三.

 遥が出て行くと、浩介は閉められたドアを一瞥してから大きく息を吐いた。また一人きりのアトリエ。だが普段と何ら変わりない。
 少し浮かれていたのかもしれない。水花やみおならいざ知らず、今日初めて会った遥さんが絵について話し、かつ興味があるようなことを言ったがために、つい我を忘れて自分のことばかり話し込んでしまった。そんなことをされたらきっと不快に思うだろうに……。これも仕事のうちなのだろうか。
「何でもないさ」
 そう一人ごちて平静を取り戻そうとする。これからの生活のこと、絵のこと、人間関係、そして自分。たった一人の人間が来たからと言って、これまでの日常が大きく変わるはずも無い。何度も何度も浩介はそう自分に言い聞かせつつ、何事も無かったかのように木炭を走らせ始めた。
 日が暮れ、アトリエ内が暗くなっても、浩介はしばらく明かりを灯さなかった。特別集中していたわけじゃない。ただキャンバスから離れ、電気を点けるのがおっくうなだけだった。
 それでも次第にキャンバスが見えなくなり、考えるよりも目を凝らす時間が長くなってくると、さすがに重い腰を上げて明かりを灯した。
 暗く静かだったアトリエ世界が一瞬で崩壊し、眩い光が隅々にまで巡る。その勢いに驚き、咄嗟に目を閉じよろけたものの、ゆっくりと目を開け、それが怖くないもの、見慣れたものだと心の片隅で呟きながら光の世界に馴染むと、また椅子に座り木炭を握り締めた。
 遥が見た時よりも幾分か形にはなっているものの、まだまだ荒い。構図は粗方決まっているが、どうもあまり進んでいないように思えるのは、ひとえに人物が描けていないためであるのかもしれない。
 人物には動きがあり、一応の表情がある。だがそれまでで、その内面からは何も滲んではこない。全体の雰囲気、町並み、服装、背景、言うなれば路傍の草一本からも荒廃感や無情感が伝わってくるものの、人物の内面や遥が指摘したようにこれと言ったインパクトが無いために、茫漠とした感じしか伝わらない。
 わかっている、そのことは自分が一番わかっている。自分の絵にはこれと言ったポイントが不足しているということが。だが、何をどうすればいいのかわからない。欲求を表現できるようにはなってきたが、それを明確な形で表現することはまだできていない。だからこそ、今はそれを補うように周囲の雰囲気を突き詰めようとしているのだが……。
 大きく溜め息をつくと、浩介は天を仰いだ。
「認められなきゃ、意味は無いよな」
 周囲は自分の絵を褒めてくれる。水花やみおはもちろん、学生時代の友人や会ったばかりの遥さんですらも。しかし未だ受賞は無い。だからなのか、褒められると嬉しい反面、どこか嬉しそうに調子に乗っている自分を嘲笑っているのではないかと疑念を抱いてしまう。
 手が止まるとどうしても悪い方へ考えが働いてしまう。浩介は湧き上がる黒い感情を無視するように大きく息を吐くと、目の前の木炭の粒子をも凝視するようにキャンバスを見詰めながら、ゆっくりと描き始めた。
「浩介、入るよ」
 不意に響いたみおの声とノック音。寒いのでとうに窓を閉めていたため、それが余計にアトリエ内に響いた。浩介は木炭をイーゼルに置くと、入室を許可した。みおはアトリエには入らず、入り口から浩介を見る。
「ゴハンできたよ。冷めちゃうから早く来てね。折角みんなで作ったんだから、暖かいうちに食べてよね」
「あぁ、わかった」
 特に中途半端なところではなかったために、浩介は間を置かず、みおと共に母屋へと向かった。アトリエに残ったのは、いつものようにカビ臭く陰鬱な雰囲気だけだった。
 夕食は台所ではなく客間でとることとなった。人数としては問題無いのだが、料理に精を出し過ぎたためか少し品数が多くなってしまったことと、何となく祝いの席は客間で行うというのが津島家の習慣だからである。
