三十三.

 そろそろ十時になるけれど、未だに玄関が開かれる気配は無かった。アトリエの方にいるのかと思い、しばしば様子を見てみるものの、やはりいる気配は無い。
「大丈夫かな」
 遥は台所のテーブルに両肘を立てたまま、深い溜め息をついた。
 あの雨の中出て行ったきり、何の連絡も無い。子供じゃないんだから、平気だろう。そう思うものの、あんな状態だったんだ、平気なはずは無いだろう。不安ばかりが胸を占める。
 あれからずっと雨音の中、電話や玄関の開く音、それに足音一つも聞き逃さないように集中している。けれども、そのどれ一つも、耳に届かない。
 最悪の事態が頭をよぎる度、必死になってそれを振り払う。縁起でもない、そんな事を考えてはいけない。だけど、どうにもできないこの現状が、そこに目を向けさせる。
「本当に、どこに行ってしまったの」
 止められなかった自分が憎い。あんな心神喪失状態の浩介さんを引き止めず、そのまま行かせてしまったのは仕事上の、いや、私個人としてのミスだ。あのまま行かせれば、どうなってしまうのか、わかりそうなものじゃない。なのに、何もできなかった。ただ黙って、見送ってしまった。
 どうして止められなかったのだろう。どうして追い駆けられなかったのだろう。何故か体が動かず、声も出せず、ただ遠ざかる背中を見ているだけで、精一杯だった。
 肘を崩し、遥はテーブルに突っ伏す。
「はっきりしないのは、まだどこかで迷っているからなのかな」
 浩介さんと体を重ねたことは、後悔していない。自然とああなったのは、嫌じゃないってことだし、その後も一つになったけど、決して嫌な気分にはならなかった。それどころか、とても幸せな気分になれた。
 同情だとか、そんなのではないし、一目惚れのように一時的な盲目でもない。過去を引き摺った恋でもなければ、自分の寂しさからのものでもない。
 巧く言葉にできないけど、今この瞬間胸に広がる新鮮な気持ちを、もっと感じていたい。心惹かれるままに進み、共に同じ時間の中で、互いを確かめ合っていたい。
 津島家の財産が全て消えたって、どうでもいい。一緒に生きていくだけの分ならば、私が稼いだっていい。別にこれから抱かれなくてもいい。周りから蔑まれたっていい。そうは言っても私だって、そういうのはあった方が嬉しいし、できるならばみんなに祝福された二人でありたい。
 けれども、それは二の次だ。浩介さんの心に私がいれば、もうそれでいい。以前はそこまでの覚悟が無かった。だけど、今はある。周りに負けない覚悟が芽生えた。だから、みおさんにあんなことが言えたんだろう。
「でも、私は……あぁ」
 怖いんだ。どこかで怖がっている。恋が破れること以上に、私は戻れなくなってしまいそうなのを、怖がっている。あの時、浩介さんを引き止めてしまうと、心の片隅でもう戻れなくなると警鐘が鳴っていた。
 変な話だ。全てを失った浩介さんに、全てを捧げる覚悟があると思っているのに、戻れなくなることを怖がっている。一体どこに戻れなくなると言うのだろうか。
 メイドと言う立場にだろうか。周りが思う、私と言うものにだろうか。いや、そんな生易しいものじゃない。もっと根本的なものが、失われてしまいそうな気がする。
 そう、今までの自分、自分の全てを失ってしまいそうに思えた。浩介さんは一見すれば、気弱で優しい人。だけど、その奥には得体の知れない闇もある。底無しの崖。今、きっと私はその淵に立っているんだ。
 その底には何があるのだろう。パンドラの箱には希望があった。ただ、浩介さんは人間だ。必ずしも、その底にいいものがあるとは限らない。もしかしたら、どこまで行っても闇なのかもしれない。全てを捨てる覚悟でそこへ入り、結局自分の期待しているものが何一つ無いと知ったら、堪え難い絶望に心砕かれるだろう。
 それが怖いのかもしれない。どこかで抱いている幻想が壊されるのが怖くて、そうして私が壊れるかもしれなくて、怯えている。そこまでの覚悟は、まだ無い。
 ううん、覚悟だなんて難しく考える必要は無い。無いんだけど、どこかでそんな理由付けでもしないと、好きになっても進めなくなった自分が、確かにここにいる。
 水花さんやみおさんは、その闇へ入って行ける強さがある。それはずっと一緒にいたからこその勇気であり、若さなのだろう。私には、正直足りない。
 だけど、好きと言う気持ちで負けているとは思っていない。進めるのならば、理由でも何でも使う。言い訳して使わずに敗れ、一人泣くのはみっともない。私は私の持っているもの全てを使って、その崖の底を見よう。
 この気持ちはもう、先にしか進めないのだから。

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