。
「もしもし、広岡か」
「あぁ、どうした。今ちょっと用事が入っているから、何かあるならば手短に頼みたいんだが」
 どこか声を潜めた調子の広岡に、修吾も悪い気がして、同じように声をやや潜める。
「あぁ、すまない。それじゃ簡潔にまとめるけど、これから俺達は愛媛県松山市に向う事になったんだ。詳しい事は今度広岡の都合の良い時にでも話すけど、あの暗号から導かれたキーワードが、ヒラメと時宗開祖の一遍上人なのは間違い無いんだ。ただ、候補地が二つあって、愛媛県松山市か兵庫県神戸市のどちらかなんだが、俺達は色々あって愛媛の方に向かおうと思っている」
「それで、俺は何をすればいいんだ?」
「二つの場所に関しての若葉が、一体何なのか調べて欲しいんだ。暗号の最後に、彼らを若葉が祝福するだろうとあったから、何か若葉に関するものがあるはずだ。とりあえず俺達は愛媛県松山市にある、若葉温泉と言う場所に向かうよ」
「わかった。じゃあ何かわかったら連絡するから、またな」
 通話を終えると修吾は携帯電話と体をベッドに投げ出し、大きく伸びをした。
「まだ寝るのは早いよ。明日どうやってそこまで行くか調べてから、ゆっくりしよう」
 途端、明日香に注意された。
「そうだな、もう一頑張りするか」
 もうすっかり重くなっている体を勢いよく起こすと、再びノートパソコンと向き合い、新宮から松山までの路線を調べる。出発予定を九時頃とし、飛行機は使わないと言う条件で導き出されるルートは……。
「……嘘だろ、十九時間もかかるのかよ。こりゃあ途中でどこかに降りて、宿取らないとならないな。まぁ、岡山でいいか。時間も晩飯時だし、大きなところだから幾らでも宿が見付かるだろう」
 新宮から岡山まではゆっくり準備をして午後一時頃に出れば、午後六時頃に着くだろう。……おや、何かおかしい。いや、確かにおかしいぞ。俺は慌てて路線検索サイトで調べ直してみる。
「この路線検索サイト、一気に新宮から松山までだと、岡山に着くのは午後八時頃になるけど、新宮から岡山までなら午後六時頃に着くと載っている。と言う事は細かく区切って調べれば、案外早く目的地まで行けるのか?」
「十九時間かけたり、途中で一泊しなくてもよさそうだね」
 何だか呆れてしまい、自ずと頬が自虐的に緩む。
「まったくだ。しかしもっと早くに気付いていれば、無駄な時間も金も使わずに済んだのに、もったいない事していたなぁ」
 調べ直してみれば、新宮から岡山へは午前九時出発で午後二時に到着。岡山から宇多津へは一時間程かかり、午後三時半頃の到着。そしてそこから松山に到着するのは午後六時十五分頃となる。なんだ、十九時間もかからずに行けるじゃないか。便利だからと言って、何でも鵜呑みにするものじゃないな。
「明日は八時頃にはチェックアウトしないとならないから、あまり夜更かしはできないな」
「夜更かしする程、何かしたい事も無いけどね。外に出ても観光するには遅いし、もうお腹一杯だから、これから何か食べる気にもなれないよ」
「酒を飲みに出る気分でもないな。大人しく自販機で缶ビールでも買ってきて、テレビ見ながら夜を過ごすとするか。さすがに今から寝るには早いからな」
 修吾はやや背を丸めながら廊下へと出ると、夏虫のごとく自販機へと向かった。

 十九時間に比べればと思っていても、やはり一日中電車の中だと心身共にボロ雑巾のようにくたびれる。昼に岡山駅で買ったサワラ弁当に多少癒されたけれど、昼下がりにはすっかりその効力も尽き果て、車窓に切り取られた、いわゆる美しい風景と言うものに対し、どこかしら嫌悪を抱いたりもした。何も知らずにたなびく草木にこの疲れや焦り、恐怖や苦悩などわかるはずも無いとの思いが強く湧き上がるのと同時に、そうした自分に言い知れぬ恐怖を感じている。
 この旅に出る前の自分に、こうした感情はほとんど無かったはずだ。きっと同じように旅をしていたとしても、ぼんやりと良い風景だと思っていただろう。では何が俺を変えたのか。遺言書か、長旅によって出会った人々か、なかなか辿り着けない事による苛立ちか、それともあの三人に追われているだろう恐怖か。
