三十七.

 寒い。
 寝惚け眼を再び閉じながら、布団を手繰り寄せる。寝る直前まで暖房を点けていたとは言え、やはりアトリエは冷える。肌に触れていなかった部分の布団が、仄かに冷たく、また心地良くもある。
 しばらく布団にくるまっていたが、どうも眠れそうにはなかったために、深く息を吐いてから体を起した。ゆっくりと体に感覚を取り戻しながら、窓の外を見る。雨は止み、陽が薄明るく射しており、気分の良い一日の始まりを思わせた。
 着替えを済ませ、しばらくぼんやりとしてから、絵筆を執った。今日は悪夢を見なかった。随分久し振りに、うなされず寝ていられた。代わりに見ていた夢は、旧友と様々な場面で遊んでいる、取り留めの無いもの。たったそれだけのことなのに、筆が進む。気持ち良く想いを重ねられる。
 完成に向かう楽しみがある。想いが形になる喜びがある。そうして、終わらせたくない寂しさがある。大いなる矛盾に苦笑しながら、浩介は黙々と描き続ける。
「腹減ったな」
 昨日はカップメン一つだけ、今日はまだ何も食べていない。起き抜けはそうでもなかったが、幾らか経つと、空腹に集中力を奪われた。
 筆を置き、とりあえず戸棚を覗いてみた。カップメンが幾つかあるものの、朝から食べる気にはなれず、かと言って遥さんに会うのも気が引ける。昨日の今日だ、会わない方がいい。
 そのまま絵を描こうか、それとも寝ようかとも思ったが、そんなことをしても何の解決にもならない。ともかく外に行こう。コンビニで何か買ってもいいし、外食でもいい。
 アトリエを一歩出ると、冬の匂いがした。もうすぐ秋も終わるのか。つい先日まで暑くて仕方なかったのに、早いものだ。庭木をゆっくりと見回し、裏口へと向かう。
「おはようございます」
 アトリエからでは見えなかったが、遥さんが裏玄関先を掃除していた。遥さんは心持ち沈んだような表情で、だが明るく声を掛けてきた。俺はそんな遥さんに何も言えず、顔すらまともに見れず、黙って裏口を出ようと出ようと歩を進める。
「お食事はいかがしますか」
「あまり減ってないから、いいよ」
「でも、朝ゴハンは食べた方がいいですよ」
「減ってないから、食べなくてもいいんだ」
「ですが、何か軽くでも食べた方がいいですよ。少しでも食べないと、体壊してしまいますから」
「食べたくないって言ってるだろ、しつこいな」
 堪え切れずに、つい語調が険しくなる。浩介は立ち止まり、苦々しく足元を睨んでいたが、やがて舌打ちを合図に歩き出した。浩介が裏口を出ようとしたところで、遥が一歩前に出たが、遥は唇を真一文字に結び、固く拳を握り締め、うつむき立ち尽すだけだった。
 嫌な気分だ。ほんの少し前までは季節の移ろいに心穏やかになり、今日一日が美化された過去のような、甘いものになるような気にさえなっていたのに、遥さんに会った途端、こうだ。挨拶され、ただ少し心配されただけなのに、俺は妙に揺らいだ。苛立ちや気まずさの中に、求めたい欲求が生まれた。
 まだ俺は切り離せないでいる。遥さんを逃げ場のように考えている。そんな自分が見え、堪らなく嫌になり、振り払おうとすれば、ああして冷たくしてしまう。こんな俺だから、今まで流されるままだったんだ。
 考える程に気が重くなってきた。どうも考えると言うものは、自分を悪い方へと持って行きたがる傾向にある。答えの出ない問いなどに、今は思い悩みたくない。今は、そう、何を食おうか。それだけでいい。
 コンビニで買っても、食べる場所に困る。外で食べるには寒いし、寂しさをいたずらに募らせるだけだ。アトリエに戻ると、きっとまた遥さんと一悶着起してしまいそうだ。
「ファミレスにするか」
 空腹のせいであまり動きたくはないのだが、バスやタクシーを使う距離でもない。のんびり歩きながら、汚れた街路樹やすれ違う車などを眺めていると、何もかもが漠然とした気持ちになり、楽になってくる。
 時間のせいか、目の前で停まっているバスから降りる人も少ない。一瞥するとまた僅かに視線を落とし、もうバスに気を留めずに通り過ぎようとしたら、
「浩介」
 水花だった。このバスに乗っていたのだろう、少し驚いたような、嬉しそうな顔で俺に微笑みかけてくれた。
