十八.

 帰宅した浩介は母屋の方へは行かず、すぐアトリエに入った。イーゼルの前に座ると、しばし絵を見詰め、それから溜め息一つ。
「俺にとっての水花、か」
 先程のみおの言葉が心にひっかかる。言われると余計なお世話だと思えるが、決して無視し続けていい問題でもない。今一度じっくり考えてみるのも、いいかもしれない。
「とりあえず、他の人から考えてみるか」
 思えばじっくり誰かとの関係について考えることは、普段無い。水花はおろか、みおや遥さん、そして優美ちゃんなんかも。自分にとって果たして彼女達は、一体どんな存在であるのだろうか。
 遥さんはただのメイド。知り合ってから割と早く打ち解け、もう二週間近く経つが、特別な感情は抱かない。それもそうかもしれない。一緒に住んでいるとは言え、俺はいつもアトリエにいるし、遥さんもそういった素振りを見せない。不思議なことに、魅力が無いわけじゃないのだが、あまり遥さんに女というものを見出さないのだ。まぁ、同居していて恋愛のもつれなんてものが起こり、居心地悪くなるのは勘弁して欲しいから、これでいい。
 優美ちゃんはもう本当に妹みたいなもの。初めて知り合った時が小学生だったから、そう思うのも当然だろう。それに、お兄ちゃんなんて言われ方していたら、どうもね。
 みおは仲の良い親友。割と男っぽいと言うか、一緒にいても肩肘張ることが無いので、気兼ねがいらない大切な奴だ。こういう奴は男も含め、俺の周りでは他に水花しかいないのかもしれない。
 そしてその水花。そう、水花は一体自分にとって何なのだろう。別段恋人同士な付き合いと言うわけでも無いし、肉体関係なども無い。ただ、友人と言う枠組みにはどうも収まらないようにも思う。何か水花に求めている、そんな感じだ。
 じゃあ俺は、何を求めているというのか。
 安らぎも体もそりゃ欲しいが、それよりも大きなもの。恋人と言う名分ではない。刺激とも違う。もっと、何と言うか、巧く表せないが、繋がりのようなもの。その中でも、覚悟に近いもの。
「一体何の覚悟だと言うのだろうか」
 その先は幾ら凝視してみても、何も見えなかった。やがて俺は深呼吸をすると、木炭を持ち、疑念を振り払うかのように描き始めた。
 幾ら木炭を動かしても、思い描く絵にはならない。動かせば動かす程に汚れる一方。それもそのはず、浩介の眼はキャンバスの先を見詰めていた。そう、水花の姿を思い浮かべて。
 俺が水花をどう思っているのかは、何となくわかった。では水花の方はどうなんだろう。水花は俺を、普通の友人以上に慕ってくれている。みおが言っていたし、俺も気付いているが、水花は俺のことを好きでいる。俺もそんな水花に甘えて、よく恋人のように思い、接することもある。
 だけど、本当に水花はそう思っているのだろうか。もしかしたら、水花にとってはそれが普通の接し方で、俺もみおも勘違いしているだけじゃないだろうか。そうした勘違いに気付かないフリをして、水花は俺と接しているのかも。水花は優しいからな。
 考えても仕方ない。わかっている。けれど、思うように手が動かない。必死に目の前の絵に集中しようとするが、どうしても気持ちは違う方向へと向かう。
 三十分経ち、一時間経ち、二時間経っても、木炭は同じ場所に止まっていた。時折思い出したように動くものの、僅かにキャンバスを掠める程度で、何も為してない。
 出るのは溜め息のみ。浮かぶのは水花を中心とした、人々が取りとめ無く現れる映像。そして支配するのは、冷え冷えとした沈黙。浩介はキャンバスから目を離し、ぼんやりと四角く切り取られた空を見ていた。
 不意にドアが二度ノックされた。浩介は慌ててドアの方へ目を向け、身構える。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
 思うまでも無く遥だった。遥は大切そうに、何か本のようなものを抱えている。
「何だい、それ」
 浩介の問い掛けに、遥は一度頭を下げた。
「私もよくわからないのですが、物置を掃除していたら、何やら奥の方にひっそりと、隠すように置かれていたんです。いけないとは思いつつも、つい気になってしまい……本当に申し訳ありません」
 遥はもう一度深々と頭を下げる。
「あぁ、頭なんか下げなくてもいいよ。それよりも、どうしてそれを持ってきたんだ」
「それは、その、鍵もかかっていますので、何か重要な物だと思ったのと、きっと浩介さんも見たことが無いだろうと思いまして」
「遥さんも見たかったんだろ」
「あ、その……すみません」
 まったく、幾らメイドだと言っても、やはりこういうのには目が無いんだな。
「もういいからさ、それ見せてくれ」
 遥さんから受け取り、それをじっくりと見てみる。見た感じ、日記帳のようだ。古いには古いが、何十年も前の代物ではなさそうだ。色褪せた赤いレザーカバーが女性の物のような感じを与える。
 女性?
