四.

 目を覚ませば、もう午前七時半だった。布団からはみ出していた部分が冷えており、鈍い痺れが広がっている。水花はもう一度しっかり布団にくるまってみたものの、すぐに上半身を起こした。ひやりと澄んだ空気が背中を撫でる。
「おはよ、水花」
 隣では具合の悪そうなみおが寝ている。重そうな瞼を何とか開けているが、とても起きられるような状態ではなさそうだった。
「おはようって、大丈夫?」
「うーん、ちょっと辛いかな」
「調子に乗って呑み過ぎだよ、もう」
 みおはもう答えることすら辛いようで、ただ低く呻くばかり。水花は溜め息を一つ吐くと、布団から出た。
「胃薬持ってくるから、ちょっと待ってて」
「ごめんねぇ」
 まともに顔を上げられず、枕に埋もれたままのみおを残し、水花が寝室を出ると、すぐに遥と出会った。
「おはようございます」
 互いに挨拶を済ませると、水花は小走り気味に台所にある薬棚へと向かった。
 台所に入るなり、味噌汁のいい匂いが水花の鼻をくすぐった。こんな時間だから用意されているのは当たり前かと思いつつも、前日呑んでいた素振りを感じさせない遥の仕事の早さに感心し、薬箱から胃薬を取り出す。
 まったく、あんなになるまで呑まなければいいのに。
 それでもどこかで世話をする自分に満足しながら、水花はみおの待つ寝室へと急いだ。
「みお、持ってきたよ」
「あ、水花」
 水の入ったコップから口を離したみおは、再び横になった。枕元には胃薬の袋がおいてある。
「遥さんが持ってきてくれたの。水花が出て行った後すぐに来て、具合悪いでしょうからって」
「そう」
 平素に努めようとしたけれど、どこか無理な笑顔だと自分でも痛い程わかる。そんな私に気付いてか、みおがすまなさそうな瞳を向けてくるのだけれど、それがまた何か私の心をモヤモヤとさせる。
「ごめんね、折角持ってきてくれたのに」
「ううん、いいよ。それよりも早くよくなるといいね」
 どうしてこんな気分になるんだろう。みおがよくなるのなら、それでいいじゃない。私も昨日の疲れが残っているから、こんなこと考えちゃうのかな。
「あ、そうそう、もう少ししたら朝ゴハンの用意ができるってさ」
「うん、さっき台所に行ったら、もうお味噌汁できているみたいだったよ」
「お味噌汁くらいなら、大丈夫かも」
「少しは何かおなかに入れた方がいいよ」
 水花はみおの側に座ると、手櫛で乱れた髪をとかし、みおのとは別に枕元に置いてあったコップを口にした。
 朝食は客間ではなく、台所で行われた。浩介、遥、水花は普通に平らげたが、みおは味噌汁二杯だけ飲むと、後はテーブルにうつぶしていた
 食事が終わるなり、浩介はアトリエへと向かった。みおはまだ具合悪そうに寝室へと戻る。早々に出て行った二人を見送ると、続いて遥も立ち上がった。
 手際良く食器を片付ける遥の姿に、少しの間目を奪われていた水花も我に返ると、慌てて立ち上がり、食器をまとめ始めた。
「あ、すみません。もういいですよ」
「いえ、私も手伝いますよ」
 水花が食器を流し台に運ぶと、遥がほんの少しだけ申し訳無さそうな顔を水花に向けた。好意とはまた違う遥の表情に気付いた水花が、何事かと食器を置きながら遥を見詰める。
「あの、ここは私がしますから」
「え、でも」
「これが私の仕事ですから。水花さんはみおさんをお願いします。まだ具合悪そうでしたし、誰かが側にいてあげた方がいいでしょうから」
 丁寧に軽く頭を下げる遥に、水花はもう何も言えなかった。水花も一礼すると、何事も無かったかのようにみおのいる寝室へと足を向けた。
 仕事で来ているんだもん、働かないと気まずいよね。きっと立場が逆なら、私も同じようにしていただろうし。
 寝室に入ると、みおが布団にくるまりながら呻いていた。水花は側に座ると、おずおずとその顔を覗き込む。
「ねぇ、大丈夫?」
「さっきよりはね」
 おっくうそうに上げるみおの顔は仄青く、どう見ても大丈夫そうには見えない。確か二日酔いにはたくさん水分を摂る方がいいと、以前何かで聞き知った。私はみおにまだ水を飲むように薦めたけど、みおが力無く首を横に振ると、無理に進められなかった。
 あまり話しかけるのも酷かと思い、口を閉ざす。だけどただ黙っているのもお互い気まずいだろうから、努めて穏やかな顔をしながら庭木に目を遣ったり、私も横になったりしてみる。
 思えばこうしてここの天井を見上げるのは初めてなのかもしれない。寝転がって明るいうちに見上げる天井はとても高く、普段立っているとわからない空間に気付くのは、何らかの感傷なのだろうか。
「遥さん、か」
 仕事とは言え、なかなかできることじゃないよねぇ。
