七.

 アトリエは寒いと言っても、やはり室内。外気は更に冷たく、上着を着ていても少し肌寒い。僅かに肩を竦ませながら、浩介はとにかく家から遠ざかろうとしていた。
「言うだけなら何とでも言えるよ」
 憎々しげに吐き捨て、舌打ちする。思い浮かぶのは先程のやり取り。苛立たしい。自ずと目つきが険しくなり、拳に力が入る。
 だが、やはり一番苛立つのは自分に対してだ。あれ程愚痴を吐いてはいけないと思っていたのに、何もかもぶちまけ、挙句全てを肯定してもらい、慰めて欲しいとすら考えていた。
 遥さんの言ったことはもっともなことだ。至極当然のことだ。だけど、それができないでいるから、最も向き合いたくない自分を見詰めさせられたみたいで、つい反発してしまった。耐えられなくて、相手に牙を剥いてしまった。無力な自分を隠したくて。
「何してるんだろうな、俺は」
 好意で悩みを聞いてくれた人に、なんてことを言ってしまったのだろう。あんなにも嫌われたくないと思っていたのに、どうして。
 他人の言動を見るにつけて幼稚だのと思っている俺こそ、少し本当のことを言われただけで逆上する子供じゃないか。唯一人より優れていると思っている絵も、全然進まないままだし。
 溜め息しか出てこない。それもすぐに肌寒い秋風に流されて、どこかへ消えていく。あてどもない歩みに、心は寂しくなるばかり。ふと天を仰いでみるが、薄曇りの空が重くのしかかってくる。
 青空を見ておまえは私に一個の銅貨をさえ与えたことがなかったと言った人は誰だったろうか。この空を見上げて俺も思う。青空ではないけれども、この空も俺には何も与えない。いや、何もなんてことは無いな。罪意識を充分過ぎる程に与えてくれる。
「あんなにいい人なのに、俺は……」
 家事はもちろんのこと、絵をちゃんと見てくれた。愚痴だって聞いてくれたし、慰めてもくれた。それはきっと、仕事を越えた人付き合いだろう。なのに俺はそんな遥さんを傷付けるようなことをしてしまった。
 考える程に堂々巡り。ただ自分を暗い沼の中に沈ませるような考えしか浮かばない。もしも子供ならば、泣いて誰かの胸に飛び込めるのだろうが、もうそんな年じゃない。辛くとも、ただひたすら堪えるしかない。泣きたくても、涙が出てこないのだから。
 うつむきがちに、狭い視界の中で、重い足を引きずるようにして歩いていると、前方から見知った顔の男が近付いてきた。
「よぉ、浩介。どうしたんだ、元気無さそうだな」
「あ、鎌田先輩」
 鎌田将人は人懐っこそうな笑みを浮かべると、値踏みするように浩介を見た。高校時代から変わらぬその仕草に、浩介は少し安心したように頬を緩めた。
「今日も寒いなぁ。最近じゃすっかり寒くなって、朝は布団から出られないよ」
「そうですね、ここ一週間で冷えましたね」
「それで、絵はまだ描いているのか?」
「えぇ、一応」
「そうかそうか。ま、あれだけ描けるやつが簡単に捨てられるわけ無いもんな」
 満足したように頷く鎌田に、浩介はどこか苦手意識を持っていた。生理的な、と言えばそれまでなのだが、どこか仲良くしていても自分とは相容れない人間だと、前から思っていた。それに鎌田は話が長い。早々に切り上げようにも、久々に会ったのだ。無下にはできない。
「あの、先輩。ここで話すのも何なので、どこか腰を落ち着けて話しませんか」
「そうだな。こんなとこで話していたら、寒くて仕方ない。よし、それじゃどこか行くか。と言っても、この辺じゃあそこしかないな」
 あそことは浩介の家から徒歩十分程のところにある喫茶『メリージェーン』のことである。浩介もそこはよく利用していたし、高校時分にも学校外で話をすると言えば、津島家かそこであった。
「じゃ、そこで」
 喫茶『メリージェーン』は住宅街に居を構えているからか、良い感じで落ち着いた雰囲気のある店だった。店内はそんな感じを前面に押し出すためか、テーブルも椅子も壁も、全てダークブラウンの木目調である。流れるBGMはクラシカルなジャズ。この時間はまだ人もまばらだ。
 適当な席に案内された二人はブレンドコーヒーを注文する。それが届くのを待ってから、鎌田が口を開いた。
「いや、それにしても久々だな。割とお互い近くに住んでいるってのに、なかなか会わないもんだな」
「そうですね、二年ぶりくらいですかね」
「そんなになるか」
 何かを思い出し、懐かしむように微笑しながら鎌田はコーヒーを啜る。
「で、さっきも訊いたけど、絵はまだ描いているんだろ。調子の方はどうなんだ」
「あまりよくないですね。ほとんどは作品として完成する前に、納得がいかなくてやめるばかりで。ある程度納得させて完成させた作品は、展覧会に出してみても選外。最近は惰性で描いているようなもんです」
