三十一.

 まだ眠いけれど、重い瞼を開く。薄ぼんやりとした世界が広がるが早いか、俺はまたすぐに目を閉じた。もう少しきっと夢の中にいたいと思いつつ、寝ようと試みる。
 だが、眠れない。寝ようとしても、すぐ隣から安らかな寝息と女の匂いがする。パジャマ越しに体が触れ合う。ゆっくりと目を開けば、そこには安らかに眠る遥さんがいた。
 また、してしまった。昨晩絵に一段落つけると、それまで背けていたものが一気に心を蝕み、例えようも無い不安と寂しさに包まれた。一人悶え苦しみ、助けを求めて闇の中でもがきさまよっていると、いつの間にか側には遥さんがいた。遥さんは何も言わず、俺を抱き締めてくれた。俺はそれにキスで応え、それから覚え立ての味を忘れないようにと、体を求めていた。
 あまりこういうのは、いいものではない。どこか爛れている。そう思いながらも、求めていた自分を情けなく思いつつ、浩介は遥を一瞥すると、起さないよう静かに自室を出た。
 台所の窓から外を眺める。まだ雨が降っていた。この調子だと今日も一日中降るかもしれない。どこか陰鬱な気分になるけれど、今はそれよりも腹が減った。何かを作る気にはまったくなれなかったので、テーブルの上に置いてあった食パンに塩コショウを振りかけると、椅子に座ってから一口食べた。甘い。更に振りかけると多少しょっぱくなったが、もう何かするのは面倒なので、そのまま食べ続けた。
 一枚食べ終え水を飲むと、大きく息をついた。満腹だからじゃない、空腹が紛れたから現実が見えてきたのだ。現実の始まりは、いつも溜め息からだ。
 悩むことが人生ならば、解決することは人生の目標だ。どこかでそんな言葉を知った。けれど、あぁ、やはり悩むことから始まるんだ。スタート地点はいつでも辛い。例え恵まれた環境に、我が身が置かれているとしても、常に何らかの悩みはつきまとう。
 それが今、最も顕著なのが遥さんとの関係。甘えなんて心の弱さを言い訳に遥さんの心を利用し、欲望の赴くままに求めている。このままでは遥さんのみならず、自分をもダメにしてしまうとわかっていても、与えられる様々な快楽に抗えず、ずるずると流される。
 流されると言えば、この現状に対してもだ。父さんの力で仕事をしなくても生きていられるばかりか、欲しい物すらすぐ手に入る。好きな絵を描いているばかりの、将来について悩むふりをしている日々。養子だったと知り、両親を憎みつつも、この甘い生活から抜け出そうとしない甘え。努力もせずに毎日が何とかなると思い、今もこうしてぼんやりとしている。
 何も変わらない毎日、このまま永遠に続くとどこかで信じ切っている。
 そうなんだよ、俺の苦悩は苦悩じゃないんだ。思い煩い、悩み苦しんでいても、それは傍から見ればきっと、同情を誘う役を演じているだけのポーズにしか見えないのだろう。あいつはいつも必死に悩んでいるフリをしている、また苦しそうなフリをしているぞ、と。
 わかっているんだ、そう思われているのは。昔からそうだったんだ。俺が何かを無くしても「浩介は金持ちだからいいだろう」で済まされてきた。他の子供とは違う扱いに、ひどく傷付いたものだ。金持ちと言われるのが、堪らなく嫌だった。でも、俺は結局その『金持ち』にしがみついている。
 固定化された考え、世界。それを壊す突破口となるのは、恋愛なんかじゃない。絵の完成だ。確信なんて無い。ただ、何となくそう思うだけだ。しかし今は、それを信じたい。
「さて、描くとするか」
 もう一杯水を飲むと、浩介はアトリエへと向かった。
 アトリエに入るなり、室温を調節してからキャンバスの前に座った。絵の具を混ぜ合わせ、色を作る。昨日やったからか、今日はすんなりと思うような色が作れた。筆を持ち、塗り始める。筆の走りが鈍いと自分でも嫌と言うくらいわかったが、それでも焦らず描き続けていると、僅かながらだが心に安息が訪れるのを感じた。女の肌とはまた違う温もり、人の優しさとはどこか違う温もりが、いい意味で何も考えられなくさせてくれる。