 いいや違う、きっと生きているからだ。生きると言う事はどこかで戦わねばならないので、憎しみが生まれる。世評、妬み、因縁、暴力、怠惰、快楽、圧力、己など枚挙に暇が無い。考えもせず、流されるがまま陽の傾きを眺めるのは生きているとは言えない。在るだけだ。生きていればどこかしら軋轢が生じ、諦めと怒りが立ち上がり、そうしてバランスを取る。苛立ちは生に対しての物差しの一つ。けれどそれをコントロールできていない現状は、我ながら心配だ。苛立ちは情熱となり人を動かすが、情熱はまた人を殺す。焼かれるな、落ち着け。この心無くしては、どうにもならないぞ。
 そうした荒波のような心の中、松山駅前に立ったのは午後六時半前だった。まず宿を決め、それから今日はどこかへ行くのを諦めて夕食処を探す。名産を調べる暇が無かったので、養殖ヒラメが有名との情報を頼りに適当な寿司屋ののれんをくぐったが、かなり満足のいく味だった。やはり寿司は海に近いところで食べるのがよい。満腹になって夜風に当たると、それまで抱いていた我が身を焦がすだけの苛立ちがすっかり消えてしまい、足取り軽やかに明日香と共に頬緩めて宿に戻った。
 そして翌日、空は抜けるような青空をもって出発を出迎えてくれた。今日はきっと何かある、見付けられるはずだと言った、あての無い予感もこの陽光が背を押してくれているような気がして、俺達は若葉温泉行きのバスに乗り込んだ。
 通勤通学の時間帯を外したからか、車内には主婦や老人が多く、どこかうらぶれた印象を抱いてしまう。他の乗客に比べて年が若い上に見知らぬ土地だから、何となく居心地の悪さを感じつつ、逃げたい心を窓の外へと向ける。相変わらず心躍らない景色なのだが、それでもじっと車内に満ちている何とも言えぬ雰囲気に身を任せているよりはマシだ。
 耳慣れない地名のアナウンスに入れ替わる乗客、たまに目にする全国チェーン店に、俺達と同じ所から乗ってまだ降りようとしない婆さん。変わるもの、変わらないものがこのバスにも詰まっており、それについて思いを馳せていると、バスに揺られるのも悪くはないかもしれないなんて思えてきた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
 そうした感慨に耽っていると、隣に座っている明日香がねだるような眼を向けてきた。
「そこが目的の場所かどうかにかかわらず、温泉に入らない? ほら、ホテルのお風呂もいいんだけど、折角なんだしさ」
「別にいいけれども、着替えはどうするんだ? 荷物のほとんどは宿に置いてきたじゃないか」
「近くに売ってないかな」
「あればいいけどな、俺も温泉入りたいし」
 温泉は老いも若きも魅力的な場所の一つだ。暖かい湯に漬かると言うのももちろんそうだが、効くか効かぬかわからない効用の看板を見ながら肩まで浸かり、足を伸ばして湯気に吐息をぶつけ、場所によっては鉱泉や薬湯の匂いに顔をしかめながら日常を忘れ、そよ風の心地よさに頬緩む。そんな幸せを松山で感じたくもあるのは、紛れも無い事実だ。
 そんな事を考えていると、バスは若葉温泉の近くに停まった。まずは目的地へとばかりに若葉温泉へと向かわず、近所にあるだろう衣服店を探し、着替えを調達しようと試みる。追っ手の事を考えたらそんな呑気な事など考えられないのだが、どこかで息抜きでもしないと身も心ももたない。
 幸い、近くには小さな衣服点が入っているスーパーがあったので、必要なものをそこで調達すると、若葉温泉の前に立った。屋号の記された四角い煙突が雄々しくそびえ、どことなく趣味の良くない入り口が印象的だ。駐車場はそこそこ広いが、まだ車は無い。寂れているのだろうか、それにしては見捨てられた汚さは無いのだが……。
「いないはずだよ、営業時間までまだ間がある。開くまでどこかで昼飯でも食べていようか、そろそろ腹も減ってきたから」