「今から行こうと思ってたんだ。浩介、外に出てたんだね。よかった、すれ違いにならなくて。もしちょっとでも遅かったら、無駄足踏むとこだったよ」
 そんな水花を見ていると、俺の頬も自然と緩んできた。
「ところで浩介は散歩なの」
「色々あって、ファミレスでメシでも食おうかと」
「家で食べなかったの。遥さんはどうしたの」
「その遥さんと顔を合わせるのが、どうもね。水花にその話もしたいし、何より腹減ってるから付き合ってくれないか」
「うん、わかった」
 ファミレスに入り、ひとまず浩介が食事を済ませると、コーヒーを飲みながらその会話が始まった。食後一杯目のコーヒーを飲み終えるまでは、何となく話しづらそうにしていた浩介も、二杯目に口をつける頃には観念して、重い口を開いた。
「何から話せばいいのか、自分でもよくわからないんだが、とりあえず水花には遥さんのことから話そうか。軽蔑してもいい、俺はそういうことをしたんだから。でも、落ち着いて最後まで聞いていて欲しいんだ」
 ただならぬ前口上が、水花の顔に緊張を走らせる。それを確認してから、浩介は先を続けた。
「さっき俺は遥さんと顔を合わせづらいと言ったけど、それは俺が遥さんと関係を持っていたからなんだ。昨日水花とああなるよりも前に、俺は遥さんを抱いた。それも一度きりじゃない。何度も、な」
 悲しそうに頷く水花を見ているのが辛く、俺はいっそうつむいたまま全てを話そうかと考えたが、それは逃げだ。水花と向き合わないと、俺はこの問題を解決できなくなる。
 水花は言葉を待っている。そうだ、辛いのは俺だけじゃないんだ。必死に感情を堪えている水花に、俺は話を続けた。
「初めて遥さんとそう言うことになった日、俺は情緒不安定とでも言うのかな、とにかく色々なことがあって、疲れていて部屋にいたんだ。そうしたら遥さんが入ってきてさ、色々悩みを聞いてくれているうちに、つい……。いけないことだとはわかっていたさ、幾ら遥さんがいい人だとしても、そうして求めるのは。やめようと思った。それきりにしようと思った。だが、俺は事ある毎に、遥さんと体を重ねていた。その度に、俺は罪悪感を募らせた。水花やみおの気持ちを知っていたし、遥さんの気持ちも知っていたから。けど、いつまでも答えを決めかねては、都合良く俺はその体を抱いていた」
 気を抜けば荒いでしまいそうな語調を、何とか整えながら、努めて淡々と遥との関係を吐露していく。歯を食い縛っているのか、水花の顔が一層強張っている。浩介は申し訳無さそうに視線を落としたが、すぐにまた水花の瞳を見詰めた。
「今更こんなこと言っても信じてもらえないだろうが、俺には水花が一番なんだ。色々あったけど、ようやく俺は水花を愛しているんだと気付いた。昨日のことは気の迷いでも、偽りでもない、本当に水花とああしたかったんだ。それだけは、信じて欲しい。いや、例え信じてくれなくても、これが俺の気持ちだと知って欲しい」
 しばし無言で見詰め合っていた。ざわついた店内の音が遠い。互いに瞳しか見えない。重苦しく、清々しい程に悲しい雰囲気。
「ねぇ、浩介」
 ふっと水花の顔から強張りが消えた。
「私さ、正直どうしていいか、わからない。怒っていいのか、泣いていいのか、それとも本当に軽蔑すればいいのか、わからない。でもね、そんなのどうでもいい。過去は過去、今更どうこう言っても変わらないんだから。昨日も言ったけど、私は浩介が好き。それは今の話を聞いても、変わらない。ううん、浩介から愛してるって言ってくれた。それで、もういいの」
 何も言えなかったのは嬉しかったからじゃない、ましてや逃げたわけでもない。ただもう苦しくて、胸が詰まって、溢れる様々な想いを言葉にできなかった。
「浩介だって、こんなこと私に言うのは、きっとすごく辛かったんだと思う。でも、浩介は私にちゃんと言ってくれた。それが嬉しいんだよ」
「ありがとう」
 ようやくそれだけ言えた。そうして俺はコーヒーを啜ると、静かに目を閉じ、僅かにうつむいた。
