二十五.

 夕食後、浩介はすぐにアトリエへと戻った。食が進まずに半分程残したが、時が経っても空腹感は無い。それどころか、体の感覚さえもあやふやで、今の自分がどんな状態なのかすらもわからないまま、新しいキャンバスと向き合っていた。
 とにかく、描こう。
 そう思い、木炭を持ってからどれくらい経ったのだろうか。キャンバスは白いまま、何も描かれていない。今まではそんなキャンバスを見詰めていると、何を描こうかという意欲と、何を描けばいいのかという不安が湧き上がってきたものだが、今は違う。そこには絵のイメージは浮かばず、ひたすら親しい人達の顔が浮かんでは消えて行く。
 浮かぶ顔は、主に三つ。今にも泣き出しそうな水花、憤怒の表情で睨み付けるみお、そして慈愛に満ちた遥。三者三様の表情だが、その瞳は全て浩介の心を捉えていた。
 みおが怒るのも無理は無い。つい先日、俺はあいつに水花について好意を寄せ、遥さんに特別な好意は持っていないと言ったばかりだ。なのに俺は、裏切ってしまった。きっとみおなら、あの日のことを水花に言ったはずだろう。
 今日、水花がここに来る前、みおに言われたであろうことを胸に抱きつつ、ここに来たのだろう。自惚れかもしれない。でも、もしも俺が水花の立場なら、何らかの普通では無い気持ちを抱く。だから今日、水花が俺と遥さんを見た時に……いや、自惚れ過ぎだ。
 ともかく、どうあれ俺は水花とみおを傷付けてしまった。それだけは、確かなこと。それについて、遥さんに対してどうこう思ったりはしない。全て俺が蒔いた種なのだから。
 遥さんに抱かれている時、俺はひどく安心していた。渦巻く負の感情が綺麗に洗い流され、素直にその感触を受け入れられた。優しい温もりに、いつまでも身を浸していられた。
 だから、それを見られた時の気まずさも、並大抵のものではなかった。頭の中が真っ白になり、訳がわからなくなって、温もりが遠ざかり、近くにいるはずの水花とみおがとても遠くに感じられ、気付けば遥さんと顔を合わせられない程の恥ずかしさに身悶えしていた。
 それは食事をしていても変わらなかった。向き合いながら食べていたが、顔を合わせることはおろか、美味しいはずの料理を味わうことすらできず、気まずさに負けて俺はここに逃げた。それはきっと、遥さんの温もりが恥ずかしくなってのことだったのかもしれない。
 思えば水花やみおに優しくされ、その都度安らぎを感じることはあっても、遥さんのように触れてくることは無かった。キスだとかセックスだとかまでと言わずとも、ああして抱き締められたことすら、一度も無い。
 そういうわけで、心の温もりもそうだが、それよりも体の温もりが新鮮で暖かかった。どっちがいいのかなんてわからない。今はそう思う。次の瞬間にはどうなっているかわからないけど、俺はそれにすがりたい。
 そうやって抱いてくれる人は、今までいなかった。母さんの温もりは、遠い過去の話。掠れた温もりをありがたがっていたが、今ではそれが偽りだとわかった。あの人は母でも何でも無く、自分とこの津島家を守るために俺を引き取り、偽りの母性で俺に接してきた。まんまと騙されていた。
 だが、遥さんは違う。彼女は仕事でここに来た。下心ではないところからのスタートだ。そうしていつしかした親しくなっていき、肌を重ねた。温もりを求めた。遥さんはそれに応じてくれた。まるでそれがさも当然だとばかりに、与えてくれた。
 だから遥さんが俺にとって、唯一の人のように思える。それまで心のどこかで求めていても、決して手に入らなかったものをくれる。俺にとって、かけがえの無い人。求め、与えられる。そんな人。
 そういう人だからこそ、俺は徐々に、だが休息に遥さんを意識し始めたんだろう。
