二十七.

 木炭の擦れる音と雨音が、アトリエに響く。いつものようにキャンバスの前に座り絵を描く浩介は、時折考え込むように腕組みをするが、それでもなかなか順調そうだ。
 最近は何だかんだ言って、悪夢を見なくなった。あの忌まわしい幻聴も聞こえない。心がこう落ち着いているのは、遥さんのおかげだろうか。
「まぁ、別の問題も増えたけどな」
 遥さんの存在は俺のみならず、水花やみおをも変えた。それが良いか悪いかは別として、今までの閉ざされた世界が開かれた。少なくとも俺は出生の秘密と、女の味と、選択肢を知った。遥さんがいなければ、当分知り得なかったであろうこと。感謝の念は湧かないが、憎悪も湧かない。
 なるべくしてなったこと。
 諦めなのかもしれないけど、不思議と落ち着いている。それはもしかして、俺自身が変化を望んでいたからだろうか。
 描きたいものが少しずつ変わってきた。前はただ寂しさや悲しみのみだったのが、今ではそこに一抹の光を入れたくもある。それも、前より強く。暗い世界に、微かな希望を贈りたいと思うようになってきた。これも遥さんと言う存在が、関わっているからだろうか。
 木炭が滑らかに走る。絵の中に込めた光が、まるで自分の心にも差し込んでいるような感覚に捕われ、浩介はようやく与えられたイメージではなく、獲得した自分の世界を、心軽やかにキャンバスに表していく。
 雨脚が強くなっているようだ。冬ももうすぐなのに、アトリエ内の湿度が高い。座って絵を描いているだけなのに、背中がじっとりと汗ばんでいる。それでも絵に集中しているからか、さほど気にならない。
 もうきっとこの絵を完成させるまで、描き直しはしないだろう。少し描いて止めるなんてのは、逃げているだけだ。悪い癖だ。だから、そんな自分を少しでも変えたい。変えるための一歩として、せめてこの絵を完成させたい。
 この絵ぐらい、ワガママになってもいいだろう。理想を、描きたいものをありのままにぶつけてもいいだろう。許してくれるだろう。俺の絵なのだから。
 絵を描くのは何だかんだ言っても楽しいし、落ち着く。それでも徐々に疲れと苛立ちが重なり、集中力が切れてくる。区切りの良いところまで描くと、俺は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶の入ったクーラーポットを取り出すと、そのまま飲んだ。
「ふぅ」
 口元を手の甲で拭い、クーラーポットを冷蔵庫にしまうと、浩介はベッドに仰向けに寝転がった。見慣れた天井が、やけに高く思える。頭の後ろで手を組むと、浩介は瞼の力を抜いてから、大きく息を吐いた。
 遥さんて、仕事として来ているメイドなんだよな。いずれは、ここからいなくなってしまう。だとしたら、もし遥さんを選んで一緒になれたとしても、いずれ別れないとならないのか。あぁ、それが来年なのか明日なのかなんてわからない。けど、一つだけ思う。
 願わくば、このままでいて欲しい。
 誰かが誰かの代わりになれるなんてことは、決して無い。遥さんだけの雰囲気が、俺をこうも悩ませる。あの人だからこそ、何気無い仕草一つで、こうも心が騒ぐのだろう。メイドは遥さんの他にもいるけど、遥さんは一人だけだ。もし叶うならば、もっと知りたい。理解し合いたい。
 目を閉じれば色々なポーズの遥が頭をよぎったが、どれ一つとして顔はぼやけて見えないままだった。それでも浩介は夢想の中に響く声を聞きながら、ゆっくりと闇の中へ沈んで行く。
 最初は夢かと思った。それを無視して夢の波間を漂っていたが、次第に強い現実感を伴ってきたので、浩介は思い切って目を開けた。
 確かに聞こえた。上半身を起してその方向を注視していると、再びドアがノックされるのを聞いた。
「誰だ」
 自分だけに聞こえる程のしゃがれた声で小さく呟くと、浩介はベッドから下りてドアへと向かった。
「浩介……」
 ドアの先にはズブ濡れのみおが立っていた。傘を持っているのに、何故それをさしていないのかと思うこともできず、浩介はしばらく呆然としていたが、すぐにみおを中に入れた。
「おい、どうしたんだ、その格好」
「うん、ちょっとね」
 うつむいているみおの顔に、覇気は無い。
「と、とにかくこのままじゃ風邪ひくな。シャワーでも浴びろよ。着替えは俺のを貸してやるからよ」
「ごめんね」
 急いで着替えを渡すと、浩介はみおを母屋の風呂場へ連れて行った。そこで待っていようかとも思ったが、それも何だか不埒に思えたので、先に戻るとドア越しに告げてから、浩介はアトリエに戻った。
 再びベッドに腰を下ろした浩介は、ドアの方をじっと見詰めながら、腕組みをしていた。
「しかし、何なんだ」
 何故ああなってまで来たのだろうか。いや、来る途中に何かあったのだろうか。どのみち、こんな雨の日に来るなんて、余程のことなのだろう。急ぎの用なら電話でもいいだろうし、もしくは会ってすぐに用件を伝えればいいじゃないか。
 だが、みおに急いでいる様子は見受けられなかった。それどころか、どこか何かを言い難そうでもあった。一体みおに何があったのだろうか。
 考えてもわからない、とにかくみおから話を聞くだけだ。そう一人納得すると、浩介はベッドに寝転がった。
 どれくらいそうしていただろうか。眠ることも落ち着くこともできず、一人煩悶していると、アトリエのドアが開く音がした。浩介は跳ね起きると、そこへ目を向けた。
