二十一.

 目覚めたものの疲れが大分残っており、ぼんやりとしか目を開けられない。もう少し眠ろうと、再び目を閉じ、寝返りを打つと、何かにぶつかった。
「うぅ、ん……」
 女の声に驚き、目を開く。隣には遥さんが、安らかな寝息を立てていた。
「そうだ俺、昨日……」
 昨晩の情事がフラッシュバックする。軽い眩暈を覚えながら、俺は遥さんを起さないようにベッドから下りると、乾いた喉を潤しに台所へと向かった。
「あぁ、俺は何をしているんだ」
 足取りが重い。単なる疲れだけではなさそうだ。昨日は色々あった、あり過ぎた。思い返すのも辛い。
 台所に着くと勢い良く蛇口を捻り、飛沫が跳ねるのも厭わず、コップに水を注ぐと、一息に飲み干した。胃に染み渡る冷たさをしっかりと感じると、浩介はもう一杯注ぎ、崩れるように椅子に座ると、背凭れた。そうしてゆっくりと目を閉じる。
 今でも生々しく浮かぶ遥さんの肢体、そして情事の感触。幾つもの場面が断片的に浮かび、嬌声が耳から離れない。何もかも忘れたくて、与えられる優しさに溺れたくて、貪り求めた。初めての味に戸惑い、また歓喜し、寄せる肌と囁かれる言葉に心癒された。
 気が付くと、下半身を疼かせている自分がいた。浩介は苦笑を一つ浮かべると、天井を見上げた。
「何やってるんだろう、本当に」
 一時の女々しい感情、場の雰囲気に流され、関係を持ってしまった。全く知らない女性と一夜限りならともかく、親しい女性と関係を持ってしまった。ただ、罪悪感は一向に湧かない。胸に去来するのは、一つになったという事実のみ。喜びも後悔も、ほとんど無い。一体何故それ程まで思い詰めるのか、自分でもわからないくらいだ。感嘆、のようなものだろうか。それとも感傷、なのだろうか。
「それより、日記だ」
 遥さんとの情事もそうだが、昨日は母さんの日記も大きい。今まで信じてきた親子の関係が、たった数ページで崩れてしまった。心の支えとして確かにいた母さんが、実母ではなかった。忌み嫌っていた父さんが、他人だった。自分はどこの子ともわからない存在だった。
「ははは、やってられないな」
 自嘲気味に笑うと、浩介はコップを傾けた。口から漏れた水が顎を伝い、胸元を濡らしたが、軽く口元を拭うだけでさして気に留めなかった。
「これからどうしようかな」
 それまで胸に抱いていた水花が薄れていき、それ程気に留めていなかった遥さんが、強く迫ってくる。また、父さんに関しても、これからどういう態度で接すればいいのだろうか。全てを知った今、家を出るべきなのだろうか。いや、出るにしても、いきなり自活すべき資金が無い。
 暗い気持ちを抱きつつ立ち上がると、浩介は力無くアトリエへ向かった。もう本当に信じられるものは、自分の絵しかない。情けない現実逃避なのかもしれないけど、今はそれに泣いてでも縋り付いていたかった。
 アトリエに入ると、とりあえずイーゼルの前に座った。目の前には木炭デッサン描きかけの絵。細部にまで手が加えられているけれど、完成までには程遠い。
 キャンバスに描かれている寂しげな子犬には、まだ表情が無かった。表情を描こうとしても、どんな顔なのか一向に浮かんでこない。方向性は決まっているのに。あぁ、認めたくないものだ。向き合いたくないものだ。だが、一度ちらりとでも気を向けてしまうと、もう頭から離れない。
 俺は表情を描けないんだ。
 わかっていた。ずっと前からわかっていた。今まで周囲の人々が褒めていたほとんどが、風景画だった。人物画ではない。水花やみお、優美ちゃんなんかは、不本意なまま完成させた人物画すら褒め称えた。しかし、何でも褒める人は信じられない。
 あぁ、そうだ。俺は描けないんだ。描くのを嫌がっているんだ。他人の顔を幾ら思い浮かべようとしても浮かばないから、結局どれも自分の投影になってしまう。自分を見詰めるのが怖いから、俺は自分の絵からすら逃げてきた。
 だが、今までの俺は嘘だった。描いたところで、他人のようなものだ。何を恐れる必要があるんだ。何を嫌がる必要があるんだ。今まで描けなかった俺は本当の俺じゃないだろう。いや、俺が悩んでいたのは本当のことか。あはは、わからねぇや。
 不気味に浩介の顔が歪み、声にならない笑い声を響かせる。聞く者を狂わせてしまいそうな程に歪んだ自嘲の響き。虚しさだけが残る。浩介は肩を震わせながら、膝に顔を埋めた。
 笑い声が止み、しばらくして浩介が顔を上げた。その表情は見るもの全てに牙を剥く、憎悪に満ちた表情。浩介はおもむろに引出しからナイフを取り出すと、奇声を上げてキャンバスをズタズタに切り裂き、イーゼルごと蹴り飛ばし、それが転がった先にナイフを投げつけた。
「くそっ、くそっ、ちっくしょう」
 肩で息をしながら、次に目をつけたのは、床に落ちていた母の日記だった。浩介はそれに手を伸ばし、舐めるように表紙を見る。
 古ぼけた皮の感触が手に馴染む。昨日初めてこれを見、母さんのだとわかった時には、強烈な愛しさと懐かしさを覚えたものだ。
 が、今は違う。手にしていると、憎悪ばかりが膨らんでくる。母だと信じていた人が、他人だった。血の繋がりの無い人達に、家族として生かされていた。何が家族だ。何が我が子だ。
「ふざけるな」
 勢い良く日記を壁に投げつけると、浩介はそれを睨みながら、しばらく肩で荒く息をしていたが、やがてまた座ると顔を膝に埋め、一人泣いた。
 誰も教えてくれなかったことが、ひたすら許せなかった。信じていた人達が許せなくなった。そして無知な自分に腹が立ち、最後にはもう何もかもがわからなくなり、無性に悲しくなって、ひたすら泣いた。
 泣いて、ひたすら泣いて、涙がもう出なくなっても呻いて、そうして悲しみの底へ自分を叩き落していたら、不意に後ろから抱き締められた。
 顔を上げなくても、遥さんだとわかる。だが、どうすればいいのかわからない。どうにもできない。そのまま、俺は動けなかった。
 いや、動きたくなかった。このまま背に伝わる心地良い温もりを、ずっと味わっていたい。言葉なんていらない。見詰め合うことも、微笑みもいらない。甘えだとわかっていても、今はただ、この優しい温もりにいつまでも包まれていたい。
 より強く抱き締められ、頭を摺り寄せられると、浩介はゆるやかに頭を左右に振り、前に回されている遥の手を掴んだ。

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