四十一.

 窓から差し込む月光が所々薄青く照らし、朧にアトリエ内を浮かび上がらせている。幻惑的と言うよりは不気味。そんな世界の片隅で、浩介と水花が寄り添いながら唇を重ねていた。キスは微かに血の味がする。
 二人の頬から、もう出血は無い。赤黒く固まった血が、傷跡を生々しいまでに強調しており、少しでもひっかけば、すぐにまた血が溢れるだろう。触れれば痛みがまずピリッと走り、やがて鈍痛へと変わる。そんな感覚を楽しむかのように、水花は愛しそうに自分の傷口を、優しく指先で愛撫していた。
 この傷、この痛み。
 唇を離した水花がふっと微笑むと、浩介も目を細めた。
 浩介と同じものが私にもある。しばらく痛むだろうし、痕も残るかもしれないけど、それでいい。今はこの傷の分だけでも、近付けたのだから。
 すっと目を閉じ、幸せを噛み締める様に水花が嘆息する。僅かに体を丸め、そっと拳を握ると、再び浩介を見た。途端、水花の眉根が僅かに寄った。
 何でそんな顔しているの。
 浩介の表情には、明らかな憂いがあった。瞳は暗く、何をも写してはいない。そしてこの表情は私にとって、見慣れたものだった。頬に傷を、いや、初めて肌を重ねた時よりもずっと前から知っている。もしかしたら初めて出会った時、私に気付く一瞬前も、こんな顔をしていたんじゃなかろうか。
 私じゃダメなの。
 手足の先や背中から、小さな虫が蠢くように広がって行く。ちりちりと、紙切れが燃える早さで広がって行く。やがてそれは私の心の中で、はっきりとした不安に変わる。
 私じゃ、まだ足りないの。
 満足そうにしていたのは、私を抱いたからだろうか。抱いてしまったから、私の心を晒したから、浩介は私に興味を失ってしまったのだろうか。私は浩介にならいいと思って、抱かれた。だけど浩介の方は、一時でも忘れるために私を抱いたのだろうか。浩介の言葉を疑いたくない。だけど……。
 浩介はそんな水花の視線に気付くと、多少慌てたように微笑み、水花の頭を撫でた。そんな浩介に、水花はどこか悲しそうに追従笑いを浮かべては、掌に爪を食い込ませていた。
 どうすればいいんだろう、私……。
 付いて行く覚悟はあるし、受け入れる準備もある。けれども、私はそれしかない。今までこういう顔を浩介がした時、私はいつも側に立って、当たり障りの無い慰めの言葉をかけていただけだ。それはそれで、その場を何とかやり過ごせてこられた。でも、いつも何の解決になっていないのにも、また気付いていた。
 作り笑いを交わすのが次第に辛くなってきた私は、上半身を起こした。何事かと言ったような、浩介の視線を受けるのが辛い。私は堪え難い無力感に苛まれながら、
「喉、乾いたの」
 そう言うだけで精一杯だった。
 台所で水を飲むと、多少楽になれた。背に浩介の視線は感じない。きっとどこか別の所を見ているのだろう。助かったと思うのと同時に、どこか寂しくもあり、踵を返すとまたのろのろとベッドに戻った。
 近付く私に、また浩介が目を向けてきた。私は努めて自然にそれを外し、アトリエを見渡す。すると、アトリエの片隅に一冊の本が投げ捨てられているのに気付いた。
 本を投げ捨てるなんて、浩介らしくない。そう水花が思うのも無理はなかった。画材に怒りをぶつけることはあっても、その他の物にそうすることは無かった。特に本に関しては、だ。だからこそ、片隅に投げ捨てられていたその本から、水花は目を離せずにいた。
「ねぇ、浩介。あれは何の本なの」
「どれだ」
 浩介はベッドから身を起こし、私の指差した方を見遣ると、急に苦虫を噛み潰した様な顔になった。
「……あれは、日記だよ。俺が最近まで母親だと信じていた人のな」
 重苦しそうに答える浩介から、あの日記が浩介を未だ深い闇の中で瞑想させている原因の一つだと、はっきりとわかった。だから私はどうしてもその中身が知りたくなり、自分以外の人の日記を見てはいけないと言う倫理観が働くより先に、私の口が動いた。
「見ていいかな、それ」
「何なら燃やしてもいい」
 吐き捨てるような言い草すら、水花の背を後押しするだけだった。水花はそっと日記を手に取ると、ベッドに戻り、腰を下ろして月明かりを頼りに、ページを捲り始めた。浩介はと言えば、水花に背を向け、黙っている。
 辛いのはわかるけど、何もそんな……。
 逃げの姿勢の浩介に水花は苛立ちを覚えたが、今はこの古ぼけた日記に惹かれていた。そしてそこに書かれいる文字、一言一句を心に焼き付けるようにして読み進める。
 浩介から事前に話を聞いていなければ、もしかしたら私はここに書かれてある事実に慄き、しっかりと気を保っていられなかっただろう。浩介に聞かされた時、疑ったつもりは無かった。けれども、今一度こうして自分の目を通じて接すると、例えようも無いものが体を貫くのが、はっきりとわかった。
 子供ができなかったこと、苦汁の選択の末に浩介を養子として引き取ったこと、それについて周囲から色々言われたこと、やがて浩介が『家のための子』であると認識されることに至るまで、日記は事細かに書かれていた。そんな浩介の生い立ちを知るにつれ、私は浩介が抱える闇の深さに、思わず涙しそうになった。
 けれども読み進めて行くにつれ、何やらそれだけでは無さそうだとも思い始めてきた。

