二.第一の謎

 S大学までは自宅から電車を乗り継いで、おおよそ二時間半程かかった。少し遠いからと朝食後そうのんびりせずに出かけたものの、初めて訪れる土地なので幾らか迷い、ようやく着いた頃にはもう昼時になろうかという時間帯だった。夏休み期間中らしく、学生はあまりいないみたいだが、それでも大学が開かれているために用件は果たせそうだ。
 とりあえず敷地内に入ったものの、どこが貸し金庫のある棟なのかよくわからない。見た目なら、まだギリギリ大学生に見えなくも無いだろうから、いきなり不審者扱いはされないだろうけど、右に左にときょろきょろしていたら怪しまれそうだ。ちらりと明日香を見遣ると、俺とは違って動じた素振りは無く、涼しげな顔をして歩いている。
「なぁ明日香、お前どこに行けばいいのかわかるのか? 俺は大学行った事が無いから、構造とかさっぱりでさ」
「私も知らないよ」
 事も無げに答えたまま、道なりに歩き続ける。こうした明日香の肝の強さに今更ながら感心していると、学内の職員らしき人を見かけた。急いで駆け寄りたい気持ちを抑えつつ、やや早足で近付いていった。
「すみません、この学校の職員の方ですか」
「はい、そうですが」
 年の頃三十半ばと言った感じの男性は大きな腹にサスペンダーが食い込むような巨漢だった。額に滲む汗を頻りにハンカチで拭いながら、人当たりの良さそうな笑みを向けている。けれどそれはどこか暑苦しく、妙な不快感を与えていた。
「あの、貸し金庫のある場所はどこでしょうか。祖父の用件で来た者ですが、初めてここを訪れたもので、勝手がわからなくて」
「貸し金庫、ですか」
「はい、ありますよね?」
 訊き返されたのでやや不安げになりこの男を探るように見ると、男は笑みを浮かべながら何度か頭を下げ、また滲んだ汗をハンカチで拭った。
「えぇ、ありますよ。それでしたら、ここを真っ直ぐ行って、右に曲がったところにある建物に学部受付と書かれた場所がありますから、そこで事情を話せば大丈夫だと思います。何でしたら、ご案内しましょうか?」
「あぁ、いえ、いいです。ありがとうございました」
 二人は頭を下げると、示された道を力強く歩き出した。迷わなければ敷地もそう広く感じず、幾らもしないうちに目的の建物に着いた。中に入り標識の通り進めば、学部受付らしきものが目に入ったので、恐る恐る窓口に歩み寄る。
「すみません、ちょっといいですか」
「はい、何でしょうか」
 大きめの眼鏡をかけた初老の男が好々爺然とした笑みを浮かべ、向き直ってきた。修吾は急いでカバンから重光の遺言書を取り出すと、丁寧に彼へと差し出す。
「実は祖父がここの貸し金庫を使っているみたいなのですが、その品物を受け取りに来ました。えっと、これが証拠です。あっ、それと身分証明書として、これも」
 続いて運転免許証を差し出すと、初老の男はそれらを見比べ、遺言書と免許証を修吾に返すと、他の職員と話し始めた。
「どうなるんだろうね」
「いつ預けたのかわからないけど、あまりに古いなら残っていないかもな。もし無ければ諦めるしかないさ、元々無かったものとしてな」
「でも、あって欲しいよね」
 不安からかつい口をついて止まらない疑惑ともしもの時のための心構えを話していると、先程の男が窓口に戻ってきた。
「確かに貸し金庫使用中との記録と御家族との確認が取れましたので、御案内しますね。どうぞ、こちらです」
 男が部署内から出てくると、先立って歩き始めた。見た目よりもずっと健脚なようで、早足気味でどんどん進んでいく。大学内が珍しくて色々見ておきたい修吾はその暇も無く、やや残念そうな面持ちだが、貸し金庫内の品物を手に入れた後でも良いかと考え直したらしく、遅れないように歩を進める。
「あれ、明日香ちゃんじゃない」
 こちらに向かって歩いてきている太目の女性が驚いた声をあげて近寄ってくると、明日香も相好を崩し、手を振る。自ずと修吾と男の歩みも鈍り、止まった。
「どうしたの、こんなとこで何してるの」
「ちょっとね。それより元気だった?」
「元気だよ。明日香ちゃんも元気そうだね。あっ、もしかしてお兄さんと一緒なのかな。こんにちは」
 修吾はぎこちない笑みを浮かべながら頭を下げる。
「こんにちは。なぁ明日香、用事は俺が済ませておくから、友達と一緒にいてもいいぞ。つもる話もあるだろう」
「でも……」
 あぁ、明日香はここまで一緒についてきたから、友達と会うのもためらっているんだ。
「心配するなって、独り占めしたりしないから。ほら、久々に会ったんだろ。どうせ用事なんてすぐ終わるし、一人でもパパッとできるからよ」
「ありがとう、そうするね。行こう、カナミちゃん」
 友人に連れ立たれどこかへと行った明日香と別れ、俺は再び職員の人と共に歩き続ける。そうして図書館と思しき建物の中に入ると、受付カウンターの奥にある通路に進み、エレベーターで地下二階へ。大学の造りもよくわからないので、エレベーターで地下に行くという行為には、思わずときめきにも似た緊張感が胸を占めた。
 地下二階はかび臭い臭いがした。日の当たらない場所だからか、古い書籍が置かれているからかその両方かわからないが、何かがあるのを予感させる匂いだとすら思える。幾らか進んでから右手に折れ、それからまた少し進むと、それらしい場所に着いた。職員の人がポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでから俺の方を振り返った。
「番号、何番でしたっけ」
 カバンから遺言書を取り出して伝えると、職員の人が番号を入力してから鍵を回す。すると金庫が開き、棚が引き出された。
「これで間違い無いですか?」
 差し出されたのは一通の封筒だった。金銭や権利書、そして宝石類などは期待していなかったとはいえ、薄っぺらい封筒一通だけとは思いもよらなかった。本当にこれがそうなのかと疑いたくもなったが、裏を見れば確かに爺さんのものらしき筆跡で藤崎重光と署名されている。