 半乾きの髪に、ダブダブの服。ズボンの裾は折り曲げられているが、それでも不恰好に見えた。表情は先程より瞳に輝きがあるものの、依然どこか強張ったままうつむいている。
「なぁ、みお。何でまたこんな雨の日にわざわざ来たんだ」
 恐る恐る、だが普段通りに訊いてみる。前のこともあったし、そうでなくても単に暇だったから来たというわけでも無さそうだった。
「会いたかったから、来たのよ」
 そう言って顔を上げたみおは哀しく、そして清々しかった。そんなみおを見ていると、それ以上のことは何も訊けなくなった。
「まぁ、適当にそこの折り畳み椅子でも引っ張り出して、座ってくれよ」
 冷蔵庫横の所から椅子を出し、イーゼルの近くにみおが腰掛けた。だが、しばらくしても口を開く様子は無い。話しかけ辛くもあり、このままだと間が持たずに気まずくなると判断した浩介は、おもむろに立ち上がると、冷蔵庫を開けた。
「何か飲むか。と言っても、お茶かコーラしか無いけどな」
 みおは何も答えない。浩介は溜め息を堪えながら、何するわけでも無く、冷蔵庫を漁るだけで精一杯だった。
 どうしようかなぁ。
 背後でみおの立つ気配がした。浩介はしかし振り返ること無く、冷蔵庫の中ばかりを見ている。背に一筋の汗が伝う。
「浩介」
 突然みおがしだれかかり、抱き締めてきた。浩介は何も言えず、指一本すら動かせず、ただその温もりと感触と息遣いを、黙って確かめていた。
 こんなにも近くでみおを感じたことは、今まで無かった。こんなにも可愛く柔らかな奴だったのかと、今更ながらに思う。俺は初めて、女としてのみおを感じている。
 あぁ、俺は遥さんに同じ事をされていた時も、同じような事を考えていた。女ならば誰でもいいと言うのだろうか。いや、違う。違うと信じたい。けど、どうしてだろう。こう抱き締められていると、何もかも忘れて、この心地良さに全てを委ねたくなってくる。
 雨音が遠ざかる。冷蔵庫から漂う冷気も感じない。ただ、みおだけをその背に受け、俺はゆるやかな眼差しで、自分の足元をぼんやりと見詰めていた。
「あのさ、浩介」
 聞いたことも無いような穏やかな響きに、俺の鼓動は早まった。
「遥さんのこと、どう思ってるの」
「そうだな、よくしてくれるし、よく気配りが利いていて、いい人だと思うよ」
 突然の問い掛けに、当たり前の気持ちすらも上手く言い表せず、どもりながら、それでも何とか当たり障りの無いことを言えた時には、心の中で大きく安堵の息を吐いた。
「じゃあさ、水花のことはどう思ってるの」
「そりゃ、あの通り優しいし、よくしてくれる気立てのいい奴だよ。みおだって好きだろ」
 僅かに背に力が込められたような気がした。
「それじゃ、私のこと、どう思う」
「どうって……」
 みおが言いたいことは容易く掴めた。だが、何をどう言えばいいのかまでは、わからない。自分の気持ちもはっきりとわからないのに、安易に返事などしたら、後で悔やむに決まっている。あぁ、そんな考えは逃げなのだろうか。
「もちろん、いい人だと思ってるよ。当たり前じゃないか」
 何を言っているのだろう。これではみおに対して、最も残酷な言葉にしかならない。そうわかっていても、俺は心の中で苦笑と共に、我ながら巧い逃げ口実ができたものだと安堵してもいた。
 背を抱き締める力が、より一層強くなった。
「じゃあ、遥さんや水花へのいい人ってのと、私へのいい人ってのは同じ意味なの」
 呆れた。いや、それだけでは収まらず、つい眉間にしわを寄せたくらいムッとした。あまりにも意地悪だ。可愛げすら無い。みおは俺の立場を少しでも知っているだろう。なのに、こんなつまらないこと訊いてくるなんて。
 何て自己中心的なのだろう。これが鎌田先輩の言っていた、自分に正直になると言うことなのだろうか。もしその通りで、みおが所謂世間で正しいものだとしても、俺は許せない。
「そんなこと訊いてどうするんだよ。どんな答えが欲しいんだよ。お前は自分が一番だと言って欲しいんだろ」
 強い語調ではっきりそう言うと、みおが離れた。浩介は乱れた心を落ち着かせるよう、ゆっくりと鼻で深呼吸すると、冷蔵庫を閉め、立ちあがってみおの方へ振り向いた。
 みおは今にも涙を零しそうな瞳で、だが力強い光を湛えながら浩介を見詰めていた。その両拳は血が滲み出そうな程、固く握り締められている。怒っているでも、悲しみに暮れているでも無く、ただ凛としている。
 そんな姿を見ていると、間違っていることは言ってないだろうが、つい言い過ぎたかもと胸が締めつけられる。例えようも無い罪悪感に、ひたすら苛まれる。
「私、諦めないから」
 耳を澄ましていなければ聞こえない程の、小さな囁き。しかし、力強く意気込まれた言葉。
「私、浩介が好き。誰が浩介を好きでも、浩介が誰を好きでも、私が嫌われているとしても、それでも好きなの。絶対、諦めないから。誰にも負けないんだから」
 叫ぶようにそう言うと、みおはさっと踵を返し、傘もささずにアトリエを飛び出した。浩介はそれを追うことはおろか、動くこともできずに、呆然と立ち尽くしていた。
 遠ざかる足音は、すぐに雨音に飲み込まれた。

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