二十.

「ごちそうさま」
 ほとんど手付かずの夕食を残し、浩介は遥を見ないようにそそくさと席を立つと、自室へと向かった。
 部屋に入ると、電気も点けずにベッドに腰掛け、膝に肘を立てながら手を組むと、それを額に押し当ててうつむきながら、静かに目を閉じた。
 そうしてようやく伝わる、暗闇の安息。何も見えず、何からも隠してくれるのが嬉しい。自分と言う人間を、この世から消してしまいたい。誰の記憶にも残らないように、一切を。
「養子、だったのか」
 一語一句噛み締めるように、しかし溜め息混じりに口に出してみる。苦しい。言葉にすると、より重く現実が圧し掛かってくる。だが、それからはもうどうやっても逃れられない。
 養子。
 それだけが、今までの人生をひっくり返す。今まで抱いてきたもの全てが、砂のように崩れていく。頭の中がうねり、目を閉じたはずなのに、色々なものが浮かんでは消えて行く。
 幼い頃、もう顔も思い出せない母さんだけども、その手は暖かかった。抱かれていた時には、これ以上無いくらいの温もりがあった。泣いていた俺を優しくあやし、笑顔を向けてくれていた。
 父さんは俺の望みを、可能な限り叶えてくれた。ゲームソフトが欲しいといえばそれを、画材が欲しいと言えばそれを、また何も言わなくても、色々な物を与えてくれた。他人の眼に気付き、欲しい物を素直に言い出せなくなっても、父さんは与え続けてくれた。それを押し付けがましく思いつつも、俺は受け入れていた。
 自由すらも、手に入った。しかし俺はその与えられている自由に束縛を感じ、父さんを憎んだ。少しでも何か言われると、その自由が全て嘘のように思えて、反発した。
 過剰なる愛情だと思っていたが、それは全て愛ではなかった。本当の家族によるものではなかった。俺が養子だから、他人の子だから、所詮借り物であるから、大事にしてくれていただけだ。今まで授かってきたもの全てが、偽者だった。
 本当の親なら、子ならもっと違う扱いになったのではないだろうか。全てを与え続けるのではなく、様々な制限をし、時には殴ったりしたのではなかろうか。本当の親子とは何だろうか。あぁ、もしかしたら甘やかされ、大切にされたと言うのは、俺の思い過ごしではないだろうか。
 そう言えば母さんも日記で、俺を津島家の跡取りのために養子として引き取ったと書いてあった。よくよく思い出してみれば、どことなくよそよそしさがあったような気がする。俺に向けていた笑顔の中で、眼は笑っていなかったような……。
 父さんもだ。俺と接している時には、どこか距離を置いていた。母さんのことを訊いても、詳しく話してはくれなかった。過去に触れられるのを、どこか嫌がっていた節がある。だから俺に余計な考えを抱かせないよう、何でも与えたのだろう。
 みんな俺が俺を知らないよう、色々取り繕ってきたんだ。何も知らなかったのは、俺だけだったんだ。
「あぁ、もう……何を……」
 頭を掻き毟り、更に固く目を閉じると、薄っすらと涙が滲んできた。それには冷たさも暖かさも、何も感じない。ただ濡れる。それだけだった。
 どうしようもない程に、心が荒んでいく。今まで信じていたものに対する猜疑心、自分のこれまで受けてきた愛情が同情だと知った寂寥感、そして自分は並の人間とは更に違っているのだと言う疎外感が、際限無しに膨らんで行く。俺はもう何が何だかわからなくなり、ただ暗闇の中で涙を滲ませながら呻くしかなかった。
 一体どのくらいの時間が経ったのだろう。不意にドアが二度ノックされた。浩介がびくりと肩を竦めながら、ドアの方を見る。
「どうぞ」
 ドアが開かれると廊下から光が流れ込み、入り口近くの闇が払われた。
「失礼します」
 遥が入るなり、浩介は再び視線を落とした。
「コーヒーをお持ち致しました。あの、明かりを点けてもよろしいでしょうか」
 浩介からの返事は無かった。遥はしばらく待った後、電気を点けた。暗闇は隅の方へと一瞬で逃げ、それに覆われていたものが姿を現す。浩介はと言うと、少し見を竦ませただけで、別段変化は無い。
