一.

 二十畳程の広さのアトリエに備え付けられた二つの窓は両方共開け放たれ、仄かに涼しげな秋風が流れ込む。今日は取り立てて暑くもなく、寒くもない。薄手の上着一枚でどうにかなる。
 窓を覗けば、庭木に鮮やかに色付いた紅葉が目立つ。アトリエからでも季節を楽しめるように庭師が施したのだろう、丁度気にならないような絶妙の配置がなされており、見る者を飽きさせはしない。更によく見てみれば、定期的に手入れをされているのがわかる。
 アトリエの中は静まり返っている。近隣が閑静な住宅街と言うこともあってか、または少し重苦しいような雰囲気を作っているこのアトリエの主、津島浩介のせいなのかわからないが、ともかくアトリエに響くのは静かに木炭がキャンバスを走る音と、秋風の囁きだけしかない。
 徐々に形作られるキャンバスの中の世界は、どこかの田舎町の風景。町の中心広場であろう場所に五人の村人が寄り集まり、何か議論を繰り広げている。しかしそこにいる村人は一様に顔が描かれていない。その他──風景や肌の質感、家屋のヒビの細部まで──は描かれているだけに、顔の無い五人の村人は異様にも滑稽にも見える。
 木炭が右端の村人の顔に伸びる。が、すぐにその木炭はキャンバスを離れ、イーゼルの縁に置かれた。そうして浩介は大きく息を吐いて絵を見詰めると、ほどなくしてから天を仰ぎつつ目を閉じ、また一つ重苦しそうに溜め息をついた。
 暗闇の中に忌むべき父さんの顔が浮かび上がる。土地の名士であり、幾つもの企業を統括する父さんはいつも自分よりも遥か高みにいた。家での、外での、そして人々が思い描く父さんは常に威風堂々としている。だから人々は一様に父さんのようになれと俺の歩むべき道を勝手に決める。また父さんもそれを望んでか、俺に様々なものを与えてくれるものの、それはどこか俺を愛玩具の様に扱っているように思えて仕方ない。
 父さんはできる限りの全てを与えてくれ、可能な限りの全てを許してくれた。金や画材から始まり、このアトリエ、高校を卒業して大学にも行かず働きもしない自分に何をも強制しない自由すらも。そんな何かを与える時の父さんの瞳は、決まって暗かった。その暗さがまた俺を憐れんでいる様で、いつも何かを手にする時は堪えがたい程の屈辱を味わわざるを得なかった。
 だがもっと情けないのは、それを完全に撥ね退けられない己の弱さだ。父さんが与えるものを拒むことは多いが、いざどうしようもなくなった時には頼ってしまう。そうして受け取る時には卑屈にも頭を下げ媚びへつらい、内心では体の良い言い訳を探しては見つからず終いで、いつも自己嫌悪に陥る。
 甘えているのはわかっている。いつまでもこのまま父さんの背に嫌々ながらもしがみついているわけにはいかず、自立しなければいけないとも。しかしそれはいつも思うだけ。今の甘美な生活を捨て切れない自分を最も憎んでいるが、それだけ。
 母さんは幼い頃に死去し、父さんはいつも大体出張中のために広い家には自分一人。少し寂しくもあるが、どこか心地良かったりもする。今目の前に広がる薄甘い闇を見ているように、いつも自分の周囲は仄暗く、虚しい。だがその虚しさを感じている自分が、愛しくもある。
 目を開け、キャンバスに視線を戻す。白と黒で彩られた世界、どこか懐かしい風景、そして顔の無い村人達。もう一度顔を描いてみようと木炭を手にし、どんな表情がいいか想像してみる。
 だが考える程に村人の顔が全て父さんのそれに見えてくる。議論をしている者も、それを取りまとめようとする者も、傍観している者も、全て父さんに見える。そして脳裏にはそんな想いに囚われている自分を冷ややかに見詰める父さんの顔が……。
「ああぁ、くそぉ」
 近くにあったナイフを手に取ると、浩介は滅茶苦茶にキャンバスを切りつけた。縦に、横に、胸の底から溢れ出す苛立ちを凶器に込めて切り刻む。
 そうしてズタズタになったキャンバスを壁に投げつけると、肩で荒く息をしながら元の場所にナイフを置き、浩介はまた椅子に座った。視線の先の薄汚れた絨毯にほんの少しだけ慰められたような気もしたが、それは心に覆い被さる苛立ちと後悔の前には焼け石に水だった。
「ちくしょう」
