四十.

 逃げ出そう。
 そう本気で考えた。水花とみおの鬼気迫る眼差しに、俺は何をどうすればいいのか、わからなかった。言い訳なんてできない、何らかの答えを出さないといけない。しかしそうしたら、ただでは済まないだろう。
 怖い。答えたくない。傷付きたくない。
 二人の視線から眼を外せず、思慮深げにしているものの、その実はどの足から逃げ出そうか、逃げ出した後どうしようか等にばかり、考えを巡らせていた。
 逃げて逃げて、どこか遠くへ行こう。俺はもう、こんな争いに巻き込まれるのは嫌だ。逃げてもし捕まったら、侮蔑や罵倒に軽く触れてから、死のう。今の着飾った自分を捨て、薄汚い浮浪者に紛れてもいい。
 そうだ、それでいいんだ。
 思慮深げな能面が、不気味に口元を歪めた。それは僅かなものであったが、注視していた水花とみおにとって重大な変化であり、何かを期待させるには充分だった。
 それを受けてか、浩介の口の端が更に釣り上がった。
 どうせ死ぬんだったら、せめて見てみようじゃないか。言葉でも、体でも見えない覚悟ってのを見せてもらおうじゃないか。遥さんが、水花が好きだ、愛してるなんて並べ立てていたが、その気持ちは状況に合わせていただけじゃなかろうか。
 好きになったつもり。自分や相手を知ったつもり。そんな曖昧なもので、俺は俺を騙して生きてきた。こいつらも、きっと同じだ。曖昧な気持ちを曖昧なまま納得し、そうして自分が抱いていた相手のイメージと、実際のそれとが食い違うと、途端に唾を吐くのだろうさ。
 どうせ何をしても、傷付いたり滅茶苦茶になるんだったら、見極めてやる。俺も、お前等も。誰かが逃げ出すまで、やってやる。
「確かめてみよう、俺も含めてな」
 自分を変えるには、それまでに無い大きな変革が必要だ。多少のことでは、何も変わらない。変わったと錯覚するだけだ。そしてそれは、いつか覚める。
 浩介はベッドから下りる。
 さて、どうするかな。
 水花とみおを交互に見ながら、浩介は二人の中間であるキャンバスの前に立つ。見慣れた位置、長い時を重ねてきた場所。感慨深くアトリエを見回しては、薄く笑っている。
 そうだな、もし、もしも消えない明石があるならば、それを作れるのならば……やってみる逃げるなら、逃げろ。所詮俺はこんなことを考える人間だ。その一端も受け入れられないような奴は、一緒になるに値しない。
 おもむろに浩介は近くの収納棚から、ナイフを取り出した。突然のことに、水花もみおも大きく眼を開く。だが、静寂。
「もしも」
 しばらくしてから、浩介が口を開いた。
「自分を包んでくれる、理解してくれる人がいたら、それはどんなに幸せなことだろうな。なぁ、水花」
 突然の呼び掛けに、水花はびくりと体を震わせながらも、こくりと頷く。
「自分の最も見せたくないもの、例えば狂気だとか卑しさだとか、そう言った自分ですら見たくないものを、相手が許容してくれたら、どんなに嬉しいことだろうな。なぁ、みお」
 おずおずとみおが頷く。
「俺は見たいんだ、本当に俺を受け止めてくれる人を」
 自分の芝居がかった台詞に恍惚としながら、浩介はナイフの刃を指で拭うと、もう一度二人を一瞥してから、ナイフを見詰めた。
「できなくてもいい、問題なんて無い。だが、どうせなら同じにってのが、一体化への願望ってもんだよな」
 浩介は頬に刃を当て、滑らせた。
 目尻近くから唇近くまでの切り傷。躊躇すること無く切ったからか、一瞬の間を置いて、プッと傷から血が溢れたかと思うが早いか、たらたらと鮮血が流れ出してきた。傷はそう深くはないみたいだが、それでも頬を、顎を伝い、床へ滴ったり、胸元を染めたりしている。
「無理強いなんて、しないよ」
 呆然としていた水花とみおも、床に落とされたナイフの音に驚くと、途端に恐怖が走ったのか、青ざめた。
 べっとりとまではいかない、僅かに刃先についた血。刃渡り七センチ程度の小さなナイフだが、呆然とそれを眺めている水花とみおには、血塗れた恐ろしい凶器に見えていた。
 誰も動かなかった。いや、動けずにいた。指一本動かすことすら、解答者の権利を掲げるに他ならない。そして三人共その権利を手にし、答えを出すのを正直恐れていた。
 陽は沈み、アトリエ内に息を潜めていた闇が、方々から広がって行く。暗くなり、互いの顔が見えなくなってくると、変わっていないはずの自分の呼吸が、妙に荒々しく聞こえる。鼓動が早まり、手足から血が引いていく。頭の中は真っ白で、ずっと何かを考えているようで、何も考えられないまま。