「暖かいコーヒーは心を落ち着かせますよ。冷めないうちに飲んで下さいね」
 テーブルに二つカップを置く。一つは遥の分だ。ゆったりと揺蕩う湯気を遥は側に座りながら見詰め、時折浩介の方へと目を向ける。浩介は相変わらず同じ姿勢のまま、何も言おうとせず、何を見ようともせず、ただじっと組んだ両手を額に押し当てては、何か考え込んでいる。
 コーヒーの湯気がカップから立ち昇らなくなった頃、遥が立ち上がった。
「あの、そろそろ私は失礼しますね」
 自分のコーヒーを持った遥が、踵を返す。
「待ってくれ」
 顔を上げずに浩介が遥を呼び止めると、遥は振り返り、すぐにテーブルの上にカップを置くと、また座った。
 それきり、また先程の沈黙が部屋を支配する。浩介も遥も姿勢を変えず、ただじっと重苦しい雰囲気を全身で感じていた。
 そんな空気を破ったのは、浩介の笑い声だった。低く断続的に込み上がるそれには、強い自嘲が込められており、聞く者に恐怖を与える。
 やがてそれが止むと、浩介は天を仰いだ。
「俺、養子だったんですよ。今までそのこと知らないで、ずっと生きてきて……何も知らないで、ただ与えられるものに甘えて、それを一切疑うこともせずに、ただ受け入れて。バカみたいだ」
 遥は何も言えなかった。何も言えないどころか、うつむくだけで精一杯だった。見詰めることはおろか、指の一本すら動かせないでいる。
「俺、何を信じればいいんだろう。今まで信じてきた疑いようの無いことが、今更嘘だったなんて、笑い話にもならないよ」
 浩介は再びうなだれ、両手で顔を覆う。
「全部作られていた。本当だと信じていたことは全部、作られていたんだ。何だかもう、何もかも、自分すらも信じられない。俺は確かにここにいて、こうしているのに、それすらも嘘のことのように思える」
 肘が滑り、浩介の顔は膝に埋もれた。もう浩介の言葉は呻き声にしか聞こえない。そんな浩介を見かねたのか、遥は立ち上がると浩介の隣に座り、そっと肩から抱き締めた。
「浩介さん」
 遥が浩介にしなだれかかる。
「あなたはここにいる。あなたの気持ちもここにある。そして、私がいる。それは決して嘘なんかじゃない」
 ゆっくりと浩介が体を起こすと、寂しげな瞳を重ね、遥を抱き締め返した。強く、それでいて優しくいたわるように、互いに温もりを伝え合っていた。
 すっと浩介が遥を引き剥がす。力は決して強くなく、遥の方も名残惜しそうに離れる。二人はしばらく無言のまま見詰め合うと、そっと唇を重ねた。
 そっと体をまた抱き寄せ、互いに唇の感触を確かめ合う。最初は押し当てては離すだけのキス。しかしゆっくりと求め合うものが増え、やがて互いの舌が絡まった。
 初めてこうしたキスをする浩介も、すぐにリズムを掴み、遥の顔と背を抱き寄せながら、より深くまで感じたく、何度も何度もその感触を確かめようとする。遥の方はそうしたキスにある程度慣れているようだが、リードするよりはされたいタイプなのか、ぎこちない浩介の舌使いを巧く導いてやれないもどかしさを感じていた。
 それでも薄っすらと感じる相手の味、匂い、感触、そして温もりが自然と身も心も昂ぶらせていく。繰り返し繰り返し舌を絡め、見詰め合い、また唇を重ね、そうして髪を撫で合い、抱き締め、もっともっと深く知り合いたいと心が強く疼く。
「浩介さん」
 唇を離すと、遥がじっと浩介を見詰めた。同情でも愛情でも、劣情と言うものでもなく、全てを許しているかのような眼差し。浩介はただ強く抱き締めた。
「なぁ、遥さん」
「遥って、呼んで。お願い」
「……遥」
 体を戻し、再びキスをする。そのキスは長く唇に留まらず、耳に、首筋にと移ろう。それまでくぐもっていた遥の声が、一際強くなった。
 服の上からゆっくりと乳房への愛撫を始める。キスを重ねながら、浩介はじっくりとその感触を何度も確かめる。その度に遥が鳴き、更なる昇りを呼び起していく。
