一.少女の絵

 ウェブブラウザの右上をクリックすると、長い息を吐きながら彼は椅子に深々と背凭れた。きしむ音は心のものかもしれない。しばしぼんやりと窓の外を眺めていたが、昨日も一昨日も見ている何の変化も無い景色に感動など生まれるはずもなく、すぐにまたネットサーフィンに興じようとパソコンに向き直った。
 藤崎修吾はひどく退屈していた。こうしてネットサーフィンをしていても刺激を求めるためでなく、ひたすらに時間を潰しているに過ぎない。日課となったお気に入りのウェブサイトを覗いたり、時折遊ぶゲームの攻略サイトなどを見たりもするが、何ら心が動かない。けれど何かしていないと時間が進まない気がするので、こうして曇りガラスのような瞳に画面を映し、マウスを動かす。
 そんな修吾も去年までは意欲的な若者の一人だった。高校卒業後、進学を希望していたものの、不合格。一浪して再度目指そうとしたものの、勉強から少し距離を置いた時期があったせいか、大学で何をしたいのか、果たして大学に入ってどう変わるのかと考え始めていた時期にバイトから労働の楽しさを知り、進学を止めてバイト生活に全てを移した。
 個人経営の小さな電気店だったが、その働きぶりと愛想が店主に気に入られ、二十歳の時に正社員として認められた。社会の一員として仲間入りした気もし、かつ自分の働きが給料の上昇という目に見える形で現れたので、ひたすらに働いた。クレームや失敗、また意見の食い違いなどもあり時には嫌になったりもしたけど、それ以上に商品が売れた時の達成感、応対をして感謝された時の充実感が修吾を燃え上がらせていた。
 けれど不況のあおりに加え、近所に大型電気店が二軒もできた事により、店は倒産。二十二歳で失業と同時に、情熱の全てを失ってしまった。経営が傾いていたのを知っていたからこそ懸命に働いていたのだが、それでもどうにもならなかった現実を知り、一切の気力を無くしてしまい、自宅でこうした生きているとは胸張れない生活を送るようになった。一応定期的に職探しをしているものの、それは周囲へのポーズであり、実際は何だかんだと言って現状維持。今一つ気乗りしないので、貯金を食い潰してはこうして日々をやり過ごすだけ。
 両親と同居しているものの、特に急かされたりはしていない。のんびりした親だからか、今の世の中は職に就くのも維持するのも厳しい、特に一度脱線した人には厳しいからと同情を寄せてくるのだが、熱心に職を探す事の無くなった修吾には、そんな優しさが辛かった。逆に怒鳴り散らしてでも無理矢理働きに出された方が、幾らか諦めもついたのにとすら思っている。
 叶うならば、もう一度あの頃の自分になりたい。生きる事に、明日に希望を抱いては世間に自分をぶつけ、傷付きながらも走る勇気を持てたあの頃に。今が恥ずべき時だとわかっているけど、そこから脱却しようと動き出せずにいる。不甲斐無いけど、楽で甘い生活を手放すのは惜しい。
「修吾、ご飯だよ。降りておいで」
 階下から母の声が飛んでくると開いていたウェブサイトを消し、パソコンの電源はそのままに、のんびりと階段を下りた。食後すぐにまた意味の無いネットサーフィンに興じるのだし、いちいち点けたり消したりしていると起動待ちの時間に苛立ってしまう。特にする事が無くて時間も余っているけれど、かと言ってただ待たされるのを許容する気にはなれなかった。
 階段を下りてから食卓に行くには居間を通るのが近いのだが、そこを通る度に修吾はいつものように足を止め、壁に飾られてある一枚の絵をじっと見詰める。無論、今も同じ。いつも居間に来る度に気になる絵、それは少女とも妙齢の女性ともとれる女の子が、花壇を背に花束を抱いているものだった。その花が何なのか知らないし、絵も取り立てて上手だというわけでもないのだが、修吾にとってこの絵は他の何物にも比べられない、圧倒的存在感があるように見えていた。
「あのさぁ、この絵ってどこで買ったの?」
 既にテーブルに着いていた父に何気なく訊いてみると、席を立ちゆっくりと近付いてきた。いつもは側に立つと鼻をつくコロンの匂いも、今日が日曜日だからかつけていない様子で、年相応の加齢臭がする。
「あぁ、これは爺さんが友人に描かせた絵らしいな。父さんが子供の頃からあって、あの温厚で物に執着しない爺さんがこの絵にだけはいたずらするなと厳しく言っていたし、何があっても絶対に捨てるなと言っていたから、よっぽどこの絵に思い入れがあったんだろうな」
