三十九.

 アトリエの前で遥に会ってからずっと、水花の胸には大いなる安堵と、誇るべき勝利の喜びが広がっていた。浩介に寄り添うと、遥の瞳から光が消えた。そんな遥を見ているうちに、こういう考えはやはりいやらしい、そう自覚しつつも、浩介を感じていると、そんな気持ちすらも誇らしげに思えてきた。
 こんな気持ち、今まで味わったこと無かった。いつも誰かの前に立つことなんてせずに、一歩下がった位置で何事も決めてきた。一番はおろか、誰かに勝とうと思ったことすら、あまり無い。
 誰かに勝つことは、誰かを傷付けることに他ならない。そうずっと思ってきた。だけど、それは優しさを盾にした逃避だ。少しでも辛いことに向き合いたくないから、戦わずにいた。そしていつしか、譲ることが美徳だと信じ切るようになってしまっていた。
 意志や決意の無い譲歩は、ダメなんだ。私は色々な物事を他人任せにして、生きてきた。譲ることによって、自分の道を決めてもらっていた。それではこれから先、歩いて行けない。
 今は浩介を一人占めしていたい。抱き合いながら、お互い感じていたい。ただそれだけ、それだけが今の願い。そのために今を生きていたい。
 あぁ、浩介の匂いが、私から考えることを奪っていく。近くて遠かった浩介が今、私と抱き合っている。愛しくて、胸が張り裂けてしまいそうで、でももっと欲しい。どうなってもいい、いいの。
「水花、泣いているのか」
  浩介に言われ、はっとした。気付かないうちに、私は涙を流していたみたい。私の頬も、浩介の左肩も、濡れている。
「嬉しいから」
 互いに踏み込めず、もどかしさを仕方の無いことだと諦めて、一緒にいた。それが今、こうして抱き合っていられる。愛した人に抱かれている。
「ずっと、こうできたら、こうなれたらって思ってた。だから嬉しくて、つい」
「俺もそう思っていたよ。そして今は、ずっとこうしていたいと思っている」
 今度は涙が溢れるのが、はっきりとわかった。
「あまり泣くなよ、な」
「うん、ごめんね」
 言う度に、想う度に止まらなくなる。もう何が何だかわからない。真っ暗なようでもあるし、真っ白のようでもある。興奮しているようでもあるし、ひどく安らいでいるようでもある。様々な気持ちが、マーブルの様に混ざり合って行く……。
 いつまでも、このままでいたい。
 だけど、より多くを求める私がいる。
 浩介がそっと私を離し、そうしてお互いに見詰め合えば、自然と唇が触れ合った。
 くぐもった鼻からの喘ぎと、絡み合う舌、そして確かめ合うように背を弄る手に、不明瞭だった気持ちが次第に鮮明になっていく。かかる吐息が、妙に熱い。
 舐り合っては離れ、離れかけてはまた求め合う浩介と水花。こうして直接、互いの傷や不安を舐め合っているかの様なキスは、非常に落ち着くのか、体を任せ合っている。
「好き、浩介が好きなの」
「俺もだ。だから、な」
 浩介はベッドを一瞥する。
「確かにここじゃ、ね」
 恥ずかしがったような、だがどこか淫靡な微笑を交わすと、寄り添いながらベッドに移った。端に腰を下ろして再びキスをし、肩から背へと手が回る。
 仄寒かったアトリエ内に、奇妙な熱気が充満していく。ぴちゃぴちゃと唾液の混ざる音、くぐもった喘ぎ声、滑らせるほどに囁く衣服、それら全てが二人の世界を創る。
 官能的なアトリエの空気を破ったのは、不意に開いたドアの音だった。
 開け放たれたドアから流れ込む冷気が、浩介と水花の動きを止めた。唇を離し、何事かと幾分浩介の方が慌ててドアを見遣ると、青冷め呆気に取られたようなみおが立っていた。
「あ……」
 驚き離れようとした浩介を、水花が抱き寄せる。そして水花が舌を浩介の中へと挿し入れる。なおも浩介は水花から離れようとするが、逆に水花に押し倒されてしまった。
 ここで離れたら、私は浩介とずっと離れてしまうことになる。やっと掴んだ浩介を、私を、もう手放はしない。
 そんな水花の気迫を感じたのか、はたまた諦めたのか、浩介も水花の口内へと舌を挿し入れ、舐り絡め合い始めた。
 これが決意とばかりに見せつける姿を、みおはしっかりと目を開き、背ける事無く見詰め続けている。響き渡る淫猥な音色、流れ込む冷気をものともしない熱気。時間がゆっくりと過ぎて行く。
「何、してるのよ」
 微かに震え、今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべたみおの問い掛けは、どこか滑稽だった。内容も、表情も、声の調子も何もかもが滑稽だったが、みおの瞳はしっかりと絡み合う二人を捕らえて離さなかった。
 そんなみおを横目で見ていた水花は、やがてゆっくりと浩介から唇を離すと、ぞっとする程に妖艶な微笑を浮かべた。それは浩介もみおも、また水花自身も、未だかつて見たことの無いものだった。
「私は私の素直の気持ちのまま、生きるの」
 浩介とのキスの名残である唾液が、一粒の塊となってベッドに消えた。
「みおが教えてくれたんだよ。みおはよく私に言ったよね、私には自信が無い、どうして浩介に踏み込まないのか、はっきり言いなよって。私は、それを実行できた。今そうしているの。だから口出ししないでよ、これ以上」
 最後には叫ぶように絞り出した水花の言葉に、みおは一瞬びくりと体を震わせた。睨み付ける水花。だが顔を引き締め、じっと水花から視線を逸らさずに、みおが一歩二歩とゆっくり近付く。
「……やめてよ」
 一喝、そしてまた一歩。
「私の気持ち、知ってるでしょ。なのに、何でこんなことするのよ。好きでもいいよ。でも、何も私にこんな見せつけなくてもいいじゃない」
「今更何言ってるの。散々付き合え、くっ付けって言ってたのに、いざこうして浩介と一緒にいたら、何でこんなことするのって。勝手なことばかり言わないでよ。みおだって私の気持ち、ずっと知ってたじゃない。知っててくっ付けようとしてたくせに、今になってそんな。ずっと私のことからかってたの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ何よ」
 一瞬言葉に詰まったが、すぐにまたみおは、キッと水花に鋭い眼差しをぶつけた。
「いつだって、誰がいたって、好きなら好きでいいじゃない。私の気持ちは、私のものよ。そうしてその私の好きで想いが叶うなら、これ以上のことは無いわ」
 殺気立つ睨み合いは、しばし続いた。互いに一歩も引かない、眼差しによる気持ちのぶつかり合い。だがやがて決着がつかないと思ったのか、審判を託すように、水花とみおは浩介に視線を移した。
 夕暮れが近い。陽は沈みかけている。

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