 近くの定職屋で大した美味くもない唐揚げ定食を食べ終え、腹ごなしを兼ねた時間潰しの散歩としてそこらの風景を楽しんだ後、再び若葉温泉の前に立った。今度は車も数台停まっており、どうやら大丈夫な様子だ。中に入ると外見よりも新しい感じを受け、温泉にも期待できる。いやいや、単に風呂に入りに来ただけじゃない、ここが現在考えうる最重要手がかり施設の一つなのだ。俺は番台に座っている、すっかり禿げ上がった頭の爺さんに近付く。
「すみません、少しお聞きしたい事があるんですけど、いいですか」
「あぁ、はい、何でしょう」
「この辺りにいるらしいんですが、飯田憲太郎と言う人物はご存知でしょうか。七十か八十くらいの男性なんですけど」
 腕を組み、軽く頭を捻ったりあごに手を添えたりする様子に、俺は祈る。どうかその口から軽快な驚きと共に、知っていると言ってくれ、頼むから喜びでもってこの祈りを受け入れてくれ。名も知らぬ爺さんだけが、希望の糸口そのものなのだ。
「さぁ、心当たり無いですね。ここではもう四十年近く住んでいますから、近所の人や馴染みの人の顔や名前を知っているつもりですけど、そんな人は」
「そうですか、失礼しました」
 ここじゃないのか、違うのか。絶対の自信があったし、それ以上にここの他に候補地となりうる場所を見付けられなかっただけに、奈落へ突き落とされた気分だ。別の人に訊こうかとも思ったけれど、四十年この地に住んでいて、かつこうして地域をよく知る人が知らないくらいだ、いないんだろう。
 落莫たる気概は温泉に入っても、ようやく溜息の仕方を思い出すのがやっとだった。湯上りの明日香もそれは同じ様子で、二人してぼんやりと天井に視線をさまよわせ、時折思い出したかのように音を伴った重苦しい吐息を中空に吐き出すばかり。
「どこが違っていたのかな、あの流れで間違い無いと思ったんだけど、別の解釈があるのかな」
「わからない、もう何もかも。どうしようかな、本当に。宿に戻るか、考えるか。まぁ、どちらにせよ、今はどうにもならないだろうけどね」
「それじゃあ、どうするの」
 不安げな明日香の視線から俺は背けることしかできない。
「さぁな、その近い未来すら今は考えられえない。五分後、十分後どうなっているかわからないけど、しばらくこうしていたいな。動こうにも、一歩目をどこに踏み出せばいいのかわからないから、どうしようもない」
「うん……」
 どのくらいそうしていただろう。ロビーにあるテレビを眺めたり、売店でジュースを買ったりなどして時間を潰していたら、不意に俺の携帯電話が鳴り響いた。驚くと同時に、周囲の視線が集まった事に対する気恥ずかしさと申し訳なさにいたたまれず、誰からの電話なのか確認もせずに通話ボタンを押して耳に持っていった。
「もしもし」
「あぁ、もしもし、広岡だけど」
 広岡。今これほど頼もしい相手もいない。
「そっちはどうなんだ、温泉には着いたのか?」
「あぁ、着いたどころかゆっくりと堪能して、どうしたらいいものか途方に暮れていたところだよ」
「と言う事は、そこじゃなかったのか」
「そうみたいだ」
 改めて大きな溜息が生まれる。こんな事したくないのだが、意思と関係無くしてしまい、すぐに苦笑いでもって誤魔化そうとしてしまう。
「そう言う広岡は当然、何かわかったから電話してきたんだよな」
「当たり前だろう、もうこれしか無いだろうと言うのを見付けたんだよ」
 力強い広岡の言葉に、自ずと胸が高鳴る。
「本当か、じゃあそれは何だ? 早く教えてくれ」
「おいおい、落ち着けよ。そうして我を忘れたところで、上手くいくものもそうでなくなるんだから。ほら、まず深呼吸でもしろよ」
 言われた通り、二度三度と広岡にも聞こえるように深呼吸をすると、電話口で広岡も苦笑しているみたいだった。
「落ち着いたかな。それじゃあ話すけれど、若葉ってのは地名でも施設の名称でもないんだよ。もっと違う若葉が愛媛の松山市にあったんだ」
「何だよ、もったいぶらずに教えろよな」
「わかったわかった、だからそんなに慌てるなよ」