 ヒーターを点けていても、今日は少し肌寒い。昨日から降り続いている雨のせいだろうか、アトリエがいつにも増して寒々しい。それでも雨音は耳に、心持ち刺すような寒気が肌に心地良く、頭が冴える。考えなくとも、手が自ずとイメージ通りに動いてくれる。
 枝垂れ打つ雨音の中で黙々と描いていると、不意に電話が鳴った。丁度キャンバスに筆を置いたばかりだったので、一塗りしてから筆をパレットに乗せ、それをそっと床に置いた。そうしてようやく受話器を取ろうとしたが、切れてしまった。
 四回で切れるなんて、間違い電話だったのかな。それとも携帯の電波が悪かったのだろうか。
 しばらく電話を見詰めていたが、一向に鳴る気配は無かった。浩介は舌打ちすると、再びパレットと筆を手にし、描き始めた。
 一度集中力が途切れたため、先程のペースに戻るまで多少時間がかかるかと思っていたが、思いの外すぐに取り戻せた。描いては手を止め完成形を思い浮かべ、また描き始める。そんな調子も、また不意の物音で途切れた。
 勢い良く開かれたドアの先には、息を切らし、僅かに髪を濡らした遥がいた。どこか青白い顔をした遥が、驚きと哀れみを込めた眼差しで、じっと浩介を見詰める。それにただならぬものを感じた浩介は筆を止めると、遥を見詰め返した。
「どうしたの」
 視線を外した遥の口から出た言葉は、まるで考えたことも無いようなものだった。
「お父様が、お亡くなりになりました」
 言っている意味が、わからなかった。遥さんは一体何を言い出したのだろう、と。少しして、呆然となった。言っていることはわかったが、言葉の意味に頭が追いつかなかった。しばらくして、笑えた。冗談にも程がある。顔を青白くして息切らしながら、こんなことを言える遥さんは、余程俺を驚かせたかったのだろう。そうはいくか、騙されるものか。
 それが嘘ではないと心の片隅で認めた途端、遥さんの表情が卑しく思え、現実から何とか目を背けようとしても、もうそれはダメで、俺は引きつったような笑顔をくしゃくしゃに顰めると、あんなにも憎んでいた父さんに対して、涙が出てきた。
 涙が後から後から溢れてきて、止まらない。涙だけじゃない、思い出も溢れてくる。俺が勝手に憎んでいただけで、父さんはいつでも俺のことを見てくれていた。その優しさが辛くて、期待に応えられないダメな人間だとわかっていたから、憎み反発することで、自分を楽にしていた。そんなこと、とうに気付いていた。けれど、あぁもう何もかも遅いんだ。遅過ぎた。
 もう、何を伝えることもできない。
 もう、何を訊くことすらもできない。
 ありし日の良き思い出が胸をよぎり、それがまた涙を溢れさせる。そんな悲しみも、しばらくすれば今度は目が眩むような不安に苛まれた。
 今まで色々な思いを抱いてきたが、結局は父さんの金と力で生きてきた。だからこそ、俺は好き勝手な生活を送ってこられた。でも、これからはそうもいかない。父さんが死んだならば、家督はきっと俺に相続させられるだろう。だけど、どうすればいいのだろうか。相続の手続きも、税金の納め方も、葬式の仕方も何もかもわからない。父さんが経営していた会社も、どうすればいいのだろう。これから俺は、どう生きていけばいいのだろうか。
 わからない、何もかも。女のことも、自分のことも何一つ解決していないのに。あぁ、それでも人はこれを悩んでいるフリだと言うのだろうか。金があるから、問題にはならないとでも言うのだろうか。
「はは、どうすりゃいいんだろうな」
 パレットも筆も手から滑り落ち、床を汚した。だが、それに気を留める者はいない。浩介は涙を袖で拭うと、顔を上げ、虚ろな表情でゆっくりと立ち上がり、ふらふらとドアの方へ歩き出した。
「浩介さん」
 遥の声も耳に入っていない様子で、浩介は雨降り頻る外へ、傘もささずに出て行った。遥は振り向くだけで精一杯なのか、追い駆けることもできずに、ただその場に立ち尽くして、しばらく浩介の背を見ていた。やがてその背中が見えなくなると、遥はスカートを両手でぎゅっと握ってはうつむき、一人涙した。
