二十九.

 月が煌々と輝き、夜風がすっかり冷たい今は、午前一時を回ったところ。ヒーターを点けないと、そろそろ描く手も鈍くなってくる。あまり上着を着込めば描き辛くなるし、また重くて疲れる。暑過ぎず寒過ぎず、適度な室温を保ちながら筆を進めていく。
 いつも静かなアトリエだが、夜になれば更に静まり返る。不気味なくらいで、どこからか物音がすると、つい手が止まる。たまに声を出さないと、喋れなくなってしまいそうな錯覚に捕われる。
 絵を描いていれば、楽になれる。だが、それは心身共に良好な状態で没入した時の話だ。それは稀な事で、普段は描いていても様々な悩みが頭を巡る。決して尽きない。
 今日から着色に入った。ここ最近使っていなかった溶き油と絵の具の匂いが懐かしく、気持ちが自ずと奮い立つ。配色し、イメージに合う色を作ろうとするが、久々なので巧くいかない。苛立つ気持ちを抑え、調整を続ける。
 何とか色が揃うと、デッサンの終えたキャンバスに筆を入れる。モノクロームの世界に色が加わり、まるでそこから命の息吹が伝わってきそうにさえ思う。大胆かつ繊細に、色彩を絵に込める。最初に抱いたイメージを大切にしつつ……。
 イメージ。
 ふと浩介の手が止まった。そうして、まじまじと絵を見詰める。
 俺は本当に描きたいもののイメージを、この絵に込めることができたのだろうか。デッサンを見る限りでは、特に問題があるようには見えない。しかし、それこそが一番の問題ではなかろうか。
 幾ら完成形に近付くようにと描いても、それは所詮デッサン。足りないものがあって然るべきなのかもしれない。あぁ、だけどこんなことを考えていると、いつまで経っても完成しない。イメージは良い方向に具現化されている。そう信じなければいけない。
 誰かが言っていた。神様はこの世に色と言う素晴らしいものを与えてくれたから、僕達は日々感動できるのだと。音楽には声や楽器の調子が、小説には想像の喚起がある。だけど絵は世界の一部、想像の一部を音も無く切り取ったものだ。何でもないもの。ただし、その何でも無いものに色が加わった瞬間、絵は大きく羽ばたく。憧れていた世界に、懐かしい過去に、抱き続ける心象風景に、本能的な呼び掛けなどに引っかかり、感動を生む。
 きっとそれが絵を描く理由なのかもしれない。言葉で俺のことをわかってくれと言うには、青臭く恥ずかしい。そう思うけど、やはりどこかでその願いはある。言い出せないから、俺は絵を描くことにより、その作品に込めた想いに共感してもらい、他人との繋がりを確かめたいんだ。いい絵だね、私もどこかでこんな風景を思い描いたこともあったよ、と。
 ただ、伝えることは難しい。幾ら想いを込めても、半分もそれは伝わらない。言葉ですらそうだ。どんなに意味のある言葉でも、心に響かせるのは容易いことではない。
 その点、みおの言葉は痛い程、心に響いた。恋愛には疎いと思っていたみおが、まさか好きだなんて、しかも俺に言うとは信じられなかった。信じられない程に意外だったからこそ、みおの決意がとても伝わった。
 だけど、もう本当に俺はどうすればいいのだろう。泣きたくもなってくる。これで水花に遥さんにみお、か。先輩が言っていたように、贅沢この上無い身の上だ。このまま誰も選ばずに逃げる、というのもありなのかもしれないけど、それは愚策だ。俺は三人の気持ちを知っている。なのに……あぁ、正直な気持ちって何だろう。
 何を躊躇しているのだろう。何に迷っているのだろう。何故選べないのだろう。何で俺は俺のことすら、わからないのだろう。
 遥さんに対してもそうだ。雰囲気に流され、つい抱いてしまったとは言え、抱くのを選んだのは俺だ。そこまで後悔していない。いや、それどころか側にいれば安心するし、いつも甘えていいのかとすら思う。いつしか大切な人となっている。だがそれは本当に、愛情なのだろうか。
 関係を持ったから、遥さんをもう自分のものだと勝手に考えてしまい、甘えているのではないだろうか。なまじ彼女の気持ちを知っているから、幾らでも自分の思うように、と。
 愛の形は人によって変わる。一般的なものから、個々の細部にまで実に多岐に渡っていて、人はきっと自分の欲望と合致した愛の形を持つ人と一緒になり、互いにその完成形へと目指して行く。こんな俺だって、愛は欲しい。けれど、その形ははっきり見えない。
 癒されたいのだろうか。
 一緒に何かの目的を成し遂げたいのだろうか。
 自己の目的のために利用したいのだろうか。
 そこにいて欲しいだけなのだろうか。
 快楽をひたすら求めたいのだろうか。
 ただ愛でたいだけなのだろうか。
 それとも、忘れたいのだろうか。
 わからない。俺はどうしてわかりもしないものを、欲しがっているのだろう。何をしたい、またはされたいのかもわからず、何故強く求めては煩悶しているのだろう。寂しさを埋めたいだけならば、趣味に没頭したり、友人と話したりでもいいじゃないか。肉体的快楽を得たいならば、歓楽街にでも行けばいいじゃないか。そういうものでは得られない、深い付き合いを望む俺がいる。けれど、深い付き合いとは何だろう。
 きっと一般的に歩むべき人生とは、深く考え過ぎないことなのかもしれない。考えて考えて、答えの出ない問題にいつまでも悩んだって、損をするだけだ。そうわかっているのに、俺はまた考えてしまう。
 大きな溜め息をつくと、浩介はキャンバスに目を向けた。ようやく色付き始めた絵を見て、浩介は今やるべきことは、この世界を創ることだと自分に言い聞かせ、再び筆に絵の具をつけると、描き出した。
 全てを描けばきっと答えが見えてくる。そう信じながら。

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