 パスタをメインとし、前菜にはイタリアンと中華が半々となっている夕食は、浩介の好みそのものだった。食材を用いた細かな装飾や盛り付けなどが見た目にも非常に良く、また豪華さを与えており、パーティー料理としては申し分の無い出来である。
「すごいな、今日は」
 思わず漏らした呟きに、料理を手掛けた三人が破顔する。
「でしょ。がんばったんだよ、みんな」
「うん、だから冷めないうちに食べよう」
 水花に促され、各自飲み物の入ったグラスを手に取る。数瞬の間があったものの、三人の視線に気付いた浩介が周囲を見回した。
「今日は色々してくれてありがとう。では、俺の誕生日と遥さんの歓迎会ってことで、乾杯」
 音頭が終わるが早いか全員のグラスが重なり、めいめい料理に手を伸ばす。頻りに料理に舌鼓を打つみお、この雰囲気を嬉しそうに噛み締めている水花、平静を装いつつもどこか口元が緩んでいる浩介、そしてそんな三人を見て微笑む遥。料理が減るにつれ場は盛り上がり、四人の顔が綻んでいく。
 浩介への祝いの言葉、料理の賛辞と謙遜、そして哄笑。広くどこか寒々しかった津島家に、見えない明かりが灯ったかのようだ。
 多過ぎたかのように見えた食事も粗方片付くと、四人は満足げに大きく息を吐きながら各々と皿を見比べ、ゆったりとした姿勢を取っていた。
「あー、もう食べられない」
「美味しかったね」
「みなさんがんばりましたからね」
 そう言い遥が浩介を一瞥すると、浩介は少し照れ臭そうに微笑み返した。
「いや、何度も言うようだけど本当に美味かったよ。お世辞じゃこんなに食えないから」
「そうだよね、美味しくてつい食べ過ぎちゃったよ。太るかなぁ」
「みおは全然太ってないじゃない」
「いやぁ、そんなことないよ。ちょっと油断するとすぐ二の腕とかおなかについちゃうんだよね」
「あー、その気持ちわかるよ。私もちょっと食べ過ぎちゃったりすると、すぐにね」
 そんな二人のやり取りをどこか微笑ましそうに眺める浩介と遥は、互いに顔を合わせながらどこか呆れたようにしている。
「あの、では私は洗い物にかかりますね」
 遥が腰を上げると、水花とみおも続いた。
「私も手伝いますよ」
「私一人で大丈夫ですから、水花さんとみおさんはここで浩介さんと一緒にいて下さい」
「でも、やりますよ。みおは浩介と一緒にいてね」
「うん、私がいてもあまり役に立たないだろうし、三人もいたら狭いだろうしね」
 みおが腰を落ち着けると、水花が満足そうに頷いた。台所へと促す水花に、依然遥はどこか渋ったような表情をしている。
「でも、お手を煩わせるわけには」
「いいんです、これは私がやりたいからやるんですよ。あ、お邪魔でしたらやめておきますけど」
 慌てて遥が首を横に振る。
「いいえ、そんなことないですよ。では、一緒にお願いできますか」
「こちらこそ。じゃ、ちょっと片付けてくるね。二人でやればすぐに終わるだろうから」
 二人が食器を持って台所へ消えると、再び客間は静寂に支配された。あれだけ明るく暖かかった雰囲気が、遠い昔のように思える。浩介はそれがさも当然のごとく、どこか遠くを眺めては時折思い出したかのように唇を歪めつつ、自虐に思いを馳せていた。
 こういう家庭的な幸せ、炉端の幸せ、ひいては全ての幸福というものに自分は縁が無いんだと思う。何故かは漠然としてわからないが、そう言うのを手にしてはいけないとさえ思える。
 幸せを欲しているが、それをどこか禁忌のように感じて捨てようとする。決して手に入らない幸せをどうにかしようと足掻く自分がどこか愛しく、しばしばこういった自虐に走ってしまう。まったく、悪い癖だ。
 そんな浩介と場の静寂を破るかのように、みおが僅かに浩介の方へ身を乗り出した。
「すごかったよね、今日の御馳走」
「そうだな。でもみおだって作ったんだろ。よくがんばったよ」