 そう言うが、これ以上は抑えられない。もう今は広岡の言葉しか進むべき道は無いんだ、この鬱屈した苛立ちをすぐにでも情熱に変えないと、どうにかなってしまいそうだ。だからもう、冗談めかしてじらされるのも限界で、俺は言葉にならない圧力でもって先を促す。すると広岡は一つ意を決したように、小鼻を鳴らした。
「いやな、松山市窪野町の方へは行ってみたのか?」
 窪野町? どこだそこは。
「いいや、行ってないし、そんな所は初めて聞いた場所だよ」
「そうか。いやな、そこの公民館前には正岡子規の歌碑があり、こう言う句が残されているんだ。『旅人のうた登り行く若葉かな』。松山市の若葉とはきっとこの事じゃないかと思うし、それに窪野町には『一遍上人窪寺御修行之旧跡』と言う塔みたいなのもあるらしいから、暗号の答えの一つだろう一遍上人とも合致している。だから、もし愛媛がその謎の目的地になるならば、松山市窪野町がその最有力候補だと思うんだ」
「松山市窪野町、か」
 話を聞く限りではこれ以上無い場所でもあるし、もう行くあての無い俺達にしてみれば、例えそこが違っていたとしても、動けるのならば喜ばしい。今この閉塞感を打ち破れるのならば、どこだっていい。
「ありがとう、さっそくこれから向かってみるよ」
「あぁ、また何かあったら連絡くれよな」
 通話を終えると、大きく息を吐いてからすっくと立ち上がり、修吾は生きた瞳で明日香に視線を移した。
「次に行く場所が決まったから、さっそく行こうか」
「うん。でもその前にこれ、宿に置いてから行かない?」
 確かに洗濯物を手にしたまま移動するのは気が引けたので、明日香の言う通り、一旦宿へ戻る事に決めた。
 次の目的地である窪野町は宿からかなり遠く、かつへんぴな場所なので今の時間から向かえば、もしかしたら戻ってこられないかもしれない。なので宿側に明日もここを使いたいからと交渉し、その許可をもらった。料金は前払いとなったが、これは当然の事だろう。後顧の憂いをすっかり解消してから、俺達は窪野町へと出発した。
 明日行く事も考えた。けれどそうしなかったのは、あの連中も狙っているだろうから、一刻も早く行かなければと言う思い。最初の暗号文の時みたいに、のんびりとした旅ではなくなってきている。あいつらは本気だ。だからこそ、先を制しなければ全てが無意味になるどころか、爺さんの想いすら砕かれてしまうだろう。
 様々な交通機関を駆使して窪野橋のバス待機所前に着いた時には、陽も傾き始めた頃だった。残り時間に不安を抱きつつ、周囲を見渡してみると、一つの句碑が立っているのに気付いた。
『旅人のうた登り行く若葉かな』
 広岡が言っていた正岡子規の句碑がここにあった。そしてその近くに『一遍上人窪寺御修行之旧跡』と記された塔も建てられており、暗号が示しているのはここだろうと強く思える。けれどここには俺達の他に人を見ないので、より人がいるだろう公民館へと向かう。人がいれば、何らかの情報を得られるだろう。
 この辺りはかなり自然が多く、虫や鳥の声で足音がかき消されるくらいだ。胸焼けするくらい緑の匂いが鼻をつき、肺を満たし、実家の辺りでは味わえない非日常にどこか心が騒いでいるのもまた事実。ついと横に目を移せば明日香の頬も自然と緩み、それを見ていると何だか俺の頬までそうなってきて、けれどバレないように遠くの木々へ目を遣った。
 公民館前に車や自転車は一台も無かった。不思議に思い、玄関の前に立てば、どうやら今日は休館日との事だった。修吾と明日香は顔を見合わせほぼ同時に天を仰ぐと、溜息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。
「折角こんなとこまで来たのに、よりにもよって休館日かよ」
「帰る?」
 素っ気無い明日香の言葉も、また絶望の表れだろう。
「それしか選択肢は無いんだろうけど、ここまで来るの結構大変だったから、そうやすやすと帰りたくないんだよな。けれど周りを見ても人はいないし、あぁ……」
「でも、どっちか早く決めないと、帰りのバス無くなっちゃうよ」
