二十六.

 今日は朝から雨。鈍重な黒一色の空からは、しとどに雨が降り頻り、見ているだけで陰鬱な気分になってくる。
 そんな空を見ていると、昨日見た浩介と遥さんの姿、水花へああ言った事が、痛みを伴った記憶として胸を締め付けてる。
 それでも水花に言った事に、後悔は無い。はっきりと胸を張って自分に言える。私は浩介が好き、誰よりも強く。
 でも一つだけ、胸に引っかかる事がある。後悔とはまた違った想い。それは今までの私との違いについて。私は今まで水花に対して、浩介との仲を取り持とうとしてきた。それは嘘ではなく、本当に一緒にさせようと色々がんばったつもりだ。一緒にならないだろうと言う安心は確かにあったけど、私は二人をより近付けたかった。
 それもきっと、水花には全てが嘘だったと思われるだろう。いいように利用していた奴、そう思われることだろう。私のしてきた事、思ってきた事、全てが裏切りだと思われるだろう。いや、もうそう思われているかもしれない。
 それが、それだけが辛い。
「良いも悪いも、もう」
 戻れない。今更何をしようが、もう前のような関係にはなれないんだ。そんなことはわかっているし、昨日からの決意としてあるじゃない。
「何でこんなに考えちゃうんだろうな」
 寂しげな眼差しが、雨に濡れた世界の更に遠くを見詰める。瞳や心には何も写っていないけど、確かにみおの中で騒ぎ立つ何かがあった。
 溜め息と微笑みは同時だった。みおは窓から目を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
 戻れないなら、前に進むだけ。方法は何もわからないけど、幸いゴールは見えている。でも、ゴールが見えていても、今の私では辿り着けそうにない。
 だから私は今一度、私の気持ちを確かめよう。昨日のことがあって、多少会い辛いけど、会えばきっと何かが見えてくるはず。このまま何もしないで終わったら、それこそ損だ。関係をいたずらに壊しただけになってしまう。そうならないためには、会う必要がある。
 いいや、それ抜きにしても、会いたい。
 傘を手にすると、みおは心根をしっかりと立て直してから、外へ出た。
 叩きつけるような雨のせいか、それとも気持ちの問題か、妙に傘が重い。水溜りがそこら中にあり、濡れないように歩くのが難しい。だけど、こうして浩介のこと以外に気を回していると、少し楽になれる。
 昨日から今日にかけて、少し考え過ぎだと自分でも思う。あんなことがあったから、当然なのかもしれないけど、このままだとおかしくなっちゃいそう。そこばかり見詰めていると、周りが見えなくなる。
 ふと顔を上げてみる。雨の線、跳ねる水飛沫、枝葉や軒を流れ落ちる雨垂れに、しなびた落ち葉。耳には雨音と車のエンジン音、それと自分の足音が妙に響く。何でもないようなことだけど、今の私には新鮮に感じる。生きていることを強く思う。この冷たい空気に混じった埃っぽい雨の匂いも、心をくすぐる。
 だけどそんな新鮮さも、五分と続かない。すぐにそれが当たり前のことだと思い、ついついまた心に浩介を思い浮かべては、悩み始める。今何を考えても、答えなんて見えないのに。
 でも、そんな私が愛しくもある。
 浩介の家までは、もう少し。暖かめの格好をしてきたつもりだけど、こう雨の中歩いていると、肌寒くなってきた。濡れないようにしているけど、どうしても雨が染みてくる。ちらと空を見上げれば、依然止みそうにはない。
 それでも不思議な安堵が、胸に広がっている。一歩前へ進む毎に膨らむ緊張と期待を噛み締めていると、前方から見知った人が近付いてきた。
 遥さん……。
 思わずみおの足が止まった。遥もみおに気付いたらしく足を止めたが、すぐに何事も無かったかのように近付いてきて、みおに一礼した。
「こんにちは、みおさん」
 だがその表情と声は、どこかぎこちない。
 みおは何も言わなかった。ただじっと、遥の瞳を見詰めていた。雨の匂いも、濡れた情景も、不思議と安らかだった気持ちも、期待も、何もかも消え、今はもう目の前の遥しか見えなくなった。
 雨が全てを打ちつけ、濡らす。その一定のリズムが感覚を狂わせる。人気の少ない場所なだけに、自分の息遣いすらもはっきりと聞こえる。頭が痺れ、胸が張り裂けてしまいそうなのに、怖いのに、目を背けるわけにはいかないと、強く思う。
 しばらく互いにそうしていたが、やがて遥がもう一度会釈すると、穏やかな微笑みを浮かべて歩き出した。
「待って」
 通り過ぎようとした遥を、みおが鋭く呼び止めた。遥がゆっくりとみおの方を振り向くと、みおが睨み付けていた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにみおは傘ごと腕をだらりと下げ、うつむき黙った。
 みるみるうちに、みおが濡れていく。髪が、服が雨に濡れ、黒く重たくなっていき、冷たい雫がみおから流れ落ちて行く。
 幾らもしないうちに、すっかりズブ濡れになったみお。一見哀れな姿のみおに、遥は少し悲しそうな眼差しを向けたが、それ以上に何も言わないのを見限ってか、一つ息を吐き、みおから視線を外した。
 一歩遥が踏み出すが早いか、みおの両拳が固く握り締められた。そんな雰囲気を察したのか、遥が出す足を止めて、再びみおの方を向いた。
 みおは遥を睨み付けていた。流れ伝う雨粒を気に留めず、強い決意をその瞳に込めていた。頬を伝う雫には、確かに雨ではないものも混じっていた。
「あなたには、あなたにも絶対負けないんだから」
 力強いみおの言葉が、辺りに響き渡った。全てを叩く雨音が止んだかのような、静寂の幻聴。だが、すぐにまた、激しい雨音が音の世界を支配した。
「私も、立場とかそんなんじゃないのよ」
 遥から微笑みは消えていた。強い決意をその瞳に宿して、しばしみおと対峙すると、ついと視線を外してみおの横を過ぎて行った。
 遠ざかる遥の背をじっと睨みながら、みおはしばらくそのまま雨に打たれ、涙を流していた。体の感覚は無く、ただ何事にも負けないと、それだけを誓いながら。
 雨は一向に止む気配を見せない。

25へ← タイトルへ →27へ