 煙るように降り頻る秋雨は、肌にも心にも痛く、冷たい。こんな日は誰も外出していないのか、または住宅街だからなのか、周囲に何者もいない。雨音だけが、世界の全ての音のようにすら思えてくる。外に出て幾らもしていないのに、すっかり全身びしょ濡れで、足取り不確かに歩くその姿は、みすぼらしい浮浪者のようだ。
 全てを失ったわけじゃない。逆だ。問題が多過ぎて、何もかもが見えない。何だかもう、誰に何を言えばいいのかもわからない。真っ暗だ。周りには色々あるけれど、真っ暗だ。誰にもどうにもできない。
 一人なんだ。このどうしようもなく広い世界に、無数の人がいるけれども、俺は今一人なんだ。眩暈がする程の不安に押し潰されてしまいそうだけど、そんな俺を優しく包んでくれるのは、この闇だけだ。闇に身を任せていれば、心地良い解放が訪れる。安息、とでも言うのだろうか。
 でも、どうして雨に泣かされてしまうのだろう。目の前がかすむ。雨なのか涙なのかすらも、もう……どっちでもいいか。今はただ、忘れたい。過去も、現在も、未来も何もかも全部忘れてしまいたい。そうすれば楽になれる。知らなければ幸せだったなんてことが、多過ぎる。知らないことは、起こらないことに似ている。
 あても無くさまよい歩き、勝手知ったはずの街なのに、もうどこにいるのかもわからなくなった。俺は電柱に背を凭れると、そのまま力無く崩折れ、うずくまった。
 もう、どうなってもいいんだ。このまま死んでしまうのも、いいかもしれない。この雨に打たれ続けたら、どうなるんだろう。肺炎にでもなって死ぬのかな。それとも誰かが通報して、警官に保護されるのかな。保護されたらどうなるんだろう。家に電話され、遥さんが来て……考えるのも面倒だ。なるようになれ。
 寒くなってきた。手足が痺れるように痛い。ガタガタと体が震え、頭がぼんやりとしてきた。目を閉じ、体の力を抜いて闇に身をすっかりと任せる。眠るように。
 しばらくすると、何も感じなくなってきた。雨が体を打つ刺激はあるけれど、冷たさは感じない。膝に顔を埋め、眠気に素直になる。雨の匂いを今更ながらに強く感じつつ、心に雨音を響かせつつ。
 妙な感覚だった。あんなにも強く打ちつけていた雨も、もう感じなくなった。雨が止んだわけじゃない。雨音は依然続いている。けれども、その音もどこか篭ったような音に変わっている。きっともう体が変になったんだと思ったが、その違和感が妙に気にかかり、ふと膝から顔を少し上げた。
 足が見えた。俺を見ているのか、つま先が俺を向いたままじっと止まっている。よく見てみると、俺の周りに雨が降っていない。一体こいつは、誰だ。
 ゆっくりと顔を上げると、そこには傘をさして、じっとこちらを見ている水花がいた。
「水花……」
 虚ろな瞳を向け、力無い声で確認するように呟くと、水花は何も言わずに、そっと右手を差し伸べてきた。俺が凍えた手でその手を掴むと、水花がそっと握り返してくれた。
 暖かかった、例えようも無いくらいに。その手を握っていると、段々と目の前の景色が溶けてきた。何もかもが溶け出して雨に流されていく中、俺は水花の手を必死に握り締めていた。
 それから支えられるようにして、水花の家へ行った。何を訊かれることも無く、またこちらから何かを話す気分にはなれず、終始無言。とりあえず風邪をひいたらいけないと、水花は俺に風呂を用意してくれた。濡れた服は乾くまで干すので、着替えにと水花が父親のシャツとズボンを差し出してきたので、俺はそれを受け取ると、風呂に入った。
 それほど熱くないはずだったが、冷え切った体にはとても痛かった。痛くて、どうしようもなくなって、湯船の中でひっそりまた泣いた。この肌の冷たさ、痛さは、そのまま心の傷の痛みなのだと。
 風呂から上がり、用意してもらったものに着替えて髪を乾かすと、水花の部屋に入った。しばらく振りに入った水花の部屋に、多少戸惑っていると、水花がコーヒーを持ってきた。テーブルを挟んで向かい合うように座り、俺達は熱いコーヒーを啜る。
 無言のまま半分程飲んだ頃、ようやく現状を思い出せた。途端にまた苦しくなり、水花に縋り付きたい自分を情けなく思いつつも、そっと瞳を覗き込む。
