二.

 浩介がドアを閉めると、水花とみおは一斉に遥の方を向き、微笑んだ。遥もそれに微笑みで返す。どこか堅かった雰囲気もこの一連のやり取りでほぐれ、水花が遥に座るよう促した。遥は軽く頭を下げながら、ちょこんと水花とみおの向かいのソファに腰掛ける。
「遥さんは料理って、どれほどの腕前なんですか?」
 遥が腰を下ろして間も無いうちに、みおが口を開いた。少々ぎこちない質問の仕方だったものの、三人が一番嫌がる沈黙にはどうやらならずに済んだようだ。
「一応ある程度のことはできますよ。でもそれ専門ではないですから、そう大したことはないんですけどね」
「でも、すごそうだよね。今日の晩ゴハンは遥さんにまかせちゃおうか」
「水花はすごく上手じゃないの」
「水花さんにみおさんはお料理されるんですか?」
 少し小首を傾げつつ微笑を浮かべている遥に、水花もみおもどこか羨望の眼差しを向ける。が、すぐに我に返ったみおが慌てて首を振った。
「私は全然ダメなんですよ。でも水花は本当にすごく上手で、その道に行った方がいいくらいってレベルなんです」
「もぉ、そんなことないってば」
 照れつつも頬を膨らませながらみおを睨む水花に、遥は可愛らしさを覚え、気付かれないようくすくすと笑った。
「お二人共、きっと素晴らしいんでしょうね」
「そんなこと本当に無いんですけど……困ったね。どうしようか、みお」
「どうしようって、私を入れないでよ」
 哄笑が沸き起こり、場の空気は一気に三人が十年来の友であるかのようなものへと変わった。居心地のいい雰囲気、親しみやすい水花とみおに接していると、つい遥も気が緩みそうになる。けれども、遥は両手で気付かれないようにエプロンの端を軽く握り、気を引き締めた。
「私がこう言うのも何ですが、今日はみなさん一緒に作りましょうか」
「そうですね」
「あはは、足引っ張らないようにします」
 再度沸き起こる哄笑に、先程は浩介がいてこその日常だと思っていた水花もみおも、今では遥と三人での日常もいいかと思いつつあった。
 それは遥も同じで、今まで過ごしてきた日常の中に、この場が新しい一ページとして加えられていくのが、どこか実感としてあった。
「それじゃ、そろそろ買い物に行こうか」
 みおがそう言い立ち上がると、すぐに遥と水花も続いた。そうして何気無く、ほぼ同時に三人が時計に目を遣ると、時刻は午後三時半少し前を指していた。
 暑くも寒くもないが、風がそっとでも吹けば肌寒く、どこか埃っぽい空気が身を包む。一人で歩けば寂しさが胸を撫でる十月の匂い。だがそれも三人で歩けば心地良い。
「私、この辺りに来たのは初めてなんですよ」
 ゆっくりと辺りを見回していた遥が水花とみおを一瞥すると、独り言の様に呟いた。閑静な住宅街であるため、その呟きが妙にはっきりと響き渡った。
「そうなんですか。じゃあ色々案内しちゃおうか」
「そうだね」
 浩介の家から北へ五分程歩くと、少し広い通りに出る。そこから右手に行けば、浩介がよく利用する小ぢんまりとした喫茶店、左に行けば本通りに出て、そこから北へ向かうバスに乗れば少し賑わったところへ出る。三人はその方へと歩を進めつつ、道々の説明をしていく。やれここの動物病院で以前水花の飼っていた猫を診てもらっただの、ここで以前みおが派手に転んだだのと他愛も無いことばかりだが、遥は次第に自然と笑えるようになってきたのを実感していた。
 早く、もっとここを好きになれたらいいな。
 見上げれば少し曇り空。しかしそれは決して暗澹たるものではなく、薄雲から柔らかな陽光が全てを包んでいる。それを体全体で受けながら遥が水花とみおに微笑みかけると、二人とも莞爾として目を細めた。
 話しているうちに、いつの間にか賑やかな界隈に着いた。浩介の家周辺とは打って変わり音楽、雑踏、哄笑、エンジン音など様々な音が溢れている。
「えっと、ここでいつも買い物してるんです」
 水花が立ち止まり視線を向けた先には、地元でも有名な大型スーパーだった。全国的に展開されている店舗の一つで、集客率はこの辺一帯で一番である。水花が先導して入ると、すぐにみおと遥も続いた。