 こんなにいい奴なのに、どうして俺は今まで向き合おうとしなかったんだろう。前からその気持ちを知っていたはずなのに……いや、やめよう。今は過去を振り返る時ではない。逃げずに前を見るんだ。
 目を開けば、水花が微笑んでくれていた。俺はそれに自然と微笑みを返せた。
「隠し事はしないで、抱えている悩みがあったら私に言ってよね。私もそうだけど、一人だと大き過ぎる問題から、つい逃げちゃう。そんなことをしても、事態が悪化するとわかっているんだけど、そうしちゃう。でも私達はもう一人じゃない。一人じゃダメなことも、二人一緒だと向き合えられる。解決できることだってあると思うの」
「そうだな」
 水花の言う通りだ。俺はもう一人じゃない。二人でもどうにもならないことだってあるだろうけど、それでも一人で抱えるよりは、道が開けるだろう。
 目を背けてしまいたい程の問題、存在を忘れてしまいたい程の問題は多い。しかし逃げる程に、それは手におえない大きさとなる。生きていくことは、戦うことだ。戦うことは逃げないこと。向き合い、直視し、受け入れることが勝利への道。
 俺は今までずっと、逃げ続けていた。そうしていつも負け通し、いつしか自分に自信を無くしていた。でも、もういい。俺は充分負け続けた。そろそろ一度くらい勝つ頃だ。そのくらいの権利は、生きている以上あるべきだ。そうだろう。
 浩介は冷めたコーヒーを飲み干す。
「それで浩介、まだ何かあるんじゃないの」
「あぁ、実はな」
 遥さんのことを話した時のような迷いや、怯えのようなものは少なかった。父さんの死、これからの生活、自分の将来、そして養子だったこと全てを話した。何もここまで話すことも無いだろうと途中で思ったが、話しているうちに自棄にも似た気持ちだろうか、次第に驚き狼狽する水花を、もっと見たいと思っていた。
 覚悟を決めていたであろう水花も、次々と語られる浩介の抱えていた悩みに、色を失っていく。そうして話し終わると同時に、水花は力無く首を横に振り、重苦しい息を吐いた。
「そう、だったんだ」
「話し過ぎたな、悪い」
「いや、いいの。それよりも」
 目元を手の甲で拭った水花は居住まいを正すと、僅かに浩介の方へ身を乗り出してきた。
「それをどうするか、だよね」
 話し合ってみたものの、今ここで解決とまでは行かなくとも、検討できる問題すら少なく、どうにか話し合えたのはみおや遥のことについてだった。
「きっぱりと断らないと、面倒になる。いや、もう既にそうなってしまっているんだろうけどな」
「断るって、何するつもりなの」
「何するって、それをどうしようかと」
 先程からずっと考えていても、答えは一向に見えてこない。水花と付き合うことになったから云々と言うのは、野暮を通り越してバカだ。かと言って、他には一体どんな方法があると言うのだろうか。
「別に何もしなくてもいいじゃない」
 しれっと言いのけた水花に、浩介が瞳でその理由を訊ねる。
「特別なことなんてしないで、私達が普通に一緒にいれば、解決すると思うよ。言葉にするのは大切なことだけど、何でもかんでも言葉にしなくたって平気だよ。あれもこれもしなきゃいけないって考えるから、結局どれに手をつけていいのかわからなくなって、こじらせちゃうんだと思う。ほら、もっと浩介は色々なものを信用してよ」
「信用ねぇ」
 本当にそれで済むのだろうか。水花の言うように、俺は自分で難しく考え過ぎているのだろうか。
 未来への意欲も、選んだことの無い方法には尻込みしてしまう。賛同しかねている浩介に対し、水花がにっこりと微笑む。
「そろそろ出よっか。それでさ、これから浩介の絵、見せて欲しいな」
「いや、でも……」
 家には遥さんがいる。なるべくならば、水花と一緒にいる姿を見られたくない。しかし、水花との関係は隠し切れるものではないから、これを機にとの考えもある。けれども……。
「ほら、行こうよ。いつまでもここに居たって、変わらないんだからさ。何も怖がることなんて無いんだよ。だって私達は、人に恥じるような関係じゃないんだから。そうでしょ」
「そうだな」
 何を臆しているのだろう。何に臆しているのだろうか。誰からも祝福される二人なんて、幻想でしかない。現実を見ろ。少なくともここにいる理解者がいれば、それで充分じゃないか。