 水花は俺の視線に気付くと、口にあてていたカップを離し、何とも悲しげな眼差しを返してきた。だが、そこに憐れみや同情、また侮蔑の色は無い。ただもう、透き通るように悲しげな眼差しが、俺の心を見抜いているみたいで、思わず視線を外してしまった。
 怖かった。何もかも見透かされてしまいそうと言うのもあったが、それ以上に水花の優しさを滅茶苦茶にしてしまいそうな自分がいた。一度口を開けば、水花をも罵倒してしまうかもしれない。それに、これ以上格好悪い俺を見られたくない。
 でも、もうきっと手遅れだ。俺はもう、そんな体裁や見栄なんて、今はどうでもいいとすら思えている。それでも訊かれるまで口にしたいと思わないのは、俺の最後の意地なのだろうか。それとも負け犬根性の極致だろうか。ともかく、水花が一言何かあったのかとでも訊いてくれれば、俺はもう躊躇いがちにだが、口を開き全てを話す。さぁ、水花、訊いてくれ。
 待てども水花はただじっと見詰めているだけで、口を開こうとしない。雨音に混じって、時計の音がやけに浩介を不安にさせる。平静を装うとしているが、静かに息は荒く、背に嫌な汗が流れている。
「そう言えばさ」
 おずおずとだが、先に口を開いたのは浩介だった。
「優美ちゃん、いないのか」
「うん。今日は遅くなるって言ってたから」
「そう」
 再び沈黙が訪れる。コーヒーも残り少ない。自分からもう言ってしまおうか、いやもう今に水花が訊いてくるはずだ。そんな葛藤が次第に焦りとなり、不安となり、目も眩むような恐怖が心を苛む。このままだと心が潰れて、おかしくなってしまいそうだ。だが、自分から言い出すにはどうも……。
 言うくらいなら、こうして悩むくらいなら帰ってしまおう。そうだ、どうせ悩むなら、また一人どこかで人目につかないよう、そうしていた方がいい。
「浩介」
 立ち上がろうと膝を立てかけたところで、不意に飛んできた水花の声がそれを止めた。
「あのさ、何があったのか話してくれないかな。とっても大変なことで、悩んでいるみたいだからさ。浩介って、一人で何でも悩んでは苦しむでしょ。そういうのって、見てて辛いんだよね。話してくれた方が、ずっといい。だから、話せる範囲でいいから、私に話してよ」
 水花に先程までの表情はもう無く、今はただ泣き出しそうな程必死な顔で、体を俺の方へ乗り出してきた。そんな水花の姿と言葉に、俺の心は一気に氷解し、様々な想いが溢れ出した。
 気付けば、俺は全てを話していた。父さんが死んだこと、自分が養子だったこと、今後の不安、そして……あぁ、遥さんとみおのことだけは、どうしても言えなかった。言えばもう全てが、本当に何もかもが消えてしまいそうに思えたから。
 すっかり顔をうつむかせていた。水花の顔を直視していられなかった。じっと自分の固く組んだ手だけを見詰め、振り絞るように、できる限りのことを伝えた。
「無理しないで」
 言葉と同時に、水花が浩介の隣に座り、抱き締めてきた。今まで無かった大胆な水花に、浩介は驚く暇も無く、ただじっと水花の抱擁を受け入れる。
「浩介、これだけは信じて欲しいの。何があっても、私はここにいるから。全てが無くなっても、浩介がどんなになっても、私は浩介の側にいるから。だから安心して。一人で何でもしようとしないで、もっと私を頼ってよ。頼られないのって、信じられていないみたいで、辛いよ」
「水花、俺はそんな」
「いいの、何も言わないで。遠慮しないで、自分に素直になって。私でいいなら、何してもいいから。それで誰よりも愛してくれるなら、心から嬉しいの。本当だよ」
 浩介はゆっくりと水花を見詰める。
「だから、私も素直にさせて」
 水花の顔と背を抱え込むようにして、浩介は水花と唇を重ねた。互いに唇の温もりと柔らかさ、そして湿り気を味わっていた。何度も唇を重ねては離し、離しては確かめ合う。次第に二人共息が荒くなり、唇を重ねている時間が長くなる。
「んむぅ」
 やがて二人の下が離れた。最初は触れるとすぐに舌を引いていたが、すぐにまた蛇の様に絡まり、舐め合い、互いの味を確認しながら、一度唇を離してはうっとりと見詰め合うと、愛を囁いて微笑みつつ、また求めた。
