二十二.

 街路樹のくすんだ葉を時折ぼんやりと眺めては、水花は津島家へ足を向けていた。前に会った時の浩介は、いつもより元気が無かった。もし何か悩み事があるのなら、相談にでも乗ってあげよう。多分、ただ話を聞いてあげるだけになるかもしれないけど、それでもいい。それはきっと自分にしかできないこと。浩介の周りでは、私が一番の理解者なのだから。そんな自負を抱き、噛み締めている水花の頬は、ほんの少し緩んでいた。
 家に着くには少し早いかもしれない。でも、家にいても何もすることは無かったし、黙っているのには耐えられなかった。まだ寝ているかもしれない。遅い朝ゴハンを食べているかもしれない。でも、それでもいい。今なら遥さんがいても大丈夫。私は自分の気持ちを、はっきりと確かめたんだ。少しくらい自分にわがままになっても、いいだろう。
 冷たく澄んだ風が心地良い。家にいた時に抱えていた悶々とした悩みが、全てを平等に許してくれるような冬の太陽の下に、消えていく。頬を撫でる風が、私を励ましてくれているみたいだ。
 通り過ぎる家々の垣根や木々を眺めながら、ゆっくりと歩いていると、背後から誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。何事かと振り返ると、みおがいた。
 みおは水花に追いつくと、にっこりと笑いながら水花の肩を軽く叩いた。
「おはよう、早いね。浩介のとこに行くんでしょ」
「おはよう。うん、家にいてもすること無いしね。浩介、この前元気無かったから、大丈夫かなって」
「あれ、私がこの前行った時は、そうでもなかったんだけどね。でもまぁ、浩介って日によって調子が全然違うから、今日私達が行って、こう、パーッと明るくしたら、元気になるんじゃないかな」
「そうだね」
 水花はみおの息を整えてあげようと、歩調を緩めた。みおの方もそれに甘んじて、ゆっくりと周囲を見渡しながら、呼吸を整えようと努めた。
「何か水花、機嫌良さそうだね」
「そうかな」
 小首を傾げる水花に、みおが力強く頷く。
「うん。何かね、自信に溢れてるって感じ。何かあったの?」
「ううん、別に何も無いよ」
「そう。でもこう、自信がある水花って、前よりもずっと綺麗に見えるよ。これなら浩介も抱いてくれるかもね」
「ちょっ、やめてよ、そんなこと言うの」
 冗談だとわかっていても、恥ずかしい。私は少しむくれながら話題を移そうとしていたら、みおが微笑んだのに気付いた。
「でもさ、浩介って前より明るくなったよね」
「そう言えばそうかもしれないね。前はほら、何か距離と言うか、壁みたいなのがあったかもしれない」
「でしょう。でも、私も水花が言ったように、浩介どこか最近疲れているみたいに見えるんだよね。見た感じは前よりもいいんだし、こう優しくなった感じはするんだけどさ」
「何かあったのかなぁ。遥さんいるから、体調管理はできていると思うんだけど」
 そうこうしていると、津島家に着いた。現在午前十一時少々。この時間ならアトリエで絵を描いているはずだと思い、水花とみおは裏口に回った。
 アトリエに近付く時にはなるべく静かにとの、暗黙のルールがある。浩介の集中をなるべく妨げないためだ。ゆっくりと歩み寄り、水花が先行してそっとドアを開けた。
 声も出なかった。ドアの隙間から広がる光景を、どうしても認めたくはなかった。信じられなかった。
 イーゼルの前の椅子でうなだれている浩介。そんな浩介を後ろから優しく抱き締めて、背に自身の顔を埋めている遥。二人はまるで恋人同士のようであり、ほんの気紛れでそうしているようには、到底思えなかった。
 嘘だ……そんな……。
 誰よりも浩介を理解し、かつ私だけが支えになると思っていた。優美にはっきりと、自分の気持ちを気付かせられるよりもずっと前から、それは私の役割だと思っていた。遥さんが来て、浩介の身の回りのことを直接できなくなっても、私にしか深いところでの浩介の支えになれないと信じていた。
 でも、それは思い込みだったんだ。何のことは無い、遥さんが浩介の全ての支えとなっていた。私ができることは、遥さんならよりよくできる。歴然とした差がある。