 いつからこんな風になってしまったんだろう。少なくとも高校時代は家でも部活でも、それなりに楽しく絵を描いていた。身の回りの嫌な事全てを忘れて、描いていられた。だが今はどうだ。耐え難い自己嫌悪に苛まれ、救いであった絵にさえ迷いのために煩悶し、果ては日に日に世間体と言う魔物に食い尽くされていく自由気ままな時間を失いたくないと哀れに怯えてはどこかで甘えようとしている。
 陰鬱とした空気が体の内側から発散し、雲のように自分を包んでいるのがわかる。だが哀れな自分、可哀想な自分、一人傷付き堕ちて行く自分。そんな悲劇を気取りながらぼんやりと庭木を眺めていると、突然アトリエのドアがノックされた。
 間隔をおいてドアは二度ノックされた。だが浩介は一瞥しただけで、またすぐにうなだれ、動こうとはしない。そのうちにドアノブが捻られ、ゆっくりとドアが開いた。
「浩介、いる?」
 顔も見えない隙間から、女の声が浩介を呼ぶ。聞き慣れた心許せる声。しかしそれでも浩介は動こうとしない。
「入るよ」
 大きくドアが開かれると、ボブカットで薄手のパーカーにジーンズとラフな格好が似合う、湯崎みおがアトリエに足を踏み入れた。
 窓が開け放たれ、風が流れているものの、少し埃っぽく湿ったようなアトリエ。そんなアトリエを、みおはまるで我が家にでもいるかのように、気兼ね無さそうにしている。
 みおが入ってきたことでようやく顔を上げた浩介だが、疲れの色が濃い。一見すると声を掛けづらい雰囲気であるが、みおは慣れた様子で浩介に近付き、ぽんと元気を注入するかのように背中を叩いた。
「絵に集中するのもいいけどさ、ちょっと外にでも出た方がいいんじゃない。窓開けていてもカビ臭いよ、ここ。こんなとこにずっといたら、心までカビちゃうよ」
「……換気はしているんだけどな」
「業者でも呼んで、一度綺麗にしてもらった方がいいんじゃない?」
「あまり物を動かされるのは好きじゃないんだよ」
 苦笑いを浮かべた浩介がアトリエをゆっくりと見回す。
 目の前にはイーゼル、右手には移動式収納棚があり、上には先程のナイフや電話などが置かれてある。更に右手には壁の隅に面してベッドがあり、その頭の方には木目調のタンスもある。左手には冷蔵庫にキッチンと、一通り生活できそうなものは揃っている。トイレや風呂などは自宅の方にある。アトリエと自宅はすぐ側にあるので、玄関からはもちろん縁側を使って出入りすることだってできる。つまりこのアトリエは渡り廊下の無い「離れ」のようなものである。
 割と整理はされているものの、やはりどこか雑然とした感じが否めないのは、衣類や使用済みの画材等が散乱しているからだろう。
「でも掃除くらいした方がいいんじゃない。ちょっと汚いよ、ここ。ほら……」
 みおは壁際に捨てられてあったズタズタのキャンバスを見た途端、ついと視線を逸らし、言葉を止めた。そしてすぐに、
「今日で二十二になるんだしさ」
 また浩介の背中を何度か叩いた。
「そうか、そう言えば今日は俺の誕生日か。何かあるとは思っていたけど、誕生日だったとは忘れていたよ」
「ぼけっとして過ごしているからだよ。ほら、もっとシャンとしなよ」
「ちょっと忘れていただけだよ」
 ようやく浩介の口元が緩んだかと思った途端、電話が鳴った。浩介はその音に多少驚きつつも、何ともなさそうに受話器を取った。
「はい、もしもし」
「もしもし、俺だ」
「……父さんか」
 電話の相手は父である宗一郎だった。途端、浩介の顔が強張る。そんな浩介の様子に、みおからも笑顔が消えて行った。
「何の用だよ」
「何って、今日はお前の誕生日だろ。父さんは仕事が忙しいから直接祝ってあげられないけど、一応誕生日プレゼントは用意しておいたからな」
「そんなもん、いらないよ」
 また父さんから施しを手にしてしまう。望む望まずに関わらず、弱い自分がそれを手にしてしまう。全てを与えられて生きている俺は、乞食と何ら変わりない。だがそこから脱する力も無いんだ。ならば、か弱い抵抗として今回は断固それを拒否しようではないか。
「いらないって言われても、もう贈ったからなぁ。気に入らなければ好きにするがいい」