「そっか。でもお前は完成させればどれも良作なんだ。がんばれよ」
 だが浩介は知っていた。そう言う鎌田の方が、自分よりも才能があることを。高校時分も、浩介は頻りに周囲から褒められていたが、認められていたのは鎌田の方だった。画力は浩介の方が上だと自他共に認めていたけれど、鎌田の絵には魅力があった。
 画力は磨けば何とでもなるが、魅力は生まれ持ったものであることが多い。努力しても手に入らないだろうものを持っている鎌田に、浩介は常にコンプレックスを抱いていた。だから鎌田に褒められると、嬉しく思う以上に、どこか皮肉を言われているような気がした。
 いつも褒められる度に反発したくて、でもできなくて、喉まで込み上がる言葉を押し殺しては笑顔を作る。嫌われたくはないから。
「先輩はどうなんですか?」
 これ以上自分の絵のことを話題にされたくない一心で、さして興味は無かったが、浩介はさも興味ありそうな顔をしながらそう尋ね、コーヒーを啜る。
「俺はもう描いていないよ」
「どうしてですか」
 意外だった。自分よりもいい絵を描き、かつ認められていた先輩が、どうしてやめてしまったのだろうか。
「忙しくて描く暇なんか無いよ。働いていると絵なんてまともに描けないから。ま、俺だって一応お前らと絵を描いていたし、絵は好きだったからこそなんだが、中途半端なものは描きたくないんだ」
「でも、先輩は認められていたじゃないですか。もったいないですよ」
「あのな、浩介」
 鎌田はコーヒーカップを傾けると一つ大きく息を吐き、浩介を見詰めた。
「認められたと言っても、所詮それは学生レベルでの話。しかも有名な賞なんて、一度も取ってないしな。それで絵を続けていこうなんて考えは、とてもじゃないが起きないよ」
「そうかもしれませんけど、でも」
「買いかぶり過ぎだよ。プロなんてのはそう甘くは無い。自分の作品に金を払ってもらうんだぞ。そんな作品をずっと描けるかと訊かれたら、俺はできないって言うね。大体、絵を描くだけで生活できる奴なんてのは、ごく一握りの人間なんだ。夢を持つのは悪いとは言わないし、それを否定する権利なんて誰も持っていない。だがな、世の中には叶うものと、そうでないものがある。努力してもダメなものはダメなんだよ」
「ですが、俺はそれでもそれを捨てられません」
「お前はもっと現実を見ろよ。確かに浩介はいい絵を描くし、描く時間も持っている。だけどそれは、言いたくはないが、家が裕福だから絵に専念できるんだ。幾ら家の金があるからと言って、そこに甘えてばかりってのはよくないと思うぞ。働いてみればわかる。いかに生きていくのが難しく、好きなことを続けるのが難しいかってね」
 何も言えなかった。何も言いたくもなかった。言い返せなかった。先輩の言うことは、何も間違ってはいない。間違っているのは俺の方なのだから。
 だけど、どうして苛立ちや反発を覚えてしまうのだろう。あの憎くて仕方ない父さんと同じことを言っているからだろうか。あんなに魅力的な絵を描いていた人が、やめろと言っているからだろうか。それとも、わかっていても何もできない自分に対してだろうか。
 人付き合いは決して巧い方ではなく、人見知りが激しい。嫌なことには目を向けず、逃げてばかり。遠慮しては自分をよく見せたくて、でもその度にそんな自分をわかってくれない相手に苛立ったりもする。言い訳を並べ立てては、責任逃れ。だが嫌われたくない、常に上に見られたい。
 そんな自分が、どうしてこの社会で生きていけると言うのだろうか。どの道、集団生活を営む上では協調を基にしなければならないだろう。
 だから絵にすがった。自分が少しでも好きでやりたいものは何かと考えた時、そこに絵があった。受賞は一度も無いが、周りの人々が褒めてくれる。それだけで俺はまだ諦め切れない。
 すっかり冷えたコーヒーを一息で飲み干すと、浩介は苦笑いを浮かべた。
「確かにそうですね。うん、働かないとなぁ」
「まぁ、どの道が正しいのかなんて、誰にもわからないからな。とりあえずがんばろうぜ、お互いによ」
 それからしばらく世間話をしてから、浩介は鎌田と別れ、家路を辿った。遥にああ言った手前、まだ帰りたくはなかったが、どこへ行くあても無い。目的も無く、寒さに晒されるよりは、侮蔑されてもアトリエにいた方がいい。そうして先輩をも納得させる作品を描こう。そう思いつつも、浩介の心は晴れないままだった。
 母屋には寄らず、アトリエに入る。願っていたように、そこに遥さんはいなかった。上着をかけ、僅かに開けていた窓を閉めると、キャンバスの前に腰を下ろす。ぐるりと首を回し、見なれた光景に安堵する。
「これしか無いんだ。これがダメなら、俺もダメだ」
 自嘲気味に微笑みながら、浩介は木炭を手に取った。

6へ← タイトルへ →8へ