 店内は二階建てで結構広く、一階が主に食品に雑貨、二階が衣服や電化製品、書籍等がそれなりのスペースを保って並んでいる。今日は二階に行く必要が無いので、遥が買い物篭を持つと、二人に案内されて食料品コーナーを巡る。
「今日は何にしましょうか?」
 野菜売り場に来た遥が立ち止まり、小首を傾げつつ二人を見る。
「浩介の誕生日だから、美味しい物作ってあげたいよね」
「そうだね。じゃ、今日は浩介の好物ばかり作ってあげようか」
 張り切る水花とみおを、遥がおずおずとした調子で覗き込む。
「あの、浩介さんの好物はどんなものなのでしょうか?」
「私よりみおの方が詳しいかな。付き合いも長いし」
 そう遥に微笑む水花に、みおが口元を歪めながら僅かに両肩を竦めた。
「何言ってるのよ。水花なんてほとんど毎日浩介のゴハン作ってるんだから、私より詳しいはずじゃない」
「そうかもしれないけど……」
 拗ねながらもどこか照れた感じの水花に、遥がにっこりと笑顔を向ける。
「浩介さんと水花さんは、お付き合いしているのですか?」
 途端、水花の顔に一層の赤みがさした。
「そ、そういうわけじゃないんです」
「親友としては残念なんだよね。残念ってよりは、歯痒い感じかな。高校の頃からいい関係なんだけど、二人共あと一歩を踏み出していないみたいなんですよね」
「もぉ、今は浩介のゴハンの支度でしょ。みおも遥さんも、ほら、買い物しようよ」
「ね、彼氏のために真剣でしょう、遥さん」
「怒るよ、みお」
 少し膨れた水花に、遥とみおは互いに目を合わせてから笑いかけた。水花は一つ溜め息をつくと、側にあったレタスを無言で篭に入れた。
 夕食はパスタをメインとしたイタリアンに決まった。三人がそれぞれ食材の入った袋を提げ、また浩介の家へと向かう。行きは荷物が無かったから楽だったものの、店内を歩き回り、手には多過ぎる程の食材を提げているため、つい無言になりがちになってしまう。
 それでも会話はあるもので、主に遥の会社のこと、メイドになるについて、そしてそれはどんなものだったかなどの質問に、遥が一つ一つ丁寧に答える。その度に水花とみおの口から感嘆の声が漏れた。
「へぇー、主人に対する服従の覚悟と、それを守るための教えですか。厳しいんですね」
「最初は厳しいと思いますけど、慣れですね」
「でも、長い付き合いだと情が移ることだってあるんじゃないんですか?」
「水花、心配なの?」
「そんなんじゃないよ。ただ訊いただけ」
 少し口を尖らせる水花さんに、みおさんが意味深な笑みを浮かべつつ、おどけて謝る。そんな二人見ていると、私の心が段々と軽やかになっていく。
「私だって人間ですから、情が移ることだってありますよ。出会い別れはやはり辛いものですが、それも含めての覚悟ですから。でも、浩介さんには水花さんやみおさんがいるので、大丈夫ですよ」
「遥さんまでそう言うんだからぁ」
 水花がもう一度溜め息をつくと、笑い声が住宅街に響いた。
「ただいまー、あぁ、疲れたぁ」
 玄関に入るなり、みおが食材の入った袋を廊下に置いた。が、すぐに水花に諌められて、冷蔵庫まで歩を進める。幸い食材は何一つ痛むことなく、冷蔵庫に収まった。
 ビニール袋を綺麗に折り畳み、調理台近くの引き出しに仕舞い、冷蔵庫から人数分の麦茶を用意すると水花は遥の向かい、みおの隣に腰を下ろした。アンティーク調のテーブルと椅子が仄かに冷たい。
「あの、浩介さんはどちらに?」
 そっとコップを置いた遥が小首を傾げる。だが水花は丁度コップを口に運ぼうとしていたところだったので、数瞬の間の後にみおがにっこりと笑った。
「浩介ならアトリエですよ。ここの母屋にいるより、アトリエにいる方が多いんです」
「アトリエ?」
 何だろう、浩介さんは画家志望なのだろうか。しかし幾ら大きい家とは言え、敷地内にアトリエがあるなんて。さすがは津島家と言ったところかしら。
「えぇ。ここから裏口の方へ行って、右手に出ればすぐにわかりますよ」