 だが宗一郎の言葉はそんな些細な浩介の抵抗すらあっさりと崩してしまった。それ以上何も言えなくなった浩介は、ただ悔しそうに歯噛んでいる。
「……わかったよ、じゃあね」
「あ、待て、もう一つ言いたいことがある」
 それ以上声を聞いていたくないからすぐに電話を切ろうとしたものの、宗一郎の呼び止めに浩介は反射的に手を止めた。
「何だよ」
「誕生日、おめでとう」
 柔らかな口調ではあったが、その裏にどこか薄汚いものを感じた浩介は、返事をせずに電話を切った。
 全てが憎くなった。また何かを与える父さん、それを甘んじて享受してしまう自分。側にいるみおも、窓から流れる秋風も父さんの声を運んできた電話すらも、憎くなった。
 再び肩を落したものの、今度ははっきりと苛立ちを見せている浩介を、みおが心配そうに覗き込んだ。
「ねぇ、どうしたの?」
「……父さんが誕生日プレゼント贈ったって」
 それだけ言うと浩介はそっぽを向いた。逆にみおの方は何だかよく事態が掴めないらしく、少し呆けたような顔をしている。
「それだけ?」
 浩介は何も応えず、ただ大きく息を吐いた。
「よかったじゃない。おめでとう、浩介」
「うるさい」
 苦虫を潰したような表情で低く、はっきりとそう呟くと、浩介は舌打ち一つアトリエに響かせた。
「なんでそんな……」
 そこまで言うとみおは言葉を止め、軽く首を振りながら周囲を見回した。そうしてどこに視点を定めるわけでもなく、ぼんやりと辺りを見遣る。
 窓の外から庭木がざわめくのがはっきりと聞こえる。荒げている訳でも無いのに、妙に自分の呼吸が耳につく。カビ臭さが鼻をつく。床の一点を見詰めている様でもあるが、その実どこも見ていない。
「ねぇ、浩介」
 不意に沈黙を破ったのはみおだった。
「あのさ、何か食べたい物とかある?」
 少し遠慮がちだけど、いつものように明るく元気な声。重く湿ったアトリエ内を一掃するような雰囲気がそこにあった。しかし浩介はみおの方を見ようともせず、ただ黙ってうつむいている。
「ほら、今日は浩介の誕生日でしょ。だから浩介の家で誕生祝を開こうねって水花と話してたんだ。ピザでも注文しようか。それともやっぱり私達が何か作ろうか」
 隣でみおが何か言っている。が、今はそんなことよりも頭の中は父さんへの、ひいては自分への憎しみで溢れていた。
「作るんだったら仕込みもあるから、そろそろ用意しないと。でも水花が来ないんじゃ、何を作ろうか困るんだよね」
 折角みおが来てくれたってのに、こんなにつまらない気分になるなんて……。あぁ、断るならばはっきりと断ればいいのに、結局俺は幾つになっても子供のままだ。いけないとは思いつつも、甘い飴を待っている。
「私一人でもそれなりのものは作れるけど、やっぱり水花が作った方がいいでしょ?」
 本当に俺はダメな人間だ。
「浩、介……」
 一向に反応しない浩介にやがてみおの方も諦めたのか、蚊の鳴き声よりも小さな溜め息をつくとまた視線を落とした。窓から舞い込んだのであろう庭木の一葉が風に吹かれて足下に寄っても、みおはただじっと浩介の足下近くの床を見詰めている。
 庭木のざわめきが収まりかけた頃、おもむろに浩介は立ち上がり、新しいキャンバスをイーゼルに立て掛けた。そうして一つ息を吐くなりみおを一瞥すると、木炭を手に取った。
 黙々と浩介は木炭を走らせる。時折みおを睥睨するように見遣るが、声はかけない。木炭が何かを描く音のみが支配するアトリエは、カビ臭い匂いと相俟ってひどく重苦しい。
 そんな浩介を邪魔してはいけないと思ったのか、ゆっくりとみおはキッチンに凭れていた背を離し、アトリエから出て行こうとドアの方へ一歩踏み出した。
「待った」
 突然の呼び止めにみおは驚きながら浩介の方を向く。よく見てみれば浩介の顔からは先程のような人を寄せつけない苛立ちは無く、いつもの優しい微笑みがあった。
「あのさ、もうちょっと居てくれないかな。話し相手になって欲しいんだ」
「でも、描いてるじゃない。いいの?」
「あぁ、いいんだ」
「仕方無いわね」
 ふっとみおも微笑み、またキッチン背を凭れると浩介の方を見た。その仕草に浩介は先程まで抱いていたコールタールのようにどろりと黒ずんだ気分を幾分か取り払うことができ、自然と気持ちよく木炭を走らせることができた。
