浩介さんを抱き締め、その温もりを感じながら、私は一番最初の主人を思い出していた。その人も、こうしてよく悩んでいた。周囲の眼、環境、自分の行く末、芸術など様々なことに思い悩んでは、幾度も歩みを止めようとしていた。
いつも強がって努力をひた隠し、悩み弱みを極力見せなかったけど、ひどく無理をしているのはわかっていた。そんな人だったから、いざ自分の内に溜めていたものを話してくれた時、ひどく愛しく思えた。
何と言われようが、傷付いている人を見ると放っておけない。無理している人も、我慢している人も。そんな人達を見ていると、切なくなってくる。辛いことに耐え、歩み続ける人も、留まる人も、動けない人も、気の毒とはまた違った凛々しくも痛ましい姿に、涙が溢れてくる。
恋とか愛とかとは違うのかもしれない。それこそ哀と愛の違いなのかもしれないけれど、私はあの人を愛した。その苦しみの一端を背負ってあげたくて、またその辛そうな顔を笑顔にしてあげたくて……。
今こうしていると、そんなことを思い出す。あの人と浩介さんが似ている部分は確かに多いけれど、やっぱり違う。でも、心が勝手に思い出してしまう。
私はまだ、あの頃の幸せを引きずっている。
はっきりとそれを認めると、胸と頭がずしりと重くなった。今はそんなこと考えても仕方ないじゃない。そう自分に言い聞かせながら、溢れ出しそうな涙を堪えるように、更に浩介さんを強く抱いた。
「ありがとう」
普段ならば聞き取れない程小さな浩介の囁きも、静かなアトリエには充分響いた。風音混じりに届いたそれは、遥の心の奥底まで響き、思わず浩介から離れた。
「すみません」
「いや、いいよ」
浩介が優しい面持ちで顔を上げると遥は姿勢を正し、向き合った。幾分か落ち着いた様子の浩介を見ていると、自ずと頬が緩まっていったようだ。
「焦る気持ちはわかりますが、人の歩みは決まっているものです。順調に進むこともあれば、躓き迷うことも。止まるも進むも自由。でも諦めないことが、やっぱり肝心なんです。定まった道など見えないことの方が多いんですから、進むべき道を決めてとにかく進んだ方がいいんですよ」
「だけど、それは大きく間違っていて取り返しのつかない道かもしれないよ」
「考えていてもどれが正しいのかなんてわかりませんし、考え過ぎるとどうしても悪い方向にばかり目が向いてしまいます。取り返しがつかないと気付いた時は、また新しい道が見えているものですから、新しくスタートを切ればいいだけですよ」
「そうかもしれないけど、そんなに巧くはいかないと思うけどね」
「とりあえず、浩介さんは自分の素直な想いを絵に、生き方にぶつければいいんですよ」
「それができれば苦労しないよ」
そう憮然と言い放つと、浩介は遥から視線を外し、二度三度軽く首を横に振った。その仕草に、遥が慌てて頭を下げる。
「差し出がましいこと言って、すみませんでした。あの、お疲れだからきっとそう思うんですよ。少し気分転換してみてはいかがでしょうか。集中するのは大切なことですが、そこにしか目が向かなくなると、良い方向へは行けないかと」
「どうせ良い方向を向いちゃいないさ」
「そう言うことではなく……」
「そう言ってるだろ」
勢いよく立ち上がった浩介は、遥を見下ろすようにして睨みつける。
「あぁ、そうだよ。どうせロクな絵も描けないし、まともに生きていないさ。遥さんのようにちゃんと働いて金もらってる人から見れば、さぞ俺のしていることは道楽に見えるだろうよ」
「そんなこと無いです」
「やめろ、やめてくれ。黙っていろ」
うつむき震える両拳に、耐えかねたような叫び。どんな顔をしているのかわかるけど、見ることは叶わない。触れることはおろか、声をかけることすらためらわれる。
どうしようもできない。そんな無力感と、よかれと思い語ったことが裏目に出てしまった後悔が渦巻く。何か理由をつけてここから離れたい。でも、できない。
互いに口を開けず、時間ばかりが過ぎていく。今更ながらアトリエが寒々としているのが、否応無く伝わってくる。どこか埃っぽい匂い。黙っていると色々なことがわかるけど、苦しい。
遥の横を浩介が通り過ぎ、壁にかけてあった上着を着る。何をしているのか手に取るようにわかっても、遥は依然振り向くことができずに、じっと自分の膝を見詰めていた。
「出てくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
相手を見ることも無く交わされる、機械的なやり取り。そこに先程までの和らぎは無く、ただ重苦しさばかりが残る。
ドアの開く音が響いた。もしかしたら今日は帰ってこないのかもしれない。私のせいだ。あんなに気にしていることを思い遣りもせず、理想論ばかり押し付けてしまった。嫌われて当然だ。何もわかっていないのは私だ。
「コーヒー、美味かったよ」
言うが早いか、浩介はドアを閉めてしまった。だけどそのどこか和らいだ、愛しいと感じさせた浩介の声に、遥はほんの少しだけ安堵を覚えた。
「私も、ダメね」
一つ溜め息をつくと、遥は家事の続きをしに母屋へと向かった。それが今自分がすべき道だと信じて。