 しかし同時に水花やみおの存在も膨らんでいき、頻りにその姿が頭にチラつく。水花やみおには無い、直接的な優しさをもくれる遥さんに惹かれているのは否めないが、惹かれる程にあの二人に、何か罪悪感にも似た感情が湧き上がってくる。遥さんに目を向けていると、どうしてか背中を引っ張られるような感覚がある。踏み込めない。
 もしかしたら。
 ふとある考えが浮かび、浩介は木炭を置くと、腕組みし、沈思黙考の姿勢となった。
 水花やみおには昔から世話になっている。辛い時、苦しい時、寂しい時などには自分の弱さを隠そうとせずに、甘えてすがってばかりなのに、いつも優しく包んでは励ましてくれた。俺はその優しさに包まれる度、それを都合良く利用している自分を卑しく思いつつも、どうしようもできなかった。
 そう、どうしようもできていない。散々受け取っておきながら、俺は何一つあいつらに返していない。無償で与えてくれているわけじゃないんだ。無償の、純粋な優しさなんて、あるわけがないんだ。純粋とは何事をも為す前にも、為した後にも何も求めないもので、ただその行為なり動機なりを抜き出したもの。純粋な優しさとは死をも厭わない、無報酬の自己犠牲。
 優しさのほとんどはエゴだ。そこには見返りを求める心が溢れている。その優しさ自体が押し付けかもしれないし、もしかしたらその優しさでもって、自分の評価を上げたいのかもしれない。褒められたいのかもしれない。次は自分に優しくしてもらいたいから、相手に優しくしているのかもしれない。
 ただ、それは偽善だ。優しさを利用したエゴだ。仕方ないで済ませるには、納得いかない。
 水花やみおだって、多分に漏れないだろう。自惚れ甚だしいが、どうせ俺に好かれたいから優しくしているんだ。そして俺はそれに対し、悪いと思いつつも利用している。これが互いの利益になっているだろうから、何ら問題無いと言えばそれまでなのだが……。
 あぁ、俺は一時の情事や優しさで遥さんに傾いている自分が、それまで多くの優しさと安らぎを水花やみおに対して、申し訳が立たないとか考えている。そんなこと考えてもどうにもならないのに、つい。
「くそっ、何だってんだ」
 そんな考えを振り払うかのように、再び木炭を手にすると、浩介はそれをキャンバスに走らせた。何をどう描くかなど決めていなかったので、とりあえずキャンバスの先の風景でも描くことにし、その先をじっと見詰める。
 何だかんだ言っても、こうして描いているとどこか落ち着く。手を動かせば、徐々に形作られていく世界。そこでは表現者である自分が、まるで神のように思え、没頭すれば煩わしさや悩みなど、何もかもから解き放たれる。
 描いては手を止め、思うように描けないことにもどかしさを覚えつつ、また描く。そんなことが楽しくて仕方なくて、思わず微笑みを漏らしていた。
「さて、こんなもんか」
 気晴らしにとは言え、一通り描き終えた頃にはもう夕方に差し掛かっていた。俺は立ち上がり、大きく伸びをする。腕や首を回すと鈍い痛みが走ったが、気持ち程度疲れが取れたような気がした。
 アトリエは心地良いが、いつまでもいると心が萎える。気分転換に外の空気を吸うついでに、コーヒーでも飲んでこよう。そう思い立つが早いか、浩介は上着を羽織るとアトリエを出て、一人メリージェーンへと向かった。
 ゆったりと歩き、多少埃っぽくとも澄んだ空気で肺を満たしていると、それまで思い悩んでいたことが薄れていく。思い煩うな、飛ぶ鳥を見よ。あの鳥こそ自由の象徴。自分もあの鳥のように、様々な抵抗の中でも、傍目から見れば自由に飛んでいると思われるよう、大きくなりたい。茫洋とした海原を、迷わず進んで行きたい。
「憧れは無い物ねだり、か」
 溜め息はそっと目の前の喫茶店に運ばれた。
 軽快な鈴の音を伴わせながら、入店する。客はそれほどいない。浩介は道路に面した窓際の席に座ると、コーヒーを注文した。
