五.

 眼光鋭く木炭を動かしては手直しし、手直ししては溜め息をつき、一頻りその絵を苦々しい面持ちで眺めた後、また木炭を走らせる。浩介は三時間程休息もいれずに、ずっとそうして絵に取りかかっていた。
 昨日よりは細部も描かれ、幾らか進んだように見えるものの、依然納得がいかない様子で、何度も描き直しに描き直しを重ねている。そのせいか、キャンバスの所々にはすっかり木炭で黒ずみ、これ以上は描けないのではと思われる程だ。
 下描き用だからいいか。また別のに描けばいいだけだ。
 最初はそう考えて描いていた。久々にこの家が楽しく思えたから、そんな考えも生まれたのだろうか。悪くは無い気分だった。
 だが、今は違う。いつもの考えが俺を苛む。キャンバスを見る程に、木炭を走らせる程に、完成図を思い描く程にそれは膨らんでいく。全ての負の感情が胸に淀み、頭にへばりつき、このアトリエ全体をも変えていく。
 こんな絵が人々に受け入れられるのだろうか。いや、こんなと言う程卑下している訳ではないが、果たして自分の絵は通じるのだろうか。みんな俺の絵を褒めてくれるけど、俺は未だに賞の一つすら貰っていない。やはり自分のしていることは児戯なのだろうか。大衆から見れば、お遊びとして捉えられているのだろうか。こんなにも頑張っているのに……。
 何かに影響を受けて変わることは多い。俺も色々なものから多分に影響されてきた。だから自分も誰かに何かを少しでも与えたい、いや、そこまで大きくはなくとも、自分の中に潜んでいる本当の自分を見たくて絵を描いている。
 だけど俺の絵で人々の何を変えられると言うのだろうか。自分さえ、まだ何も変わらないままなんだ。それに伝えたい何かすら、未だ明確に見えてこない。自分の抱えている負の部分がしっかりと見えてこない。
 伝えるものもわからず、自分すら見えず、一体自分は何故描いているのだろう。楽しいということを出発点にしたはずなのに、今は描くことが苦痛にしかならない。結局は堂々巡りの悪魔に我が身を削られていく。
 我が身を苛み、苦しめ、切り裂くのは他でもない自分。そんな自分に歯止めをかけることは、いつもできない。自分を誰かが嘲笑っている。表向きは散々褒めているけど、陰ではきっと笑っている。そうに違いない。
 みんなして俺をバカにしやがって。
 何もわかっていない。誰も何もわかっていない。どこも見ていない。上っ面だけを見て、もっともらしく頷いていやがる。何が違うと言うんだ、どこが違うと言うんだ。何もわかってないのは俺だけじゃない。お前らもだ。
 いきり立ち、手近にあったナイフを手に取ると浩介は力一杯握り締め、キャンバスに振るおうとした。そこに自分を嘲笑う自分がいるような気がして。
「……くっ」
 だがキャンバスを切り刻みはせず、手にしたナイフをまた元の位置に戻すと、浩介は腰を落ち着け、頭を抱えた。
「何になるんだ、こんなことして」
 不安、反抗、憎悪の次は自己嫌悪が渦巻く。膝に埋めた視界は闇ばかりが広がっている。どうしようもない。所詮は自分が悪いのだ。無力な自分に腹を立てては、勝手に世の中が悪いと思う。青臭いにも程がある。
「描くか」
 力無くそう呟くと、浩介は再び木炭を手に取り、走らせた。
 しばらく黙って描いていると、ドアがノックされた。入室許可の下、入ってきたのは遥だった。だが浩介はキャンバスから目を離さずに、黙々と描き続けている。
「あの、コーヒーをお持ちしました」
「あぁ、その辺にでも置いておいて」
 コトリとカップの置かれる音が響く。
「あの、お疲れのようですから、少しお休みした方がよろしいですよ。暖かいうちに飲んだ方が、心身共に楽になりますから」
「そうするか」
 他人にそう言われるくらいだから、余程のものなのだろう。ここは遥さんの言う通り、一旦休んだ方が身のためかもしれない。
 木炭を置き、コーヒーを遥から受け取ると、遥と二人で啜り始めた。暖かいコーヒーは心のしこりをほだしていく。先程まで胸に渦巻いていた粘り気のある闇も、こうして誰かと一緒にいることで薄れていく。そんな平穏に、浩介の胸は心地良く疼いた。
「何か悩んでいることがあるなら、遠慮せずに話して下さいね。何も言えないかもしれませんが、聞くことくらいなら。内に溜めるよりは、話した方が楽になれますから」
「悩みと言うか、何と言うか」
