二十三.

 泣きじゃくる水花を、みおはとりあえず自宅へ連れてきていた。水花の家の方が近かったが、今一人で帰すことはできない。みおは終始水花を励まし、慰めるように肩を抱き、頭を撫でながら自室へ入れた。
 水花と向き合うように、みおが腰を下ろす。先程よりは大分落ち着いているが、それでも水花は暗く沈んでいた。うつむき、全身から悲しみを滲ませている水花に、みおは普段のようにおどけることはできず、ただじっと水花を心配そうに見ている。
 音楽すら流すことを躊躇われる雰囲気だったが、どうにかしたかった。だが、動くことも口を開くことも、できない。息をすることすら気を遣う中で、私はどうにか流れを変えたかった。
 でも、何を言えばいいのだろうか。意味の無い世間話はおろか、慰めや励ましなんてのも、できない。いっそ逃げ出そうかとも考えたが、ここは自分の家。それに、水花を一人にさせたら、最悪の事態だって考えられる。危ない。
 みおはそっと歯を食い縛ると、うつむき加減の顔を上げた。
「ねぇ、水花」
 水花は何の反応も示さなかった。
「さっきの浩介と遥さん、どう思う」
 二人の名前が出た途端、びくりと水花が震えたが、やはりそれ以上何も反応を示さず、無言を貫いていた。
「私さ、こう思うんだ。あれはやっぱり、遥さんの正直な行動だったんだろうなって。だって、幾ら仕事で来てるからって、嫌いな人にあんなことできないよ。それは少なからず浩介に好意を持ってるってことで、浩介もそれをまんざらではないと思っていた。浩介に何かあったから、ああいうことになったんだと思うし、全然嫌がってる様子じゃないばかりか、むしろ喜んでいた。繋がっていたんだよね、ある意味あの二人はさ」
「うっ……」
 嗚咽のようにくぐもった声が、水花から漏れた。それでもみおは止まらない。
「一緒の家にずっといるんだよ、何があってもおかしくないよね。こっそり恋人になっていても、全然普通じゃない。遥さんは何でもできるんだしさ」
 水花を現実と向き合わせる。そう思ってこう言ってるけど、それは建前なんだろう。本当は私の心をも、その事実に向き合わせようとしているんだ。この胸にあるモヤモヤした気持ちを、しっかり現実を見詰めさせようと再確認のため、私は口に出している。
 でも、辛い。私もできるならば忘れたいし、見詰めたくない。
 じゃあ何で私は、こんなことをしているんだろうか。何のために、こんなことで悩まなければならないのだろうか。
 わからない。だけど、進めてしまう。
「まぁ、何でああいうことになったのかなんて、私にもわからないんだけどさ、正直私は失望したわ。だって幾ら遥さんがいい人だと言ってもさ、浩介は前から水花のこと好きだったわけだし、この前もそんなこと言ってたんだよ。でもさ、結局男って誰でもいいんだね。ちょっとこう、優しくしてあげたら、誰でも一緒なんだろうね。たまたま遥さんが何かあった時に優しくした。だからああなったんだと思うよ」
 泣き顔とも見える苦笑を浮かべ、みおは両手を後ろにつき、体を反らせる。どこか水花を見下したような視線の先には、自分自身が写っているのかもしれない。
「でも」
 うつむき押し黙っていた水花の小さな囁きが、妙に室内と心に響いた。
「それでも」
「ん、何?」
 その先の発言に予想はついていた。何だかわからないけど、怖い。怖くて、もしそれを聞いてしまうと、もう水花を見詰められなくなりそうなのに、訊いてしまった。
 水花は涙を流しながら顔を上げると、鋭い眼差しでみおを見た。
「それでも私、浩介が好きなの」
 みおの表情が途端に凍った。
 信じられなかった。水花とは長い付き合いで、浩介とは半ば両想いであることを知っていた。いや、それは周知の事実であり、私も二人を応援してきた。
 だけど、こうして水花の口から、はっきりと好きだと聞いたのは初めてだった。それだけに衝撃は強く、頭の中が白みかけるのと同時に、ある疑念が強く浮かんできた。
 私は本当に二人を認めていたのだろうか。
 二人が想いを寄せ合っている中で、私はどこか安心していたんじゃないだろうか。あの二人だから、進展なんて無い。そう思っていたから、何もしなくてもいい。むしろ応援してあげても、何も起こらない。そう思っていたのだろう。
 では、一体何に安心していたんだろうか。
 結ばれそうで、結ばれない二人の関係は、私に何をもたらすのだろうか。私はそこに何を求めていたのだろうか。二人が寄り添わない隙間に、一体……。
 もしかして、私は……。
 戦慄のようなものが、背中を駆け抜けた。一度目を向けてしまうと、加速度的にそれは膨らみ続け、背けようと思った時にはもう遅く、それがしっかりと目の前にあった。
 私は浩介が、男として好きなのかも。
 積年静かに誰にも、自分すらにも黙って育んでいた気持ち。私はただ浩介と親しくなりたかった。ただの親友よりも、誰よりも浩介と親しくなりたかった。正直、水花を浩介の恋人とは見ておらず、どこかに私の方がと言う気持ちがあった。
 それが私の「好き」だったんだ。
 水花は依然、私をしっかりと見詰めている。強い決意の涙を見せている友人。あんなことがあった水花を前にしていると、以前ならば励ましや慰めに心を裂いていただろう。私は水花が哀れでならない。この手で強く抱いてあげたい。
 でも、私はもう私を知った。もうこの溢れる想いを、止められない。堪えようとしても、この好きと言う気持ちは止められない。全ての関係がこの気持ち一つで壊れるだろう。十年近くかけて築き上げた関係を、私は私のワガママで無に帰してもいいのだろうか。
 悩んでいるものの、答えはとうに決まっていた。私は体を水花の方へ乗り出すと、一度うつむき、歯噛んだ。もう一度自分の気持ちを反芻するために。でも、それはほんの僅かな間でしかなかった。私は一つ息を吐くと、意を決して水花を見詰め返した。
「私だって、私だって浩介が好きなんだから」
 頬を伝う涙、驚きのあまり大きく見開かれる水花の眼。無言だったものの、何かが崩れていく音が確かに聞こえた。互いに視線は外さず、瞳の光は変わらない。意地と名付けるには物足りない気持ちのせめぎ合いが続いた。
 睨み合いも、それ程長くは続かなかった。ついと視線を外した水花が、ゆっくりと涙を拭いながら立ち上がった。
「みお……それでも私は浩介が好き。この気持ち、変えられないから。他に何があっても、これだけは譲れないの」
 水花はそれだけ残すと、部屋を出て行った。
 パタンとドアが閉まり、階段を降りる足音が遠ざかって行く。私はそれを追い駆けることはできず、ただ幻影の背を眺め、消え行く足音に耳を立てるだけだった。
 これで決定的となった。もう水花とは、浩介とは、遥さんとは、そして今までの自分とは、これまで通りにはいかなくなった。もう戻れない。前を見ても道は無い。
 それでも私は、これが間違った決断だとは微塵も思わなかった。それどころか、やっと本当の自分を見つけたようで、言い知れぬ愛しさと心地良さで、満たされつつあった。

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