「わかってる」
 出直すべきなのだろう。ここでこうしていても事態は好転しないどころか、下手すれば野宿をする羽目になってしまう。夏とは言え見知らぬ土地で何の準備も無く、いつ天気が悪化するかもしれない上、虫などから守る術も無いのだ、到底耐えられるものじゃない。ならば、すぐにでも引き返すのが賢明なのだ。
 わかっているのだが、足と心が動かない。きっとそれは明日香もそうなのだろう、帰ろうと提案してきたものの、実際に行動しようとする素振りが見えない。ただじっと俺の顔を覗き込んだり、ぼんやり周りの風景を眺めたりしている。
 どれくらいそうしていたろうか、不意に風の音とも木々のざわめきとも違う、耳慣れた音が届いてきた。さっと二人して音の方へ体ごと向けると、一人の老人が自転車にまたがって修吾達に近付いてきている姿があった。二人に気付いた老人は幾らかの驚きと多分の不審な眼差し向けるけど、笑顔が彼を出迎えてくれているからか、ふっとその頬が緩んだ。修吾と明日香は立ち上がり、軽く一礼する。
「何してるんだ、あんた達」
 老人が二人の前に立つと、舐めるような視線を伴って口を開いてきた。そんな不躾な様子にも修吾は柔らかい表情でもって対応する。
「人を捜していてここまで来たんですけど、公民館は閉まっているし、辺りに人はいないしで、途方に暮れていたんです」
「この辺りにいる人をかい?」
「えぇ、この辺にいるはずなんですけど、飯田憲太郎と言う方、ご存知でしょうか?」
 その名を聞いた途端、老人の顔が僅かに晴れた。
「あぁ、知ってるよ。憲太郎さんなら、うちの近所だ」
「本当ですか」
 僅かに抱いていた期待が一気に爆発し、つい大声となってしまった。やや老人はたじろいだが、すぐに元の調子を取り戻し、頷く。
「嘘なんてついても、どうしようもないだろう。だからすぐにでも案内してやりたいんだが、俺も用事があってここに来たんで、それを済ませないとちょっとなぁ」
「それを済ませたらいいんですね、だったら手伝いますよ。なぁ、明日香」
「はい、もし必要ならお手伝いします」
「そうかい、なら頼もうかな。いやな、鍵を無くしたんだよ、家の鍵を。今は予備ので出入りしているけど、危ないだろ、最近は何かと物騒だから、この辺でも何が起こるかわからないしよ。だからなぁ、見付けてくれたら飯田さんとこに案内するよ。鍵は確かこの辺に落としたはずなんだ、財布取ったときに落ちた可能性あるから」
 老人が地面を見回すのと同時に、修吾と明日香は動いていた。二人は身をかがめ、それらしいものはないかと鵜の目鷹の目で探す。その様子を見て老人も負けじと、慌てて探し始めた。
 鍵ならば銀色だろうと光るものはないかと、金属ならばそこらにある石とぶつかれば違った音を出すだろうと目を、手を、足を使って四つん這いになって探していると、不意に少し離れていた明日香がすっくと立ち上がった。
「あの、これですか?」
「あぁ、そう、これだ。いや、ありがとう。一人だと見付からなかったかもしれん」
 明日香が鍵を渡すと老人は満面の笑みをもってそれを受け取り、膝の砂埃を払った。俺達もそれにならう。
「それじゃあ、約束通り案内しよう」
「お願いします」
 世間話やこの旅何故しているのかなどを話しながら老人に連れてこられた家は、歴史を感じさせると言えば聞こえがいいけれど、有り体に言えばボロ家である。やや入るのに逡巡していると、それを察してかどうかわからないけれども、老人はにこやかにその玄関をくぐった。
「憲太郎さん、憲太郎さんはいるかい」
 短い廊下に響く声を受け、奥から物音がした。いる、この先に今までの誰よりも逢いたかった人物がいるんだ。緊張を隠せずにじっと待っていると、奥から足音がどんどんと近付いてきた。
「あぁ、何だい?」
 姿を見せたのは痩せぎすで豊かな白髪を有した男性で、俺と明日香を見るなり訝しげな視線をぶつけ、そうしてどこか説明を促すように老人を見詰める。