 もしあそこにいるのが遥さんではなく私だったら、ああして浩介を抱き締めてあげられるだろうか。
 きっと無理だ。私にはできない。私ならば幾つかの言葉をかけた後、そっとしておこうと、一人にさせてしまうだろう。
「ねぇ、どうしたの水花」
 耳元でそう囁かれても、何も伝わらない。頭には居場所を奪われたという事実だけが、響いて止まない。目の前の二人を見ていると、足が震え冷や汗が背を伝い、次第に何も考えられなくなっていく。
 見つかってはいけない。このまま浩介と遥さんの雰囲気を壊してはいけない。立ち入れば一波乱ある。そうわかっているのに、水花はドアを開き、アトリエ内へと歩を進めた。
「浩介」
 小さな声だったが、遥を浩介から引き剥がすには充分だった。浩介も顔を上げ、遥と同様に目を大きく見開き、顔を強張らせながら水花を見詰めていた。
「水花さん……みおさん……」
 みおも二人の姿を見たのか、呆然とした中に嫌悪の色を覗かせている。誰も何も言えなかった。誰もがこの現実を受け入れ難くて、顔を向き合わせているものの、微妙に視線を逸らしていた。
 ゆっくりと水花が一歩、また一歩浩介に近付く。その顔は悲しげであるが、能面のよう。皆が水花を見詰め、水花は浩介だけを見詰める。
 一定の間隔を置き、水花が立ち止まった。しばらく浩介を見ていたものの、ふと微笑み、やがてうつむいた。
 結局私は何だったんだろう。いや、もうわかっている。何でもなかったんだ。浩介にとって私は、ただの友達の一人でしかなかった。浩介は私に心を許している。そう思っていたのは自分だけ、思い過ごし。何て滑稽なんだろうか。おかし過ぎて、もう笑えない。
「……バカみたい、私」
 低く、吐き捨てるようなその言葉が、アトリエに痛い程響いた。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって」
 さっと踵を返すと、みおを跳ね除けるようにして、水花がアトリエを飛び出して行った。みおは遠ざかる水花の背をしばし呆然と見ていたが、ふと思い出したように浩介と遥を睨み付け、
「バカ」
 そう言い残すと、水花を追い駆けた。
 真っ白だった。頭の中も、目の前も。何度も躓きそうになりながら、とにかく走った。今はもうとにかく、一歩でも遠くへと行きたい。消えてしまいたい。思い出したく無い。
 情けなかった。そして、恥ずかしかった。優美に浩介が誰よりも好きだ、そう言える自信があると言ったのに、先程何も言えなかった。何もできなかった。遥さんが浩介を後ろから抱いて、しなだれかかっていた。それを見ただけで、一気に自信が砕かれ、ただ逃げ出す他無かった。
 何でだろう。あんなにも強く抱いたはずの気持ちだったのに、どうして肝心な時に消えてしまったのだろう。あの時誓った私は嘘じゃなかったのに、どうしていざとなったら、何もできないのよ。
 涙は出てこなかった。悲しいし、悔しいし、嫌なのに、心が凍りついてしまったような感じ。だけど、怖い。そればかりが私を苦しめる。
 ともかくもう、ひたすら走った。胸は苦しく、幾ら息を吸っても肺に届かない。手足も重くなってきた。それでも、ひたすら遠くへと走る。途中人とぶつかりそうになったけど、かまわずに。
 どこか遠くで私を呼ぶ声がした。懐かしい声。だけど私は、それをも振り切りたかった。天を仰ぎ、地に視線を落とし、喘ぎながら走り続ける。もう歩いているのと変わり無いだろうけど、それでも。
 不意に後ろから肩を掴まれたので、立ち止まった。
「水花、待ってよ」
 振り返れば今にも泣き出しそうなほど、息を切らしているみおがいた。私がその場にへたり込むと、みおも同じく膝を折り、二人して息も絶え絶えに互いを見詰める。
「水花」
 みおはそれだけ言うと、私を抱き締めた。その息遣い、感触、匂い、温もりに、私の凍っていた心は次第に溶けていき、思わずみおを抱き締め返した。
 溢れ出す寛嬢に翻弄され、私はみおを確かめながら大泣きした。見栄も外聞も何もかも捨てて、とにかく泣いた。
 抱き締め返してくれるみおも、少し震えていた。

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