三十八.

 掃除を終えた遥は、次に風呂掃除をしようかと思っていたが、どうにもできるような気分ではなく、一息つくことにした。のろのろと紅茶を淹れ、リビングへと運ぶ。
 浅くソファに座り、紅茶を啜る。優しく広がる香りが僅かに心を和ませるが、それは本当に僅かなもので、吐く息は安堵のそれではなく、ただの溜め息だった。
 寂しさは、この広いリビングのせいなのだろうか。それとも寂しいから、このリビングが妙に広く見えるのだろうか。どっちでもいいか、胸にある想いは一つなのだから。
 ここへ来て、まだ日は浅い。それでも間取りや装飾品、部屋の空気、そして街並みを知り、ぎこちなさは残るものの、ようやく慣れてきた。浩介さんや水花さん、そしてみおさんに優美さんと知り合うこともできた。できた、けど……。
「こんはなずじゃなかった」
 ティーカップを口に運ぼうとして、止めた。そうしてぼんやりとカップの中を覗いてみれば、ゆらりゆらりと静かにだが波打っている。いつまで見ていても、いつまでも波打っている。そうしていると、何故だか無性に悲しくなってきたので、私はカップに口付け、飲み込んだ。
 私はこれから、どうすればいいのだろう。
 依頼人である宗一郎が死んだ今、浩介が契約更新の権限を持っていると言っても、過言ではない。まさか依頼人が死ぬとは、本人だって思っていなかっただろうから、遥をどうするかは浩介の意志による。金銭面の問題があるからだ。
 メイドとしてここにいる以上、浩介さんの意志一つで自分の道が決まる。どうなろうが、文句は言わない。決定に従い、誠心誠意尽くすのが仕事であり、教えなのだ。無論、私もそれに従うまで。
 それでも、押し殺してはいるが、物事に対しての決定の是非くらいは、私にもある。叶うことなどないだろうし、直接言うことも無いだろうけど、私はもうここには居たくない。辛い。
 それはもしかしたら、今だけの想いかもしれない。麻疹のような考えかもしれない。そんな一時の感情に流された決断など、成功した例は無い。けれども、私はもう浩介さんのお側には……。
 仕事に私情、それも最も厄介な恋愛感情を強く抱いてしまった私が、結局悪いんだ。そのせいで不要な争いを生んでしまった。秩序と安寧を与えるのも役割であるはずなのに、仕事を抜きにしても、人としてそれは大切なことなのに、私は浩介さん達の輪を乱してしまった。
 色気はあってもよい。艶は大事だ。だけど、私はその意味を履き違えていたのかもしれない。主人を想い慕う気持ちを、恋愛と同じように考えていた。
 愛は愛でも、本来抱くべき愛は敬い尊びつつも、親しみを主とする愛。だけど私が抱いていた愛は、恋焦がれ一つになろうとする愛。色欲、と言っても差し支え無いかもしれない。
 忘れたわけじゃない。前の主人に対して恋焦がれ、溢れる想いに狂っていた日々を、私は決して忘れてなんかいない。そして、あの身を引き裂かれるような別れは、今でも思い出す度に苦しく切なくなる。
 衝撃が風化し、自分の中で整理できるようになるまで、それなりの時間がかかった。薄れ行く想いに悲しみ、思い出せばまた人知れず心で泣いていた日々。
 そんなあの頃を忘れていたわけじゃない。けれども、私はまた恋をしてしまっていた。浩介さんを初めて見た時、私はあの人と同じ雰囲気を感じて、驚いた。それでも努めて平静を装っていたけど、接する度にどうしようもない気持ちが湧き上がり、次第に私の自制心は薄れ、恋焦がれた。何のかんのと言い訳を重ね、求めた。
 だけど、どうしたってもう、浩介さんを振り向かせられないだろう。浩介さんの瞳はもう、水花さんを捉えて離しはしないだろうから。
 さっき二人に会った時、苦しい程それが伝わった。寄り添う二人を見た途端、あぁもう私はダメなんだなと思った。浩介さんの瞳もそうだったけど、それよりも水花さんの瞳、あの瞳を見た瞬間、私の頭は白く痺れた。
 メイドでいるよりは女である自分を、私はいつもどこかで優先させてきた。仕事は仕事、だけど私は自由な想いのままでと。だから恋をした時、誰にも負けないつもりでいた。
 メイドだから諦めるんじゃない、一人の女として負けたから諦めるのだ。
 必死にそう思い込もうとしたが、遥はとめどなく溢れる涙を止められず、膝に顔を埋め、静かに泣いた。
 いつでも次のことは考えないようにしているからこそ、今に対して、泣き続けた。

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