「今日は折角だから、みお達が作ったものを食いたいな」
「私じゃなくて、水花でしょう。私はきっと水花の手伝いだけになっちゃうよ」
「みおだって充分上手いじゃないか」
「そんなことないよ」
 そうは言うもののみおの料理の腕前はそれなりのもので、難しくないものならば一通りは作れるみたいだった。みお自身、自分がそれ程まで料理下手だとは思ってもいない。ただ、いつも一緒にいる葉山水花に比べれば並以下に思えるのも仕方の無いことであった。
「でも、みおの作るハンバーグ、好きなんだよね」
「あはは、ありがとう。んー、じゃあ今日はそれも作っちゃおうかな?」
「楽しみにしているよ」
 先程までの重苦しさはすっかりと消え、アトリエの隅々にまで秋の匂いが行き渡っている。心地良い雰囲気作りに一役買っているのは、話しながらもずっと走らせている木炭の音もあるだろう。寂しさと緩やかな胸騒ぎが撹拌されたような空気が、微笑みをもたらす。
「ねぇ、さっきから何を描いてるの」
 会話の途切れ目にみおがキッチンから背を離しながら小首を傾けた。そしてそのまま浩介の背後からでも絵を覗こうかと一歩踏み出した途端、浩介の表情が少し険しくなった。
「動くな」
 怒声と言う程ではなかったが、それでもみおを威嚇するには充分だった。出す足を止めたみおは、そのまままたキッチンに背を凭れると苦笑を浮かべる。
「な、何よ、いきなり大声出して」
「あ、いや、ゴメン」
 ついと視線を床に落し、浩介はばつの悪そうな顔をしながら何度も眉根を寄せる。どことなく泣き出しそうな卑屈な微笑。それを目にするとみおは一つ息を吐き、ついと首を前に出しつつおどけたように口元を歪めた。
「見ちゃダメなの?」
「ダメってことはないが、まだもう少し動かないでいて欲しいんだ。もう少しで全体の構図が仕上がるからさ」
 気弱そうな浩介の微笑み。それはどこか人を安心させるような感覚を与える。みおは僅かに抱いていた不安や苛立ちが消えて行くのを確かに感じつつ、もう一度浩介の瞳を見詰めた。
「あのさ、もしかして私を描いてるの?」
「あぁ、そうだよ。だから悪いけど動かないで欲しいんだ。もう少しだからさ」
「ふふっ、なら仕方無いわね。そのかわり、美人に描いてよね」
「筆は嘘をつけないんだ」
「ま、信じているからね」
 みおは再びキッチンに背凭れると、どこか落ち着いたような微笑みを浮かべながら、静かに浩介の顔と木炭の行方を見守っている。先程とは少し違った雰囲気の静寂。相変わらず木炭の音だけが響くものの、空虚な感じはしない。むしろ聞き慣れた音にすっかりみおは安心し切っていた。
「あのさ」
 不意に浩介は手を止め、みおの方を向いた。みおは微笑みと姿勢を崩さず、僅かに小首を傾げつつ浩介を見詰める。
「ん、どうしたの?」
「何か喋ってくれよ。黙られると、何だか調子狂うなぁ」
「どういうことよ」
「はは、それは言わないでおくよ」
 それを受けてみおは少し頬を膨らませたものの、決して心から怒っているようではなく、むしろこのやり取りを楽しんでいるような仕草だった。浩介はそんなみおに悪戯っぽく微笑み返し、また絵描き始める。
 こうしてみおが側にいてくれることがただ嬉しかった。別にこれと言って話すことも無いのだが、それでも時折口を開き、笑い合っていると色々考えなくて済む。身勝手な思いなのかもしれないが、今はそれでもいいかとさえ思える。考えれば考えるだけ悪い方向へと進んでは、どうしようもない不安と自己嫌悪の蟻地獄になす術も無く落ちて行くのだから。
 気晴らしの落書き程度で描き始めたみおの絵も、既に全体像から細部へと移行している。傍から見ればそれなりの似顔絵、決して下手と言うレベルではない。事実浩介は未だ受賞経験は無いものの、高校時代はその腕に一目置かれていた。
 木炭が、みおの瞳に輝きを与えようとした途端、玄関のチャイムが鳴った。離れであるアトリエにも裏表の玄関チャイムが聞こえるようになっており、どちらなのかはチャイム音が違うためにわかる。浩介は木炭を置くとみおに待っているようにと言い、アトリエを出た。