 服の上から胸に手を伸ばすと、水花が恥ずかしそうにくすりと笑った。だが浩介は手を止めず、ゆっくりと揉み続ける。水花は顔を見られないようにか、浩介の舌を求めては、一心不乱に絡める。
 二人は重なり合いながらベッドに倒れ込んだが、行為は途切れない。浩介が水花の服の中へと手を滑りこませ、直に触れると、水花はくぐもった声を漏らした。服を捲り上げられ、露になる水花の肌。水花は思わず顔を背けたが、やがておずおずと浩介の方へ戻し、浩介の手を見ていた。それも愛撫が激しさを増してくると、恥ずかしそうに顔を背け、目を閉じては、シーツを掴んだ。
「待って」
 浩介の手が水花の下腹部へ触れると、哀願するような瞳で、水花が浩介を見詰めた。
「服、しわになっちゃうから」
 浩介は一つキスを重ねると、水花から少し離れた。そうして互いに思い切って裸になると、微笑みを交わした。
 俺はゆっくりと水花に寄り添うと、肌寄せ合い、唇を重ねた。局部だけではなく、今度は体の様々な所から感じる水花の温もり。触れている部分が熱くて、心地良くて、でも恥ずかしくて堪らない。
 遥さんとはまた違った感触がある。浩介はぼんやりと頭の片隅で、そんなことを考えながら、息荒げ艶やかに身悶える水花を、まだぎこちない愛撫で、何とかもっと悶えさせようとする。
 恥ずかしがっていた水花も、ようやく浩介を受け入れられたのか、与えられるものを素直に感じ、喘ぎ、そして求めていく。反応する体も、淫らだと思える心も、全て受け止めようとしているようだ。
「水花、そろそろ」
 それだけで充分だった。浩介の瞳に水花の頷きが写ると、浩介は頷き返した。
「あ、浩介」
 心なしか震える声が、浩介を止めた。
「その、私……初めてだから」
「あぁ、わかったよ」
 そっと髪を撫で、キスをする。水花を安心させるためだけじゃなかった。俺も怖かった。何が怖いのか、よくわからない。けど、確かに不安なんだ。しかしその不安も、こうして水花と唇を重ね、舌を絡ませていると楽になる。こうしていつまでもしていたいけど、あぁ、また違った欲望が水花を求める。
 唇を離し、もう一度見詰めると、静かに水花が頷いた。俺は秘裂にあてがうと、うっくりと埋めた。
 確かに水花は初めてだった。痛みに堪え瞳に涙を浮かべ、力一杯シーツを握り締めている。俺はそんな姿を見ていると、欲望のまま動くこともできず、ただ不安げな瞳を向けるしかなかった。
「平気だから、気にしないで。浩介のこと、受け入れるんだって約束、したでしょ」
「無理はするなよ」
 ゆっくりと、なるべく痛がらないように動くが、それでも水花は苦痛に顔を顰める。水花は浩介にしがみつき、浩介は気を紛らわせようとキスや、別な場所への愛撫を繰り返す。浩介が耐え難い衝動を必死に堪え、水花はその衝動を受け止めようと、必死に解放する。
 やがて二人の距離が縮まっていく。浩介は動きを早め、水花の顔から苦痛とは違った色が見えるようになってきた。声は次第に艶っぽく、体は徐々に悶え動く。
 熱っぽい二人の吐息。ありのままの匂い、そして卑猥な響きと嬌声が、部屋を支配する。欲望のままに求め合う二人は、この時を永遠のものにしようとするが、行為は終わりへと進んで行く。
 抱きつき、叫んで、体を震わせる水花。全てをぶつけ、語り尽くせぬ愛を行為で示す浩介。一際大きな衝動が二人を貫くと、浩介と水花は肩で息をしながら見詰め合い、微笑みとキスを交わした。
「浩介、愛してる」
「水花……」
 苦しみの壁が消え、清々しい風が心に吹いたような心地が、胸に広がった。水花と一つになったんだ。そう他人事のように思いつつも、依然興奮は冷め遣らない。
「ねぇ、浩介」
 うっとりと目を細めた水花が、とても愛しく、艶っぽい。
「もう大丈夫だから、だから、その」
「わかったよ」
 熱い吐息を収める間も無く、浩介と水花は再び求め合った。流れる汗も、破瓜のなごりを残した陰部をもそのままに、ただ愛しく、更に深く強く絆を確かめるように。
 雨音すらも遠く。

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