 そこそこ古い日記。そしてきっと女性であろう持ち主。物置の奥にしまってあった。鍵付き。
「遥さん、鍵は、この鍵は無いのか」
 見たいような、見たくないような胸騒ぎが、浩介の語調を強める。
「いえ、それらしい物は見ておりませんが」
「そうか」
 別に他人の日記一冊くらい、どうでもいい。見ても、取り立てて面白いものでは無いだろう。だが、気になる。どうしても見たい。もし俺の予想が当たっていれば、きっと。
「探すぞ」
「え、何をですか」
「鍵だよ。遥さんは一階を、俺は二階を探す。見つけたら大声で教えてくれ。いいな」
「わかりました」
 二人は急いで母屋へと向かった。
 俺はまず母さんの部屋へと入った。もし俺の予想が正しいならば、あれは母さんの日記だ。日記の古さ、そして保管から言っても、きっと間違い無いだろう。
 生前母さんが使っていた部屋も、思えば調べたことなんて無い。どこに何があるのかわからないまま、俺は机の引出し、クローゼットの中、ベッドの下、小物入れ、化粧台、本棚、壁に掛けられた時計や絵画の裏まで、隅々調べてみた。
「くそっ、無いな」
 どこにも無い。何故だ。ありそうな場所、気になる場所は粗方調べた。なのに無いとは、どういうことだ。
「まてよ、もしかしたら」
 俺は次に父さんの部屋へと急いだ。
 母さんは俺が物心付く前に、病死したと聞かされた。それも心臓か何だったかの病気で、あっと言う間に死んでしまったらしい。だとすれば、きっと日記も書きかけで、身辺整理もできないままだったろう。母さんの死後にそれをできるのは、父さんだけだ。
 母さんの部屋同様、父さんの部屋も調べたことなんて一度も無い。憎むべき父である以前に、家族であると言う以前に、他人の部屋。幾ら仲が良くても、いや、例え客間や台所であったとしても、その部屋の隅々を調べるなんてことは普段しない。我が家なのに、実は知らないことが多過ぎる。
 机の引出しを開けてみる。書類等が雑多に押し込められており、一見しただけではどこに何があるかわからない。散らかさないように掻き分けて探してみるが、鍵のような物はどこにも無い。引出しはその他に三つあったが、どこも同じような有様だった。
 次に小物入れ、本棚、クローゼットを調べてみたが、何も無かった。
「あとは、ここか」
 押入れの下段にある金庫。番号はわからない。けど、パスワードなんてものは、そう多く作れるものじゃない。誰かしら、何かの法則を持っているものだ。
 父さんの誕生日、母さんの誕生日、結婚記念日、俺の誕生日など、思い付く限りの記念日で試してみたが、開きはしなかった。当然、適当に数字を入れてみても、開くはずは無かった。
「ちくしょう」
 金庫を蹴りつけると、俺は父さんの部屋を出て、次に使われていない和室へと向かった。
 この部屋は全てが物置のようなもので、様々の物が整頓されているものの、探すとなると多過ぎて手のつけようが無いくらいだ。取り合えず手前のダンボール群は新しいものばかりのはずなので、奥の方から調べてみる。
 探す程に懐かしい思い出の品が出てくる。小学生の頃に描いた絵、幼稚園の運動会で貰ったメダル、父さんが使っていたであろう釣り道具、母さんが身に付けていたであろうネックレス等の装飾品。だが目当ての鍵は、どこにも無い。
「仕方無いな」