 先に動いたのは、水花だった。
 一歩踏み出した時の衣擦れの音、そっと差し出したはずの足音すらも、浩介とみおにははっきりと聞こえた。そして眼を鋭く光らせ、水花の決断を待っている。
 ゆっくりと水花が浩介に近寄り、そしてしゃがんだ。そっと手を伸ばし、血のついたナイフを握る。その重さ、感触を確かめるかのよう、水花は何度も何度も握る。視線はもう光らない刃に付着した血のみを見、そうしてゆっくりと立ち上がった。
 右手のナイフを胸元の前に寄せた水花は、浩介とみおを一瞥してから、またナイフを見詰め、小さく頷いた。
「私はもうね、逃げ出して何かを失いたくはないの。全力だとか限界だとか、自分で決めては諦めてきた。でも、もしそういう風に自分を決めつけて諦めなかったら、私はどこまで行けるんだろう」
 水花がそっと刃先を頬にあてがう。
「ずっと欲しかったものが、目の前にある。私は十年近く待った。その十年が、あと一歩踏み出せば叶う。そう、この一歩」
 浩介と同じ様に、水花が刃を頬に滑らせた。
「もう一歩先だって、行ける」
 したたる鮮血、だらりと下げる右手。薄笑いを浮かべた水花は、傷口を左手人差し指で拭うと、親指で親指ですり潰した。
「私はまだまだ先に行ける」
 暗闇の中で青ざめるみお、覚悟を示した水花に対して満足そうな浩介。そんな二人に対して真摯な眼差しを送りつつも、微笑を浮かべる水花は、みおの足元へ滑らせるように、血染めのナイフを投げた。
「あ……」
 乾いた音を立てながら転がってきたナイフが、みおのつま先に当たった。靴を履いているものの、みおはびくりと体を震わせ、浩介と水花、そして足元のナイフとを交互に見る。
 同じ部分から血を流している、浩介と水花。二人はみおの答えを期待しているかのように、微笑んでいる。それは軽蔑でも嘲笑でもない、親が子を見守るかの様な、優しげな微笑み。
「あ、やぁ……」
 泣き出しそうなみおが一変、二人を睨んだ。
「あ、アンタ達、変だよ。おかしいよ、絶対。何よ、頬切って覚悟だの何だの。バカじゃないの。付き合ってらんないよ」
 そう言いながら、じりじりと後退さる。
「狂ってるよ」
 涙を流し首を横に振り、振り絞るようにそう吐き出すと、みおは逃げ出した。アトリエのドアを勢い良く閉め、叫びながら遠ざかるみおを、浩介と水花は追い駆けることも想うことも無く、ただ立ち尽くしていた。
 静まり返ったアトリエの中で、浩介と水花は寄り添いながらドアを見詰めていた。二人共、同じ箇所からたらたらと血を流している。頬から首筋を伝い、血は首周りを朱に染めながら消える。
「水花」
 浩介が水花を抱き締める。
「いいんだな」
 浩介の胸に埋まっていた水花が、顔を上げる。
「いいも何も、私は最初からこうしたかったんだよ」
 そっと浩介が水花を包み込むように、抱いた。水花も体をあずけ、うっとりと眼を閉じる。
「俺もだよ。いや、最初は誰でもこうして抱いてくれていれば、よかった。でも、今は水花じゃないとダメなんだと、はっきりわかるよ」
 互いの肩口が、互いの血で染まる。
「何だっていいよ。今ここに浩介がいて、私を認め、抱き合っている。それで充分だよ」
 水花の舌が浩介の傷口を這う。ゆっくりと艶かしくなぞり、血を拭う。浩介も同様に、水花の傷口を丁寧に舌で愛撫していく。音が、それまで消えていたアトリエに蘇る。痛みによる苦悶か、それとも快楽のためか、くぐもった吐息が溢れ、次第に熱を帯びていく。
 浩介が水花から顔を離す。
「ねぇ」
「わかっている」
 水花の肩を抱きながら、浩介はベッドに辿り着くと、半ば押し倒すように水花をベッドに沈ませ、唇を重ねた。
 鈍い金属の味が口内に広がる。あぁ、これが生きている証。水花の命。自分のをすくい、口に含む。水花のをもすくい、口に含む。決して叶わない一体が、この口の中で達成される。美味しくはない。けれど、心地良い、単なる快楽を越えたものが湧き上がってくる。
 髪を撫で、鈍い味を残したままの舌が首筋を這い、そして傷口をなぞっては、また確かめるように髪や背に手を回す。暑い吐息が心をも濡らし、殻を破り、汗と匂いを一つに混ぜ合わせ、嬌声を生む。
 暗い海底のようなアトリエ。ベッド側の窓ガラスが薄く曇り、それが月光を反射させている。その柔らかな光も、今はただ官能的な演出の一つでしかなかった。
 互いに一つになろうと、溶け込もうと体も心も重ねていた。

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