八.

 一通り各部屋の掃除を終えた遥は、自室のベッドで大の字に寝転がり、ぼんやりと天井を見上げては、時折固くなった肩をほぐすように首などを動かしていた。
「津島家は広いって聞かされていたけど、こんなに広いとは思ってなかったわ」
 家と言うよりは屋敷と称したほうがしっくりくるくらい、この津島家は広い。一体何のためにこうまで大きくするのか、私にはわからない。客人のためだろうか、権力の象徴なのだろうか。
「わかるのは、掃除が大変だってことね」
 両手を頭の後ろで組む。昨日は何だかんだとあたふたしていて、ほとんど何もできなかった。だから今朝は早くから仕事に取り組んだ。メイドと言う看板もそうだが、何より私が何もできないとは思われたくない。二日酔いは多少辛かったけど、それでも動けないと言う程ではなく、辛うじて仕事はこなせた。
 ふと目を閉じると、ほんの少しだけ疲れが抜けていくように感じた。
 しかし、本当に私は一人でここを管理できるのだろうか。一通り掃除を終えたとは言え、きっとまだやり残している部分が多いだろう。使われていない部屋は毎日する必要は無いかもしれないけど、それでもやらなければならない。わかっている。わかっているからこそ、根を上げてしまいたくなる。
 不意に水花さんの姿が浮かんだ。
 私よりも若いのに、ずっとしっかりしている。私が来る前からここの家事をしていたみたいだし、何よりも出来る人だ。否定しているけど、浩介さんを好きでいるからこそだろう。
 でも、みおさんも浩介さんを好きみたい。水花さんがいるから遠慮しているようだけど、やっぱり見ていたらわかる。水花さんと浩介さんをくっつけようとしていても、どこか一緒にならない二人に安心しているように見える。
 そして浩介さん。この津島家の跡取りであり、私がお仕えすべき主人。ガラスの様に繊細でありながら、とてもしっかりとした強い何かを持っている人。だけど、見詰める先には悲しさがある。
 そう、あの人のように。
 いつも目を閉じれば最初の主人を思い出してしまう。画家だったあの人も、いつも何かに悩んでは自分をひどく傷付けていた。気難しく、でも心弱く、一見すると頼り無くて生真面目なんだけど、内に秘めた情熱は凄まじかった。
 彼は私を自分の絵と同じくらい愛してくれた。普通なら一緒にされたくはないと思うのかもしれないけど、私はそれで充分だった。彼がどんなに自分の絵を愛しているか、わかっていたから。見詰められ、腕の中にいる時は例えようも無いくらい、安心できた。そしてこっそり、この瞬間だけは私への愛情が上回っていると、一人満足していた。
 だけど、薄々気付いていた。それが何なのかと深く見詰める程、私はどうしようもなく不安になってしまった。だからなるべく気付かないように振舞った。必死に目の前の幸せだけを見詰め続けた。けれども、それは避け切れるものではなかった。
 彼の瞳はいつでも遠くを見ていた。そう、いつも死を見詰めていた。
 私を愛し、抱いている時でさえ、その輝きはあった。普段生活している時もそうだったけど、やはり描いている時が一番凄まじかった。
 集中する程に鬼気迫る彼の姿は、どこか滅び行く寂しさをも感じさせた。上手くは言えないけど、命を削って描いていた。だから彼の作品はどれも生々しかった。描かれている人々は嫌悪感を抱いてしまいそうな程にリアルで、でも確かに自分のすぐ隣にいる感じを与えていた。彼が絵に吹き込むものは、自分の命に違いなかった。
 そんな彼が最も恐れていたものも、また死だった。
 死を見詰め、望み、そこへ進もうとしているのだが、それを怖がっていた。周りの人達はそんな彼を変人だと言い、遠ざかったりもしたが、私にはわかっていた。それが寂しさによるものである、と。
 寂しくて寂しくて、誰かに見詰められたくて自分を傷付け、それでも満足しないから更に自分を追い込んで、結果そういう風になってしまったのだろう。いつしか自分を傷付けることでしか自分を確かめられなくなってしまった彼は、誰かに愛されることを強く望みながら、傷付いた自分をも愛し、次第に躁鬱が激しくなっていった。
 それでも決して手を上げることは無かった。どんなに怒っていても、私が悪くても、彼はいつも自分を責め、傷付けた。そうしてそれを、全て絵にぶつけていた。
 そんな彼と浩介さんは、どこか似ているように思う。
「疲れているのかな、私」
 とりとめの無いことを考え過ぎた。こんなことを考えてもどうしようもないのに、そうしてしまうのはきっと疲れのせいだ。
 ごろりと横になると、遥は腕を横に投げ出し、溜め息をつく。
 目を閉じると楽になる。より色々なことを考え、特に悪いことが頭に浮かんでくるけど、今は疲れた体が深くベッドに沈み込んでいくようだ。そしてそれに伴い、意識さえも。
 薄らぎ、消えかけていく意識の片隅で、不意にある考えが脳裏をよぎった。
「そうだ、お洗濯物干さなきゃ」
 慌てて跳ね起きると、遥は天に向かって大きく息を吐き、仕事に戻った。

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