 縁側から母屋へと上がり、小走り気味に玄関へと向かう。表玄関のドアを開けるとそこには水花とその後ろに見覚えの無い女性が立っていた。水花よりも少し背の高いその女性に浩介は以前どこかで会った人だったか、それとも水花の友達なのだろうかなどと色々考えてみたが、結局答えは出ずにただただ訝しげに見詰める他無かった。そんな少し不躾な浩介の視線にも女性は大きく包み込むように微笑みを贈る。
 どちらからとも声を掛けづらい雰囲気に挟まれた水花は、後ろを軽く振り向き女性を一瞥すると、浩介の方を向き直った。
「えっとね、この人、浩介に用があるみたいなの。さっき浩介の家はどこかって訊かれたから、一緒に来たの」
「俺に?」
 一体何だろうと思うが早いか女性はもう一度微笑み、浩介に一礼した。
「初めまして、私は啓神メイド派遣所から今日付けで住み込みのお手伝いをさせていただくことになりました、中村遥と申します。至らぬ点は多々あるでしょうが、どうぞよろしくお願い致します」
 顔を上げ微笑みながら見詰められつつも、浩介は突然のことに驚きを隠せずにいた。それもそうだろう、今初めて会った女性が突然今日から住み込むと言い出したのだ。不躾にも程がある。何を言ってるのだろうか。この人は正気なのだろうか。百歩譲ったとして、一体誰が何のために寄越したのだろうか。体のいい詐欺じゃなかろうか。はたまた美人局だろうか。訳がわからず浩介は不信感を露にした視線をぶつける。それは水花も浩介までとは言わないが、訝しそうな眼を向けていた。
「あの、俺はそういうの契約した覚えが無いので、そんなこと言われても困るんですが」
「契約手続き等は既にされていますので、後は津島浩介様のお返事次第となっております」
「そう言われても……」
 見知らぬ人を雇うわけにはいかない。いや、雇うとなれば見知らぬ人なのは当然だ。だが我が身の知らぬところで勝手に契約されているこの状況はどうなのだろう。安易に信じてはいけない。
 突然のことに水花もおろおろと二人を交互に見るだけで、何も言えない。言えないと言うよりは、何をどう整理すればいいのか戸惑っている様子だ。
「ねぇ、浩介はどうしたいの?」
「どうって言われても、なぁ」
 顔を見合わせ小首を傾げる二人に遥は何も言わずにただ黙って微笑みながら立っている。さっと通り抜けた秋風に束ねた髪が僅かにそよいでも、前髪が散っても、遥はいずれ返ってくるであろう答えを待っている。
「ねぇ、どうしたの?」
 呑気そうにみおがひょっこりと現れると、一斉にみおに視線が集まった。急なそれに驚きつつも、みおはその中の一つに見覚えの無い顔があるのにすぐ気付き、遥と浩介とを交互に見遣る。
「お客さん?」
「まぁ、そんなところだ」
 それ以上はみおも雰囲気に押し黙らせられ、何も言えなくなってしまった。アトリエよりも重苦しい空気が、屋外であるにもかかわらず、場を支配する。
「あの、一ついいですか?」
「はい、何でしょう?」
 沈黙を破ったのは浩介だった。何かを考えようとしても結局何も考えられない雰囲気の中で、最初に浮かんだまま放置していた疑問を口に出してみる。
「どうしてまた突然、こんなことになったんですか。いきなり来て、住み込みで働かせてくれと言われても、正直困ります」
 それを受け、遥はおもむろに一通の書状を浩介に差し出した。
「依頼主である津島宗一郎様から今日付けでここでお世話するようにとのお達しを受けたからです」
 受け取った書状には父さんの字で契約同意の部分にサインがされていた。そうしてようやく俺は彼女こそが父さんからの誕生日プレゼントだと気付くと、得も言えぬ怒りが込み上がってきた。
 幾ら金も権力もあるからと言って、こうして俺の同意も無しに人を派遣してくるなんて、信じられない。一体何を考えているんだ。意志も感情もある妙齢の女を住み込ませるだなんて。どうにかしている。全くもって傲慢だ。
 思わず力が入り、書状に折り目がつく。少しだけ曲がった書状を静かに睨みつける浩介に、気安く声を掛けられる雰囲気は無かった。遥はと言えば、やはり黙って微笑んでいる。
「あのさ、浩介」