「あはは、私はほとんど何もしてないんだ。サラダと軽い盛り付けくらい。水花は言うまでもなくすごいけど、遥さんもすごいわぁ。さすがプロって感じ」
「そんなにすごかったの?」
「うん。手際はいいし、美味しいし、何より作ってる時の姿って言うのかな、そういうのがとても格好良くて。同じ女から見ても、ああいうのって惚れそうだわ」
 うっとりとするみおに、浩介が少し意地悪な眼を向ける。その視線の意味をすぐさま感じ取ったみおは、呆れたように溜め息をついた。
「そういうことじゃなくてさ、ほら、自分よりすごい人を見た時に感じる純粋な憧れってやつだよ」
「ま、その気持ちはわかるよ。でもみおだってがんばったじゃないか。誰かががんばったからじゃなく、みんながんばったから今日はこんな御馳走になったんだ」
 みおは深々とソファに凭れると浩介を見詰め、すぐに視線を戻した。
「この後どうしよっか」
「どうって、別に予定なんて初めから無いしな。メシも食ったし、一頻り宴も終わったから、適当に解散じゃないかな」
「なんかそれも寂しいね」
「でも今更トランプだの暴露話だので盛り上がるような年じゃないだろ」
「そうだけどさ……」
 やや斜め下に視線を落としたみおを見て、浩介はみおとは違った寂しさを抱いていた。それは宴会の終焉を惜しむ寂しさではなく、宴会ではしゃぐことを子供じみてみっともないことだと考える自分が、寂しかった。
 意識は積み重ねの上に成り立つものだから、そう考えてしまうのかもしれない。例えば幼い頃に一人はしゃいでいる自分が周囲の空気を掴めず冷たい視線に晒されていたり、友人と会話をしている中で自分ばかりが話しているのに気付いては気まずい思いをしたり、そうした積み重ねの中で、いつしか積極的に話すことが場の空気を乱してしまうような気がして、盛り上がる場で巧く話せなくなってしまった。
 だから自ずと自分のことを話さなくなり、ひいては無口な自分を育ててしまった。だから楽しげな雰囲気などは憧憬を抱くと同時に、寂しさを感じてしまう。
「まぁ、今日は楽しかったよ」
「うん、そうだね。でも私は、もうちょっとだけでも楽しんでいたいけどね」
 それでもなお瞳を輝かせるみおを諌めようとした途端、ドアが開かれた。
「洗い物、終わったよ」
 水花と遥は一仕事終えたからか、爽やかな面持ちで客間に入ると、先程の場所に腰を下ろした。
「おかえり。さっき浩介とも話していたんだけど、これからどうしよっか」
 交互に水花と遥を見遣るみおの瞳は期待の輝きが強い。対して二人はどうしようか決めかねているらしく、軽く小首を捻ったまま黙っている。
「浩介、まだいてもいいよね」
「別にかまわないけど」
「じゃ、ちょっと待ってて」
 そう言い残してみおは台所の方へ小走りで向かった。残された三人はしばし顔を見詰めた後、小首を傾げることと待つことしかできなかった。
「おまたせ」
 戻ってきたみおの手には五百ミリリットルの六缶パックビールがあった。
「そんなもの、どこに隠していたんだ」
「秘密よ。遥さんは呑めます?」
「大丈夫ですけど、この後にまだお仕事があるかもしれないので」
 丁重に断る遥からみおは浩介へと視線を移す。浩介はすぐにその意味を察知し、みおに仕方なさそうに微笑んだ。
「遥さん、呑もう。今日はもういいから」
「よろしいんですか?」
「いいからさ。それとも遥さんはお酒、嫌いなのかな」
「いえ、実は好きな方なんです」
 照れ笑いを浮かべる遥から先に、みおが各々にビールを渡す。冷たい缶ビールを手に各自プルタブを引くと、乾杯の音頭と共に缶を突き合わせた。
 みおと遥は生来の酒好きからか、結構なペースで呑んでいる。水花は二人よりもゆっくりと呑みつつ積極的に話に参加している。けれど、浩介はほとんど呑まない上に、会話も相槌を打つ程度だった。
