十七.

 行き交う人々は皆どこか疲れたような顔をしている。それはきっと、そろそろ冬の匂いがし始める季節によるものなのかもしれない。そんな灰色の街並みを、みおはそぞろ歩いていた。
 肌寒さが日増しに強まるとは言え、今日は天気の良い散歩日和。心地良い日差しに目を細めながら、排気に塗れた空気をも胸一杯に吸い込み、ショーウィンドーに飾られた商品を眺める。
 家でじっとしていても何も無い。水花と遊ぼうにも今日はバイトらしく、他の友人も何だかんだと用事があり、結局一人。外へ出てみたものの、取り立てて用事があるわけでも無いため、こうしてウィンドーショッピングでもするしかなかった。
「ふぅ」
 溜め息一つ、風も無く流される。見慣れた商品群は少しの懐かしさと、多くの飽きを与える。みおは道端に立ち止まると、ぼんやりと視線をさまよわせた。
「浩介、いるかな」
 一度考えると、あての無かった気持ちに火が点く。行って、いなかったらそれでもいい。ともかく行ってみよう。
 気が付くと、みおはバス停の前に立っていた。
 バスから降りると、ゆっくりと津島家へ向かう。この辺は閑静な住宅街なので、空気も幾分か澄んでいて美味しい。気分が少しずつ高揚していくのを感じながら、みおは自然と微笑みを浮かべていた。
 浩介の家まで、あと十分程で着く。それと相俟って、私の中で次第に不安にも似た揺らぎが芽生えてきた。
 原因はわかっている。遥さんだ。
 何故そう感じるのかは、はっきりとわからない。遥さんはいい人だ。遥さんが来てからと言うもの、浩介はどこか明るくなった。いや、明るくなったと言うよりは、穏やかになった。以前よりも他人を拒絶するような色が瞳から薄れ、顔色がよくなってきた。それは長い付き合いであるはずの私や水花すら、なかなかできなかったと言うのに……。
 これがメイドなのだろうか。お世話とは常に家事だけではなく、心の安定をももたらすのだろうか。私達ではできないのだろうか。
 気が重くなってくる。あんなにも楽しかったはずの心が、今は近付くのを躊躇しつつある。帰ろうかとも思うけど、折角ここまで来たんだ、帰るのは何だか馬鹿らしい。そうだ、遥さんがいるから何だと言うのだ。別に浩介が明るく穏やかになって困ることなんて、無いじゃないの。むしろ喜ばしいことだ。何も不安がることは無い。考え過ぎだ。どうかしてる。
 真っ直ぐ前を見詰める。日差しはまだ強く、世界は思ったよりも明るい。大きく伸びをしてみると、清々しさと肌寒さが心地良い。何か吹っ切れたのを感じながら歩いていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「よぉ、何してるんだ」
 振り返れば、そこには浩介がいた。浩介は穏やかな表情で笑っている。その笑顔がとても気持ち良く、私も笑顔を返す。
「散歩よ。家にいても暇だし、誰も捕まらなかったから街でぶらぶらしてたんだけど、浩介なら暇かなって思って、こっちまで来てみたの」
「まぁ、暇と言えば暇だけどな」
「それで、浩介は何してたの」
「絵に詰まったから、気分転換にと散歩中。前のはやめて、新しく描き始めているんだけど、どうもね」
 苦笑を浮かべる浩介に、みおは頻りに頷く。
「どんな絵なの、その新しいのって」
「子犬が水面に写る月を、寂しそうに眺めている絵だよ。寂しげな子犬の表情が巧く描けなくて、どうすればいいのかなって」
「そう言われると見たくなるじゃない」
「じゃ、見せてやるよ」
「本当に」
「そのつもりじゃなくても、来るつもりだったんだろ」
「やったぁ」
 喜ぶみおに、浩介が少し嬉しそうに苦笑する。何だかんだ言っても、浩介は見てもらえることが嬉しく、みおは浩介の絵を見るのが好きだった。二人は浩介の家へと足を向けたが、もう少し散歩を楽しもうと、ゆっくりと迂回しながら向かうことにした。
「ねぇ、最近調子いいみたいじゃないの」
「いや、巧く描けないから、そういいとは言えないな」
「違う違う、私が訊いてるのは、体調とかのことよ」
