エピローグ.

 穏やかな風と共に八分咲きの桜がちらちらと舞う。灰色だった世界が、ここ数週間で急激に彩り始め、目にも楽しい春が柔らかな匂いを乗せて広がっていた。誰もが春の息吹に何がしかの期待を抱いては、変わらない生活を望んでいる。
 また一陣の風。今度は少し強く、肌寒さを感じた。ともすれば、冬に戻ってしまいそうな錯覚すら抱かせる風だが、墓の前で黙祷し、手を合わせている浩介と水花は、眉一つ動かさず、ひたすら津島家祖先に対して冥福を祈っている。
 浩介と水花が互いを知り、認め合い、また浩介が親と言うものを知ったあの夜から、毎月一度はここに来て、こうして手を合わせていた。二人の成長の報告、そして薄れる想いを蘇らせるために。
「さて、と」
 目を開けば、彩り豊かな世界が広がった。見慣れたはずの色も、目を開いた瞬間には鮮やかな感動を生む。同時にまたすぐ感動は消え、日常へと立ち返る。何も残らない。
 そんなことをふと考えては、似合わないなと苦笑した浩介に、水花が何事かわからずとも、追従笑いを浮かべる。
「帰るか」
「そうだね。あ、帰りに団子買って行こうよ。今日は花見でしょ、だからさ」
「いいよ」
「なら早くしないと。一時からだから、あと一時間も無いよ」
「少し急ぐか」
 この辺を少し散歩してから帰ろうかと考えていたが、やむなくタクシーに乗り込むと、目的地を告げ、それきり俺達は黙り込んだ。
 あの日を境に自分を含め、周りも変わっていった。遥さんはあれから数日後、会社へと戻った。父さんが死んだため、契約更新をしなければならなかったのだが、それを行わなかったためだ。もっともそれは建前で、本当のところは互いに気まずくなったからだ。しかし、気まずいからと言っても、使用人である遥さんから関係を崩すことはできない。だから俺がそうした。
 気まずさからの別れだったが、憎しみや恨みなどは無く、離れてみて不思議な愛しさが芽生えた。水花に対してのそれとは違う、思い出を懐かしむようなもの。
 時折届く手紙の文面から、遥さんが元気にしているのが伝わってくる。初めは返事をするのを躊躇ったが、やがて俺の中で整理がつき、今までに何度か手紙を送った。交流は今でも続いている。
 みおの方はと言えば、遥さんよりもずっと気まずく、俺も水花もしばらく顔を合わせられなかった。不意に会った時も、互いに知らぬ振りをしていたり、話したとしてもぎこちなく、不快な沈黙を噛み締めた後で別れていた。
 しかしそんな状態も長くは続かず、幾らかの時間と会話が、新しい関係を築いた。以前のように牽制しながらではなく、どこか肩の荷を下ろしたような、楽な気分での付き合い。前の関係もそれなりに良かったが、どちらかと言えば今の方が好きだ。
 また、みおの方も彼氏ができたらしい。そのことを訊いても深くは教えてくれなかったが、今日の花見には一緒に来るとのことだ。その彼との時間を大切にしているらしく、俺のところへ来ることは少なくなった。寂しくないと言えば嘘になるが、それでいいと心から思える。
 変わったことは、何も人間関係だけではない、家のことについても大きく変わった。父さんが死んだため、津島家の莫大な財産は全て俺のものとなった。初めて知ったその資産の多さに、軽い眩暈を覚えたりもした。だがすぐに、それをどうすべきかと考えた。
 協議した結果、会社の経営権などはそのまま経営陣に任せることにして、俺は形だけの社長と言う形に収まった。本当はもっときちんとしなければいけないのだろうが、素人がいきなりできるものじゃない。サポートしてもらいつつ、その辺を少しずつ学んでいる最中だ。
 また、各地に点在する別荘の幾つかは相続税などの支払いにあてた。思い出の場所を、この手で手放すのは忍びなかったが、仕方ない。これからその分、増やしていけばいいんだ。
 そんなわけで、暮らして行く上でさほどの変化は無い。だけど、俺は働き始めた。と言っても、アルバイトだ。それは鎌田先輩の言葉の影響も確かにあるけれど、やはり水花のために、自分で稼いだと実感できる金が欲しかった。
 色々やってみて、思い出した。新しい一歩は、踏み出す前が一番怖いのだと。勇気を持ってその世界に飛び込めば、辛いことは確かにあるだろうけど、そんなに悪くは無いと改めて思えた。
 誰もが振り返りながら歩く。思い出を極度に美化したり卑下したりしながら、自分を周囲に劣らないよういとする。
 ただ一切は過ぎて行くのに……。
 団子を買って帰宅すると、花見の時間まであと十五分だった。だが、まだみおは来ていない。時間に遅れることは無いだろうから、もう間も無く着く頃だろう。
「浩介、手紙来てるよ」
 ポストを覗いていた水花が、浩介に一通の手紙を差し出した。
「遥さんからだ」
 いつも遥さんから手紙を貰うと、妙な不安と期待が入り混じった、不思議な気分になる。今回も多分に漏れずそんな気分になりながら、ともかく落ち着こうとアトリエに向かった。
 アトリエで一息つくと、俺は早速手紙に目を通し始めた。

