三十六.

「ただいま」
 自分にしか聞こえない程の小さな呟きと共に、浩介はそっと玄関のドアを開けた。
 遥さんは寝たかな。電気が点いているのは、いつ俺が帰ってきてもいいように、点けっ放しにしていたのだろう。ともかく、着替えて寝よう。今日は色々疲れた。
 重い体を引き摺るような足取りで、居間を通り過ぎようとしたところ、突然台所から遥が出てきた。遥は浩介を見るなり、ほっとした表情を浮かべ、胸の前で手を組んだ。
「おかえりなさい」
「あぁ」
 だが浩介は目を合わせずに、遥の脇を通り過ぎようとする。
「あの、お食事はどうしますか」
 小腹が空いているけど、今はもうこれ以上遥さんと接していたくない。あまり一緒にいると、きっとまたずるずると流されてしまう。折角ああも固い決意をしたんだ、一時の雰囲気にいつまでも惑わされ、流されていたら、いつまでも俺はダメなままだ。
「外で食ってきたから」
 立ち止まらずに、俺は自室へと向かった。背に感じる遥さんの視線が辛かったが、これも新しい自分になるためだと、必死に言い聞かせ続けた。
 着替えを済ませ、ひとまずベッドに腰を下ろすと、浩介は自分の体臭を確認し始めた。水花との情事の後にシャワーを浴びたとは言え、残り香があるかもしれない。こういうものは、女の方が敏感だ。遥さんなら、気付くかもしれない。そんな罪悪感にも似た焦りが、心を蝕んでいた。
 しばらくして、やめた。幾ら嗅いでみても自分の匂いしかしないし、別に何をしたのかわかられたって、かまわない。その方が遥さんもきっと、手を引いてくれるだろう。それに、今気付いたが、傘がある。少し汚れたあの傘は、どう見ても今日買ったものだとは、思われないだろう。
「何だっていいか。溜め息ついても、何も変わりはしないさ」
 階段を降りると、台所からいい匂いがするのに気付いた。先程は少し混乱していて、そこまで気が回らなかったが、今になって何も食べていなかったがために、食欲がそそられる。考えてみれば、今日はまだ何も食べていない。腹が減っているのも、当然だ。
 いっそ頭を下げて、何かを食べようかとも思ったが、やめた。会えばずるずると流されてしまうだろう。気の毒だと思って接していると、またいつの間にか求め焦がれる。俺の悪い癖だ。幸いアトリエには、幾らか食べ物がある。それで今日を凌げるはずだ。今日を凌げばきっと俺も落ち着き、明日からは水花だけに目を向けられるだろう。
 しかしどうして家人の俺が、使用人の遥さんにここまで遠慮したり、気遣ったりしなければならないのだろうか。理不尽だ。
 アトリエに着くなり、浩介は冷蔵庫を覗いたが、特に何も無かった。仕方無さそうに戸棚からミニカップメンを取り出し、湯を沸かす。
 食べ終えると大分気持ちが楽になったが、ベッドに入っても眠れないだろう。そう判断した浩介はキャンバスに向かい、絵筆を執った。描きかけの絵。一見どこが変だとか言うべき箇所は無いが、何かが足りない。
 今朝まではそれが何なのかわからなかったが、今ではそれがわかる。そう言えば少し前も、こんな感覚を得られた。これからどんどん描けそうだ。
「あぁ、そうか、そう言うことか」
 想像を最も膨らませるのは、体験だ。同じ繰り返しの日々は、いずれ持っている力を枯渇させる。人によってその許容量は違うけど、刺激が無いとダメになる。変わらぬ世界に磨耗されてしまう。
 先輩が働けと言っていたのも、きっとこういうことなのかもしれない。アトリエに閉じ篭り、黙々と絵を描いていてもダメなんだ。今回は俺が動かなくても、色々起きた。だが、いつまでも待ちの姿勢ではいけない。時間は限られている。無駄に日々を過ごすよりは、この殻を破って外へ出なければいけない。
 思えば俺はいつもアトリエに閉じ篭って、外界から離れていた。何も変化の無い毎日の中で、俺は集中すればいい絵が描けると信じていた。訪れる水花やみおと接していれば、それで充分だと思い込んでいた。
 だが、絵は描けなかった。描いても描いても納得がいかず、次第に完成する前にやめてしまうようになり、いつしか幻聴を覚えるようになった。あの罵詈雑言を聞いているうちに、俺は描けないこともあって、生来それ程持ち合わせていなかった自信を、更に削るようになった。気付いた時には、俺はもう外へ向かう力を完全に奪われ、ただ漫然と絵を描いていた。
 言い訳を重ねていたのは、そんなみっともない自分を隠していたかったからだ。分別あるようなフリをしては重みのある人物を装い、そうしてその日その日を誤魔化していた。