 浩介は苛立ったように荒々しく階段を降りると、物置から工具箱を取り出した。
「遥さん、遥さん、もういい。アトリエに来てくれ」
 大声でそう呼ぶと、遥の返事を待たずに、浩介はアトリエへ急いだ。
 程無くして、遥がアトリエにやってきた。
「見つかったんですか」
「いや、見つからない。だからな」
 浩介は工具箱を一瞥する。
「鍵を壊す。切れるかどうかわからないが、糸ノコで切断する」
 言いながら浩介は工具箱の中から糸ノコを取り出し、鍵の上部に刃をあてがった。紙を傷付けないように注意しながら、糸ノコを動かす。金属同士が擦れ合う耳障りな音がアトリエ内に響き渡るが、浩介はもちろん、遥もじっとそこを凝視している。
 鍵は思ったよりも固く、作業は遅々として進まない。徐々に苛立ちが湧いてきたが、それと同時に隠された秘密の重大性が増してくるような感覚が、俺を疼かせていた。
 十五分くらいかかって、ようやく上端が切断された。下端も切らねばならないかと思ったが、何てことは無い、すんなりと開いた。上端ギリギリではなく、真ん中から切っていたら、開かなかったであろう。
 浩介は遥と顔を見合わせ一つ頷くと、早速表紙を捲ってみた。
 思った通り女性の日記だった。日付は今から二十三年前の六月から二十一年前の三月までのもので、一見した感じ、毎日書いているわけでは無く、所々日付が飛んでいる。
 そして、やはりこの日記を書いていたのは、母さんだった。
「あの、失礼ですがどなたのですか」
「母さんの日記だよ」
 おずおずと訊ねる遥に浩介は目を向けず、ただひたすら日記を読み耽る。
 日記は宗一郎との出会いから書かれていた。両家の勢力拡大のための見合いだったが、すぐに二人は恋に落ちたこと。二人で旅行に行って、互いにプレゼントを買ったこと。そして結婚、二人の生活。
 両親の若かりし生活をこうして垣間見ていると、実に不思議な気分になってくる。もう記憶の片隅に温もりしか残っていない母さん、五十半ばを過ぎ、業界に辣腕家として名を馳せている父さんの知られざる素顔は、気まずさと照れが混ざり合い、苦笑が生まれる。特に母さんは、父さんや周囲の人達からの話でしか知らないため、こうして日記で直にその心に触れていると、強烈な嬉しさと寂しさが込み上がってくる。
 ふと浩介の手が止まった。表情が一変して強張り、視線はゆっくりと一文字一文字注視するように動く。次第に青くなっていく浩介の顔。その視線の先には、以下のようなことが書かれてあった。

  五月十四日 水曜日
 また宗一郎さんのお母様に、子供はいつできるのかと言われた。私だって子供は欲しい。けど、幾ら肌を重ねても、一向にその兆候は現れない。
 もしかしてと思い、病院に行ってみた。薄々気付いていた通り、私は不妊症らしい。お医者様が言うには、諦めるしかないと。
 子供は諦めるしかないのだろうか。だけど、それを伝えたところで、きっと何もならない。何のための結婚だと言われることだろう。どうにもならないことを責め続けられるのは、辛い。
 夜、宗一郎さんにそのことを告げた。宗一郎さんは「そうか」と言って、私を抱き締めてくれた。きっと私と同じくらい辛いのだろう。文句の一つでも言いたいのかもしれないけど、優しい人だから……。