 場が盛り上がるにつれ、酒の消費も舌の滑りも早まっていく。特にみおはすっかり自分のペースを乱しており、顔を真っ赤にしてフラついている。だがそれを注意する者はおらず、むしろそんなみおを面白がっているような雰囲気さえあった。
「遥さん、強いんですね。ぜーんぜん顔色変わらないじゃないですか」
「そんなことないですよ。みおさんだって充分いける口じゃないですか」
「そうかなぁ、あはは」
 すっかり意気統合したみおと遥は、頻りに顔と缶ビールを突き合わせ、楽しげに笑っている。水花もそんな二人を見ては、無邪気に笑っていた。
 仕方ないな。そう思い苦笑を浮かべる浩介も、この微笑ましい幸せに浸れる喜びを密かに噛み締めていた。
 ビールは程無く全て呑み終わり、みおがまたどこからともなく同じ六缶パックのビールを持ってきた。
「まだまだ呑むわよぉ」
 そう言うみおはもうすっかり酔っており、瞳は虚ろ。半分意識が無いような状態なのだが、呑んでは気持ちよさそうに相好を崩し、遥と肩を組んでは、まだまだ持ち前の饒舌を発揮している。
「大丈夫か、みお?」
「うーん、これ以上呑ませたら危ないんじゃないかな」
 浩介と水花が顔寄せ合い、みおに聞こえないよう小声で囁き合っていると、みおが二人の間に割って入ってきた。
「何をこそこそ話してるのよ」
 驚き離れた浩介と水花の間に顔を割り込ませたみおは、舐めるように二人を見比べる。ふわりとアルコール臭が漂い、浩介は僅かに眉根を寄せた。
「いや、別に何でも無いよ」
「本当かなぁ、怪しいなぁ」
 にたりと笑うみおの肩を遥が軽く叩く。ぬっとみおが遥を仰ぎ見ると、だらしなく口元を歪ませた。
「みおさん、邪魔しちゃいけませんよ」
「そうね。浩介に水花、私達を気にせず遠慮せず、じゃんじゃん愛を語り合っていてね」
「もぉ、すぐそういうこと言うんだから」
 膨れる水花が面白いのか、みおは高らかに笑い、また元の席に戻っては缶を傾けた。
 ビールも残り二缶になったところでみおが潰れてしまい、会は自ずと解散の至りとなった。ぐっすりと眠ってしまったみおを見ながら、三人は顔を突き合わせている。
「こんなとこで寝るなよ」
「風邪ひいちゃうかもしれないから、お布団あるとこまで運ばないとね」
「叩き起こしてみるか」
「無理だよ、きっと。運ぶしかないって」
 一つ溜め息をついた浩介が、気だるそうに立ち上がった。
「仕方ないな、水花も手伝ってくれ。遥さんは缶とか片付けておいてくれるかな」
「はい、わかりました」
 浩介と水花は熟睡しているみおを両側からかつぎ、客用の寝室に寝かせると、再び客間に戻った。客間はすっかりと片付けられており、先程呑み散らかした形跡は仄かに残るアルコール臭くらいだった。
「お疲れ様です」
「遥さんこそ」
 各々腰を落ち着けると、遥が用意しておいた水に口をつけた。
「みおも寝たことだし、そろそろお開きにしようか。水花はどうするんだ」
「泊まっていってもいいかな。こんな時間だし、みおもああなってることだしさ」
「別にいいよ。じゃ、もう寝ようか。遥さんも今日は色々疲れただろうから、早目に寝て、明日に備えた方がいいよ」
「はい、そうさせてもらいますね」
 遥が一礼したのを合図に、浩介が立ち上がった。水花と遥もそれに続く。
「あの、浩介さん、水花さん」
 客間を出て行こうとした浩介と水花を、背後から遥が呼び止めた。二人は何かと訝しげに、だが不快感を与えないように振り返る。
「今日は本当にありがとうございました。明日からもよろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
 浩介と水花はほぼ同じタイミングでそう言うと、客間を出、それぞれの寝室へと向かった。
 外では静かに月が輝いていた。

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