「えぇ、間違いありません」
 それを受け取ると、緊張しながらもすぐに開封してみた。一体中には何があるのだろうか、爺さんはこんな所の貸し金庫使ってまで何を保管しておきたかったのか。恐る恐る中を見れば、一通の便箋があるだけだった。取り出し、傷付けないよう丁寧に開く。


『かせん集まる場所には堅香子の花がよく栄える。
  その場所にて商いをしているであろう三瀬行正を訪ねると良い』


 一体何だこれは、さっぱりわからない。この暗号文らしきものが指し示す場所に向かえばいいのだろうが、一体どこに向かえばいいのか見当もつかない。かせん集まる場所? 堅香子の花? 何を表しているんだろうか。
「間違い無いようでしたら、戻りますが」
 戻ろうと促す男に修吾は慌てて頷くと、それをカバンにしまい、元来た道を辿った。帰りはきっと心も足も軽やかになっているだろうと思っていた修吾も、まるで予測していなかった展開に調子を乱したのか、エレベーターから降りる時に足をつっかけて、転びそうになったりもした。
 学部受付にて丁寧に礼を言って別れると、そこから少し離れたロビーで小さな溜息をつくなり、長椅子に腰を下ろした。そうしてカバンを撫でながら、天井に向かって大きく息を吐く。蛍光灯の光がやや目に痛いが、そんな事はどうでもいい。
 まさかこんな暗号文だけが待っているとは、思いもしなかった。これが意味するものとは一体何だろうか、そしてこうまでして隠す爺さんの遺品とはどんなものなんだろうか。ただのアルバムや思い出の品なら、こうも手間かけないだろう。となると、俺達の知らない爺さんの顔があり、それに関する何かなのだろうか。
 どのくらいそうしていただろうか、ふと気が付くとすぐ側に誰かが立っているのに驚いた。俺はすぐ気配のある方へ向くと、年の頃七十後半だろうかなり年配の老人が俺をじっと見詰めていた。陰気な眼が老獪な蛇のようで、思わず俺は一歩分体を遠ざけた。
「君、貸し金庫室に降りたそうだが、一体何を引き出してきたのかね」
 しわがれた声がより一層不気味で、思わず修吾の表情も不躾気味に険しくなった。それを察した老人は慌てて笑顔を見せる。
「突然こんな事を言われても答えるわけないな、すまない。私はこの大学で機械工学科の教授をしていた多田清彦と言う者だ。教授職はもう何年も前に引退しているのだが、今も研究のためこうして大学に来る事があるんだよ。それで先程事務室に行ったら、貸し金庫の話題になっていたものでね、よく聞いてみれば藤崎重光のものではないか」
「祖父を知っているんですか?」
 驚いて目を丸くしたのは修吾だけではなく、老人もだった。
「ほう、君は重光の孫か」
「えぇ、そうですが、祖父とはどう言った関係で?」
 大学の教授をしていたと言うこの爺さんとうちの爺さんとの間に、一体どんな関係があると言うのだろうか。何だか傍らにいるだけで苛立ってくるこの爺さんから一刻も早く離れたいが、何かあの怪文に関して知っているかもしれないので、もう少しだけ我慢して話を聞いておこう。
「重光とは若い頃、同じ研究所で働いていた仲だよ。もう五十年近くも前になるかな」
「祖父が研究員をしていたんですか」
 ひどく驚く修吾に多田が不思議そうな顔をする。
「知らなかったのかね、君は」
「えぇ、祖父は過去を全く話さず、アルバムなども残していませんでしたから」
「ふむ、なるほど。話を戻すけど、重光は悔しいが、それはもう優秀な研究者で、様々な功績を残したものだ。中には今日の科学の基礎となったものまであるくらいだ。そんな重光がある時を境にして研究職を辞め、以後一切そうしたものから遠ざかったと聞く。そんな男が貸し金庫に何かを残していたんだ、きっと何かすごい研究結果を残していたに違いない。さぁ、見せてくれたまえ」
「お断りさせてもらいます」
 金庫内にあったのはよくわからない暗号文だけだったが、こんな胡散臭い爺さんに見せる気にはなれない。それに聞けば、爺さんは偉大な科学者らしい。そんな人が残した暗号文を易々と見せて、俺よりも先に解読して遺品を奪われでもしたら、目も当てられない。見せるものか。
「何故だ、別にそれをくれとは言っていないじゃないか。ただ見せてくれと言っているだけだぞ」
「これは数少ない祖父の遺品ですし、あまり他人に見せるものではないと思いますので。それではこれで失礼します」
「待て」
 立ち上がって会釈もそこそこに踵を返すと、多田が修吾の腕を掴んだ。しわだらけの細い腕だが、思ったよりも力強い。
「それを見せるんだ。きっと君には扱えない代物なんだろう、そうなんだろう」
 必死な多田を修吾は睨みつける。
「祖父とどんな関係だったとしても、遺言でこれは僕のものとされました。これは祖父の物でもあるが、僕の物でもある。なので、貴方に見せる義理などありませんから」
「えぇい、いいから見せるんだ」
 けれど所詮は若者と老人、修吾は勢い良く腕を振り解くと、あてもなく走った。後ろで多田が何やら叫んでいたが、全く気にせず振り返らず、道なりに走り続けた。そうして幾らか進んだところで学生食堂らしき場所についたので、周囲を確認してから中へ入る。空腹の上、学食とはどんな味か確かめてみたくも思うが、今は逃げなければならない。とりあえずここでほとぼりを冷ますのがいいだろう。
「あれ、お兄ちゃん。もう終わったの?」
 これからどういうルートで逃げようか息を整えながら考えていると、食堂から明日香が友達と一緒に出てきた。
「あぁ、終わったけど、何か変なジジイがそれをよこせとか言って、俺を追いかけている。詳しい事は後で話す、とにかく今はここから離れよう」
 真剣な修吾の眼差しに、明日香がすんなりと頷く。
「あ、うん。それじゃカナミちゃん、また」
「よくわからないけど、気を付けてね明日香ちゃん」