  七月十八日 金曜日
 浩介を引き取って、二ヶ月程過ぎた。近親の人達もようやく浩介に慣れてきてくれたみたいで、とても喜ばしい。未だ家を継ぐための子供と思われている節はあるし、私自身も跡取りがこうして、日一日すこやかに育っているのは嬉しい。女の幸せの一つはこれかもしれないと、最近思うようになった。
 遠縁の人達や近所の人達には浩介が養子だと知られないよう、あの日からあまり外へ出られなくなってしまった。無論、浩介もだ。毎日室内で浩介の世話をしたり、子供服を作ったりするのは楽しい。あの子の喜ぶ顔を見ると、それまでの苦労が消えて行くようだ。
 だけど浩介をいつまでも室内にばかり閉じ込めておくのは、さすがに可哀想だ。
 しばらく別荘の方で生活しようと思う。その方がこの家のためにも、浩介のためにもいいだろう。別荘の方で出産したことにして、うやむやのまま周囲を納得させた方がいいと、宗一郎さんも言っていた。
 早くここに戻れる人浩介の成長を、私は祈りながらペンを置こう。

  八月二十八日 木曜日
 ようやく別荘生活にも慣れてきた。私と浩介と家政婦の富田さんの三人での生活。高原にあるここには昔、宗一郎さんに何度か連れてきてもらったことがある。避暑地にはとてもいい場所で、私も浩介もよく庭で遊んでいる。
 こう書くのはどうかと思うけど、津島家から離れた私の心は、まるで羽が生えたかのように軽い。津島家では今、どんな苦労をしているのかわかっているはずなのに。少しだけ罪悪感。
 よちよちと歩く浩介、転んで泣く浩介、私の腕の中で泣き疲れて眠る浩介。書き上げればキリが無い程、私の心に浩介が増えていく。このままずっと、浩介との思い出を増やしていきたい。それが今の私の願い。
 そう言えば今日、また貧血が起きた。夏バテだろうか。ともかく浩介もそうだけど、少し私自身にも気を付けよう。私が倒れたら、きっと浩介が悲しむだろうから。

  十月二十七日 月曜日
 今日は浩介の一歳の誕生日。この子がこの世に生まれて一年と思うと、今この日記を書いている最中も、目頭が熱くなってくる。
 ロウソクの火はまだ消せないし、御馳走も食べられない。だけどケーキのクリームを頬につけて喜んでいる姿は、私達の心を穏やかにさせ、家族と言うものを強く意識させてくれた。
 もう誰も浩介を養子だと思っていないだろう。外から迎え入れたものの、浩介は紛れも無く我が子だ。血こそ繋がっていないけど、そんなものはどうだっていい。浩介の小さな手を握れば、確かな絆がある。それこそが全てなんだ。
 私は浩介の母親だ。あの日、浩介をこの手で抱いた時から、ずっと。
 いつも思っていることを、こうした記念日に書くのも悪くはない。何年後かの私はこれを見て、一体どう思うのだろうか。少し楽しみ。
 最近疲れが抜けず、頭痛がひどい。貧血も度々起こるようになった。近いうちに検査してもらわないと。大事になったら、大変だ。

