どうしていいのかわからなかった。一体何が起こったのかすら、わからなかった。お母様の日記帳を目を細めて見ていたかと思ったら、急に青い顔をして精気を失い、呆然と天井を見上げてしまった。
そこに一体何が書かれてあるのだろう。何がそれ程までに、浩介さんをああさせたのだろう。あの日記には、どんな秘密があるのだろうか。知りたい。
でも、今は浩介さんを落ち着かせる方が先だ。ここにこのままにしていたら、いけない。一刻も早く、日記から遠ざける方がいい。取り合えず、自室に連れて行こう。
「浩介さん、浩介さん」
耳元で呼びかけても、肩を揺さ振っても、反応は無かった。仕方なく遥は浩介の腋に肩を入れると、半ば引き摺るようにして、浩介の自室へと向かった。
植物人間を目の当たりにしたことは無いけど、きっとこんな感じなのだろう。生きているのかどうか、わからない状態。今の浩介さんが正にそうだ。自力で歩くこともままならず、ようやくの思いでベッドに寝かせても、無反応。正直、怖くてたまらない。
「何かあれば呼んでくださいね。すぐに駆け付けますから」
私は肩で息をしながら逃げるように浩介さんの部屋を出ると、すぐにアトリエへと向かった。あの日記に、一体何が書かれているのだろうか。主人のことを詮索してはいけないと知りつつも、私は湧き上がる好奇心を抑えられなかった。
アトリエに入ると、私は浩介さんや他の人が来ていないかを一応確かめた後、浩介さんが座っていた所へゆっくりと近付き、日記帳を手に取った。
「これに何が書かれているんだろう」
開こうとした途端、再び罪悪感が胸をよぎった。これを見てしまえば、もう戻れない。もし浩介さんに知られたら、私はもうメイドを続けられなくなってしまうかもしれない。でも、津島家の秘密は誰しも知りたいことだ。
しかし、相手は御主人様である。仕事として来ているのに、いや、人として他人のプライベートな秘密を覗くのは、よくない。
だけど……。
「少しなら、わかんないわよね」
際限無く湧き上がる好奇心に抗えず、遥はベッドに腰掛けながら表紙を捲った。
綺麗な字で日記は綴られていた。そこには浩介さんのお母様が体験した世界、心情等が赤裸々に書かれており、つい見入ってしまう。
やがて遥は浩介が養子として引き取られたということを知ると、一瞬息をすることも忘れ、養子という文字を見詰めていた。
「浩介さんが、養子……」
視界がぼやけ、胸が締め付けられる。迫り来るものは、同情なのだろうか。
いや、同情と言っても、可哀想だとかそう言うものではなく、気まずさのようなもの。見なければよかった。わかっていたことだけど、引き返せない。もしできることならば、数十分前の自分にこの気持ちを伝えたい。
でも、もう遅い。
溜め息すら出ない重苦しい雰囲気の中、私はページを捲った。どこか虚ろな眼差しで文字を追っていると、ふと我が目を疑うことが書かれていた。
五月十六日 金曜日
一晩経って浩介を抱いてみても、昨日強く感じた愛しさに変わりは無かった。宗一郎さんを始め、お父様やお母様はまだどこかぎこちないながらも、何とか浩介を津島浩介として受け入れようとしてくれている。これなら心配もいらないだろう。
お昼頃、私は一人で昨日の孤児院へ向かった。浩介を連れて行かなかったのは、もうこの地を踏ませないため。ここにいたという記憶を残しておかない方が、浩介のためだと判断したからだ。
詳しい住所はわからなかったけど、大まかな住所はわかっていたから、そこまで電車で行き、そこからタクシーを使った。青松園はそこ以外無かったみたいで、少し安心した。
孤児院に着くと、私は院長への面会を申し込んだ。すぐに手配され、私は院長に会うことができた。
西野絹江。彼女はそう名乗った。そしてどうして私一人がここに来たのか、訊ねてきた。そうだろう。もう私は、ここに来る必要は無いのだから。