 S大学から出るとタクシーに乗り、乗り継ぎの駅まで向かった。車中は変な緊張感があり、明日香は聞きたそうな眼を向けていたが、修吾の様子に口を開けずにいた。そうして駅についてタクシーから降りると、周囲を見回した修吾がようやく安堵の息を大きく吐き出した。自分のいない間に一体何が起き、どうなっているのかと明日香が頻りに訊ねるが、修吾はまだ何も言わない。そうして無言のまま側にあったラーメン屋に入店した。
「何がどうなっているの。お爺ちゃんが金庫に入れていた物は何なの?」
 注文を済ませるなり、明日香にしては珍しく早口でまくし立ててきた。
「順を追って話そう」
 修吾は水を一口飲んでから、しっかりと明日香の目を見る。
「まず、お前と別れてから図書館みたいなところでエレベーターに乗り、地下にあった貸し金庫室で爺さんの遺品を受け取ったんだ。それがこれ」
 修吾はカバンの中から一通の封筒を差し出し、明日香に中を見るよう促す。明日香はじっくりとそれを見ていたが、小首を捻る事しかできなかった。
「何なの、これ」
「俺にもわからない。この暗号文みたいなのが何を示しているのか見当もつかないけど、ともかく三瀬行正と言う人を訪ねればいいはずだ。えぇと、話を戻そう。そうしてロビーに戻って一息ついていたら、七十越えているだろう爺さんが突然やってきて、金庫に入っていた物を見せろとか言ってきたんだ。何でも、自分は爺さんが若い頃に一緒に働いていた研究者仲間だと言ってね」
「研究者って、お爺ちゃんが?」
「あぁ、何でもすごく優秀な研究者だったんだと。そんな人が残した物を見たいと言ってきたんだけど、その爺さんが何と言うか、すごく嫌な感じの奴でね。もう見た目と言うか雰囲気で信用できそうもないから断ったら、俺の腕を掴んできたんだよ。それで怖くなって、腕を振り解いて逃げていたところでお前を見付けたから、説明もそこそこにこうしたわけだ」
「そうなんだ」
 不安なのか恐怖なのか、それとも期待なのか判然としない表情のまま、それきり明日香は黙ってしまった。訪れる重い空気に自ずと修吾も黙ってしまい、封筒をしまうと手持ち無沙汰気味に周囲を見回す。自分たちを含め三組しかいないラーメン屋で、今までの話をどこまで聞かれたのかと思うと、修吾はやや心配そうに顔を僅かに伏せた。
 考えるべき事は多い。暗号文の謎解き、こうまでして隠している爺さんの遺品、大学で出会ったあの変な爺さん、そしてうちの爺さんが何者だったのか。それまでは何て事の無かった日々が、急に色を変えてしまった。行き先には何がある、どうなる。俺はどうすべきなんだ。
「お待たせしました、醤油ラーメンのお客様」
 手を挙げ、目の前に置いてもらう。そう、ラーメン屋で考えるべき事は何を食べるか、どう食べるかだけで充分なんだ。暗号文については帰宅してからゆっくりと考えようと、修吾は二杯も三杯もおろしニンニクを入れたラーメンを啜り始めた。

 帰宅して母に封筒を見せても、答えは得られなかった。それどころか母も爺さんが研究者だった事を知らず、俺達と同じように驚いていた。こうなるともう父しかいないと、夕食時に訊ねてみたものの、やはり同じ。何でも父が生まれた時には研究者の過去を全て捨て切っていたらしく、また暗号が何を意味するのか心当たりも一切無いとの事。
「結局、この暗号を解かないと何なのかわからないなんて、お爺ちゃんも何でまたこんな面倒な事をしたんだろうね」
「それだけ簡単には見付けられたくない物じゃないの」
 母の疑問も明日香の答えもまぁ納得がいく。そうまでして何を隠したかったのか、あの変な爺さんが言っていたような研究者としての爺さんにまつわる物なのか。どちらにせよ、昨日より今日、今日の午前より今の方が知りたいと強く思えてきている。
「この文が何を意味しているのかわからんが、堅香子の花と言うのには聞き覚えと言うか、見覚えがあるな」
 今までじっと暗号文を見詰めていた父が口を開くと、家族全員が振り向いた。
「確かこれ、和歌か短歌か、古典の何かだったような気がする。ほら爺さん、俳句とか趣味だったろう。爺さんが花をどうこうなんてのは聞いた事も無いし、見た事も無い。それにほら、堅香子の花なんて言い回しは昔っぽいだろう」
「なるほどね」
 父の記憶を頼りにするわけじゃないが、言われてみれば確かにそんな気もする。字面からして日本古来の花っぽいし、古典の和歌などに出てきそうだ。
「まぁ、ネットで調べてみるよ。検索すりゃ、何か見付かるだろうさ」
「今は便利だな」
 父の言葉を背に重光の書簡を手にして自室に戻ると、修吾はすぐにパソコンを起動する。見慣れた起動画面がいつもの何倍ももどかしく、落ち着かない。やがて起動し終えるとすぐさまインターネットにアクセスし、使い慣れた検索サイトに飛ぶ。
『かせん集まる場所には堅香子の花がよく栄える』
 まずはこれで検索してみたものの、該当するページが無いと表示されてしまった。少し検索するには長文過ぎたかもしれない、もっと区切ってやるべきだな。
『かせん集まる場所』
 やはり見付からない。かせんとは多分、河川の事なのだろうが、そんな場所は日本各地どこにでもある。となるとやはり、この暗号の中で最も特徴のあるこれを検索した方がいいのだろう。
『堅香子の花』
 思った通り、かなりの数がヒットした。とりあえず上にあるそれらしいサイトを開いてみると、父の言った通りどうやら短歌に用いられている言葉らしい。更によく調べてみれば、堅香子の花とは今で言う片栗の事らしく、歌も高校の古文の授業で聞いた事のある大伴家持の歌らしい。
『もののふの 八十をとめらが 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花』
 堅香子の花と言うのを使っている短歌はどうやらこれだけらしいのだが、本当にこれなのだろうか。堅香子の花としては合致したけれど、もしかしたら別の何かかもしれない。とりあえず大伴家持から調べてみよう。