  十一月四日 火曜日
 お医者様に白血病と診断を下された。すぐに入院となった。何が何だかわからない。
 気がかりなのは浩介のことばかり。早く治して、この手で抱き締めたい。

  十二月十三日 土曜日
 病状は悪化するばかり。お医者様も宗一郎さんも、今に治ると言ってくれているけど、私の体だ、自分が一番よくわかる。きっと私は、もう治らないだろう。
 今日は雪が降った。窓の外にはらはらと散る雪は、美しくも儚い。けれども今は美しさより、この寒さで浩介が風邪でもひいていないかと思う方が強い。あの子に何かあったらどうしよう。あまり顔を合わせられない今となっては、本当に気が気で無い。
 色々思うことはあるけれど、ここまでにしておこう。これだけ書くのだって、今はとても辛い。情けない。
 もしも元気になって春を迎えられたら、みんなで花見をしよう。庭の桜でいい。お弁当食べながら、笑い合いたい。

  一月七日 水曜日
 帰りたい。
 それだけを切に願うばかり。
 滅菌テントからの世界は、何もかもがぼやけて見える。この日記の栞として使っている浩介の写真と比べて、今の浩介はどんな風になっているだろうか。日々成長する我が子を見てあげられないのは、本当に残念だ。
 この頃は夢さえも不明瞭になってきた。宗一郎さんと浩介の短いお見舞いの時だけが、楽になれる。

 胸が熱く鈍く痛む。私は何度も眼に浮かぶものを指で拭いながら、ページを捲り続ける。
 以前浩介がこれを見て、自分が家のためだけに迎え入れられた養子であり、信じていた愛情に裏切られた、あの愛情だと信じていたものは全て嘘だったと聞かされたけど、これを見る限りではそんなこと、微塵も感じない。むしろ出生はどうあれ、溢れる程の愛情が浩介に注がれているのがわかる。本当に大切に思っていないなら、こんなにも字を弱々しく震わせてまで、浩介のことを書かないだろう。
 この日記の結末はわかる。けれども、私はどうしても見てみたい。この人が最期まで何を思い続けていたのか、知りたい。
 浩介はまだ背を向けている。もしかしたら、寝たのかもしれない。起そうかと思ったけど、やめた。この日記を読み終えてからでもいい。私はページを捲った。
 ぱっと見た時、どのページよりも空白が多いことに気付いた。あぁ、これが最後の日記なんだ。そう思うと切なく、またどこか厳粛な気持ちになった。もう二度と見られないかのように、一言一句暗記するかのように、私は文字を追う。
「……水花」
 すぐ側にいるはずの浩介の声が、随分遠くからのように聞こえる。
「泣いているのか」
 暗いし、鏡も無いからわからないけど、きっと私の顔は泣き濡れてくしゃくしゃなのだろう。そうさせたのは他でもない、この日記。最後の文字はもう涙で見えず、気が付けば日記を抱き締めていた。まるでこの日記における、母と子の様に。
「何でそんな他人の日記なんかで泣くんだよ。俺を家のためだけに引き取ってきた女の日記なんて、読む価値も無いだろ」
「バカ」
 浩介は本当にバカだ。何も知らないのは、浩介の方だ。
 ゆるゆると、うなだれながら首を横に数度振る水花の背を、浩介は先程の鋭い怒声に眉を顰めながら見詰める。しばらくして、水花が目元を拭うと、浩介の方を振り返り、目の前に日記を突きつけた。
「な、何だよ」
「浩介、これ最後までちゃんと読んだの?」
「いや、途中で止めたよ。俺が引き取られたってのを見て、それきりだ」
「浩介、勘違いしてる。浩介のお母さんは、最初から最期まで浩介のお母さんなんだよ。死ぬまでずっと浩介のこと、考えていたんだよ。ここ見なよ」
 涙ながらに最後の日記を浩介の前に広げると、浩介は面倒臭そうに受け取った。しかし水花にはそんな浩介の顔が滲んで見えず、ただただ日記を思い返しては、むせび泣き続けた。

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