 拝啓 桜咲き乱れ、舞い散る花弁に心奪われることも多くなってまいりました。  めっきり春らしくなったとは言え、まだ寒い日もあります。いかがお過ごしでしょうか。私の方は新しい契約を結べました故、心機一転、新しい世界でより一層仕事に、また自身の向上に打ち込もうと思っている次第です。そのため、幾通か差し上げた手紙も、これで最後になると思いますが、御了承下さい。
 さて、お伝えしたいことがあります。回りくどいことは止め、単刀直入に本題の方へと入らせていただきます。何をお伝えするかと申せば、浩介さん、あなたの出生についてです。
 あなたが昔いた孤児院の院長である西野絹江は、私共が働く啓神メイド派遣所の所長です。西野はその昔、あなたの御父上である津島宗一郎様と深い親交がありました。経過の詳細は不明ですが、御二人が別れた時に、西野は宗一郎様から孤児院と、後々啓神メイド派遣所となる西野人材派遣所を与えられました。
 その時、既に西野のおなかの中には一人の男児がいたのです。おわかりでしょうか、その男児こそ浩介さん、あなたなのです。
 紛れも無くあなたは津島宗一郎様と西野絹江の子供であり、津島の血を引く者です。即ちあなたは養子ではなく、西野から津島宗一郎様に親権を移されただけなのです。御理解いただけたでしょうか。
 以上、長文並びに乱筆失礼致しました。それでは末永くお幸せに、そしてお元気でおられることを心よりお祈り申し上げます。 敬具
   四月六日
                中村 遥
  津島浩介様

「なるほどね」
 読み終えても、さしたる変化は無かった。今更誰の子で、出生がどうだなんて、興味無い。俺の両親はもう定まっているのだから。
 大きく感慨深げに息を吐くと、浩介は手紙の上端を持ち、引き裂いた。二つ、四つ、八つと細かく破る。
「こ、浩介、どうしたの。何が書いてあったの」
「今となってはどうでもいいことだよ。事実は決して必要なものばかりじゃない。これは、過去との決別だよ」
「そう……」
 どこか悲しげな水花に、浩介が微笑む。
「大事なのは、これからだよ」
 浩介が視線を移した。水花もそれを追う。その先には賞状があった。先日、初めて入賞した時に与えられた賞状。『家族』と言う夕焼けの中、父と母に手を繋がれ家路を辿る子供の絵は、審査員にそれなりの評価を受けたものだった。
「そうだね」
 チャイムが不意に鳴り響いた。みおだろう。俺は立ち上がると、ゴミ箱にバラバラの手紙を落とした。そうして水花と手を取り合い、アトリエを出た。ドアを開けた途端、僅かに桜の花弁が風に乗ってアトリエに舞い込んだ。
 春は始まり。風は匂いに乗せて期待を運ぶ。氾濫する春の色の片隅である津島家にも、鮮やかな色が溢れた。
 それも風に乗り、どこかへ消えた。

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