 ただ、跡取りは大事な問題。話してみると、家の問題はもちろん、宗一郎さん自身も子供は欲しいようだ。私も欲しい。でも、もうこれは私の力ではどうにもできない。
 しばらく話し合った結果、養子を貰うことに決めた。本当は二人の子供が欲しいけど、もうそんなワガママは言っていられない。養子であれ、きっと家の方は跡取りがいればいいのだろうから、納得してくれるだろう。
 親族には後で伝えることに決めた。明日は宗一郎さんと孤児院に行くことにする。

  五月十五日 木曜日
 養子、一体どんな子が我が子になるのだろう。期待より不安が広がり、お昼前に行くつもりだったのに、結局お昼過ぎに出発となった。
 車中、宗一郎さんは何も言わなかった。私も何も話さなかった。話せなかったと言った方が、正しいかもしれない。二人してこれからの出会いに、不安と恐れを抱いていた。
 一時間程で孤児院に着いた。ここは宗一郎さんの知り合いが管理していて、多少顔が利くらしい。院内の広場には十数名の幼子がいて、皆一様に私達を見ていた。もしかしたら、この中の誰かが我が子になるのだろうかと考えたら、覚悟はしていたけど、不安が増した。
 院長は私と同じくらいか、少し上くらいの女性だった。とても物腰の落ち着いた人で、好感が持てた。
 宗一郎さんは事前に話を通していたらしく、すぐに一人の男の子を連れてきてくれた。一歳くらいだろうか。名前は浩介と言うらしい。
 誰の子供なのかわからないけど、手を繋ぎ、抱き締めた時に、はっきりと感じた。この温もりは確かに我が子のもの。不安や恐れはいつの間にか無くなっていて、その笑顔に私は心の底から愛しさを感じた。
 帰宅し、お父様やお母様に何事かと訊かれたけど、事情を話すとひとまず納得してくれた。私の家の方にも連絡を入れたけど、同じような反応だった。きっと、諦める他なかったのかもしれない。
 納得はしてくれたけど、まだきっと認めてくれないだろう。でも、それも時間をかけ、立派に育てていけば、きっと本当の家族として認めてくれるはず。
 私はこの子を生涯我が子として、立派に育てていこう。
 浩介、私の愛する子供。

 そこまで読むと、浩介はがくりと首を折るように天を見上げた。土気色に近い顔からは、全く精気が感じられない。
 嘘だ。何もかもそう信じてしまいたい。今見たことを忘れてしまいたい。見なければよかった。見ない方が幸せだったんだ。
 何故遥さんはこれを持ってきた。余計なことに興味を持ったから……いや、興味は俺も持っていた。強く持っていた。遥さんは報告しただけだ。鍵を探し、見つからないのに無理矢理こじ開けたのは、誰でもない、俺だ。
 俺の中に残る温もりは、本当に母さんのものなのだろうか。もしかしたら別の、本当の母さんのものなんじゃなかろうか。
 父さんは何でも与えてくれた。何でも許してくれた。死んだ爺ちゃん婆ちゃんも同じ。だけど、それは俺が養子だったからではないのか。幾ら我が子だと言っても、結局は血の繋がりの無い他人。そう、他人だ。だから俺に対して、そうしていたんだろう。
 俺は父さん母さんの子供ではなかった。
 本当は誰の子かもわからない人間。
 俺は一体誰だ。
 俺は何者だ。
 俺は……。
 次第に考えがまとまらなくなっていく。世界が白に染まっていく中、どこか遠くの方で本か何かが落ちる音が、微かに耳に響いた。

17へ← タイトルへ →19へ