 ようやく一息つけた水花が補足すると、遥は思わず言われた方を向いた。開け放たれたドアの先にはアトリエではなく、長い廊下しか見えない。だが遥は、その先にあるアトリエを見詰めていた。
「浩介さんは画家志望なんですか?」
 視線を二人に戻すと、遥はもう一度麦茶に口をつけた。
「そうなんですよ。昔っから描いていたみたいで。ま、それにつられて私達も絵を描いていたし、水花とも知り合えたんですよ。水花は中学の時の部活で知り合ったんです」
「私なんかはただの趣味程度のお絵描きなので全然なんですが、浩介は本当に上手なんですよ。写実的で、でもどこか不思議な違和感があって、とてもいい絵を描くんです」
「そうよね。水花の言う通り、浩介の絵ってどこか不思議なんだよね。何て言うか、題材はありきたりなんだけど、一番見たくないような部分を見せつけられると言うか……。あ、でも水花だって色彩が綺麗で上手だったじゃない」
「そう言うみおだって、幻想的なのがすごく可愛かったよ」
 互いに褒め合っては謙遜する水花とみおを見て、遥はどこか懐かしいものを眺めるように、ふっと微笑んだ。
「あの、ちょっとアトリエの方へ行ってきますね」
「あ、はい。私達はもう少しここにいますから」
 微笑を交わすと、遥はアトリエへと一人向かった。
 言われた通り、アトリエは裏口右手にあった。縁側から行くこともできるが、遥は裏口から出て、小ぢんまりとしつつもしっかりとした造りのアトリエの前に立った。無機質で冷たい感じのするドア。それに圧倒されながらも、遥は一息吐くと、三度ノックしてから声をかけた。
「いいよ」
 少し間を置いた浩介の返事が聞こえてくると、遥は静かにドアを開いた。
 カビ臭く篭った匂いがつんと鼻をついたが、同時にそれはどこか懐かしい匂いだった。中央では浩介さんがキャンバスに向かって木炭を走らせている。ずっとキャンバスばかり見ているから、きっと何か空想して描いているに違いない。私はゆっくりと近付く。その度に木炭を黙々と走らせている浩介さんの姿に、胸が締めつけられた。
 波風の無い水面のように静かに時が流れていく。風の声がやけにはっきりと耳に響く。木炭がキャンバスを走る度に、私の心は過去を蘇らせる。忘れようと努力したけれど、まだ胸に残るあの人。燃えるような愛しさはもうきっと無いけれども、まだどこかで残り火の様に燻っている。
 あの人も、画家だった。こうしていつも絵を描いていた。私ではなくいつも絵を向いていたけれど、たまに寄せる優しい瞳が好きだった。もうきっと会えないだろう。けれど、今でも私は大切なものの一つにそれを数え上げる。
 そうした感傷の波間に漂っていると、不意に浩介が大きく溜め息をつき、
「絵とか興味、あるの?」
 そう一人ごちるように呟いた。視線は目前のキャンバスに向いたまま、手は相変わらず木炭を走らせていてどこかぶっきらぼうだが、遥にはそれでよかった。
「えぇ、ありますよ」
 自然と相好を崩し、遥は浩介の背後に立つ。
 まだラフ画ではあるが、一見して寂しそうな雰囲気は伝わってくる。寂れた街角で一人の男が力無さそうに背を丸めている絵。男の手には小さなボストンバッグ。人物はその男だけでなく数人の町人らしき人がいるけれど、皆一様に各々の仕事に取り組んでおり、男には目を向けようとすらしていない。その誰にも顔は描かれておらず、それがまたこの絵に独特の物悲しさ、孤独感を与えていた。
「寂しい感じのする絵ですね」
 何かを考える前にそう口をついていた。浩介は何も応えず、ひたすら木炭を走らせる。
「ですがその全体の雰囲気は、この主となる男性の後ろ姿からよく滲み出ていると思いますよ。他の人達も顔こそ無いものの、どこを向き、どんな表情をしているのかがよく伝わってきます。右隅にいる痩せ細った僅かに天を見上げ、手に入らないであろう幸せをせめて空に願う様が、叶わない祈りを神様に託す人々の代弁者となり、私はいい絵だと思いますよ」
 遥の言葉が紡がれる程に浩介の手が鈍る。
「ただ、一つ気になったところは、全体を寂れさせるよりは、人々などの方を重点的にそうさせる方がいいかと。町並みは田舎でも、どこか建物や風景を活き活きさせた方がよりインパクトを与えられると思います」
