十六.

 浩介と別れた水花と優美は、のんびりと並んで歩いていた。家まではあと少し。それでも冬の訪れを囁く風は、家路を遠く感じさせた。
「ちょっと前まで暑かったのに、もうすっかり寒いね」
「そうだね」
「何だかお兄ちゃん、元気無かったね」
「そうだね」
「絵が思うように進んでないのかな」
「どうだろうね」
 素っ気無い返事を繰り返す水花にも気付くように大きな溜め息をつくと、優美はもうそれ以上何も言わずに前だけを見た。
 帰宅すると、優美が水花の部屋を訪れた。外が幾ら寒くとも、室内では冷たいジュースが美味しい。水花はベッドに腰掛け、床に座っている優美を見詰めた。
「どうしたの」
「いや、がんばったなぁって」
「ありがと」
 はにかんだが早いか、優美は表情を一転させ、少し真面目な面持ちで水花を見詰め返した。
「だから、お姉ちゃんもがんばってよね」
「私が、何を?」
「もぉ、お兄ちゃんのことだよ」
 浩介のことと言われ、私の胸はちくりと疼いた。
「お姉ちゃん、帰り道でお兄ちゃんとあまり話さなかったばかりか、目も合わせなかったじゃない」
「うん。でも、それがどうかしたの」
「ダメだよ。言葉なんていらないって仲じゃなさそうなのに、話をしないなんて。ちゃんと話さなかったら、気持ちも伝わらないよ。沈黙は愛なんかじゃないんだから」
「何が言いたいの」
 努めて冷静に返すが、やはり怒気が見え隠れする。水花の眉根が僅かに寄った。
「んー、はっきりしないんだもん。お兄ちゃんも奥手だけど、お姉ちゃんもそうだから、見ている方としてはもどかしいんだよね。何か親しくしているようでもさ、違うんだよね。側に寄ってはいるんだろうけど、踏み込んでないって感じ」
「それで、何が言いたいのよ」
 次第に苛立つ水花を知ってか知らずか、優美はさも楽しげに続ける。
「私としては、もっとお互い正直になって欲しいんだよね。二人して牽制してるから、一緒になれるのもなれないまま、もやもやしているのが私にも伝わるの。何かやだなぁ」
「もぉ、どうでもいいでしょ。優美には関係無いことじゃない」
 苛立ちを抑え切れずに、水花は優美を睥睨する。何で二人の問題に、こう口を挟まれなければならないのか。余計なお世話だ。大体優美に何がわかると言うのか。そんな苛立ちが水花の中で加速度的に増していく。
 水花のそんな態度に、優美はもう一度顔を引き締める。
「どうでもよくないよ」
 はっきりと強い口調で優美が言い返すと、数瞬の固い沈黙が部屋を支配した。互いに強い眼差しで見詰め合い、引こうとはしない。
 やがて優美がゆっくりと首を二度三度横に振り、寂しげな瞳を向けた。
「煮え切らないんだもん、見ていて。見ていなくても、そうしてるってのがすごく伝わる。何かそういうのって、嫌だな。好きだったら、何でもっと踏み込まないの。そんな曖昧な態度だと、どっちも傷付くだけじゃない」
 何も言えなかった。優美が言ったことはいつも考えていて、いつもできないでいること。だけど、言い当てられ納得するより先に、無性に苛立ちが沸いてきた。
「うるさいわね。私と浩介がどうなったって、優美には関係無いでしょ。何もわかってないくせに、余計な口を挟まないで」
「関係あるよ」
 負けじと優美も毅然と視線を重ねる。
「私はお姉ちゃんもお兄ちゃんも、とっても好きなの。だから一緒になって欲しいんだよ。なのに二人して、何だかんだと言って、近付くことを怖がってさ。そんなの辛いよ。二人の姿を見て、諦めた人だってきっといるんだよ」
 そんなこと言われたって、どうしようもない。正直、重荷にしかならない。浩介のことは私の問題であって、他人がどうこう言うことではないのに。
「お姉ちゃん見てると、わかんない。本当にお兄ちゃんのこと好きなのかどうか、聞かせてよ」
「な、何でそんなこと言わなきゃいけないのよ」
「好きなら言えるでしょ」
「何で言わなきゃいけないのかって言ってるでしょ」