 大伴家持は奈良時代の政治家であり歌人、三十六歌仙の一人。日本に現存する最古の歌集である万葉集の中心編纂人物である。とまぁ、こう調べてみると偉大な人物であり、特に難癖のつける相手でもないのだが……。
「ねぇ、何かわかった?」
 断りも無く入ってくるなり、明日香は修吾の背後に立った。それも日常の一部らしく、修吾は取り立てて気にも留めずにマウスを動かす。
「ある程度はね。けれどまだ、確証は無い。調べている途中だよ」
「どこまでわかったのか、教えてよ」
 パソコンから目を離さず、修吾はこれまでのまとめを簡潔に伝えた。明日香は黙って頷きながら、何やら思案深げに首を捻っていたが、やがてぱっと顔を明らめて、修吾の隣に立った。
「ねぇお兄ちゃん、大伴家持の歌がこの暗号文にかかっているんだとしたら、かせんてのは歌の仙人、六歌仙とかじゃないのかな。そうしたら、かせん集まるってのは万葉集の事だと思うんだけど」
「なるほど、そうかもしれない」
 となると、万葉集の中で堅香子の花がよく栄えると言うのは、大伴家持の歌に注目しろという事かもしれない。彼の人生はよく知らないが、それでも俺だって名前くらい知っている歌人だ、たくさんの歌を残しているはず。この暗号で他にヒントとなりそうなものは無いから、とりあえず堅香子の歌から調べていく必要がある。それが駄目ならば、他の歌で堅香子にまつわりそうなものを探すしかない。
「それじゃあ次にこの歌の意味になるんだけど、このサイトの訳し方では『大勢の乙女達が入り乱れて水を汲む、そんな風情で咲いている寺井の上の片栗の花よ』とあるけど、この中に場所のヒントがあるとしたら何だろう。……二つかなぁ、大勢の乙女達が入り乱れて水を汲むか、寺井の上か」
「寺井って何なの?」
 修吾もそれはよく知らなかったので調べてみると、どうやら寺の境内に湧く清水や井戸と言った意味合いらしい。
「女の人が大勢で水を汲む場所かお寺の井戸かって言われたら、前者のがそれっぽいよね。お寺の井戸なんて、それこそたくさんあって探しきれないから、ヒントにはなりえないだろうし」
 ではと、再び検索を始める。
『女性 大勢 水を汲む』
 目に付くのはアフリカなどで生活をする女性達を取り扱ったものが多く、次に日本の名水について。どちらも様々な土地が紹介されているが、答えになりえそうなものが無い。確かにこれでは漠然としすぎていてポイントを絞りきれないから、このキーワードでの検索は駄目なのかもしれない。
「ちょっと待って、これ」
 明日香が指したページはギリシャ神話の一つである、こと座のオルペウスについて書かれてあるものだった。それは琴の名手オルペウスの妻エウリュディケーが死んでしまったため、オルペウスが竪琴を奏でながら妻を取り戻そうと冥界に赴く話である。彼の旅の途中、死して終わる事の無い刑を科せられていたグオナスの娘達もその琴の音に聞き惚れ、水を組む手を止めたらしい。乙女達が水を汲む、確かにキーワードと合致しているようにも見えるのだが……。
「さすがに和歌の中にギリシャ神話が含まれているってのは、こじつけじゃないかな。だとしたら、何でもかんでも意味を持たせられるだろうから、暗号の意味が無くなる」
「そうだね」
 明日香もこれにはあっさりと納得したらしく、すぐに黙って次の検索結果を待つ。
『寺井 上』
 かなり多くのページがヒットし、全て見るのは無理に近い。そんなわけで検索の上位からある程度見てみたのだが、それらしきものはすぐに見付かった。どうやらこの大伴家持の歌の舞台となった寺である、勝興寺裏の寺井の井戸跡が画像付で紹介されており、歌碑らしきものも写っている。
「場所は富山県高岡市伏木古国府勝興寺裏、か。ここかもしれないな」
 けれど明日香の表情は晴れない。
「そうかもしれないけど、でも私は堅香子の花と言うのが引っかかるんだよね。あの暗号の中でも、家持の歌の中でも、どうして堅香子の花という文句を使ったのかな。私はそれが気になる」
 答えを見付けたかのような嬉しさも、明日香の突き付けた疑問に大きく揺らめき、咄嗟に反論が出てこない。明日香の言う通り、堅香子の花と言うのがこの暗号の中でメインキーワードであるだろうから、これに関してもう一度調べてみる必要がある。そう、堅香子の花こと片栗の花で有名な場所はどこか、それをまだ調べていない。
『片栗の花』
 普段は見慣れない片栗の花も、調べてみれば全国どこにでも咲いているらしい。中でも栃木県小川町にあるカタクリ山公園と言うのが有名らしく、また同県内にみかも山と言う場所も有名との事。富山か栃木かぁ、ついでに寄るなんてできそうにもないから、慎重に選んで決めたいな。
「栃木の方が、どちらかと言えば近いよね」
「まぁ、どちらかと言えばな。ただし調べるからには日帰りは難しいだろうから、一泊二泊はしなければならないだろう。結局、そう変わらないんだよ」
「じゃあ、栃木の方に行こう。私はこっちの方が気になるし、それにさっきのページにあった景色がすごく綺麗だったでしょ。堅香子の花もよく栄えていたしね。だから直接見てみたいな」
「そりゃ綺麗だったけど、そんな理由でかよ」
 明日香は何でもなさそうな表情で頷く。
「じゃあお兄ちゃんは富山の方だと思うの? 何か理由はあるの?」
 そう言われると、困る。実際栃木だろうが富山だろうが、行って調べないとわからないのだから。俺はどちらかと言えば大伴家持に関連がある富山だと思うけど、それだって堅香子の花からの連想でしかない。だからこれと言う決め手が無い以上、明日香の直感に賭けてみるのも悪くは無い。
「じゃあ、栃木にまず向かってみようか」
「やった。じゃあさっそく明日何着ていくか決めなきゃ」
 大学で変な爺さんに狙われた事も、こうも難解な謎を解決する事も明日香にとってそう重要ではなく、どこか小旅行に行く方が重要らしい。まぁ、これ以上考えたところで実際に行って三瀬行正と言う人物を捜さない限り、どこが正しいかなんてわからないから、難しく考えすぎずに動くのもいいかもしれない。