「そんなに昔からあったんだ」
 驚いた。額がやや古ぼけている上に、俺が物心ついた時からあった絵が、四十年以上も前の作品だったなんて。いやそれ以上に、とても四十年前に描かれたとは思えない鮮やかさがある。極彩色の絵ではなく、どちらかと言えば淡い色彩の絵であるのに、妙にその色に惹かれ……綺麗だ。
「爺さん、多趣味な人だったからな。父さんが生まれる前に絵か写真にのめり込んでいたんじゃないかな。まぁ、この絵に関しては思った通り描けなくて、友人に依頼したのかもしれないが。それに、この絵は遺言がどうのと言うわけじゃなく昔からあるものだから、捨てる気なんて無いけどな」
「爺さんが絵に興味があったなんて、意外だ」
 二年前に亡くなった爺さんは優しく、頭が良く、寡黙な人だった印象がある。主に自室で本を読んでいたり、俳句を詠んでいたり、詰め将棋なんかをしていた。外出はあまりせず、友人とどこかへ行くという事も無く、たまにふらりと一人旅をする意外はほとんど家の中で過ごしていた。
 そして過去をほとんど話さない人だった。小さい頃はさして興味が無かったが、中学生くらいになればそういう事にもぼちぼち興味が出始めるもので、過去にどんな仕事をしていたのか、どんな出来事があったのか訊いてみたものの、何のかんのとはぐらかされ、結局わからずじまい。そして父も、爺さんの過去をよく知らないらしいのだ。
「ところでこれを描いた人って、知ってる?」
「もうずっと前に亡くなったとは言っていたな。ところで修吾、突然どうしたんだ、この絵にそんなに興味持って」
「いや、別に。何でもないよ」
 もう一度絵を見上げる。妙に生き生きとした微笑を向けている少女に、心ならずとも揺れ動いたが、すぐに視線を外し、食卓から漂う焼きそばのソースの匂いに意識を向けた。その様子に父も再び椅子に腰を下ろし、テレビに再度目を向け始めた。
 昼食を終えるとしばし両親と共にバラエティー番組を見ていたが、それも一段落すると自室に戻ってあての無いネットサーフィンでもしようと階段を上った。けれどドアの前で足を止め、ふと階下へ目を向ける。先程の何気ない胸の引っ掛かりが満腹感に流されていなかったらしく、どうにもパソコンをいじる気にはなれない。
 気になるな、あれ。
 一旦気になりだすとその存在が夏の雲のように大きく膨れ上がり、疑問を晴らそうと動いてしまうのは彼の性分。軽快に階段を下りて、再びあの少女の絵の前に立つと、じっと見上げる。少女の絵は相変わらず古さを感じさせず、鮮やかだ。
 一体この絵に何があるんだろうか、何でこんなにも惹かれるんだろうか。昔から思っていたんだが、単なる絵だと思わせない存在感に、忘れかけていた探究心がむくむくと目覚めていくのがわかり、眺めるだけじゃ物足りなくなってしまった。
「あのさ、この爺さんの絵、ちょっと貸してくれないかな」
「何でまた、急に?」
 ソファに座りながらタバコを吸っていた父が訝しげに振り向く。
「いや、何となく気になっただけだよ。昔からある割にはあまり古さを感じないから、何かあるのかなぁと」
「別にいいけど、大切にしろよ。爺さんの形見なんだし、我が家の美術品なんだからな」
「わかってるよ」
 食卓から椅子を持ってきて踏み台にすると、俺は慎重に絵を取り外した。かなり埃が溜まっており、大きな綿ゴミが空中に舞ったので、息を止めて片手で払う。ついでに掃除をしろと母に言われたけど、今はこの絵にどうしてこんなにも惹かれているのか知りたくて、後でするからと口約束を済ませると、俺は自室へと駆け上がって行った。
「こう見ると、特に何かあるとは思えないんだよなぁ」
 間近で見てみるが、特にこれと言った秘密があるようには見えない。確かに何かありそうなのだが、それが何なのかじっくり見ていてもわからない。まるでつい数日前に描かれたかのようなのだが、どうしてそう感じてしまうのだろう。俺は絵に対して何の知識も無いからわからないだけかもしれないが、それでもこれは素人目からしても四十年前くらいに描かれたものとは思えない。唯一わかるのが、水彩画で描かれていると言うくらいだ。
 今度は裏側を見てみる。何か書かれているかと思ったがそんな事は無く、埃のこびりついたベニヤ板が留め金で留めてあるだけだ。
