四十二.

 日記を渡され、水花に見ろと言われたものの、正直読むのは躊躇われた。今更読んだからと言って、俺が養子であることには変わり無い。現実を再確認するのは、辛いだけだ。
 できるならば、見たくない。だけど涙を流してまで必死に勧める水花を前にしていると、読まなければならないだろう。
 ひっそりと溜め息をつくと、枕元の電灯を点けた。すっかり闇に慣れていたため、瞬く間も無く広がる光の洪水に視力を奪われたが、それにもやがて慣れた。
 水花の顔は泣き腫れていた。その顔を見ていると、そうまでさせたこの日記の最後に、一体何が書かれているのか、否が応にも期待と不安が高まっていく。
 意を決すると、俺は水花に示された最後の日付の日記に、目を通し始めた。

  一月十五日 木曜日
 明け方から意識を失い、夕方に目覚める。この様子だと長くはないだろう。目前に迫った死が、手に取るようにわかる。きっとこの日記も、これで書き収めだろう。
 色々あった私の人生。辛くもあり、楽しくもあった。未練はたくさんあるけれど、私がこの世に受けた生の役目を終えるのだとしたら、残りを宗一郎さん一同に託そう。それで、いい。
 でもやはり、私の気がかりは浩介。
 我が子、浩介と一緒にいられた時間は、限り無く短かった。できるならば、もっと一緒に同じ時を重ねていたかったけど、それも無理みたい。明日の手術によっては、もう少し生きられるかもしれないけど……。
 さっき生の役目を終えられるなら本望と書いたけど、あれは嘘かも。書いているうちに浩介のことを思い出してしまい、まだ生きたい、生きて一日でも浩介の成長を見守りたいと思えてきた。
 我が子と生きられないなんて、ようやく私も母親としての幸せの一端が見えてきたと言うのに。
 もしも運命と言うものがあって、誰かが決めた道の上を歩いているのだとしたら、誰がこんなにも残酷な結末を決めるのだろう。
 死ぬのは怖くない。遅かれ早かれ誰もがそうなるのだし、目前に迫ると、ある種の諦めにも似た気持ちが生まれる。私は抗わずにそれを受け入れよう。
 怖いのは浩介との別れ。まだ何も知らない浩介を残して死ぬのは、怖い。それだけが心残り。
 だからあの子のことを、宗一郎さんに託そう。私の分まであの子に愛情を注ぎ、その成長を見守っていて欲しい。私達二人の子供なのだから。
 宗一郎さんは私のワガママと、跡取りの問題を解決するためだけに、浩介を引き取ったと周囲に思われているけれど、それは違う。形はどうあれ、宗一郎さんも浩介を愛している。本当の我が子として、愛している。だって、浩介を抱いている時の笑顔は、紛れも無く父親の顔なのだから。
 そんな宗一郎さんだからこそ、もし私がいなくなっても、安心して任せられる。
 誰の目にも触れられないだろうけど、一応書いておこう。遺書まがいの次の言葉、もし手術が成功したら消そう。
 宗一郎さんへ
 私はあなたに出会えて、本当に良かった。もし出会っていなければ、私はきっとこの生活はおろか、幸せとは何かもわからなかっただろう。感謝しています。生活の全てが宝物であり、幸せな日々だった。もっと一緒にいて、夫婦の時間を重ねていたかった。でも、不満はありません。愛するあなたとの日々は、私にとっても最良でした。
 浩介へ
 出会いはどうあれ、あなたは確かに私と宗一郎さんの子供。愛する我が子。もしもあなたが大きくなって、自分が養子であったと知っても、決して嘆かないで欲しい。血だけが絆ではないのだから。私があなたに注いだものは、偽りなんかじゃない。
 願わくば大きくなっても、私の温もりをどこかで覚えていますように……。

 涙が止まらなかった。溢れる想いが出口を求めて暴れ、胸が締め付けられて苦しくて、どうしようも無かった。ただ俺は先程水花がしていたように、日記を抱き締め、泣くことしかできなかった。
「俺は、本当にバカだったんだ」
 家のためだけの子だとか、偽りの愛情だとか何だとか、全部俺の早とちりと思い違い、思い込みだったんだ。一人で勝手に憤り、憎み、嘆いては自棄になっていただけのこと。どうしようもないバカだ。
 父さんも母さんも、いつでもこんな俺を気にかけ、大切にしてくれていた。こんなにも俺は大切に思われていた。それを勝手に撥ね退けては、声高に飢えていると怒り叫び、世界で自分が一番不幸であり、かつそれに耐えて生きている自分を素晴らしいとさえ思っていた。
 薀蓄を垂れては寄せられる感嘆に満足し、批判に対しては物知らずと見下し、常に自分は不幸を背負いながらも、現状の幸せを知り得る大人物と思いながら、自分ではない家や周囲の力を当然のものとして生きてきた。
 ただ、それらを消して一体何が残るのか。俺は何も無い人間だ。だからこそ絵が才能と決めつけ、謙遜を言いながらも傲慢に今日まで生きてきた。何もできない自分を見抜かれるのが怖くて、認めるのが嫌で。
「子供、だったんだな」
 いつでも、いつまでも、今もまだ子供だ。だけど、今はあの二人の子供でいたかった。今までそう思えなかった分、存分にこの胸を震わせる熱い安らぎを大切にしたい。
「できるだろうか……」
 この涙が止まったら、両親に少しでも見せられるような大人になろう。自慢の息子だと、安心させよう。そして、そんな自信を得よう。
 遅過ぎたなんてことは無い。いつだって、諦めの一歩先に道がある。両親が死んでも、俺はまだここにいる。そして誓える。変えられると。
「やるしかないんだよ」
 浩介はそう呟くと、日記を更に強く抱き、また泣いた。子供のように、母の、父の胸に抱かれているように、泣き続けた。
 泣きじゃくる浩介を、やがて水花が優しく抱き寄せ、頭を撫でた。ゆっくりと幼子をあやす様なその仕草は、浩介の涙を緩やかにするのと同時に、水花自身にも哀を愛する微笑を生んだ。
 言葉なんて、今は嘘に思えた。

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