 朝食を食べてからすぐに出発する予定だったのが思いの外準備に手間取ってしまい、家を出たのが午前十時。栃木方面の電車に乗ったのが、十時四十五分だった。俺も明日香もそう路線には詳しくないので、非効率ながらも小まめに乗り継いで栃木を目指す事にした。時間はかかるだろうが、こうした旅もいいだろう。
 両親には爺さんの遺産を調べて探し出すため、そして気晴らしに旅に出ると言ってきた。家に居ても特に何する役割も無かったし、資金もそれまで働いて得た貯金があったので、両親も体に気をつけろとだけ言って送り出してくれた。色々小言を言われたり反対されたりするより、あぁしてテレビから目を離さずに言ってくれた方がずっと気楽だ。
 宇都宮駅からカタクリ山公園のあるJR小山駅に向かう途中、昼食時になっていたので乗り換え時間の間に餃子駅弁を購入した。どうものんびり駅弁を食べながら、流れる景色を車窓から切り取り眺めるような路線では無かったし、また餃子の匂いもあるので食べる事に最初かなりの抵抗を感じたけれど、意を決して一口食べてみればかなり美味しく、他の乗客への申し訳無さを上回る程だったので、どんどんと食べ進められた。さすがは餃子で有名な地、地元で食べるそれよりも濃厚な感じがする。やや冷めていて本来の味ではないのかもしれないが、それを差し引いても充分に許せる。
「口臭とかどうしよう。これから色々なとこ回るから、気になるよね」
「ガムでも噛んでおけば大丈夫だろう、ほら」
 JR小山駅から岩船駅に行き、そこからタクシーでみかも山公園の入口に降り立った。公園は子供から大人まで楽しめる造りとなっており、遊具場や広大な花壇などがあって飽きさせない。夏休みでも盆などまとまった休日ではないからか、そう盛況でもない感じもしたが、それでも地元の観光地らしく、夏の陽気にあてられた家族連れが楽しげに笑っている。ただの観光ならば童心に返って、こうした遊具に触れたりするかもしれないけど、今は謎を解く方が先だ。遊んでいられない。
 暗号では三瀬行正と言う人物が指定の地で商売をしているらしい。もし暗号が示す土地がこのみかも山だとしたらならば、ここのどこかで商売をしているか、またはしていたはずだ。さっそく俺達は近くにあった土産物屋に入り、年配の店員さんに声をかけてみる。
「すみません、この辺りに三瀬行正さんと言う人はいませんか。何でもこの辺で商売をしている人だと言うのを聞いたんですが」
「さぁ、ちょっと私は聞いた事が無いね」
「そうですか、ありがとうございました」
 何軒回っても、返ってくる言葉は一緒だった。到着した時には未来への清々しさをも感じていたこの空気も、今は何だか恨めしい。それなりに人がいるのにもかかわらず急に心細くなってきたのは、ここが見知らぬ土地と言う現実を思い出したからだろうか。いけない、こんな感傷に身をやつしてもどうにもならない。
 修吾は大きく青空に向かって息を吐くと、数秒間目を閉じて夏の陽光をまぶたの裏からじっくりと感じる。そうして肩の力を抜いてから、カバンに手を入れた。
 暗号を取り出して、もう一度じっくり読んでみる。前半の暗号にばかり気を取られ、後ろをさして注目していなかったから、てっきりこの公園で商売をしているものだとばかり思い込んでいたが、きっと違う。この公園付近、いやこの市内という事も考えられる。見付からないのなら、範囲を拡大するしかない。
「中心部に戻って、市役所でこの人がどこにいるのか訊いてみよう。どうもこの辺で知っている人はいないみたいだし、それに宿もまだ決めていないから、それも早めに決めておかないとならないしな」
「うん、そうだね。野宿なんてしたくないしね」
 バスに乗って小山市役所前まで行くと、少しほっとした。地元とはやや趣が異なるが、どこか目にしたような街並、見慣れたコンビニにチェーン店、そして車の流れが心に忘れかけていた余裕を取り戻してくれる。排気ガスの臭いがどこか愛しいまま、俺達は市役所に入る。
 中は利用者もほとんどおらず、窓口に行けばすぐに応対してくれた。少し待っていて下さいと化粧の下手な中年女性に言われて待つ事数分、奥で何やら調べていたその職員が再び戻ってきた。
「すみませんが、そのような方はいないみたいですけど」
「本当ですか」
 修吾は身を乗り出し、聞き返す。
「えぇ。捜していらっしゃるのが三十代以上の方と言う事でしたが、該当する方はおりませんでした」
「……そうですか、ありがとうございました」
 市役所を出るなり、大きな溜息が自然とついた。手がかりが無くなってしまった。ここではなかったのか、別の場所だというのか。そうだとしたら、それは一体どこなのだろう。いや、もしかしたらいるのかもしれないが、安易に個人情報を教えるわけにはいかないだろうから、体よく断られただけかもしれない。どちらにせよ、このままでは見付からないという事実だけは変わらないのだが。
 とりあえず何だか疲れたので、適当な喫茶店に入り、アイスコーヒーを二つ注文する。ウェイトレスが去るなり俺はポケットからタバコを取り出し、着火した。深々とそれを吸い込み吐き出すまでたっぷりと時間をかけ、そうして目の前に紫煙が広がるとようやく休めたんだと実感する。
「結局、市役所に行っても見付からなかったな」
「うん。でも、どうなんだろうね」
「どう、とは?」
 まだ幾分か明るい眼差しの明日香に修吾が顔を寄せる。
「引っ越したかもしれないし、もう亡くなったかもしれないし、ここからいなくなってる可能性も充分あるんじゃないのかな」
「もしそうなら、捜しようが無いな」
 軽い溜息の上にアイスコーヒーが置かれると、二人ともそれを力無く啜った。
「ここじゃないとしたら、どこなんだろう」
「ここに来る前に言っていた歌碑のある富山県のあの寺か、それとも別の片栗が有名な場所か、もしくは他の解釈があるのか。まぁ、わからないな」