 しかし、今日わかった。もうわかった。幾らそうして逃げていても、逃げ切れるものではないと。そうして向き合ってみて、初めてわかった。大変な事は多いが、外の世界は考えていたよりも怖くない。俺は自分の想像の恐怖に、過剰に怯えていた。それこそ一歩外を歩けば石を投げられ罵られ、挙句死ぬのではないかと。
 バカバカしい。俺はいつも人に頼ってばかりだと思っていたが、その実、誰をも信用していなかった。助けられても、心の片隅でその相手を無能な人間だと決めつけていた。自分を幾ら蔑んでも、同等だと思いたくなかった。色々劣る俺だけど、きっと素晴らしい才能があるんだ。貴様らと一緒にするな。そう思っていた。
 それもこれも、自分の世界を守りたかっただけなんだ。しかしその世界も、優れているものではないばかりか、俺をダメにするものだと知った。外へ出よう。最初のうちは戸惑うだろうが、きっと楽しく安らかな場所だってできる。絶望しか無いと思えば、どれもそう見えてくる。大切なのは、そこにある幸せを膨らませることなんだ。何でも無いものに価値を見出すことが、恐れない一歩となる。幸せの一歩となる。
 自然と笑みがこぼれた浩介は、絵筆を走らせ始めた。色々あって疲れており、体はだるく腕が重いけれど、楽しいと思えた。世間体も賞への憧れも何もかも消え、ただ描ける喜びに打ち震えていた。
 忘れかけていた。絵を描くのは純粋に楽しく、自分の目的であること。いつもこの喜びを思い返しても、すぐに日常の堆積に消されてしまう。ふとした弾みで生まれては、失う純粋な気持ち。いつも何か理由を付けがちになっている俺。
 俺は絵を描かなければいけない。描き続けていなければいけない。そうしていないと、生きている意味が無いばかりか、この何もせずとも過ぎ去る日々を冒涜しているのかもしれないと、いつしか思うようになっていた。変な義務感に捕われていた。自分で重い枷をはめては、無意味な苦しみに悶えていた。
 だがそんなものは、絵をつまらなくする。絵ばかりか、人間をも小さくつまらないものにさせる。自分で限界を決め、その枠に収まってしまう人間に。限界は自分で決めた時に生まれるものだ。俺はいつしか限界を決め、縛り過ぎては諦めの道を進んでいたのだろう。
「誰も何も言ってないのにな」
 勝手に決めてはへどもどし、傷付き、空を見上げ涙する自分が、いつも愛しかった。それ故、俺はあからさまに苦しんだ姿をいやらしくも見せては、心中ほくそえんでいた。
 きっとそれはそうすることによって、誰かが俺を見てくれはしないかと、考えた末の行為なのだろう。考えたと言うよりは、無意識だろうか。どうでもいい。ともかく、俺は俺を見て欲しかった。上辺だけじゃなく、全てを。
 水花。
 もう今は誰かにじゃない、水花に見てもらいたい。水花にだけでも、俺の力を認めてもらいたい、がんばりを褒めてもらいたい。賞は確かに欲しいけど、それも今では些細な事のように思える。
 気付けば頬が緩んでいた。肩の力も抜け、カビ臭く重い雰囲気のアトリエすら、居心地の良い空間に感じられる。俺は穏やかな気分で、思うままに筆を走らせる。
 小気味良く走る筆も、突然のノックにより止まった。浩介はドアの方へ目を遣るが、応えない。しばらく黙っていると、またノックが響いた。
「あの、よろしいですか」
 やはり遥さんか。しかし今は会えない。会ってはいけない。
「絵に集中したいから。で、何だい」
「お食事は、本当によろしいんですか」
「もう済んでるから」
「では、お茶でも淹れましょうか」
「いいから、今日はもう休んでも。一人で描きたいから、集中させてくれ」
 少し強い語調で言えば、たおやかな雨風の音だけとなった。沈黙が気まずさを作り出し、決意が僅かながら揺らぐ。自分は何も悪くない。そう強く思っていても、静寂が浩介を今にも動かそうとする。
「わかりました。それでは、おやすみなさい。ですが、決して無理はしないで下さいね」
 力無さそうに遠ざかる遥さんの足音に、俺は思わず泣きそうになった。自分で決めた道なのに、永遠の別れでは無いのに、どうして側にいるのにこうも悲しくなるのだろうか。仕方の無いことだとわかっているのに、何故に強い罪悪感が胸を苛むのだろうか。
 割り切れる力があれば、もっと楽に生きていけるんだろうな。だが、そうなれば俺はきっと絵を描けなくなる。
 苦笑しながら、迷わないよう心に水花を浮かべ、浩介は再び筆を走らせた。昨日よりも良い絵を描くために。明日も描けるように。

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