一人遅い夕食を終えた姉に、優美はいつもと違った雰囲気を感じていた。
「何かあったのかな」
今日は雨だったけど、前から約束していた友達とカラオケに行ってきた。夕方には帰るつもりが、ついついゴハンを食べたり、友達の家で話し込んでしまったため、帰りが遅くなってしまった。
そんなわけで、お姉ちゃんとは半日程会っていないんだから、何があったのかなんて、全然わからない。ただ、帰ってきたらどこか雰囲気が違っていた。いつものお姉ちゃんとは、どこか違う。そのせいで、今もまだ少し戸惑っている。
でも私、今のお姉ちゃんは嫌いじゃない。前よりも楽しそうで、幸せそう。きっと何か、いいことがあったんだろう。幸せそうな人が近くにいれば、自分も段々とそんな気分になってくる。私は素直に祝福したい。
でも、何で胸騒ぎがするんだろう。
「気にしたって、しょうがないや」
優美はごろりとベッドに寝転ぶと、テレビを点けた。見慣れたコメディアン達が、今日も笑わせてくれる。何だか気になる心のしこりも、テレビを見て笑っているうちに、いつしか忘れていった。
だがそれが終わり、ニュース番組になったところでテレビを消すと、また心のしこりがむくむくと湧き上がってきた。静かだと余計なことを考えてしまう。そう思い、お気に入りの音楽を流す。スローバラードではなく、少しアップテンポ気味な曲。幾ら姉とは言え、深入りしてはいけない。気にし過ぎるとどっちもダメになると、自分に言い聞かせながら、優美は歌を口ずさんでいた。
それも長くは続かなかった。二三曲流れる頃には、すっかりしこりの方が大きくなっていた。優美は体を起して枕を抱くと、じっと隣の水花の部屋を、壁越しに見詰めた。
「何でこんな気分になるんだろうな」
深々と溜め息をつくと、そのままころりと横になった。どうしてこんなに、もやもやするんだろう。このまま寝ようにも、きっとダメかも。
「って、何でこんなことで悩んでいるんだろう。会って、何かあったのか訊けばいいだけなのに」
難しく考えることは無い。何かあったのか訊くだけなのに、何を私は悩んでは遠慮しているんだろう。バカみたい。
早々と部屋を飛び出した優美は、水花の部屋の前に立つと、深呼吸してからノックした。
「なぁに」
軽やかな響きの姉の声が、聞き慣れているはずなのに、どこか戸惑いを生んだ。
「入っていいかな」
「いいよ」
部屋に入ると、いつもと違った感じがした。匂い、だろうか。部屋の配置は何も変わっていない。だけど、どこか違和感がある。
気にし過ぎだよ。
自分に呆れ、お姉ちゃんの方へと向ける。お姉ちゃんは机に立てていた肘を崩すと、優美の方を向いて、莞爾として目を細めた。そのどこかぞっとするような優しい笑顔に、優美は出す足を止めた。
「どうしたの」
「ん、いや、ちょっとね」
優美は水花のベッドに腰を下ろすと、もう一度ゆっくりと部屋を見回した。ラッセンのポスター、タンスの上のぬいぐるみ群、机の上のガラス製の小物、五百ピース程の子犬のパズル、漫画本など、どれも見覚えのある物ばかり。
何だろう、何が違うように思うんだろう。
そんな優美に水花が何か勘付いたのか、くすりと笑ったのが、優美の視界の片隅に見えた。
「そうそう、このCD聴きたいって言ってたよね」
水花はCDラックから一枚取り出すと、優美に手渡した。どぎまぎしながら受け取った優美は、それを傍らに置くと、じっと水花を見詰める。
「あれ、もしかしてもう必要なかったかな」
「ううん、そんなことない。ありがと」
「他に何かいる」
「特に今は無いかな」
何気無い会話が、何だか重苦しい。そうした原因にしているのは、私なんだけどさ。
「しかしよく降るねぇ」
「昨日からでしょ。ここは浸水なんてことは無いけど、やっぱり気が滅入っちゃうもんね。友達と出掛けていたんだけどさ、傘さしていても肩とか濡れちゃって、大変だったよ」
「風邪、ひかなきゃいいけど」
すっと水花の視線が落ちた。
「そんなに濡れていないから、大丈夫だよ。帰ってからすぐ着替えたし」
「あ、うん、そうだよね。優美も風邪ひかないようにしなさいよ」
私もって、何だろう。
ふとそれに引っ掛かりを覚え、私はまたお姉ちゃんをじっと見た。
「どうしたの、さっきから人の顔、じっと見て。何かあるの」
見過ぎたかな。言われてばつが悪くなり、私はついと視線を外して、首を横に振りかけたが、更に気まずくなりそうな気がしたので、また目を合わせた。
相変わらずお姉ちゃんは機嫌良さそうに、にこにこしている。嬉しいってだけじゃない笑顔。怖いくらいに幸せそうな顔。そう、その怖さを知るために、私はここに来たんだった。
訊いてはいけないのかもしれない。心ではわかっているのに、何故か意志とは裏腹に、口が開いていた。
「何だか今日のお姉ちゃん、すごく嬉しそうだけど、何かあったの」
「え、別に何も……」
そう言うお姉ちゃんを見ていると、やはり何も無いようには思えない。きっと何かあったはずだ。
お兄ちゃんのことだろうか。きっと何か進展でもあったのだろう。そうだ、きっとそうに違いない。私のいない間に何かあったんだ。だからこんなにも、機嫌がいいんだ。
でも、あまり詮索するのはよくない。深追いし過ぎると、折角いい感じのお姉ちゃんに負担を与えるかもしれない。お兄ちゃんのことかと下手に訊いたら、気を悪くするかもしれない。
「ま、いいや」
優美が気持ち良さそうに微笑むと、水花も同じように返した。これでいいんだ。この笑顔で充分なんだ。そう納得してみたが、やはりどうしても一つだけ、たった一つだけ、優美は笑顔の水花に対して訊きたいことがあった。
「あのさ」
「どうしたの、改まって」
「お姉ちゃん、今さ……幸せ?」
ややしばらく呆然としていた水花も、声を立てて笑い始めた。
「突然何を言い出すかと思って聞いてたら、何それ。どうかしたの、優美」
だが優美は表情を変えず、じっと水花の瞳を見続けている。
「変なの」
それでも優美は、変わらず見詰めている。水花は呆れたように微笑みながら、視線を外した。
「うん、まぁ……幸せだよ」
言い終えてから少し照れたようなお姉ちゃんを見て、私はようやく納得できた。もう以前のお姉ちゃんとは違う、進む道をはっきりとわかっている。私が色々心配しなくても、お姉ちゃんは幸せになれる。いや、もう幸せなんだ。
「そっか。うん、じゃあこのCD借りていくね。おやすみ」
自室に戻った私はベッドに転がるなり、嬉しさのあまり笑みがこぼれた。もう訊かなくてもいい。はっきりと口にしなくてもいい。ただもう安心しながら、私は借りたCDを聴くことにした。
明日は晴れるように、そう願いつつ。