「いやな、この子達が憲太郎さんにどうしても会いたいらしくて、ここに連れてきたんだ。何でも、お爺さんの遺言らしくてな」
「お爺さんの、遺言?」
 眉根を寄せて軽く背を曲げる飯田老人に対し、俺は頭を下げた後で生きた眼を向ける。
「僕達は藤崎重光の孫で、祖父が残した遺言書の中でここに訪れれば何かあるとあったので、この度ここへ訪れさせてもらいました。僕は藤崎修吾で、こっちは妹の明日香です」
「重光のお孫さんか」
 飯田老人は大きく目を剥いて、二人を交互に見詰める。今度はここを案内してくれた老人が俺達をどこか訝しそうに、それでいて興味深そうに見ていた。
「憲太郎さん、この子らを知っているのかい?」
「直接は知らないが、彼らのお爺さんである人にはそれはもう、世話になったもんだ」
「そうかい、それじゃ俺は帰るとするよ。鍵見付けてくれて、ありがとうな」
 老人と礼を交わして別れると、再び飯田老人と礼を交わす。
「とりあえず上がりなよ。話したい事あるんだろうし、俺も重光さんの事を聞きたいからよ」
「それではお邪魔します」
 通された今は外見通りのもので、そう綺麗でも広くもなかったが、すっきりと片付いているので嫌悪感など抱かず、薄い座布団にすぐ腰を下ろせた。すると間も無く、飯田老人の奥さんだろう人が冷たい麦茶を差し出し、またすぐ台所の方へ引っ込んでしまった。とりあえずそれを一口飲んでから、居住まいを正す。それを見てから、飯田老人は重そうに口を開いた。
「重光の遺言でここに来たと言っていたが、あいつは亡くなったのかい?」
「はい、二年前に病気で」
「そうか、惜しい人物を亡くしたなぁ。長生きして欲しい人はどんどんと先立たれ、俺みたいなやつが永らえるってのも人生と言うか何と言うか、神様も意地悪だね」
 心から落ち込む飯田老人にかける言葉など見付からず、またどんな表情をすればいいのかもわからず、黙って次の言葉を待つ。
「重光とは何年か前に一度会った以来で、それからほとんど連絡取らなかったな。まぁ、取りたくともあの人、自分の事を話さなかったかならなぁ。……重光、家ではどんな様子だったんだい?」
「昔話はほとんどと言うか、全くしませんでしたね。一人自室で詰め将棋とか俳句などを楽しんでいましたが、家族関係が悪かったかと言えばそんな事は無く、みんな祖父が好きでしたし、よく可愛がってもらっていました」
「昔話をしなかった?」
 不思議そうな顔をして飯田老人が修吾を見詰める。
「えぇ、なのでこの旅の途中で若い頃に研究者だったと初めて知ったくらいです。父すらその事を知らなかったくらいで、遺品の中に若い頃のアルバムや思い出の品みたいな物が一切ありませんでしたね」
「何でまた、あの頃の事をそんなに隠したがっていたんだろう。あんなにも優秀な人なんだから、普通は少しくらい話したり、自慢したりするものだろうに」
 腕組みして首を捻る飯田老人の気持ちは痛いほどよくわかる。そこまで隠す過去とは一体何なのか、それをどうしても知りたい。何故そうまでしたのかを知った時、良くも悪くも俺の中で何か変わるかもしれない。
「そこで、祖父の若い頃のお話を聞きたいんです。自分の祖父が色んな人にすごいすごいと言われているのに、僕ら家族がその事を知らないのはどうかと思って」
 修吾の眼差しに、飯田老人は懐かしそうな視線と微笑を返す。
「重光の若い頃か、そうだなぁ……俺と重光は仲良しで、よく二人で行動していたよ。暇があれば飯を食いに外へ連れ立ったり、時に安酒を飲んでは互いに夢を語り合ったものだ。そう、二人でよくそんな話をしては盛り上がったり、酔い潰れ、そして朝になって二人ともフラフラになってもうこんなに飲むものかと言い合うんだが、夕方になればすっかり忘れて、また同じ事を繰り返してなぁ……いや、懐かしい」
「夢って、どんなものだったんですか?」
 それだ、それを知りたい。一体爺さんは何を目指していたんだろうか。あの三人組が求めるものも、きっとそれに関係しているだろう。偉大な研究者として名を馳せていた爺さんが追い求めていたものとは、何なんだ?