 程無くして、コーヒーが運ばれてきた。砂糖とミルクを少々入れ、舌を火傷しないように僅かに啜る。熱さしか感じない。それでもその熱さに慣れれば、より多く口に含むことができ、香りと味を楽しめるようになる。二口三口飲んだところで、出掛けに持ってきた小説を開き、続きを読み始めた。前に読んだ時から幾分か日が経っていたが、それでも読み始めればすぐに内容を思い出すことができ、時折コーヒーを啜りながらページを捲っていった。
 すっかり冷めたコーヒーが半分くらいになった頃、不意に後ろから肩を叩かれた。慌てて振り返れば、そこには見慣れた笑顔を浮かべた鎌田が立っていた。
「相席、いいか」
「どうぞ」
 鎌田は席に着くなり、カフェオレを注文した。浩介は栞を挟むと本を閉じ、コーヒーを一口啜ると愛想笑いを浮かべた。
「先輩、仕事帰りですか」
「まぁ、そんなとこかな。最近忙しくてね、ここに来るとホッとするよ。浩介は絵の気分転換かな。何だか元気無さそうだが、詰まっているのか」
「確かになかなか進んでいませんけど、元気無さそうに見えますか」
「あぁ、見えるな。まぁ、悩んでいることがあるなら、遠慮せず話してくれよ」
「悩みかぁ」
 正直言って、この悩みを聞いてくれそうなのは鎌田先輩くらいだ。言うことは辛辣だが、的は外れていない。しっかりと話を聞いてくれる先輩には、頼り甲斐を感じる。だが、先輩の言は苦手だ。言わない方が楽だと思うことは、多々ある。
「ほら、一人で抱え込むより、誰かに言うだけでも楽になれるもんだぞ」
 その通りだ。一人で悩んで、いつまでも暗闇の中をさまようより、辛くとも何か言われた方が、解決の糸口を見出せるだろう。そう考えてしまうのは、やはり心が弱っているからなんだろう。
 苦笑混じりにコーヒーを啜ると、浩介は鎌田に話した。水花に抱いていた恋心のようなもの、みおへの信頼、遥の存在が急速に膨らんでいること、そして三人に対してどう接すればいいのか等。色々心に閉じ込めていたものを解放したが、それでも自分が養子であったことと、遥と一つになったことだけは、さすがに言えなかった。
 一頻り聞き終えた鎌田は大きく頷くと、タバコに火を点け、口元を歪めた。
「なるほど、大体わかったよ」
 いかにも呆れたとでも言ったような言い回しに、浩介は内心ムッとしたが、それを表に出すことは無く、鎌田の言葉を待った。
「何に悩んでいるかと思ったら、そんな贅沢な悩みかよ。まったく、くだらない」
 くだらないだと。俺がこんなにも苦しんで、真剣に悩んでいるのに、くだらないとはどういうことだ。それに、贅沢だと。一体何が贅沢なんだよ。何も知らないくせに。あぁ、女絡みだからそう思うのか。それこそ上辺だけしか見ていねぇ。くだらないのはアンタの考えの方じゃないか。
 怒りで燃え盛る心を、奥歯を噛んで堪えつつ、必死に態度を変えないようにと努める。
「どうしてそう思いますか」
 しかし自ずと目付きは鋭くなり、吐き捨てるような言い回しになってしまう。そんな浩介に、鎌田は一層嘲笑気味に口を歪め、肩を竦ませた。
「まぁ、そう怒るな。大体な、話を聞いた限りでは、みんなお前に好意を抱いているみたいじゃないか。それも並々ならない程のな。なのにお前ときたら、何が不満なのか知らないが、ウジウジ悩んでよぉ。嫌われることは確かに俺だって嫌だけど、そんなこと考え過ぎて踏み込まない、踏み込ませなかったら、それこそ上辺だけの浅い付き合いにしかならない。そうしたくないんだろ」
「それは」
「そうなんだよ、お前は。どうでもいいなら、こんな話はしないだろうし、深入りしようとしないだろうからな。でも、お前は現に悩んでいる。だけどそれは、非常につまらない悩みだと俺は思っている。だってな、お前が一歩踏み込めばいいだけのことなんだから。相手はみんなお前に自分の気持ちを見せている、わからせようとしている。いや、現にわかっているみたいじゃないか。そこまでするのに、お前の言う辛さを、どれだけ味わっていると思っているんだ」