「何か入っているのか?」
 よく見てみれば、留め金が一つ外れていた。だからなのか裏板が浮いているが、どうやらそれだけではなさそうで、絵と裏板との間に何かが入っているらしく、不自然に盛り上がっている。一枚の紙が額に収まらず折りたたんだにしては、やや無理があるだろう。俺は額を壊さないよう、絵を傷付けないよう慎重に留め金を外す。やや錆付いているので、動かす度に壊れはしないかと戦々恐々。
「何だこれ」
 無事に裏板を外すと、それと絵との間に一通の封筒が入っていた。取り出してみるが、日付も名前も書かれておらず、ただ糊付けされているだけ。すぐに開けるのも気が引けて、太陽に透かしてみたもののよくわからない。両親にこれが何か訊いてみようと思ったが、多分知らないだろう。ならばと、ゆっくりと丁寧に開封を試みる。紙の破ける音がひどく心を揺さぶる。


 遺言書
・ 遺言者である藤崎重光は次の通りに遺言す。
 
1、 この遺言を見付けし血族の者に、左記の品を相続させる。
・ S大学にある貸し金庫内の物、全て。
・ 金庫番号は〇四五。

2、 それらを不要と思いし者はこの遺言を再び元の位置に戻すか、大切に保管しておくように命ず。


「遺言書がこんな所に?」
 爺さんが死んでから二年、その間に遺言書がこんな場所に隠されているなんて、一切聞いた事が無いぞ。それに確か爺さんが死ぬ前に自分で徹底的に身辺整理をしておいてくれたから、すんなりと遺産も処理できた。そんな爺さんがこんな人目につかない場所に隠しておくなんて、きっとこの貸し金庫内には余程の物があるに違いない。
 しかし、その中にあるのが何らかの権利書とかだったらどうしよう。成人しているとはいえ、そうした知識が無いために手にしても活用できないだろう。また仮に権利書じゃないにせよ、手に負えない物ならば同じだ。
 ともかく、一応これは親に見せておいた方が良いと判断した修吾は、絵と遺言書を持って階下へと向かった。両親はまだ居間でテレビを観ながら世間話をしているようだったが、修吾の足音に気付いて振り向いた。
「戻しに来たのか。どうだ、お前も絵を描きたくなったか?」
「戻しに来たのもあるんだけど、すごいのを見付けたんだよ」
 修吾が封筒をひらひらと振り、その存在をアピールする。
「何だそれ、封筒か?」
「そう、爺さんの遺言書だよ。絵の中にあったんだ」
「なんだって」
 両親は目を丸くし、噛み付かんばかりの勢いで修吾に詰め寄った。
「ちょっとそれ、見せてくれ」
 父にそれを渡すと、母と共に簡潔な遺言書をじっくりとしばし見詰める。一体どうなるのだろうか、見付けた俺の権利の行方はどうなるのだろうかと心配していると、父がやや難しい顔をしながらテーブルにそれを置いた。俺は両親と向き合うようにソファに腰を下ろし、父の顔と遺言書を交互に見る。
「この貸し金庫の中にある物は修吾、お前の物だから好きにしていいぞ」
 驚いたのは俺も母も一緒で、同時に父の顔を見る。父は神妙な顔付きを崩さない。
「そもそも、土地や家、金などの遺産分配は二年前に終わっている。爺さんが何を隠しているのかわからないが、あんな所に隠してあったんだ、遺産分配に関わる品物じゃないだろうさ」
「でも、隠し財産とかじゃないの。こっそりやってた株とかあったりして」
「そんな事は無いだろうよ」
「どうして?」
 訝しむ母に父は事も無げに笑う。
「あの真面目な爺さんだぞ、もし本当に隠し財産としてそれなりの物を隠していたら、脱税になるじゃないか。それに、手にした者にも何らかの疑いをかけられかねない。仮に土地や建物の権利書だったら、今頃税金来てるだろ。だからきっと、その金庫の中にあるのは金銭とか権利書とかじゃなく、思い出の品か何かじゃないのか。ほら、爺さんは若い頃のアルバムとか一切無いから、そういうのじゃないのかな」
 なるほど、確かにそう言われればそうかもしれない。テレビや新聞を見て世を嘆き、自分を厳しく律していたあの爺さんがそんな脱税だの何だのに手を染めているとは思えない。ならば父の言うようにアルバムとか思い出の品物かもしれないが、それはそれで興味がある。爺さんの若い頃、全く知らないからだ。
「ともかく、これを見付けたのはお前なんだから、その金庫にある物は遺言通りお前の物だ。ただ、何だったのかは教えてくれよ」
「わかった、そうするよ」