 戦うと誓ったばかりなのにな。
 苦笑を浮かべながら、浩介は席を立った。
 幾ら戦うと言っても、無意味に正面切って仕掛けるつもりは無い。普段通りにするだけでいい。それでも裏口から向かうだけの行為に、俺は得も言えぬ緊張感に苛まれながら、歩を進めていた。
「あ、浩介さん」
 庭掃除をしていたのか、アトリエから少し離れた正面玄関の方にいた遥が、浩介を見るなり掃除の手を止め、近寄ってきた。
 だが、すぐに遥の足が止まった。庭木の陰に隠れていて見えなかったのか、水花を見るなり遥からすっと笑顔が消えた。
 そっと水花が浩介に寄り添う。浩介はそんな水花の仕草に、体を強張らせたものの、努めて平素に遥に微笑みかけた。
「いらっしゃい、水花さん」
 一瞬悲しげな瞳をしたのは、気のせいだったろうか。一礼し終え、顔を上げた遥さんは、いつものように落ち着いた微笑みを湛えていた。
「アトリエの方へ?」
「そう。絵を見たいって言われてね」
「そうですか。では、私の方はまだ掃除がありますので、これで失礼させていただきますね」
 踵を返した遥は、元いた場所へ特に急ぐわけでもなく戻る。
「あ、そうそう。お茶とかはいいから」
「はい、わかりました」
 アトリエに入ると、とりあえずいつもの場所に座った。水花はベッドに腰掛けている。重く冷えた空気が、カビ臭いアトリエを更に陰鬱なものにさせているけれど、逆にこの雰囲気こそが落ち着きを与えてくれていた。
「何とかなったでしょ」
「強いな、水花は。俺は水花が寄り添ってきた時に、どうしようかって困っていたよ」
 今まで水花を強い人間だとは思っていなかった。いつもみおの後ろにいたし、存在感もそれほど大きくはなかった。なのに、いざとなればこうだ。長い付き合いなのに知らなかったなんて、俺は今まで一体何を見てきたんだろうな。
「でも、あれでいいのかな」
「人によるんじゃないかな。さっきのような感じを見て諦める人もいれば、どこまでもって人もいるし」
 その、どこまでもってタイプを考えると、気が重くなってきた。遥さんやみおは、一体どうなのだろう。
「考えても、答えなんて出ないよ、きっと。それより絵を見せて欲しいな」
「あぁ、これだよ」
 イーゼルに立て掛けられたキャンバスを顎で示すと、水花が側により、しげしげと観始めた。さすがは経験者と言ったところであろうか、絵を見た途端に目付きが変わった水花を見て、浩介も満足そうに目を細める。
「浩介の絵、暖かくなったね」
 絵から浩介へと、水花が視線を移すのと同時に、微笑みが生まれた。口付けの後に見詰め合うようなものではなく、頬撫でる風に出会った時のような柔らかさ。それを受けた浩介は、ようやくこの絵が間違ったものではなかったと思えた。
「今までは突き放すような感じがしていたんだけど、この絵には居場所がある感じがする。巧くは言えないんだけど、そういう雰囲気があるの」
「居場所か」
 抱え切れない程色々ある中で、俺はもしかしたら逃げ場を求めていたのかもしれない。そう、そんな絵でもいいのかも、いいのかもしれない。何も無理に芸術性だの、メッセージだのを伝えようと躍起になる必要は無い。自分の求めるがままに、描けばいいんだ。
「今度は無理せず、そういうのを描いていけたらいいな」
「できるよ、浩介なら」
 今度は恋人達の微笑み。そして水花は吸い寄せられるように、浩介に抱きつく。浩介の方も、そっと水花を抱き締め返す。
「どうしたんだよ、水花」
「どうもしないよ。変かな、こういうの」
「いや、嬉しいよ」
 普段なら恥ずかしくて、到底言えないような言葉も、今なら心地良さを伴って言える。不思議なものだ。昨日抱いた時とはまた違った安寧がある。幸せの刺激、安心の胸騒ぎとでも言ったところだろうか。あぁ、何だかそんな理由付けすら、この心地良さの前では不粋に思えてきた。
 思考の放棄ではない。言葉の枠に収めたくないだけだ。水花と抱き合っている、そうして胸が疼く。それで充分なんだ。
 好きなんて、そんなものかもしれない。
 俺はそっと、水花の髪を撫でた。

36へ← タイトルへ →38へ