二十四.

 水花を追い駆けるみおの足音が、すっかり聞こえなくなっても、浩介と遥はしばし動けず、じっとドアの先を見ていた。
 ドアから流れ込む風が、アトリエ内の熱を奪う。快適だった室温も、今では少し寒いくらいだ。
「あの、閉めますね」
 おもむろに遥は浩介の側を離れ、ドアを閉めると、少し距離を置くような立ち位置で浩介と向き合う。だが、互いに視線を合わせようとはしない。
 気まずさばかりが胸を苛む。水花さんやみおさんの心を知っていたのに、ああいう場面を見せてしまった。場の雰囲気に流されて、つい軽率な行動を取ってしまった。こんなことを引き起こしたのは、自分のせいだ。
 だが、見逃せなかった。放っておけば何もならなかっただろうが、そんなこと私にはできない。私は正しいかどうかはともかく、間違ってはいないと信じたい。
 遥は浩介を一瞥し、心の中でもう一度、間違ってはいないと呟いたものの、それでこの状況が変わりはしないと言うことも、しっかりと認識していた。溜め息すらもつけない空気の中で、遥も何かを模索しているように、そわそわと視線をさまよわせている。
 何か話さないと、いつまでもこのままだ。わかっているんだけど、何をどう言えばいいのだろう。先程の事態に話を及ばせても、何も言えないだろう。かと言って、無言でここを出て行くには気が引ける。
 何気無く目線を上にずらせば、時計が目に入った。
「あの、お昼はどうしますか」
 声を出した途端、頭の中が白くなり、痺れるような感覚が全身を貫くと同時に、軽い眩暈に襲われた。そうして次の瞬間には、もっといいことが言えなかったものか、言い方にしても何か工夫すればよかったのではと、激しい後悔に包み込まれた。
「あぁ、じゃあお願いしようかな。何作るのかは、任せるよ」
 平然を必死に装った苦しい顔を浩介は上げると、そう低く言い放ち、また顔を僅かにうつむかせた。遥はもうそんな浩介と向き合うことができず、一礼するとアトリエを後にした。
 冷蔵庫から食材を取り出し、洗う。そして包丁を手にすると、遥は手際良く野菜を刻み始めた。こうして仕事に打ち込めば、余計なことは考えずに済むだろう。そう信じていた。
 それでも何故か勝手に、考えがそこへ及んでしまう。無視しよう、考えてはいけない。強くそれを繰り返していても、ついには手が止まってしまい、遥はぼんやりと半分まで刻んだピーマンを見詰めていた。
 昨日、ああいう形で浩介さんと一つになってしまった。経験は決して多くはないし、誘うなんてことも普段ならできない。なりゆきで体を許したなんて、今でも信じられない。はしたない女だと思われたことだろう。私もそれまでは、そういうことをする人に、多少の嫌悪を抱いていた部分もあった。
 だけど、昨日のそれは自然と体が動いた。嫌悪感も倫理観も何も働かず、ただそうすることが自然に思えた。求められても、あるがままに受け入れられた。
 今日のことにしてもそうだ。辛そうな浩介さんを見ているうちに、可哀想だとか考えるより先に、抱き締めていた。そうして温もりを感じながら、私は自分を満たしていた。
 始めは浩介さんに以前の、初めての主人を重ねていた。心から愛した彼を、その姿の中に見出そうとしていた。容姿は違えど、言動や雰囲気が似ていたため、浩介さんに対してその面影を求め、私の心に潜んでいた拭い切れない寂しさを、何とか埋めようとしていた。
 だが、やはり浩介さんと彼は違う。それは私も初めから気付いていた。当然のことだ。でも私はその当然のことに目を向けず、ただひたすら自分の傷を舐めていた。
 そんな幻影も昨日、全て吹き飛んでしまった。あの日記を見て、自室でどうしようもない程に小さくなっていた浩介さんを目にしたら、堪らない愛しさを感じた。私が彼を守ってあげたい、癒してあげたい、救ってあげたい。それが自然なことのように思えた。
 だから体を許せた。包んであげられた。そして、浩介さんを浩介さんとして見詰めることができた。
 遥は思い出したように、ゆっくりと包丁を動かし始める。
 水花さんやみおさんには、確かに悪いことをしたと思う。私の行為は彼女達の積年の恋を、踏みにじったも同然なのだ。
 しかし、私はその罪悪感をそれ程抱いてはいない。それ以上に浩介さんを愛しく思う。私はもしかしたら、もう浩介さんに御主人様と言う立場以上の愛を、捧げているのかもしれない。いや、きっと捧げている。
 メイドとしてではなく、一人の女として、私は最早譲れない程に強い想いを抱いている。
 愛すべき人を愛しなさい。
 会社の教えとして、メイドの最も大切な心構えとして、常にそう教えられてきた。一見すると、気に入った人だけを愛せよと思うけど、本来の意味は多くの人を知り、愛するに値する人物として好意を抱き、かつ自分も愛されるような人間になってこそ、初めて相手を思い遣ることができる、とのことらしい。私もそう思う。
 だけど今はそれを、一人の男性のためだけに使いたい。広く愛する、平等に愛することは、私にはできない。愛することは最高にして、唯一のもの。その他は好きの範疇でしかない。
 遥は包丁を動かす手を止めると、天を仰ぎ、一つ息を吐いた。
「私はようやく、過去から解放されたのかも」
 静かに目を閉じると、自然と笑みが浮かんだ。

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