 うつむき、何も言わない浩介を見て、ゆるりと首を横に振った鎌田は、長広舌で乾いた喉を潤すようにコーヒーを飲む。
「きっとお前なら、そうした辛さを何とかしたいと思うだろうな。優しいもんな。何とかして、傷付かせたくないだろうからな。だけどな、誰かを好きになったら傷付けるなんて、当然のことなんだよ。その場合だと、特にな。お前は何を当たり前のことで、そう悩むんだよ。何かすれば、誰かを傷付ける。何もしなくても、誰かを傷付ける。生きるってのは、そういうことなんだよ」
 生きるのは、誰かを傷付けること、か。
「結局な、お前はもっと自分に素直になればいいんだよ。ワガママになれよ。傲慢になれよ。生きることが悩むことならば、悩みを解決することが人生の目的であり、喜びなんだよ。何もせずに一人で悩んでいるのは、自分も相手も傷付けるだけにしかならないんだ。わかるか」
 大きく息をついた鎌田は、コーヒーをぐいと飲み干すと、深々と椅子に腰掛け直し、居住まいを正した。
 もう何も言えなかった。怒りも湧かなかった。ただ身を切られるような思いで、納得する他無かった。見詰めているようで背けていた現実を叩きつけられると、ただもう目の前が暗くなり、吐き気がする。
 先輩の言った事は間違っていない。俺が抱いていた言い訳のような想いも、どうすべきかの道をも、はっきりと言ってくれた。ならば先輩の言う通り、他人を傷付けることは仕方ないことだと割り切って、自分にもっとワガママな程、素直に生きればいいのだろうか。
「自分に、素直に」
「そうだ」
 すみません、やっぱりそれはできません。俺は今でも働かずに、親の金で気ままに生きている、充分ワガママな男。これ以上ワガママには、なれない。できない。
 甘えの中にだって、抵抗がある。それは良心なのか、世間の目を気にしてなのかは判然としないけど、とにかくあるんだ。俺はこれ以上、耐えられない。
 そんな思いが喉まで出たが、俺は言葉を静かに飲み込んだ。これを言ったところで、どうなるわけでもない。いや、事を荒立てるだけだ。何の得も無い。
「そうですね、先輩の言う通りだと思います。もう少し自分に良い意味でワガママになれるよう、何とかします」
「そうだな。がんばれよ」
「はい。では、俺はそろそろ」
「おう、わかった。あぁ、会計は俺が払っておくから、伝票置いていけ。たまにしか会わないんだ、おごらせろよ」
「すみません、お言葉に甘えます」
 浩介は一礼すると、喫茶店を後にした。
 日は落ちかけており、辺りは薄暗くなりつつあった。家々から流れる夕食の良い匂いが、空腹を覚えさせる。家路を辿る人々をどこか遠い目で眺めながら、浩介は溜め息をついた。
 もし俺が誰か一人だけ選ぶとしたら、誰を選ぶのだろうか。
 水花、みお、遥を思い浮かべ、それぞれの長所短所を並べてみるものの、今一つ誰も抜きん出ているものが無く、結局は平行線。溜め息と、唸り声しか出てこない。
 かと言って、当然誰でもいいわけではない。
「確かに、贅沢な悩みかもな」
 そうこうしているうちに、家の前に着いた。浩介は沈みがちな気分を奮い立てて、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい、浩介さん」
 出迎えてくれた遥さんの、暖かな笑顔に接した途端、俺の心はほだされた。あぁ、色々あるけれど、今はこの温もりの中にいたい。
 それはワガママだろうか?

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