 浩介は腕組みをし、歩調を落としながら視線をさまよわせる。が、それも数瞬のことで、すぐにみおへと視線を戻した。
「いや、別にこれと言って変わったようには思わないけど」
「そんなこと無いと思うけどなぁ」
「そう言われても、俺のことは俺が一番良く知っているんだけど……。なぁ、どうしてそう思ったんだ」
「どうって、そうだなぁ」
 浩介の顔を凝視したかと思うと、空を幾らか見上げ、またみおは浩介へと視線を戻した。その頬は寒さのためだろうか、ほんのり赤い。
「前より優しくなった、かな」
 浩介は鼻で笑うと、みおから視線を逸らした。
 迂回していても、話し込んでいれば時間も短く思える。気付けばもう、津島家の玄関前に立っていた。浩介が先んじてドアを開ける。
「ただいま」
 不意にまたみおの中に不安が広がり、出す足を止めた。
「どうしたんだ、入れよ」
 気にしちゃダメだ。あんなにいい人なのに、変なことばかり考えていたら、失礼になる。普通に接していれば、何も問題無いじゃない。
「う、うん。お邪魔します」
 二人が入るか入らないかのうちに、遥が出迎えにやって来た。
「おかえりなさい、浩介さん。あら、みおさん、こんにちは」
 一瞬それでもみおの表情が強張ったが、すぐに遥と同じような微笑みを返すと、靴を脱ぎ、一礼した。
「こんにちは」
「寒かったでしょう」
「段々寒くなってきたね。でも今日は日差しが強いから、そうでもないかな」
「今日は比較的暖かいですよね」
「そうだね」
 何だろう、この気持ち。何で浩介が遥さんと親しげにしていると、寂しくなってくるんだろう。
「あぁ、そうだ、みお。俺の部屋に行ってもいいか。とりあえずゆっくりしてから、絵を見せるよ」
 振り向いてくれた浩介に、私はすっかり救われた気分になったけど、ちょっと恥ずかしくて素っ気無い素振りをしてしまう。
「いいよ」
「それではみおさん、ゆっくりしていって下さいね」
 背後から遥さんの声が柔らかに届いたが、私は振り返らなかった。
 階段を上り、浩介の部屋に入る。室内は綺麗に掃除されており、いつか見たのとは全く別の部屋の様に感じてしまう。入り口で呆気に取られていると、浩介が不思議そうに私を見てきたので、すぐに我に返り、適当な場所に腰を下ろした。
 浩介はベッドに腰掛けており、みおとはテーブルを挟んで丁度向かい合う形となっている。浩介は元より、みおも勝手知ったる我が家のように足を伸ばし、ゆったりとくつろいでいる。
「いや、最近本当に寒くなってきたな。少し前まではまだ暖かかったけど、今ではもう一枚余分に着ていないと、寒いよな」
「そうだね。朝起きたら、段々布団から出たくなくなってきたし」
「そう。だからアトリエで描いていても、寒くてね。だから進まないのかな」
「それは違うんじゃない」
 何でも無い会話に笑う浩介は本当に久々で、前にいつこの顔を見たか、思い出せないくらい。そんな浩介を見ていると、私も嬉しくなってくるけど、私はこんなことをずっと聞きたいわけじゃない。
「そろそろ冬物の上着でも買おうかと思っているんだけど、なかなかいいのが無くてね。黒ばかり着ているから、たまには違う色のにしようかと思っているんだけど、気に入った色が無いんだよね。どんなのが俺に似合うかな」
「黒は無難だよね。誰が着てもそれなりに似合うし。でも、浩介って黒っぽいのばかり着ているから、それ以外って言われても、ちょっとすぐには思いつかないなぁ」
 違うの、私が聞きたいことはこんなことじゃない。こうしているのも楽しいけど、今は他のことを聞きたい。話したい。
「服とかは難しいよなぁ。メシだったら簡単なんだけどな。寒くなってきたから、鍋にでもすりゃいいわけだ。まぁ、今は遥さんがいるから、そんな心配しなくてもいいんだけどね」
 遥さんの名前が出た途端、私は思い切って浩介の瞳を真剣に見詰めた。
「あのさ、遥さん来てからの生活って、どうなの」
「どうって言われても、便利になったとしか」
「どんな感じで」
 興味深そうに、みおが浩介の方へ身を乗り出す。私達が浩介の世話とまでいかなくとも、手伝いをしていた時と遥さんが来た時とでは、どう違うのか。そう瞳で問い掛けるみおに、浩介は少し首を捻った後、その視線を受け流すよう目を僅かに細めた。