 テーブルにある遺言書を手に取ると、俺はもう一度じっと見てから立ち上がり、二階の自室へと戻った。そうしてそれを机の上に置くと、パソコンと向き合い、体の底から大きな溜息を吐いた。
「爺さんの隠し遺産、か」
 貨幣価値のある物ではないだろうが、それでも何なのか気になる。あの気になっていた絵から、あの爺さんの遺言だ、興味持たない方がおかしい。おまけに貸し金庫の存在も今の今まで知らなかったから、余計に。
 そう、どうせ暇だし、職探しをする意欲も無い上に、指定されてあるS大学もここから電車を使って二時間少しのところだ、暇潰しにはいいだろう。どうせ毎日する事も無く、パソコンと向き合ってぼんやり生きているだけだ、たまには意欲的に外出でもしてみた方が精神衛生上いいかもしれないな。
 そんな決意を固めてから、とりあえず出発は明日にしようとまたも意味の無いネットサーフィンに興じていると、階段を上る足音が耳に入ってきた。聞き慣れたその足音の主は隣の部屋に入ってから僅かな間を置かず、この部屋のドアをノックする。
「ただいま。ねぇ、ちょっとだけでいいからインターネット使わせてくれないかな」
 肩までのストレートヘアに眉毛の辺りで切り揃えられた髪、表情の変化に乏しいながらも精一杯の微笑でもって部屋に入ってきたのは、修吾の三つ下の妹である藤崎明日香だった。明日香は修吾に近付くと、その顔を覗き込む。
「別にいいよ」
 特に作業をしているわけでもなかったので、すんなりとその席を譲ると、修吾はベッドに腰掛け、じっと明日香の様子を見守る。どうやらニュースやお気に入りのバンドの情報なんかを見ているらしかったが、それらが一通り終わるとすぐ席を立った。
「ありがとう……って、ねぇ、これは何?」
 机の上に置いてあった見慣れない封筒に、明日香がやや訝しげな視線を向ける。そして手を伸ばしかけたのに気付くなり、修吾が慌てて立ち上がると、タッチの差でそれを奪った。その姿勢に明日香の瞳により疑惑の色が濃くなる。
「おいおい、何でもかんでも勝手に触るなよ」
「でもお兄ちゃん、今までそういう事言わなかったじゃない。それ、そんなに大切な事が書かれてあるんだ」
 おっとりした口調とは裏腹に、眼鏡の奥に潜む瞳は強い好奇心で輝いていた。一見大人びて物静かな外見の明日香だが、その実、一度決めたら頑としてきかない強情者でもある。それは修吾もよくわかっており、こうなると説明するまでは動きそうにもなかったので、溜息混じりに事の顛末を話し始めた。
「それで、お兄ちゃんはそれを取りに行くの?」
 おおまかな説明を聞き終えた明日香は興味深そうに顔を寄せる。
「明日にでも行こうとは思っているよ。どうせ暇だし、爺さんが何を残したのかも気になるからな」
「じゃあ、私も一緒に行く」
 まるで近所のコンビニに行くかのような口振りに、修吾は少なからず驚いた。何の冗談だろうか、どうせ行くはずがないと思いつつも、未だ瞳の輝きは失われていない。
「何でまた……バイトはどうしたんだ?」
「短期のやつだったから、今日で終わりなの。だから大丈夫。それに、私もそれが何なのか見てみたいんだよね。家族だったけど、お爺ちゃんは若い頃のアルバムも無かったし、思い出もほとんど話さなかったでしょ。お爺ちゃんの事好きだけど、私はお爺ちゃんの事を何も知らない。だから、少しでもそれを知りたいの」
 こうまで言われ、無下に断る理由はどこにも無い。いや、そもそも最初から反対する理由が無いんだ。俺も明日香も爺さんが好きだったから、明日香のその気持ちがよくわかる。まぁ、二人で行くのもいいか。どうせ金銭に関わるものじゃなさそうだし、思い出の品を眺めて二人で話し合うのもいいかもしれない。
「いいよ、じゃあ明日朝飯食べたら出ようか」
「わかった。あっ、それとさ」
 明日香の表情が僅かに変化したかと思うが早いか、修吾が言葉をかぶせる。
「見付けたのは俺だから、それをどうするかは俺の自由だからな。分けるかどうかも、当然な」
 恥ずかしそうに苦笑する明日香を尻目に、修吾は再びパソコンに向き直るとS大学への地図を検索し始めた。傍らにある重光の遺言書は窓から差し込む幾年かぶりの陽光を浴び、心なしか輝いているようにも見えた。

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