「ここはもう調べないの?」
 修吾はタバコを揉み消し、アイスコーヒーを一口含むと二本目に火を点けた。
「この近辺の市役所を回ろうとでも言うのか? それは面倒と言うか、捜したとしても同じ結果になりそうな気がするんだよな。何故ならカタクリ山公園の住所が小山市なのに、他の場所を調べたからといって見付かるだなんて思えないし、それにもう市役所も閉まる時間だ。明日明後日とこの近辺の市を回って聞き込みをすると言うなら猛反対はしないまでも、正直良い結果が得られそうには思えないから、どうにも」
 氷で薄まったものの、やや苦いアイスコーヒーを一息に半分ほど飲む。よく掻き混ぜなかったからか、後の方で甘さが一気にやってきた。
「じゃあ、今日はもう宿と晩ご飯の場所だけ決めよう」
 頷きながら残っていたアイスコーヒーを一気に飲む。そうして忘れていたタバコにと手を伸ばしたが、既に灰皿の上で長い灰となっていた。もったいないなと思いながら揉み消すと、まだ飲み終えていない明日香を一瞥し、窓の外へ目を向けた。
 知っていそうだけど、やはり違った窓の外の景色の差異に、何だか胸が締め付けられる。それはきっと暗号の答えを手にしていそうで違っている現実が心をうねらせ、答えと言う安心を求めたがっているのだろう。色んな事がありすぎて、どれもわからないままで、見知らぬ土地で手がかりが途絶えかけている喪失感に、俺は目を細め、写る景色をぼかした。少しの間だけ、はっきり見詰めたくなかったから。
 JR小山駅近くの宿を取ると、もう夜も更けて腹も減ってきたので、食事にしようと思ったのだが、どうにも店が決まらない。折角遠出しているのだから地元の名物を食べたい気もするけど、それがもし口に合わなかったら悔しいので、全国どこにでもあるレストランにしようかと思っている。そうしたレストランは最終手段としても、栃木の名物とは何か。すぐに思いつくのは餃子だけど、それは昼の駅弁で食べてしまったので、次は違うものを食べたくもある。では何がいいかと言われてもすぐには出てこないので、しばらく歩きながら決めることにした。
 そこらにある看板からでは、地元特有の名物はわからない。どこにでもありそうな品目ばかりが目に付くが、それも仕方ないかもしれないと諦め、ぶらぶらと歩く。そうこうしていると、どうもこの辺りではポテト焼きそばと言う物が有名らしく、空腹ももうかなりのものだったので目に付いた焼きそば屋に入った。
「お待たせしました、ポテト二つです」
 見た目には普通の焼きそばにスライスされたポテトが入っているだけにしか見えないのだが、名物と言うくらいだ、きっと特別な何かが施されているのだろう。俺と明日香はほぼ同時に割り箸を手に取り、食べ始める。
「何だか、想像通りの味だな。不味くはないけど、そこまで美味しいと手放しで褒められはできない感じだ」
「そうだね」
 追加で餃子を二皿注文して腹を満たすと、コンビニで缶チューハイとビールを買い込み、宿に戻った。一日の疲れをねぎらいながら、持参したノートパソコンを起動する。暗号が示した場所はここではなさそうだ。いや、もしかしてここだとしても、三瀬行正と言う人物がこの近辺にいるかどうか裏付ける情報が無く、どの辺りにいるかを暗号から導き出さないとならない。けれど、あの暗号から住所なんてわかるのだろうか。
 ビールを喉に流し、検索画面をじっと見ていると缶チューハイを持った明日香が側に寄ってきた。
「訳の方じゃなく、もっと素直に元の歌にヒントが隠されているのかな。例えばハナオヲトメと言う地名があるのかもしれないし、寺井と言う市町村があって、その上の方にある所にいるのかも。もしかしたら、どこかの寺井さんの家の近辺とか」
「ふむ、それじゃあまずその線で調べてみようか」
 修吾は暗号文を取り出し、じっとそれを見詰めてから手を動かし始めた。
『ハナヲトメ 地名』
 検索してみたものの、それらしき地名は見当たらない。出てくるもの全てが暗号文にある大伴家持の歌ばかりだが、それも仕方ないのかもしれない。こんな地名なんてあるとははなから思っていなかったからだ。気を取り直し、次の検索に移る。
『寺井市』『寺井町』『寺井村』
 調べた結果、寺井市があるのが石川県、寺井町がるのも同じく石川県、寺井村があるのは石川県の他に群馬県もあるが、もっとよく調べてみれば他にもたくさんあるかもしれない。寺井村は除くとしても、こうなると候補地が石川県と先の富山県と言う事になるのだが……。
『石川県 堅香子』
 けれど最重要キーワードである堅香子を入れれば、やはり大伴家持の歌に帰結する。堅香子というものに囚われすぎているのだろうか、それとも素直に大伴家持関連で絞った方がいいのだろうか。明日香の方を見ればこれまた困っているみたいで、次なる言葉を紡げずに缶チューハイを唇に当てたまま、押し黙っている。
「どうしたものかな。こうなったら、あいつに電話してみるか」
「広岡さん?」
「そう、あいつなら色々知っているだろうし、頭の回転も速いから、何か妙案を教えてくれるかもしれない」
 広岡誠とは数年前にバイトで知り合って以来、今も友人として付き合っている気の置けない関係である。自分より一つ年上の広岡は現在、車の販売代理店でディーラーとして忙しい日々を送っているみたいだけど、余程じゃない限りは連絡をすれば快く応対してくれる。俺は半ば祈るように携帯を取り出し、広岡に電話する。
「はい、もしもし広岡ですけど」
「藤崎だけど、今は大丈夫かな」
「おぉ、藤崎か。大丈夫だけど、どうした?」
 明るい調子で聞き返してきた広岡に安心し、修吾はこれまでの経緯をかいつまんで話した。重光の遺言の事、大学で出会った多田に遺言を見せろと強要された事、暗号の事、そして現在栃木県にいるけれど手詰まりになってしまった事。しばらく黙って話を聞いていた広岡は修吾の話が一旦区切られると、突然笑い出した。
「何だよ、何がおかしいんだ」