「なぁ」
「えぇ、いいわよ」
 互いに服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になると、笑みが漏れた。そこには不安も確たる愛も無い。ただ、より深い温もりを知りたいだけ。
 キスをすると、先程よりも強く温もりを感じた。触れ合う素肌、求め続ける唇、果てる事の無い愛撫は二人の理性を少しずつ奪う。浩介の体は下へと徐々に下がり、乳房や首筋、そして秘部へと愛撫の手を進める。遥はそれを素直に受け入れ、されるがままに感じ、ゆらりと快楽の海に沈んでいく。
 経験は無くとも、体が自ずと昂ぶりを求める。浩介の指が遥の秘裂へ滑り込むと、遥は僅かに顔を歪め、くぐもった声を漏らす。そんな遥に浩介の胸は激しく疼き、夢中になってその反応を貪る。
 シーツの中で悶える遥が、浩介の手を力一杯引き剥がした。浩介が少し不安そうな顔を覗かせると、遥は肩で息をしながら、艶っぽく微笑んだ。
「浩介さん、来て」
 そんな遥が愛しく、浩介はまた一つ唇を重ねると、ゆっくりと遥と重なった。
 ぎこちない浩介の動きを遥がリードする。浩介は直接伝わる遥の温もりと熱い吐息、そして動く度にくねる肢体と響く嬌声に、満たされていくものを感じていた。
 繰り返される口付け、止まらない愛撫、そして熱を増す抽送が二人の野性を徐々に増し、恋愛感情とはまた違った愛情を膨らませ、一つになろうと叶わぬ願いを貪る。
 遥が浩介の名を叫び、抱き寄せる。浩介が遥の名を呼び、抱き締め返す。強く深く互いを確かめ合いながら、もう一度舌を絡めた。
 しばらく横になりながら微笑みとキスを重ねていたが、不意に遥がシャワーを浴びるために立ち上がり、服を着て部屋を出て行った。
 パタンとドアが閉まると、浩介はぼんやりと天井を見上げた。見慣れた天井には特に何も思わず、何も考えず、ただ遥と一つになったことを、まるで他人事のように思い返していた。
「遥……」
 初めての相手、それには何の感慨も無かった。肌を重ねたことよりも、仕事で来た人とそういう関係を持ったということよりも、歓喜や罪悪感など小難しいものではなく、ただ先程の遥の痴態を思い返しては、軽い悦に入っていた。
 濡れた髪を電灯に輝かせ、遥が戻ってきた。服を着ている遥に少々照れつつ、浩介は急いで服を着ると、シャワーを浴びに行った。
 汗も匂いも流されていく。だが、深く刻まれた感触は消えず、ふとした瞬間にすぐ蘇り、ゆるやかに心の奥底を痺れさせる。体の官能は既に消えつつあるが、心の官能は依然燃え続けていた。
 部屋に戻ると、遥がベッドに腰掛けていた。浩介がその隣に座ると、そっと冷たい水を渡された。コップの冷たさ、そして水の美味しさをじっくり味わうと、溜め息混じりの微笑みで遥を見詰めた。
「なぁ、一つだけ教えてくれ」
 野暮なことだと思いつつも、我慢できずに口を開いてしまった。
「どうして、こんなことを」
 遥は包み込むような微笑を返す。
「浩介さんだからです。あなただからこそ、私は私に素直になれた。巧く自分のこの気持ちを言えませんが、私はあなたを安心させたかった。そうして私を安心させたくもあった」
「安心、か」
「はい。でも、もしかしたらそれ以上か以下の気持ちもあるかもしれません。でも、今はその他の気持ちなんてどうでもいい。ただ私は、こうしていたいの」
 遥はそっと浩介に顔を近付けた。浩介もそれに応え、唇を重ねる。もう一度言葉にできない気持ちを確かめ合うかのように、深く濃いキスをする。
「そろそろ、寝ようか」
 幾度か繰り返した後、二人は布団に入った。最初は少し距離があったものの、すぐにそれは無くなり、やがて二人は抱き合った。遥が浩介を子を抱くように包み込むと、浩介はすぐに眠りの中へと落ちて行った。
 至上の安寧が、そこにあった。

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