「そうだな、家事はもちろん素晴らしい手際でしてくれるし、いつでも好きな時、気が向いた時に話ができるから気分転換にもなるし、何より絵を理解してくれるからね。前は一緒にいることに不安があったけど、今はいてくれてありがたい人だと思うよ」
「へぇ、そうなんだ」
 やっぱり遥さんには適わない。家事は本職だから仕方ないけど、絵までそうだなんて。私や水花の方が絵を知っていると思っていたのに……。
「だったら水花や私なんかは用済みね。毎日一緒にいて尽くしてもらって、この幸せ者」
 いつもの軽口のような調子で、みおが言い放つ。いや、それよりも少し大袈裟におどけるよう、肩を竦めては口元を歪める。
「そんなこと無いってば」
 同じく冗談っぽく返す浩介に、みおがおずおずとしながらも、顔はまだおどけた調子を保ったまま微笑む。
「どうしてそう思うの」
「どうしてって、そうだな」
 浩介は腕組みをしながら中空を見詰め、何か考え込んだかと思うや否や、またみおの方へ目を向けた。その表情は先程よりも、幾分か引き締まっている。
「飽きないから、かな」
 飽きない。それは何でも無いような言葉だけど、私は嬉しかった。何だかんだあっても、浩介はどこかで私達との繋がりを忘れない。私はもうどうしようもないくらいの笑顔をぶつけたかったけど、それはやはり恥ずかしく、ついいつものように軽口になる。
「人をオモチャみたいに言って、まったくひどいなぁ」
「みおだって、よく俺をオモチャみたいにしているだろ」
 軽口の言い合いが互いの頬を崩し、場の空気を和らげ、二人の距離を縮める。やがて言葉が無くとも、交わる視線と交わされる微笑みが全てを物語り、たまの会話がこの上無く心に響く。何て事の無い会話だけど、もうそれで充分だった。
 別にこれから恋人のように、くっついたり甘えたりしたいわけじゃない。今までより、もう少しだけ本当の浩介を知りたい。こうして笑う無邪気な姿が、きっと本当の浩介なんだろう。暗く重い仮面の下に隠れている、普段あまり見られない素顔を、私はもっと引き出したい。もっとありのままの姿で、接してもらいたい。
 みおが口を開こうかと思った途端、ドアが二度ノックされた。その響きが消えるが早いか、二人は談笑を止めて、ドアへと目を移す。
 静寂が身に染みた。
「どうぞ」
「失礼します、紅茶をお持ちしました」
 御盆にティーカップを二つ載せ、遥が入ってきた。遥はテーブルの上にティーカップを置くと、一礼してから踵を返した。
「ねぇ、遥さん」
「はい、何でしょう」
 御盆を脇に抱えたまま、遥が振り返る。
「仕事が一段落してるなら、遥さんも一緒に飲まない?」
 刹那、みおの顔が強張った。だがそれも一瞬のことで、すぐに穏やかな笑顔を作り、眼で同席を求める。ただ、右手は僅かにズボンを握り締めていた。
 遥は二人を一瞥すると、ふっと微笑んだ。
「いえ、すみませんが私にはまだ、やらなければならないことがありますので、遠慮させていただきます」
「そっか、残念だけど仕方ないか」
「申し訳ありません。それでは」
 パタンとドアが閉まると、浩介はみおの方へ視線を戻した。しかしその顔には先程のような無邪気な笑顔は無く、普段の寂しさと憂いを帯びた顔になっていた。
 紅茶を一口啜る。仄かな甘味が心地良い香りと共に抜けて行く。ゆるやかに体が温まっていくものの、一旦身構えた心はなかなか戻らない。私はもう先程のようにはできずに、ただ浩介と同じタイミングで紅茶を口につけるばかり。
「美味しいね」
「そうだな。同じ紅茶でも淹れ方が違うと、変わるもんだな」
「うん、そうだね」
 会話が止まる。気まずい雰囲気が加速度的に進み、何とも言えない。口を開くことすら躊躇われる。それでもそれを打ち破ろうと、何とかしようとみおは頭の中を引っ掻き回し、僅かな話題の糸口を躍起になって探す。
「遥さん、忙しそうね」
 その名前を口にしたことを、少し後悔した。
「あぁ、無駄に広いからな。一人でやるには何だかんだと、一日かかるだろうさ」