 恥ずかしさは苛立ちに、そして敵意へと変わる。恋愛は最もプライベートな問題であるからこそ、他人に、例え妹だとしても介入されたくは無い。そんなことはわかっているだろうに、何でこうもしつこく訊いてくるのだろうか。
「じゃあ」
 優美が不敵に口元を歪める。
「私がお兄ちゃんに愛情を持っているとしたら、どう思うわけ」
「えっ、優美……」
 途端に水花の顔に不安が走る。
「お姉ちゃんが何とも思ってないなら私、本気で狙っちゃおっかな」
 何言ってるの。やめてよ。
「私だって十六なんだよ。いつまでも子供と思っているみたいだけど、安心してぼやぼやしていたら、そのうち私が隣にいるようになるかもね」
「……」
 そんなこと言わないで。何なの。浩介の隣は私なんだから。優美でも、譲らないんだから。
「お姉ちゃんはお兄ちゃんに愛されてるかもしれないって思ってるみたいだけど、気持ちなんてちょっとしたきっかけで変わるものよ。進展の無いお姉ちゃんより、新鮮な私の方が、案外ころっといくかもね」
「もう、やめてよ」
 水花は怒り悲しみを露にして立ち上がると、優美を睨みつけた。両拳は固く握られ、小刻みに震えている。真剣な怒りの眼差し。それを受けてもなお優美は、にやにやと不敵に笑っていた。
「好きなの、お兄ちゃんのこと。お姉ちゃんは好きだって言える自信、あるの」
「好きだよ、もちろん好きだよ」
 今にも泣き出してしまいそうな面持ちで、振り絞るように水花が答えても、優美はまだその表情を変えない。
「私は浩介のことが好き。誰よりも好きなの。例え優美でも、これだけは絶対に譲らないんだから」
 水花の瞳は滲んでいた。それでもしっかりと、優美の瞳をまっすぐに見詰めては、決して譲れない想いを示している。今まで優美が欲しがるものは、自分が幾ら欲しくても、大切なものでも、譲ってきた。しかし今回は、何があっても譲れない。そう水花は自分でも驚く程、はっきりと我を感じていた。
 そんな水花に、優美がようやく微笑んだ。
「安心した。それが聞きたかったんだ」
「優美……」
「お姉ちゃん、いつもどこかで遠慮してるから、お兄ちゃんのこと好きでも、誰かに遠慮してるかと思ってた。でも、大丈夫みたいだね。その気持ち、想っても言葉にしなきゃ伝わらないよ。祈って叶う恋なんて、無いんだから」
「うん、そうだね」
 涙が溢れてきた。いつもどこかで一歩踏み止まっていた自分を、優美が押してくれた。その先にそんなことがあるのかわからないけど、少なくとも一歩先は考えていたより、怖くない所のようだ。
 私は浩介が好き。
 前よりも深く強く、そう思える。愛しさがはっきりと胸に迫り、頭の中が白く痺れる。
 だけど、それと同じくらいに強く湧く疑問。それは、浩介が私を必要としているのかということ。浩介はとても優しいから、誰に対しても同じように求め、接してくる。私は浩介の特別になりたいけど、浩介がそう見てくれないと、いつまでも変わらない。一緒にいて安らぎや愛しさを感じるけれど、もしかしたら浩介から見れば、それは全て馴れ合いなのかもしれない。
 考え始めると、不安ばかりが押し寄せる。いつもそうだ。考えれば常に悪い方へと傾く。不安は焦燥に、そして自己嫌悪となる。考えまいとしても、つい。
「お姉ちゃんは、もっと自分に自信を持ってもいいんだよ」
 不安げな水花を察してか、優美がその顔を覗きながらおずおずと、しかしはっきりと言った。水花はそれに気付くと我に返り、再び優美を見詰め、抱いた。
「やっぱり、どうあっても私は浩介が好き。色々考えたら、不安に思うことはたくさんあるけど、それでも自分の気持ちに嘘はつけない。つきたくないの」
「うん、がんばってよね」
 水花は更に強く優美を抱き締めると、静かに目を閉じ、浩介の姿を思い浮かべていた。

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