三十四.

 雨脚は大分弱まっていた。水花と別れた浩介は、もらったビニール傘をさしながら、一人夜の公園のベンチに座っていた。電灯が雨に濡れた世界を妖艶に彩り、ぼんやりとした視界なのに心惹かれていく。いや、むしろそうだからこそか。判然としない。
 ともかくわかることは、濡れたベンチが尻に冷たい。これだけは確かだった。
「十一時か、遥さん心配しているんだろうな」
 言葉とは裏腹に、浩介の頬が僅かに緩んだ。そうして深く息を吐くと、見なれた公園をゆっくりと見渡しては、電灯近くの輝く雨の先を眺めていた。
 今も鮮明に蘇る、水花の感触。目を閉じなくても、あの温もりや感覚が生々しく再現される。間近に迫った冬の匂いの中に浮かぶ、水花の匂い。もし目を閉じ、また開けば、そこに水花が立っているかもしれない。いや、もしかしたら後ろにもういるのかもしれない。そんな幻想すら抱いてしまう程に、まだ強く体に刻み込まれている。
 手に集中すれば柔肌、唇に集中すれば唇、そして体に温もり、股間には水花直接の熱が喜びと罪悪感を伴って、一層この雨の情景を感慨深くさせる。
 遥さんを抱いた時とはまた違った安堵、快感、そして胸に込み上がる、所謂幸福とでも言うべき感情が確かにある。全くとまではいかないが、その性質が違うんだ。
 初めてだったからだろうか。水花を抱いた時は、ある程度の慣れがあったから、心に余裕ができて、そう思うのではないか。
 いや、それだけではないような気がする。では一体、何だろうか。
 遥さんを抱いた時、俺の心には途轍も無い安心が広がった。全てを優しく包んでくれ、許してもらえたような気分だった。例えるならば、母親に包まれているような、そんな感覚だった。穏やかな気持ちで、海に漂う感覚とでも言っても、差し支えないだろう。
 水花はと言えば、それとはまた違っていた。同じく包んでくれているのだが、どこか対等な、それでいて深いところまで繋がっている一体感。巧く言い表せないけど、そういう違いがある。
 一緒にいた時間のせいか、それとも人柄によるものなのかは、わからない。同じ人間ではないのだから、全く同じに感じるわけがないんだ。そんなことは、わかりきっている。だがそれでも、知りたいんだ。知って何か意味があるかと言えば、何も意味は無いだろうけど。
 無駄なことをずっと考えるのは、愚かなのだろうか。その違いの答えを知ったからと言っても、心変わりしないだろう。それでも俺は、今までの人生の中で、初めて実感できる優しさを二つも手にした。そのあまりの大きさに、正直戸惑っている。何か明確な理由でも無いと、それが泡のように消えてしまいそう。そんな不安もあった。
 風が出てきた。傘を持つ手もすぐに冷たくなり、交互にポケットに入れて暖める。思わず溜め息をつけば、僅かに白んだ。
 少し前まで深く繋がり合えたのに、互いの気持ちを温もりの中で堪能し合えたのに、今はただひたすら寂しい。
「寂しい、か」
 互いに確かめ合って、こんなに寂しいんだ。叶わぬ気持ちを抱き続けているみおの寂しさは、きっと考えるに及ばないだろう。
 知ってしまった辛さ、知らずに抱き続ける辛さ、一体どちらがましなのだろうか。
 これこそ愚問だ。答えなんて出ない。けど、人はどうしてそんなことに、必死で悩むのだろうか。変わらないと知りつつ、過去を眺めるのと一緒。バカだな。
「一番バカなのは、俺だよ」
 みおの気持ちはわかっている。遥さんの気持ちだってわかっている。だから、遥さんを抱いた。それも一度ではなく、何度も。二人がこんな俺をあんなに想ってくれているのは、悪い気がしてならない。幻想に目を奪われ、実像の俺を見ていないんだろうとすら思う。それでも、今まで求めていても得られなかったものを、与えてくれているんだ。俺は幸せ者だ。
 だけど、それでも俺は水花なんだ。俺の心はもう、水花を向いてしまっている。水花だけが、俺をわかってくれる。水花だけが、ついてきてくれる。水花だけが……他の誰よりも、俺を見ていてくれる。理由は無いし、確信も無い。はっきりそう約束したわけでも無いし、言うならば、誰も心なんてものはわからないんだ。自分自身のでさえも。
 それでも、そうだと思える。きっとこれが、繋がりなんだ。自信なんだ。
 怖くはない。何も怖くはない。遥さんがいる我が家に帰ることも、父さんが死んだことも、見えない将来のことも、出生のことも、周囲の眼も何もかも、受け止められる。受け止めてみせる。
「自信、闘争の勇気。俺に無かったものが、今こうして手を握った中にあるような気がする。大丈夫だ、きっと巧く行くさ」
 そう呟き続けながら、浩介は立ち上がった。そうして雨風の冷たさを噛み締める中で、心に水花を抱きつつ、家路を辿った。迷わないと、何度も自分に言い聞かせながら。

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