「あ、無理に一度に話そうとせず、一つ一つでいいですから」
「あぁ」
 そう頷いたものの、誰かに愚痴を吐くのはいささかためらわれた。愚痴を聞いて相手を安心させることはあっても、聞き続けるのは苦痛だ。自分まで暗く沈み、また相手によっては答えようの無い問題に取り組まなければならない。
 悩みを聞いてあげると持ちかけたのに、結局最後にはどこか相手を恨んでしまう。救いを与えたいと思うのは偽善だ。自分にだってできない理想論を押し付けているだけだ。そうして否応無く自分のワガママ、無力さ、偽善、好意を抱いていた相手への憎悪と自己嫌悪が生まれる。あぁ、嫌だ。
 言ったとしても、何が変わるわけでもない。いたずらに相手を傷付けるだけだ。気心知れた相手にすらそうなるんだ。ましてや昨日会ったばかりの遥さんに言ったら、どんなに傷付くだろうか。いや、傷付かないにしろ嫌われるかもしれない。嫌われるのは、嫌だ。怖い。
 だけど、遥さんの瞳を見ているうちに、そんな自分が崩れていくのを感じた。暖かいコーヒーとその眼差しにほだされ、いつしか俺は自然と口を開いていた。
「色々あるけど、家のことかな。父さんがああいう人だから、周囲が俺に色々求めてきてね。父さんのようになれ、絵なんてやらないで真面目に働け、働いて父さんを越えろってね。俺は父さんじゃないし、できることやできないこと、またやりたいことも違うのに……」
「過剰な期待や、その人と同じになれと言う圧力は辛いですよね。できなければすぐにダメだと言われてしまうでしょうし、ましてやお父様のような人だと、どんなにがんばっても言われ続けられるかもしれませんものね」
「だけど、一番許せないのは自分なんだ。父さんは俺に何でも与えてくれる。それはどこか俺をいつまでも子供扱いしているみたいで、嫌なんだ。決まってどこか憐れんだように俺を見ている。でも、そんな甘えから抜け出せずに、いつも好きなことをしている自分に腹が立つ。さっさと働いて自分で稼いで、そうして生きていければいいんだろうけど、働かなくても生きていける上に、好きな絵を描ける今の生活が惜しい」
「お気持ちはよくわかりますよ。誰だって好きなことばかりして働かないで生きていけるのなら、そうしたいですから」
「でも、いつかは働かないと生きていけないかもしれない。いや、仮に生きていけたとしても、働きもしない俺への周囲からの重圧に、耐えられなさそうだ。でも普通に営業だの、事務だのなんて仕事は俺に合わないような気がする。合わないってよりは、やっていく自信が無い。だから好きな絵の腕を磨いて、それで食べていきたいなって」
「難しいですよ、自分の力だけで生きていくことは」
「わかっているよ。でも、やってみたいんだ。自分でも少しは絵に自信を持っているし、絵を見てくれた人は褒めてくれる。そんなことがあると、やめられないよ。それに自分の好きなことを仕事にできるのって、幸せかもしれない。少なくとも俺は今、そう思っている」
「そうですね。合わないよりは、自分に合った仕事の方が、やる気や効率にも繋がりますしね」
「だけど……」
 コーヒーは既に冷え切っていた。それを一気に飲み干し、一つ大きく息を吐くと、浩介は苦笑いを浮かべた。
「賞は一度も取ったこと無くてね。周りのみんなが褒めてくれても、結局は世間に認められちゃいない。これでも何度かそういうのに応募してはいるんだけど、ね」
「実力と運、ですよね」
「そうだね。認められないまま終わっていく人達はかなりいるだろう。例えばゴッホなんかも、生きている間はそうだったしね。審査員がどんなに偉い人達でも、見る範囲ってのは決まっている。要はその人達の好みに合わないと世に認められないってことなんだろうけれど、そんなことわからないよなぁ。もしかしたらその人達がわからないだけで、広く一般には受けがいいのかもしれないしさ」
「そうですね。でも名の知れた人に認めてもらうのが広く知られる近道ですし、それを拒むのなら、長く地道にやるしかないですよね」
「でも、時間は無いよ。こうして好き勝手に描けるのも、今年が最後かもしれないし、また働いたら絵に打ち込む暇も無くなるだろう。誰か一人に認められればいいだなんて、嘘だ。俺は万人に認められたい」
 ゆるゆると首を振りながら、やがて浩介は膝に顔を埋めた。そんな浩介を見て、遥はただ優しくおおいかぶさるように、抱いた。

4へ← タイトルへ →6へ