二十八.

 みおと別れてしばらく経つが、遥の心はこの雨空のように鈍重なものだった。買い物をしていても、それを終えて家路につく今も、先程のやり取りが強く心に残っていた。
 思っていた通り、みおさんも浩介さんのことが好きだったんだ。あんな風に言われるなんて思っていなかったけど、一途な想いって例え同じ好きな人が対象でも、何だか憎めないのよね。気持ちは痛い程、よくわかるから。
 でも、私だって譲れない。みおさんに言ったように、立場とかそんなので浩介さんに接しているんじゃないの。もうそんなのを越えて、私はお世話している。
 私も浩介さんが好き。男として、好き。
 前は昔の主人の面影を追っていた。どことなく似ている性格、同じ絵描きと言う立場から、私は浩介さんに密やかな安らぎを見出していた。
 でも、いつしかそれが虚しく思えてきた。ううん、虚しいとかそんなのじゃない。私は浩介さん、その人に惹かれ始めていた。それに気付いた時、過去と決別できたのと同時に、浩介さんをもっと好きになれた。許せた。愛を捧げたく思えた。
 付き合いが長い短いなんて、関係無い。大切なのは想いと、それを遂げる力。祈るだけ、想い慕うだけなんて何も変わらない。逃げているだけだ。向き合わないと、得られない。
 私がそれに向き合った時、母性本能にも似た愛情を、自分の中に見出した。激しく燃え盛る激情の中に潜む、柔らかな心地。ガラスの様な浩介さんを、それで包んであげたい。守ってあげたい。もう、この気持ちを理由付けて抑えることも、偽ることもできない。
 いつかどこかに忘れてきたと思っていた自分は、こんなにも近くにいた。常に側にいて必死に叫んでいたのに、目を背け耳を塞いでいた。
 気付けば他愛も無いこと。あぁ、そうなんだって感じ。それでも背負っていた荷物が一つ下ろされ、軽やかになれる。
 一歩踏み出せば、水が跳ねる。そんな様子すらも、全てから祝福されているようで、何だか嬉しい。傘伝う雨がベールの様でもあり、幸せな空想を抱かせる。
 いつもこうして恋を知ると、新しい自分になれたような気がする。そうしてこれも同じなんだけど、いつも甘い疼きに似た苦しみを、活力としている。煩悶しつつも、相手を追い駆ける自分が愛しい。
 頬が緩み、歌い出したいほどの喜びが溢れる。この天気ですらも、どこか輝いて見えてくる。大声で叫び、思い切り雨に打たれたいとすら思えてくる。私は、ここにいる。
 だが、そうした気分も雨の中、傘もささずに走る女と出会うことにより、一瞬で立ち消えた。
 みおさん……。
 二人はある程度の距離を置いて、立ち止まった。傘の中で驚きつつも、愛する人の元へ向かおうとしている遥。傘もささずに先程とは違った服を着ていても、依然ズブ濡れのまま半泣きのみお。あまりに対照的な二人だが、その瞳に写るものは同じだった。
「誰にも」
 低い響きが力強さを伴い、みおの口から発せられる。
「誰にも負けないから、譲らないんだから」
 降り頻る雨も、この言葉と余韻までは消せなかった。対峙する二人は無言のまま、互いの瞳を見詰めている。眩暈がしそうな程に張り詰めた空気を破ったのは、みおの方だった。視線を外し、全身から水滴を滴らせながら、みおはゆっくりと遥の横を通り抜ける。遥は依然前だけを見詰め、みおの足音がすっかり背に回ってから、歩き出した。決して振り返らず、前だけを見据えて。
「ごめんなさいね」
 何故か自然と、そんな言葉が口をついた。
 帰宅し、買ってきた食材を冷蔵庫に詰めてから、お茶を淹れ、一息ついた。緑茶の芳香が心を安らかにさせていく。
 家にいれば浩介さんを感じられる。アトリエはもちろん、台所や廊下にだって、彼の匂いがする。側にいるんだって、強く感じる。私はそれを感じる度に胸が疼き、体が痺れる。何度体験しても、それは変わらない新鮮さがある。
「浩介さん、何してるかな」
 一度気になれば、もう仕事が手につかない。いけないことだと知りつつも、足がアトリエを向いている。苦笑いを浮かべながら、私は裏口から傘をさして、アトリエに赴いた。
「失礼します」
 返事は無かったけど、会いたい気持ちがドアを開かせた。
 ふわりと漂うアトリエと浩介さんの匂いが、一層胸を疼かせた。すっかり慣れ親しんだ空気の中、浩介さんは絵を描いていた。集中しているのか、何の反応も示さない。私はそっと後ろ手でドアを閉めると、浩介さんの側に立ち、邪魔にならないよう絵を覗き込んだ。
 前に見た絵とは、どこか違った感じを受けた。題材が違うからと言うレベルではなく、絵自体の雰囲気が違っていた。どことなく明るさを滲ませている、哀しげな絵。期待させる何かが、そこに込められている。
 絵から目を浩介さんへと移す。鋭い眼差しで一点を見詰めており、非常に充実しているかのようだが、どことなく疲れているようにも見える。時折溜め息と共に、僅かに丸まる背中が寂しげに見え、私はたまらない愛しさを覚えて、つい抱き締めたくなる。そうして穏やかな声で、私はここにいますからと囁いてあげたい。
 だけど、私は込み上がる衝動を何とか堪えた。自分に正直になって、浩介さんを愛したいと思うけど、過剰にべたべたとくっついていると、ダメにしてしまいそうな気がする。相手を信じていないと言われれば、それまでなのかもしれないけど、甘え合うだけが愛じゃない。それは堕落だ。私が浩介さんを抱き締めるのはきっと、癒してあげたいと思う以上に、より浩介さんを感じて、自分の欲求を満たしたいと思っているだけだ。愛ではなく、エゴだ。体のいい道具として、浩介さんを見てしまっているのではないだろうか。そんな卑しい自分が許せず、またそうなってしまわないように、私は差し出しそうになった手を後ろに組んだ。
「あの、お昼は何がいいですか」
「まかせるよ」
 相変わらず浩介は絵から顔を離しはしなかったけど、遥にとってそれはありがたかった。もし向き合って視線を重ねてしまうと、折角必死になって打ち立てた自戒が脆く崩れ、愛と言う名を借りたエゴで浩介を求めてしまいそうだった。
「では、パスタでよろしいですか」
「あぁ、そうだな。だったらボロネーゼでも作ってくれないか」
「はい、わかりました。では、できたらお呼びしますね」
 軽く頭を下げると、遥はアトリエを出た。そうして最後に見た浩介の表情が、幾分かほがらかになっていたのを思い出し、抱き締めなくてよかったと胸を撫で下ろしては、破顔した。
 今すべきことは、抱き締めたりキスをすることじゃない。美味しいボロネーゼを作ることなんだ。それこそが、最も喜ばせてあげられる。
 何だか目の前が明るく、世界が広がったような気がした。

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