「いや、楽しそうな事しているなぁと。俺も暇があれば一緒に行ってみたいけど、生憎今ちょっと忙しい時だからなぁ、残念だ。だからまぁ、行った気になって一緒に謎解きに協力するよ。俺も毎日同じ事ばかり考えたくないからな」
「ありがとう、助かるよ」
「なに、礼なんていい。それよりもこの謎だが、片栗の方では手詰まり気味になっているんだよな。だったらやっぱり堅香子の方で調べた、歌碑のある富山県高岡市の方だろうな。電話しながら調べていたんだけど、高岡市の市花、つまり国家ならば桜と菊、国鳥はキジと言った感じで、高岡市を象徴する花が堅香子の花こと片栗らしい。だからとりあえず、そこに行ってみたらどうかな」
 広岡の言う事は俺の考えを後押ししてくれた。思わず笑みを浮かべ、二度三度と頷く。
「そうだな、ここにいてももう手がかりがなさそうだからそうしてみるよ。いや、本当にありがとうな」
「また何かあったら電話しろよ。それと帰ってくる前に、何か土産でも頼むぞ」
 電話を切ると同時に、自ずと俺は恨めしげに明日香を睨んでいた。こいつが出発前日に景色が綺麗だと言う理由で栃木行きを決めたから、余計な金と時間を使う羽目になったんだ。けれど表立って文句を言うのも何なので、無言でビールを飲み干す。
「明日は宿を出たらすぐに富山に行くんだよね。どう行ったら良いのか調べたら、すぐに寝ようよ。それにしても栃木、よかったね。美味しいものも食べられたし、カタクリ山の景色は綺麗だったし」
 照れ笑いをしながら明日のための路線検索を勧める明日香に対し、怒るのもバカバカしくなった。怒ったところでどうにもならないし、それに美味しい物は食べられた、気晴らしとして観光もできた。疲れた溜息一つ吐き出し、俺は二缶目のビールに手を伸ばすと、パソコンにまた向き直った。

 JR小山駅を出発したのが、午前九時を少し回ったところだった。去り際にまた名物を探し、それを食べてから出発したかったのだが、そんな時間も無かった上に朝は食べ慣れている物にしたかったので、二人とも駅前の喫茶店で簡単に済ませた。そうして電車に乗り込み、群馬の方へ抜ける。内陸部のルートを乗り継ぎながら群馬、長野を経て富山を目指す。所要時間はネットの調べで大体八時間半くらいかかるらしい。詳しい人ならもっと効率の良い手段を知っていて、短時間で行けるのかもしれないが、まだこうしたのに慣れていない俺達にとって、これが精一杯だ。
「こんな電車の旅も、たまにはいいよね。修学旅行とか思い出すなぁ」
「確かにこんなに電車に乗る事なんて、そう無いよな。こうして窓の外を見ていれば見知らぬ景色が流れていき、行き先がわかっていても、どこに行くのかわからない不安と期待がある。着いた先の景色が知らないから、どうなるんだろうってさ」
 車窓から流れ行く景色を眺める修吾は郷愁に満ちた顔で、僅かに開いた窓から風を感じるものの、それはどこか緊張感に溢れていた。対して明日香は長旅になりそうな予感を吹き飛ばすかのように風に当たっていては、涼しげな笑みを浮かべて静かに過ぎ去る雲を視線で追いかけていた。
 電車に揺られて四時間、適当なところで一休みしようと考えていたのだが、どうにも機会を逃してしまい、今も電車の中。ようやく昼食にとも考えたが、それは既に長野県に差し掛かっており、駅弁でしか空腹を満たせそうに無かった。俺と明日香は野沢菜弁当とお茶を購入し、食への感謝もそこそこに弁当を頬張り始めた。
「これ、美味しいね」
「そうだな、こうして各地の駅弁食べての旅行なんて、今くらいしかできない気がする。問題は座りっぱなしで疲れるって事くらいかな」
 実際、既に腰と尻が痛い。これから何時間も乗り続けないとならないのかと思うと、溜息も出ない。考えたくも無い。
「もう一つあるよ。こうして移動している間は、退屈だって事」
「確かに、な」
 綺麗な景色も見た事の無い町並みも、既に飽き始めているのは否めない。何十メートルも落差がある滝や、サファリパークの様に見慣れない動物がいたり、豪華な電飾に彩られたアトラクションも無く、どこかで見覚えのある景色が流れていくばかり。会話も食事や珍しい景色に触れた時に交わす程度で、ほとんどは無言のまま。行き先を決めてしまえば到着するまで話す事もあまり無いので、暇でしょうがない。
 揺れる電車、痛む体、硬化する心。暮れる夕日と乗り継ぐ路線にいささかの不安を覚え、電車は走る。今は考える謎も無い、ただ一刻も早くそこに着き、推理が当たっているかどうかを検証するだけだ。
 JR高岡駅に着いたのは夕方五時だった。仕事を終えた人々が改札口に集結しており、混雑の中ようやく外へと出た。立てた事、歩けた事、そうして外の空気が吸えた事が何だか嬉しくて、俺も明日香も自ずと笑みがこぼれた。
「ねぇ、あれ見て」
 駅前広場の中に大きな銅像がある。近付いてよく見てみれば、どうやらこれが大友家持像であるらしく、台座には暗号文と同じ和歌が記されている。やはりここに違いない。となると、どこから調べるかだ。
 候補は今のところ二つ。一つは家を出る前に候補として上がった勝興寺の付近、もう一つはこの歌碑がある駅前近辺。どちらも調べたいのだが、既に日も傾き始めているのでどちらか一方しか時間が許さない。どちらかと言えば正解は勝興寺の辺りだろうが、移動を考えると今から調べても遅くて、結局明日に目的の家を訪れる事になるだろう。そうなると駅前近辺をまず探した方がいいのだろうが、市でも有名な大友家持の歌碑など、下手すればどこにでもありそうで、駅前がその一つだとしても、外れの確率だってある。
「ここから探すか、寺から探すか……」
 溜息混じりにそう呟きながら、明日香を見遣る。
「それはまかせるよ。でも、そろそろ宿取らないとならないし、晩ご飯の時間も近付いているし、あまり遠くには行きたくないかな」
 言われてみれば、早々に今晩の宿探しもしておきたい。仮に三瀬行正なる人物に会えたとしても、宿が無ければその後に困る。それに、やや腹も減ってきた。まず足場を固めておく方が先決だな。