「遥さんがどうしたの」
 僅かに顔色がよくなったみおが、水花を覗き込む。そんなみおの様子に思わず呟きが漏れていたことに気付いた水花は、照れ笑いを浮かべた。
「何でも無いの。ただ、よくできた人だなぁって思ってたんだ。なかなかいないじゃない、あんなにちゃんとできる人って。仕事だからとしてもさ」
「そうだよね。でも水花だって同じだと思うけど。なかなかいないよ、水花みたいな人」
「そう、かな?」
「うん。私とか周りの友達とかとは違って、水花ってすっごく家庭的だもん。ちょっと羨ましいとか、憧れたりすることあるんだよ」
「そうでもないと思うけどなぁ」
 否定しつつも、水花は心の奥をくすぐられたように感じ、何とかとぼけようとするものの、どうしても頬が緩んでしまう。
「自信持ちなよ。水花はもっと自信持ってもいいくらいだよ」
「自信、かぁ」
 みおの言う通りだ。私だって私だって自分に自信が無いのはわかっている。そして、もっとそれをつけた方がいいとも。
 だけど、どうすれば自信を得られるのだろうか。他人に誇るものも無ければ、自慢できるものも無い。それを苦にしたことは今まで一度も無いけれど、こう言われた時には少し考えてしまう。
 プライドが無いわけじゃない。自分でもどこか自慢できるところはあるように思う。けれど、それを口にしたり、はっきりと思ってしまうと自分がひどく卑しく思えてしまう。自分の支えがわからないのか、言いたくないのか判然としない。
「ちょっとお掃除してくる。大丈夫だよね、みお」
「うん、平気」
 にっこりと微笑むみおに後押しされるようにして、私は寝室を出た。
 幾ら仕事とは言え、遥さん一人に働かせるのはどこか心苦しい。浩介の家は広いんだし、きっと遥さんなら使っていない部屋とかも綺麗にするに違いない。そうなれば結構大変だろうから、例え足手まといになるとしても、少しはその負担を減らしてあげたい。
 掃除道具を取りに行ってみたものの、そこには何も無かった。既に遥が掃除に取りかかっていると思い至ると、水花はとりあえず玄関口に広がっているホールへと向かった。
 ホールには何とも言えない違和感が広がっていた。それがどんなものかは一見しただけでは、わからない。物の配置などはいつもと変わらないけれど、何かこう、明るい雰囲気が漂っている。
 しばし何が違うのか考えていたが、すぐに遥を探している最中だということを思い出した水花は、次に客間に入った。
「あ、水花さん」
 客間では遥が窓を拭いていた。ここもホールと同様に昨日と、いや、今までと少し雰囲気が違う。それは一体何なのだろうかと、水花は客間全体を見回してみる。しかし、やはりこれと言った変化は見当たらない。
「あの、どうかしましたか」
 手を止め、遥が水花に近付く。我に返った水花が慌てて遥に視線を戻すなり、その違和感が一体何であるのかようやく思い至った。
 綺麗なんだ。掃除の質が私とは全然違う。私もよくこの家を掃除してきたけれど、こんなに綺麗に感じたことはない。決して手を抜いていたわけじゃないけど、こうも明るくはならなかった。
「あの、水花さん?」
「あ、いえ、何でもないんです。ただ、遥さんが何をしているのかなぁって。それにしてもすごいですね。見違えるように綺麗になってますよ」
「ありがとうございます」
「それでは、がんばって下さい」
 互いに一礼を交わすと、水花はゆっくりと逃げるように客間を後にした。
「やっぱり、違うなぁ」
 こんな自分と比べること自体失礼なのかもしれないが、やはり専門職は違う。私も周りから言われているのとは別に、家事に対しては多少の自信を持っていた。否定はしていたけれども、心の奥では周囲の人達よりはできると、唯一の自信を持っていた。それこそ、そこいらのお手伝いさんなんかよりは、と。
 だけど、どうだろう。そんなものはただの思い過ごしや自惚れでしかなかった。世間知らずもいいとこだ。現にこうして遥さんの仕事を見ていると、私なんかは到底及ばない。変なことかもしれないけれど、自分がとても無力で恥ずかしく思えてくる。
「でも、仕方ないよね。それを仕事にしているんだもん」
 何とか心の整理をつけ、大きく息を吐くと、水花はみおのいる寝室へと戻った。
 少しして、みおが何とか帰れるくらいにまで調子が戻ると、水花とみおは遥に帰宅することを告げ、津島家を後にした。きっと浩介は絵に集中しているだろうからとアトリエには寄らず、肌寒い空気を吸いこみつつ、二人は各々の家路を辿った。

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