 背後からおずおずとしたみおの声。浩介は表情そのままに振り向く。険しい浩介の表情にみおは僅かにたじろぎつつも、強いていつもの明るい調子で浩介を見詰める。
「ここじゃ何だから、中で話さない?」
「そうだな、そうしようか。あ、じゃあとりあえず中の方へどうぞ」
「それではお邪魔します」
 みおと浩介に誘われ、遥は一礼してから玄関に足を踏み入れた。続いて水花が入り、ドアを閉める。
 玄関を上がり、すぐ左手の部屋にある客間に浩介達は入った。広さ二十五畳程度の洋室。傍目からは和風に見える津島家も実際は客間を始め、リビングにキッチン、各部屋は洋室が多い。逆に和室はと言えば、人目に付きやすい東側に配置されてある幾つかの部屋くらいである。
 マントルピース近くの一人用ソファに浩介が、そこから見て右側に遥が、左側に水花とみおが浅く座っている。浩介はテーブルに少ししわくちゃになってしまった書状を置き、それを見詰めながら憮然としている。水花とみおは心配そうに浩介をちらちらと見つつも、やはり遥に関心が向いている様子で、先程から色々な質問をぶつけていた。
「えっと、メイド派遣所からお世話しに来たってことは、メイドさんなんですか?」
「はい、そうですよ」
「へぇー、メイドさんて本当にいるんだ。家政婦とは違うんですか?」
「広義的には同じですよ」
「あの、失礼ですがお幾つですか。私達は二十二なんです」
「私は二十四です」
「そうなんですか」
 楽しげにそうした会話が繰り広げられている中、一人浩介は押し黙りながらずっと書状を睨んでいる。そこに記されている父、宗一郎の名をひたすらに。
 全く厄介なことになったもんだ。俺以外は普段この家に誰もいないのだから家事をやってくれるのは大いに助かるが、住み込みは困ったな。部屋は空いているから仮に住むことになってもその辺は問題無いが、若い女の人と一緒に生活か。手を出すことは無いだろうが、どうなるかなんてわからない。ったく、余計なプレゼント贈りやがって。
 だが契約破棄してしまうと、彼女の仕事は一体どうなってしまうのだろうか。こうして契約されている以上は幾ら俺の返事次第とは言え、もう成立しているものを破棄するとなると、折角の仕事を奪うことになるだろう。
 今日初めて会った人だが、それでも自分の身内や自分が困らせてしまうかもしれないのには抵抗がある。まぁ、俺が少し我慢すればいいだけの問題だ。それに考えてもみろ、家事一切をしてくれるんだ。願ったり叶ったりじゃないか。
「えっと、遥さん」
 浩介の呼びかけに三人はぴたりと話を止め、一斉に浩介の方へ体を向けた。その瞳は三者三様だが、やはり一番輝きが強いのは遥のだった。
「はい、何でしょうか?」
「その契約の事ですが、とりあえず了承と言う形でお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願い致します、浩介様」
 深々と頭を下げる遥に水花とみおは喜び合うが、浩介だけは少したじろいでいた。その様子に三人が気付き、訝しげな眼を向ける。
「いや、あの、その浩介様ってのやめてくれませんか?」
「そうだね。浩介が様付けされていると、何か変な感じするもんね」
「うん。似合わないとかそんなのじゃなくて、何か違う」
 水花とみおは顔を見合わせ、小首を傾げた。浩介は何だか難渋した様にうつむいている遥に対して、ぎこちない微笑みを送っている。
「あの、でしたら浩介さんでよろしいでしょうか?」
 ようやく決心をつけたように遥が顔を上げたものの、依然浩介の表情は晴れない。
「それでいいんですが、できれば格式ばった敬語などもやめていただけませんか。少し窮屈と言うか、こそばゆい感じがするので」
「でしたら、差し出がましいかもしれませんが、浩介さんやそのお友達の方も、私に対してそういった言葉遣いはやめていただけますか。私は使用人で、浩介さんは主人なのですから」
「そうだよ、浩介」
「これから遥さんとも長い付き合いになるかもしれないんだから、もっと砕けようよ」
 浩介は大きく息を吐くと、右手で頭を掻いた。
「わかったよ、遥さん」
「よろしくお願いしますね、浩介さん」
 浩介の差し出した手を遥が力強く握り返す。その様子に水花やみおも我が事のように喜び、互いに笑い合ってから二人にもそれを向けた。浩介も遥も手を離すと、二人に微笑み返す。
