九.

 夕食を終えた浩介は、早々とアトリエに篭った。冷え冷えとした空気が肌に刺さる。上着を着て調節しようかと思ったが、手が妙に冷たくなっていたので、ファンヒーターのスイッチを点けると、浩介はキャンバスの前に腰を下ろし、木炭を握った。
 何だかんだと言いつつも、こうして絵に集中している時には充足感と言うか、安堵感と言うか、とにかく心が落ち着いてくる。
 自分のこと、父さんのこと、水花やみおのこと、遥さんのこと、そして絵のことなど、様々な悩みが薄らいでいく。癒されると言うよりは、忘れると言った方が適切かもしれない。絵に没頭していると全ての意識がそこに向くために、置き忘れていた楽しさを取り戻しているような気分になる。
 心地良い。
 描く上では楽しい一心で描き切れない部分もあるが、それでもこうして滑るように木炭がキャンバスを走り、徐々に生命が吹き込まれていく様を見ていると、心が弾む。
 イメージは膨らみ続け、完成図画目の前に見えてくる。どこをどうしたらいいのか、目に見える。こんな調子、久々だ。
 心が軽いと腕も軽い。調子なんてそんなものだ。ふとしたきっかけで変わる。たまたま点けたテレビが面白かったとか、夕食のオニオンサラダが美味しかったとか、そんな些細なことですら一変する。
「っと」
 ファンヒーターを点けっ放しにしていたせいか、木炭が指から滑り落ちた。汗ばんだ手を苦笑しながらズボンで拭き、拾い上げると、再びキャンバスを見詰める。
 そこにはもう完成図など浮かんではいなかった。いつものように、描きかけのモノクロな絵。途端につい数瞬前に抱いていた、あの弾むような心が消え、今はもういつものように負の感情ばかりが渦巻いている。
 動かない。あれ程滑らかに描いていたのが嘘のようだ。キャンバスを見ているだけで、もう重苦しくて堪らない。だけど、それでも俺は描かないといけない。誰に強制されているわけでもないが、とにかく。
 苦しくとも、描いていればまたいつか先程のように軽快になるだろう。そう信じて木炭を動かしては、生命を吹き込もうと試みる。
 だが、幾らそうしても木炭の汚れにしかならない。作中に必要な汚れではなく、単なる汚れ。描く程にそれは増幅されていく。
「くそっ」
 声が響く。聞き慣れた声。悪夢のように頭の中で響くそれは、いつも俺を暗く深い沼へと沈ませていく。幾ら振り払っても、抗っても、それは際限無く囁き続ける。
「無駄なことはよすんだな。こんなことをして一体何になるんだ。お前の絵は誰かを幸せにできるのか?」
 どうしようもないならば、無視する方がいい。言っても勝てない相手だ。
「そう、お前は自分さえも幸せにできないんだ。他人が満足してくれるなんて考えはよすんだな。褒めてくれるのは、いつでもお前の前だけでのことだ。みんなお前と違って優しいからな、言いたくても言えないのさ」
 気にするな、気にしたら負けだ。こいつは俺が抗おうともがく様を見たいだけなんだ。俺が勝てないのを知っているんだ。
「誰も幸せにできないのなら、せめて自分だけでもと考えているのならば、それは笑えるな。自己満足のみで描いているのは、自慰と一緒だ。時間と金の浪費だ。まぁ、世間知らずのお前にはわからないだろうさ。それらを無駄にしては自分を傷付け、その傷付いた自分を必死に慰めている最低のクズにはな」
 つい何か言いたくなるが、堪える。反論は何の得にもならない。言い返せば、不毛な気分になるだけだ。
「だからお前はバカなんだ。何も知らない。自分のことすら知らない。知らないくせに、そう思われるのが恥ずかしいから、博識ぶっては気に入られようとする。全く反吐が出るな、いつまでも青臭い考えしか抱けない奴は。何か言われるのが怖くて、いつまでも自分の殻に閉じこもっては誰かの助けを待ち、そのくせ差し出された手をさも余計だと言わんばかりに見詰める。みっともないと考えるか。だが、それがお前の偽らざる姿だ」
 キャンバスから木炭を離し、溢れ出しそうな感情を抑える。つい力が入って木炭が粉々になったが、そんなことはどうでもよかった。
「自分を見詰められず、誰もわかってくれないと一人叫んでは悲劇の主人公気取り。自分は汚れているなどと自己否定をしては、結局その確認だけで全てを終わらせ、高潔であろう己が魂を守ろうと必死。深入りせずに、何も解決せずに。全く、どうしようもないバカだよ、お前は」