「掃除とかって、毎日全部屋やってるの?」
「それはわからないけど、綺麗になってるよ。だから、やってるんだろうな。まぁ、使っていない部屋は二日に一度とか、三日に一度とかだろうさ」
「ふぅん。それでもすごいね」
「仕事だからな」
 空気が重い。気まずい。話すことが見つからないばかりか、迂闊に口を開けない。手持ち無沙汰で、ついつい紅茶に手が伸びがちになる。
 ただ、紅茶も無限ではない。マイセンのカップ一杯程度すぐに無くなり、二人は必死に笑顔を保ち、表面上は雰囲気を崩さないようにしながら、見慣れた室内をまるで初めて訪れたかのように見回し、各々物思いに耽っているのか、視線を交わさない。
 やがてみおが視線を落とすと、おもむろに立ち上がった。浩介はすぐにみおの瞳を見る。
「そろそろ私、帰るね」
「絵、見ないのか?」
 浩介の新作、すっかり忘れていた。だけど、もう今日はこれ以上浩介といるのは、辛い。
「うん、また今度にする」
「そっか」
「それじゃ、またね」
 みおがドアノブに手をかける。
「あ、待って。途中まで送っていくよ」
「別にいいよ」
 振り返り、笑いながら私は首を横に振る。嬉しいけど、どうせ一緒にいても、もう今は何も話せない。
「いや、俺もちょっと外に出たいからさ」
 話せないだろうけど、強く断ることもできない。私は結局折れて、浩介と一緒に外へ出た。玄関で遥さんが見送りに来て、頭を下げてくれたのを見ると、何とも申し訳無い気持ちで一杯になった。
 冷たく乾いた埃の匂いが、無言の圧力を強める。まだ日は高いが、薄曇になった空のせいか、妙に暗く感じる。閑静な住宅街には人通りもほとんど無く、二人の足音と、どこか遠くからの車のエンジン音だけが響いていた。
 送ってくれるのは嬉しいけど、一緒にいて何も話さないのは、一人よりも息苦しい。かと言って、つまらない世間話をする気にはなれない。むしろ……。
「あのさ、浩介」
 歩調を落とすこと無く、みおが世間話でもするかのように口を開いた。
「浩介は水花のこと、好きなんでしょ」
 浩介は足を止め、怪訝そうな眼差しを向ける。
「何を突然言い出すんだ」
「だってさ、今まで水花が浩介の世話とかしてきたじゃない。でも今は遥さんが全部してくれるだろうから、水花の立場が無いんじゃないかなって。ま、別に家事を水花がしなくてもいいんだけど、その分の時間を使ってないって言うか、前と水花への接し方変わってないように見えるんだよね。前は忙しいから、仕方無いのかなって思っていたんだけど、自由な時間が増えても変わらないのって、結局かまってないってことだよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。浩介だって知ってるでしょ、水花が浩介を好きなことくらい。だったら何で踏み出さないのさ。いつまでも待ってもらえると思ってたら、大間違いだよ」
 腕組みをし、浩介は困ったような、苛立ったような表情でみおと向き合う。
「そう言われてもな、遥さんには遥さんの、水花には水花の役割があるから。遥さんはメイドだから家事をして当然だろ。仕事で来ているんだし。水花は今でもやってきてくれて、それは本当に感謝してるよ。だけど、それと好きだってのは別だろ」
「好きじゃないの、水花のこと」
「もういいじゃないか、しつこいぞ」
 苛立ちを露に、浩介が吐き捨てる。そんな浩介に、みおが諦めたよう一つ溜め息をついた。
「じゃあさ、もし浩介が遥さんに恋愛感情を持ったら、どうするの」
「何言ってるんだよ」
 冗談っぽいみおの言い方に浩介の頬も幾分か緩み、一笑に付した。
「例えばの話なんだから、答えてくれてもいいじゃないの」
「例えばって言われてもなぁ、わからないよ。その時になってみないとな」
「もぉ、はっきりしないんだから」
 水花と答えない浩介に苛立ちを覚えたけど、私はどこかで少しほっとしていた。浩介と水花が一緒になるのを、誰よりも望んでいるはずなのに、どうして。
 バス停はもう目前だった。

16へ← タイトルへ →18へ