「それでは一応自己紹介と言うことで。先ほども申し上げましたが、私は啓神メイド派遣所からこの度ここでお世話することとなった中村遥と申します。とりあえず一ヶ月間の住み込みという形での契約ですが、みなさんよろしくお願いします」
 遥が深々と一礼すると、三人から拍手が起こった。顔を上げた遥はもう一度軽く一礼しながら、どこか無邪気に微笑んだ。
「じゃあ次は私がしようかな。私は湯崎みお。浩介とは子供の頃からの付き合いで、小中高と一緒の、今は大学生。よろしくお願いします」
「じゃあ次は私ね。私は葉山水花。水の花と書いて水花です。浩介やみおとは中学校から一緒なんです。一応大学生……あ、みおとは違うところですけどね。よろしくお願いします」
 最後の番となった浩介。だが浩介はなかなか口を開かずに苦笑を浮かべながら頭を掻いたり、深々と背凭れながら肩をすくめたりしている。そんな浩介に水花とみおが不思議そうに小首を傾げた。
「ん、いやぁ、俺のことは大体遥さんは知ってるだろうし、みおや水花も俺のことを知っているだろうから、今更言わなくてもいいじゃないか」
「それはそうだけど、そういうものじゃないよ。一応言わなきゃ」
 水花に言われ、浩介は仕方無いと言いたげな顔をしながら、居住まいを正す。
「えーっと、じゃあ一応自己紹介をば。俺は津島浩介。現在は無職、バイトも何もしていないでただ好きな絵を日がな一日描いています。よろしくお願いします」
 どこかおどけたような、それでいて充分に照れ隠しだとわかる浩介の調子に、三人は拍手を送った。それがまた浩介を居心地悪くさせたのか、何度も居住まいを正しながら腕組みをし、ぎこちない笑顔を覗かせた。
「じゃあ、あの、遥さん。一応家の中を案内するから付いてきて。水花とみおはここにいていいから」
 浩介は立ち上がると、遥を連れて客間を後にした。
 客間を出て、向かいが広めのホールとなっており、くつろげるように椅子などが置かれている。先に進むと左手に居間、右手に縁側へと通じる廊下。縁側に沿って、和室が三部屋並んでいる。用途はその時次第だ。居間と隣接して台所。一人暮し同然だったので、少しばかり雑然となっている。その先にはまだ部屋があるが、浩介と遥は台所の先を左に折れ、二階への階段を上った。
 二階に着くと右手には母の部屋、左手には父である宗一郎の部屋。今はどちらも主を失っており、空き部屋である。突き当りを右に曲がれば母の部屋の向かいに居間がある。また左に折れれば宗一郎の部屋の向かいにある、あまり使われていない浩介の部屋。その先にも数部屋ある。
「えっと、遥さんはこの部屋を自由に使っていいから。嫌だったら別の部屋にするけど」
 浩介が指し示した部屋は鏡台が置いてあることだけが特徴の部屋だった。他は特に変わったところなど無い。
「ありがとうございます。でも、ここは……」
 雰囲気からただの空き部屋では無いと察知したのか、遥は浩介に戸惑いの色を隠せずにいた。それが何なのかすぐに気付いた浩介は、少しおどけたように微笑んでみせる。
「ここは母さんの部屋だったんだ。もう使っていないし、それに鏡台なんかもあるから、遥さんが使うにはいいかなと思ったんだけど」
「お心遣いありがとうございます。ですが、そんなに大切なお部屋、よろしいんですか?」
「どうぞ。ただ眠らせておくにはもったいないだろうし、それにどんなものも使ってこそ生きてくるんだ」
「立派なお考えですね」
 微笑み合うと、浩介が先んじて部屋の中に入った。数秒遅れて遥が続く。そこは整理されているものの、やはり長年使われていないからか、埃が所々に積もっている。
「ま、汚いけど掃除すれば問題ないだろう」
「はい。どうもありがとうございます。それではひとまず荷物をここに運ばせてもらいますね」
 遥はとりあえず荷物を運ぶと、また浩介に付き従って家中の紹介を受けた。広い家ではあるものの、複雑な造りではないため、説明にはそれほど時間を要さなかった。
 一通り説明が終わると、遥は着替えのためにと浩介と別れた。浩介の方は水花とみおの待つ客間に多少急ぎ足で戻った。