 浩介は手を止め、遥の方を驚いた面持ちで振り向いた。
「すごいね。いや、よくこれだけでここまで言えるもんだ」
 はっとした私は慌てて頭を下げる。
「す、すみません。偉そうに差し出がましいことばかり言ってしまって」
「いや、いいよ。頭なんか下げないで」
 頭を下げる遥を浩介は片手で制す。
「こういうのって知らない人はすごいだの、そうでないのだけしか言わないから、正直嬉しいんだよ」
 ようやく笑顔を見せた浩介に遥はどこか安堵し、同じように安らいだ笑みを浮かべた。ようやくどこか一段落先の深い部分に入り込めたような気がして、遥は今ようやくこの主人の存在を心に刻むことができた。
「でも私はそんな詳しいことはわかりませんよ」
「いや、いいんだ。詳しい知識の少数よりも、大まかな理解者多数の方が嬉しいよ。少しでも絵に興味があって理解してくれる方が、俺にはありがたいね。なまじ詳しい奴は何のかんのと文句ばかりつけるからさ」
「ありがとうございます。そう言っていただけると、私も嬉しいです。でも水花さんやみおさんが言っていたように、浩介さんの絵は不思議な存在感がありますね」
「どんな?」
「何と言うか、和ませるだとか癒すだとか言うよりは、つい目を背けてしまいたくなるような部分を見詰めさせられてしまう、そんな印象を受けました」
「本当にそう見える?」
 嬉しそうに、無邪気な子供のように笑いながら身を乗り出す浩介に、遥は包み込むような笑顔と頷きを与える。
「嬉しいな、こう自分が目指しているものに同意があると。いやね、高校の始め頃までは単に風景画とかばかり描いていたんだ。割と明るめの作品が多かったのかな。でもそれは何となく自分には合わないんじゃないかと、漠然と思っていたんだ。巧くは言えないけど、描きたい欲求と目の前の絵に違和感があってね。でもその欲求が一体何なのかずっとわからなくて、仕方なく画力を上げるために風景画を描き続けていたんだ」
「今の画風への転機には何があったんですか?」
「そう言う時期にある一冊の本に出会ってね、それから描こうと思ったんだ。救いも何も無いバッドエンドの話なんだけど、その肉迫するような描写と人の内面、特に葛藤だとか迷いだとか欲望だとかの負の部分を強く意識させられてね。それを見て、ようやく自分の内側にずっと渦巻いていた欲求がわかったんだ。あぁ、俺もこういう自分の抱えている負の部分を描き出せないかと」
「そういう自分を変えるものに出会うのは、とても幸せなことですよね」
「そうだね。そして、いずれそれをはっきりとした形にしてみたいよ」
「できますよ、浩介さんなら」
 照れ笑いを浮かべる浩介に、遥は一つ頷いてみせる。陰鬱でカビ臭いアトリエに流れ込む秋風の匂いが仄かに強くなったような感覚に、遥はふっと心が浮き、胸を締め付けられたような気がした。
 ついと遥から視線を逸らした浩介は、おもむろに描き始めた。平素を装っているものの、どこかまだ先程の照れが残っているようで、キャンバスを見詰める真剣な眼差しがぎこちない。そんな浩介を遥は内心可愛いと思いつつも邪魔にならないよう、だが絵は見えるように一歩退いた。
 安らぐ。そう再三再四思いつつも、まだ自分に言い聞かせ足り無いかのように遥は何度も木炭の走る音を耳に響かせながら、自分がこれから仕え、愛すべき人の姿を、そしてその人が生み出す内的世界の創作物をどこか澄んだ瞳で見詰めていると、不意にドアが数度ノックされた。
「遥さん、いますか」
 声の主はみおだった。遥がほんの一瞬躊躇したように浩介の方を向くと、浩介は一瞥して頷き、また何も言わずに木炭を走らせ続けた。その瞳に後押しされたかのように遥は浩介に一礼すると、ドアを開けた。
「あ、いたいた。あの、料理の方、そろそろ作ろうかと思っているんですけど」
「はい、わかりました。それでは浩介さん、楽しみにしていて下さいね」
 ドアを閉めると、遥はみおに先導されて水花の待つ台所へと向かった。

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