 うつむき、両拳に力を込める。相手にしてはいけないと思うのだが、どうしてもこの膨らみ続けるものを抑え切れなくなってくる。
「愛されたいと願うか、願うだけか。それしかできないよな、お前は。願うだけで叶うと思っている、女々しいロマンチストよ。夢想主義のなれの果てよ。現実を見ろ。だからバカなんだよ、お前はいつまで経っても」
 自分を見失ってしまいそうな程、頭に血が昇っているのがはっきりとわかる。俺は引き出しにしまってあったポケットウィスキーをそのまま呑み、少しでも落ち着こうとする。
「指摘されたら逃避か。バカもここまでくると、おめでたいな。そんな調子だから、お前は結局一人の女を愛することも、幸せにすることも、ましてや傷付けないようにすることも、できないじゃないか」
「……てめぇ」
「ははは、悔しいか。だが本当のことだろう。水花が今、お前のことを好いているが、それとていつまで続くかわからない。何故なら、お前は何もしてやっていないじゃないか。何もできないじゃないか。何もしようとしていないじゃないか」
「うるさい、水花のことは関係無いだろ」
「関係無くはないだろう。折角好意を寄せてくれている相手にすら、お前は何もしてやれないのだから。そうじゃない相手なら、なおのこと。お前は誰かを本当に笑わせたことすらないだろう」
「黙れ。お前に何がわかるってんだ」
「わかるさ、底の浅いお前のことなど。何もできないくせにうじうじ悩み、それを知ったように振る舞っては、見抜かれることを恐れている奴。あぁ、そんなお前と一緒にいなければならない奴は哀れだな。同情するよ。そうでなければ、ただのバカだ」
「俺以外の奴を悪く言うな」
「気取ったって、結局自分が一番可愛いだけのくせに、よく言うよ。いいか、何度でも言ってやるよ。お前のすることは誰も幸せにできないばかりか、不幸にしていくんだ。好意を抱いている人間を、近付く人間を、お前はお前の無力のせいで、自分ばかりではなく他人までをも……」
「やめろ」
 怒声を張り上げながら立ち上がると、浩介はポケットウィスキーを勢いよく呷った。決して酒が好きだったり強い方ではないが、呑めば幾分か心の靄が消えていくような感じがする。
「逃避しかできない下司な男。バカな男。価値の無い男。最低の男。不幸しか与えない男。何のために生きているのだ、お前は」
 呑み、息を吐き、また呑む。次第に揺れる思考と視界。つい一息で呑み過ぎ、むせて咳き込み、涙目になってもひたすら呑み続ける。
「あはは、あっはっは、バカが。お前は生きる価値すら無いクズなんだよ。死ねよ。誰にも必要とされず、傷付けるだけなら、死ねよ。掃き溜めすらお前にはもったいないんだよ。死ねよ、ゴミらしく。死ねよ。死ねよ。死ねよ。死ねよ……」
「うるさいぞ、この野郎」
 更にウィスキーを呷り、どこを見詰めているのかわからない瞳をさまよわせ、イーゼルごとキャンバスを蹴り飛ばし、木炭を投げ捨て、、そしてまた吼える。壁を殴り、酒を呷り、虚空を睨みつける。まるでそこに声の主がいるかのように。
「あはは、死ねよクズが。死ねよ、ははは、あはは、あははははははははは……」
「黙れ、黙れ。お前も殺してやるからな」
 引出しから睡眠薬を取り出すと、数も数えずにウィスキーと共に飲み下した。どう見ても、飲んだ睡眠薬は十錠を越えている。
「バカが、犬死もいいところだ。いいぞ、そのまま死んでしまえ。その方がよっぽど人のためだ。あはははは、死ねよ。あはははは、あっはっはっはっは、腐れ野郎が」
「お前諸共だ」
 ウィスキーをガブ飲みし、荒々しく瓶を電話の側に置くと、不気味に口元を歪めながらベッドへ寝転んだ。
 声はなおも俺を嘲笑し、罵倒し続けている。だが、それは時と共に次第に遠ざかっていく。渦巻いているけれど、既に遠い世界での出来事のようだ。
「ふふふ、ざまぁ見ろ」
 全てが薄らいで行く。消える。もう目を開けているのか閉じているのか、それすらもわからない。ただ一切は過ぎて行き、その流れに身を任せるだけだ。
 意識が混濁していく中で、浩介はふっと笑みをこぼした。
 今日は、夢を見なければいいな。
 願いは意識と共に、ベッドより深く暗い闇の中へと沈んでいった。

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