だけど、私は津島葉子個人として、この人と会って話をしたかった。たくさんの故事を育てていることに対する気持ち、どうして育てようと思ったのか、そして何故多くの子供達の中から浩介を選んだのか。
西野さんは多くを語らなかった。ただ、ある人からここを任され、身寄りの無い子に同情ではなく愛情を与えてあげたかった、と。そして浩介については、宗一郎さんから物心のついていなさそうな子供をと頼まれたので、浩介を選んだのだと。
青松園を出る時、私は西野さんにもうここには来ないことを誓うと、握手をしてから別れた。きっと、もう会わないだろう。
明日から本当に新しい生活が始まる。それをより良い方向へと、私は持って行きたい。
遥はそこで手を止めた。
「この人、もしかして」
西野絹江。その名に遥は見覚えがあった。いや、見覚えと言う程、遠い記憶ではない。つい一ヶ月前には会っていた人物なのだから。
「所長じゃない、私の会社の」
啓神メイド派遣所所長、西野絹江。彼女とはあまり面識は無いものの、人の良さそうな品の良い老女というイメージが強く残っている。特に裏や暗い部分は噂すら聞いたことが無く、またそう見える人でもない。
しかし今、私と浩介さんは、この西野絹江と言う糸で繋がっていることを知った。それに奇妙な運命じみたものを感じた私は、日記を浩介さんが落とした時のように置くと、受話器を取り、会社へと電話をかけた。
所長の経歴に孤児院を経営していたなんて、あっただろうか。もし無いとしたら、きっと何かあるはずだし、あったらあったでちょっと気になるから、調べてもらおうかしら。
コール音が三度響くと、相手が受話器を取った。
「はい、こちら啓神メイド派遣所です」
電話に出たのは遥が妹のように可愛がっている、佐倉渚だった。溌剌とした声は聞き慣れていたはずの遥の心に、妙な愛しさを感じさせた。
「あ、渚。私よ、遥」
「お姉ちゃん」
頬が緩む。きっと電話の向こうでは、渚もそうしているだろう。嬉しさのあまり私はつい、今の生活を話してしまいたかったけど、首を横に三度振ると、気を取り直した。
「どうしたの、急に電話なんかして」
「うん、ちょっと訊きたいことがあってね」
「訊きたいことって、私に?」
「うん」
私よりも年下だけど、渚の方がずっと長く会社にいる。その分、知っていることも多いだろう。会社のことは渚に訊いた方が、誰よりも信憑性がある。
「あのさ、所長について教えて欲しいの。知っていること、全部教えて」
「いいけど、どうして」
「ちょっと気になることがあったの」
「そうなんだ。えっと、じゃあ、取り合えずプロフィールから言うよ」
渚が教えてくれたものをまとめると、所長は一九六一年二月十三日生まれの四十七歳、A型。独身で、未婚。学歴は平凡なものだが、今から二十一年前に啓神メイド派遣所を設立。現在はその他に福祉関係にも手を出しているとのことだった。
ただ、そのくらいのことは渚に訊くまでもなく知っていた。知りたいのは今も青松園があるのか、そして所長の人間関係と過去。私は渚にその辺を訊いてみた。
「うーん、ちょっとわかんないや」
「そう、ありがとうね」
好奇心だけで渚に深く調べさせるわけにはいかない。渚にだって仕事があるのだから。私は溜め息一つ気取られないようにつくと、受話器を置こうとした。途端、渚の声が聞こえたので、再び耳に押し当てた。
「ねぇ、何だったら調べようか」
「あ、いいよ。でも、このことは黙っていてね。誰にも喋ったらダメだよ」
「うん、わかった。じゃあ、お姉ちゃん、がんばってね」
「渚もね」
受話器を置くと、遥は天を仰いだ。
気になることは多いけど、あまり深入りするのもよくないわね。
遥はもう今はこれ以上詮索する気になれず、少しでも浩介を自然に元気付けようと、夕食の支度に取りかかった。
辺りは次第に暗さを増し、ゆっくりと夜の顔を覗かせ始めていた。