「なら、駅前を探すか。お前の言う通り晩飯も宿も見付けないとならないからな。まずはこの辺りの交番で三瀬って人がいないか適当に聞き回り、それから宿を探すか」
 少しうろつけばすぐに見付かった駅前交番に入ると、中年の警官が二人いた。調書の整理をしていたのか何やら書き物をしていたが、俺達に気付くなり顔を上げた。
「どうかしましたか」
「人を捜しているんです。えぇと、三瀬行正と言う人なんですが。三瀬は一二三の三に、瀬戸内の瀬。行正は行くに正しいです」
「三瀬行正ね、なるほど、わかりました。あぁ、そこに座っていて。今調べるから」
 普段交番に入る事も無いので、こうしてパイプ椅子に座るのを勧められるだけで緊張してしまう。もし関係を聞かれたら、どう答えようか。爺さんの知人? 遺言書に書いてあったから? 何だかどれも怪しまれかねない。あぁ、手のひらと背中が汗でびっしょりだ。早くいるかいないか教えてくれ。
「あぁ、三瀬酒店のとこの主人か」
 どこか素っ頓狂な声に驚いていると、優しそうに微笑を浮かべた警官が向き直ってきた。その笑顔に緊張も幾分か和らぐ。
「えぇと、この辺で三瀬行正と言う方は、三瀬酒店の店主ですね。そこに行くにはここを真っ直ぐ行って、三本目の道路を右に折れて歩いていけば、左手に見えますから」
「どうもありがとうございました」
 交番から出ると、俺も明日香も何故だか安堵の溜息をついていた。
 教えられた道を注意深く歩いて行くと、左手にやや古そうな店構えの酒店があった。看板には『三瀬酒店』と書かれており、内側から明かりが漏れている。個人経営ならばいつ閉まってもおかしくないので、幾分か早足で向かう。
 店の前に立つと、先程抱いていた印象よりもさらに古いと思えた。築六十年は経っているだろう木造二階建ては改修の後が見られず、店内からの明かりが無ければ既に潰れた後にも見えてしまう。入店するのが何となく怖いけど、入らないわけにはいかない。俺は明日香に先立って引き戸に手をかけ、足を踏み入れる。
「いらっしゃい」
 外装とは裏腹に内装は比較的新しめだが、それでもそこらのコンビニよりは古臭い。品数はそれなりで、主にメジャーな品目が多い。とりあえず客ではないので、カウンターに立っている挨拶をしてきた恰幅の良い中年男性の前に行き、軽く会釈した。
「あの、ここに三瀬正行さんと言う方はおりますか」
「えぇ、いますよ。ちょっと呼んできますので、少し待っていて下さいね」
 そう言って奥に引っ込んだと思うが早いか、中年男性に連れられてごましお頭の、年の頃七十くらいの老人が現れた。どこか鋭い目付きをした老人は何事かと眉をひそめ、値踏みするような視線を向けてくる。
「私が三瀬正行ですが、何の用ですか」
「えぇと、単刀直入に言いますが、藤崎重光と言う人をご存知でしょうか?」
 その名を耳にすると三瀬が懐かしさと嬉しさを同居させた顔をしながら、身を乗り出してきた。修吾もしめたと言わんばかりに笑みを返し、安心感を与える。
「あぁ、重光さんならよく知っているよ、若い頃は本当によくしてもらったなぁ。ところで、その重光さんがどうかしたのかい」
「えぇ、実は僕達、その重光の孫でして」
 言いながら修吾はカバンの中から重光の遺言書である暗号文を取り出し、三瀬に見せる。三瀬はそれを訝しそうに眉根を寄せながら、視線を移した。
「このようなものを偶然見付けたんです。両親も僕達もこの手紙がある事を知らされていなかったものですから、これが何を意味するのかさっぱりわからず……。祖父は生前、自分に関わる物をほとんど全て処分してしまいましたから、ここもようやく」
「そうか、重光さん亡くなったのか」
 悲しみ一色ではなく、なるべくしてなったと言う諦めにも似た面持ちで、三瀬はそっと呟いた。
「二年程前に。それでお尋ねしたいんですが、以前祖父はここに来ましたか? もし来たのなら、一体何の用でここに」
「少し長くなりそうだし、込み入った話だから奥で話そうか。ささ、こっちに」
 三瀬の案内で奥の方にある住居側へ行く。通された居間も外装よろしく古い家屋の匂いがするけれど、同時にどこか懐かしい雰囲気があった。勧められるがままに座卓の側に座ると、三瀬と同じくらい年配の女性がお茶を運んできてくれた。多分、奥さんなのだろう。軽い会釈をしながらそれを受けると、俺達は居住まいを正した。
「さて、さっきの続きだけど」
 三瀬は咳払い一つして、彼もまた居住まいを正す。
「確かに重光さんはここに来てくれたよ、そうさなぁ、もう三年くらい前になるか。突然ふらりとやって来て、預かってもらいたいものがあるからお願いに来た、どうかこれを子や孫の代まで残しておいてくれと。恩人であり、偉大なる先輩であり、また年の離れた親友でもあった重光さんの頼みだ、一も二も無く承諾したよ。そして去り際、もし誰かが自分の手紙を持って、そのために訪れたのなら、それを渡してくれとも。それだけだよ。俺は渡された物を調べようとしなかったし、重光さんも他に何も言わなかったからな」
「それで、その渡された物はどこに」
 僅かに詰め寄る修吾に三瀬は微笑みを浮かべる。
「ちょっと待っていなさい」
 喋り疲れた喉をお茶で潤わせてから、三瀬は立ち上がって別室へと赴いた。取り残された修吾と明日香は互いに顔をちらちらと見合わせるけど、口を開かない。それはこれから持ってくる物に対しての緊張や好奇心などではなく、慣れない居場所に対する居心地の悪さや遠慮のように見えた。
「待たせてしまったかな。これがその、重光さんからの預かり物だよ」
 そう言って差し出されたのは小さな桐箱だった。箱がそうだからか、何やら荘厳な印象を受ける。俺は三瀬さんと明日香を一瞥すると、それを手元に寄せ、慎重に開けてみた。

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