「おかえり。遥さんはどうしたの?」
「着替えだって」
 マントルピース近くの一人用ソファに腰を下ろした浩介は、背凭れながら水花とみおを交互に見る。二人は納得したように頷くと、浩介の方へ体を乗り出した。
「ねぇ、浩介から見て遥さんてどんな感じ?」
 そう言われたところで浩介が返せるものはあまりにも少ない。会ってまだ間も無いのだ。綺麗で丁寧な人くらいの印象しか抱けていない。ただそんな答えでみおが納得しないことは浩介も重々承知していたため、迂闊に口を開くことができないでいた。
「みお、まだ遥さんと会ったばかりでしょ。浩介だってそんなこと言われたら困るよ」
「それはそうだけどさ。でもこれから住み込みで働くとか言ってたでしょ。同じ屋根の下で一緒に暮らすんだから、どんな感じなのかなぁって思ったの。ほら、こういうのって第一印象が肝心じゃない。何となくいい人、悪い人ぐらいあるでしょ?」
「そう、だね。一緒に暮らすならそういうの気になるもんね」
 腕組みをしながら数瞬考え込んだ後、うつむきかけていた顔を上げ、平素を装いながらもどこか照れたように浩介は僅かに視線を逸らす。
「いい人なんじゃないかな」
 それを受けるとすぐに水花とみおの瞳が輝いた。
「そうだよね、いい人そうだよね」
「いい人の上に美人だもんねぇ。嬉しいでしょ、浩介。水花がいるのに浮気しちゃダメだよ」
「な、何言ってるのよ、みお」
 困ったように顔をうつむかせながらも上目でみおを睨む水花。浩介はどこか気まずそうに苦笑を浮かべている。そんな二人を楽しむかのように、みおは気持ちよさそうに笑っていた。
「浩介も水花もいい感じなのに、進展なさそうだからね。ぼやぼやしてると、どっちかにもっといい人できちゃうんじゃないの?」
「怒るよ、みお」
「あはは、ごめんごめん」
 じゃれ合う水花とみおを浩介はどこか遠くの綺麗な景色を眺めるかのようにぼんやりと見ては、どこか自虐的な笑みを口の端に浮かべている。こうした光景は三人が幾重にも積み重ねてきた日常。いつまでも変わることは無いとどこかで信じ、願っている。
「失礼します」
 数度のノックに三人は一斉にドアの方を向く。笑い声は止み、どこか強張ったような三人の面持ち。訪れかけた沈黙を破るかのように、ドアが開かれた。
「あ、メイドさんだ……」
 思わず漏れたみおの一言に、浩介も水花も無意識のうちに頷いていた。それもそのはず、遥の格好は簡素な濃紺の服の上に白いエプロン、頭には白いカチューシャと言ったいかにも誰もが想像するメイドそのものだった。地味で華やかさの欠片も無いような服装だが、それがまた働く物としての凛々しさと、女性のそこはかとない可憐さを醸し出していた。
「何だか、格好いいなぁ」
「ありがとうございます」
 水花の呟きにも一礼をする遥に、またもどこからか嘆息が漏れる。見慣れないメイドという存在、そしてその一挙手一投足に三人はどこか夢現の境を無くしたように見詰め、反応していた。
「それで浩介さん、さっそくですが何か御用はありますか?」
「え、あっ、仕事ね」
 とは言っても普段使うような場所は水花がこまめに掃除をしてくれているし、洗濯物だって昨日自分で洗ったためにそれほど溜まってはいない。使っていない部屋は多いが、それでも以前訪れた家政婦によって一通り片付けが行われたために、軽く埃が積もっている程度だ。与えようと思えば何でもあるが、さすがに今日は来たばかりなので、そうそう大変な作業はさせたくなかった。
 だが何も与えないとなると、それはそれで彼女の意義を失わせてしまうみたいで怖い。
「あー、じゃあ水花とみおと一緒に晩メシの買い物に行ってきてもらえるかな」
「はい、わかりました」
「じゃあ、少ししたら行きましょう」
「そうね。今日は御馳走作らなきゃいけないから、色々大変ね」
 楽しそうに微笑む三人をどこか寂しげな瞳に写しながら、浩介は立ち上がった。
「俺はアトリエにいるから、何かあったら来てくれ」
「うん、わかった」
 そう言うと浩介は客間を出、アトリエへと一人向かった。

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