「夢かぁ……色んな事を話していたけれど、よく話していたのが二人でいつか世間をあっと言わせる物を作ろうと、後世にまで残るものを生み出そうなんてものだったな。俺は光を収束させ、それを応用できないかと考えていたもんだ。いわゆるレーザー技術だけど、上手くいかなくてね、結局実用化には至らなかったよ。重光のは何だったかなぁ……確か花を咲かせたいとか言っていたはずだ」
「花、ですか」
 全くもって意外だった。研究者が花。科学を突き詰めると、自然への憧れが生まれてくるものなのだろうか。
「あぁ、そうだ、確かに花を咲かせたいとか言っていた。造花とは違う、科学ならではの花をとな。ただ、一緒にやっていた時にそれを実現できたとかって話は聞かなかったから、結局できたかどうかはわからずじまい。でも、重光は俺なんかより比べものにならないくらい才能のある男だったから、もしかしたらその後、完成させたのかもしれないけど」
「そうなんですか」
 また駄目なのか、ここでも爺さんが具体的に何を目指していたのか、結局わからずじまいなのか。科学の花を咲かせたいと言っても、わかるわけが無い。当時一緒にいた人すらわからなかったのなら、どうすればいいんだ。
 明日香の方を一瞥すれば、同じように失意の波に飲まれかかっている。それもそうだ、長旅を続け、変な三人組に狙われてようやく辿り着いたのに、曖昧なままで終わりかけているのだから、遣る瀬無い。
 そんな二人の様子を見て気の毒そうに飯田老人も顔を歪ませるが、どう声をかけていいものかわからないらしく、ややぬるくなった麦茶に手を伸ばす。軽く一口飲み終えてからコップを置く音が、やけに寒々しく響いた。
「あの、祖父から何か受け取ったものなんか、ありませんかね?」
「受け取ったもの……」
 訪れかけた沈黙を追い払うよう、先に口を開いたのは修吾だった。それを受けて明日香や飯田老人の表情が僅かに緩んだが、当の飯田老人本人は何かを思い出そうと頻りにあごを触り、鼻からくぐもった息を吐く。
「あぁ、もしかしたらあれかな。ちょっと待っていなさい」
 パッと顔が晴れたかと思うが早いか、飯田老人は弾かれたように立ち上がり、どこかの部屋へと向かった。俺と明日香は互いに顔を見合わせ、釣り上がる口元を隠すかのように麦茶を口に運ぶ。少し遠くから聞こえてくる物音に、心が躍りだす。そうしてややあって、飯田老人がにこやかに一つの箱を持ってきた。
「これだ、数年前重光が来た時、俺にこれを渡したんだよ。あの時重光は自分の遺言の事で訪ねてくる人物に渡してくれと、これを俺に託したんだよな。何が遺言だ、お前が死ぬ時には俺もとっくに死んでいるだろうと笑い飛ばしたんだが、まさか本当にそうなるとはなぁ……っと、あまり辛気臭い話を続けるのも何だな、開けてみなよ。俺もあの重光が残したものをまだ見ていないんだ、是非見せてくれないかな」
「えぇ、もちろん」
 差し出された箱は三瀬さんのところで見た桐箱と同じ物だった。この中に答えが入っているのだろうか。緊張を覚えつつ、そっと上蓋に手をかけると、ゆっくりと上に持って行く。擦れ合う音に周囲の空気も次第に固まっていき、上蓋が取れた時にはそれが爆発して、三人とも身を乗り出した。

2へ← タイトルへ →4へ