十五.

 遥と水花はアトリエで顔を見合わせていた。優美が出て行ってから、もう十分程経つ。時間としては短いのだろうが、帰りを待つ二人にしてみれば、とても長い時間に思えた。
「遅いですね」
「えぇ。でももう戻ってくる頃でしょうから、もう少し待ちましょう」
「そうですね」
 そう水花を諭したものの、遥もアトリエを出て二人を探したかった。だが優美にああ言われた手前、それを放棄することはできず、ただじっと待つしかない。それに優美が言ったように、行き違いにでもなれば困る。
 沈黙がゆっくりと場を支配する。気まずい雰囲気が更に増す。それを嫌った遥が何か、そう何でもいいからともかく水花と話そうと、口を開いた。
「あの、水花さん」
 途端、ドアノブの回る音がした。二人はすぐにドアの方へ目を向ける。
「ただいま」
 ドアが開くと、優美の元気な声がアトリエの重苦しい空気を払拭した。
「おかえり。浩介は」
「いるよ。何か待たせたみたいだね」
 優美の脇を通り、浩介が一歩前へと出る。
「心配したんだよ」
「ちょっとトイレに行ってただけだよ。子供じゃないんだから、そんな五分十分姿が見えないくらいで心配しなくても」
 ばつの悪そうに視線を落とす水花の肩に、遥がそっと手を置くと、みんなに微笑みかける。
「紅茶、用意しますね」
 遥はアトリエに備え付けられたキッチンの前に立ち、ヤカンに火をかける。そうしながら遥は三人を何と無し観察していた。別に観察しようと目的を持ってするのではなく、悪いと思う癖の一つで、それとなく。
 浩介さんはイーゼル手前の椅子に腰を下ろしている。取り繕ったような笑顔を向けているものの、やはり何か思い詰めたように、苦々しげな表情を時折覗かせている。決して拭えない悩みが、常に心に蠢いているのだろう。
 水花さんはベッドに腰を下ろして、浩介さんの方をチラチラと見ている。目が合うと少し気まずそうにしながらも嬉しそうにし、何でもなかったかのように辺りを見回しては、また浩介さんの方へ目を移している。恋人としての立場を示したいのかもしれない。
 優美さんはそんな二人をただただ嬉しそうに眺めては、明るく話し掛けている。主に絵や浩介さんと水花さんを茶化すようなことだが、それでも過剰にならないよう気を遣っている。思うに、尊敬する人物同士をくっつけたいのだろう。
 共通するのは、全員それを露にしないで、表面は平素を装っていること。一種奇妙な光景だが、理解できる。気持ちを前面に押し出しては、このつつましい幸福の均衡が崩れてしまうだろう。
 だけど、それはやはり仮面。道化でしかない。幾ら取り繕って幸せを装っていても、寂しさしか残らない。その微笑みは何をも響かせられない。その話は何の意味もなさない。滑稽な幸福の縮図。
 でも、私も一緒なのよね。
 他人に対して何かするのは、結局自分に向けているのと一緒。嘲りも、励ましも、戒めも何もかも。他人は自分の写し鏡。私もまた自分に素直になれず、嘘と体裁で身を固めて生きてきている。
 気付かれないよう溜め息をつくと、遥は笑顔を作った。
「みなさん、紅茶です」
 それぞれに紅茶が行き渡ると、遥も紅茶を口にした。アトリエに置いてある紅茶は安物のティーパックだが、それでも心をほだすには充分だった。
「しかし入選か。優美ちゃんに先を越されちゃったな」
 自嘲混じりの浩介の言葉はそう深刻そうでなかったものの、水花を強張らせるのには充分過ぎた。そんな水花の心など知らないかのように、優美が屈託の無い笑みを向ける。
「経歴とかじゃそうかもしれないけど、でも、お兄ちゃんはまだまだ私のずっと先にいるよ。憧れだもん」
「ありがとうな」
 満足そうな優美に寂しげな浩介。そんな二人を心配そうに見詰める水花は不安を紛らわせるためか、頻りにカップに口をつけている。
「本当に嬉しいな。入選ももちろんそうだけど、お兄ちゃんに褒められるのが一番嬉しい。あ、もちろんお姉ちゃんや遥さんからのも嬉しいよ」
「がんばったもんね」
「本当におめでとうございます」
 浴びせられる賛辞に、優美はこれ以上無いくらいの笑顔を見せていた。そんな優美を微笑ましそうに見ていた水花は、やがておもむろにカップをキッチンに置くと、腕時計を一瞥した。
「優美、そろそろ帰ろうか」
「え、うん」
 優美もカップをキッチンに置くと、いそいそと帰り支度を始めた。それを見て浩介もカップをキッチンに持っていこうとしたが、遥がそれを受け取り、片付けた。
「じゃ、途中まで送っていくよ」
「あ、いいよ」
「いいから。それじゃ遥さん、ちょっと出てきますから」
「はい、わかりました。それではみなさん、お気を付けて下さいね」
 礼を交わすと、浩介達はアトリエを出て行った。
 パタンとドアが閉まり、しばらくすると先程まで賑わっていたまるで嘘のように静かになった。遥は寒々しい空気の中、カップを洗い始める。
 水が冷たい。この季節の水仕事は肌荒れがひどくなる。遥は水を止め、カップを泡立てながら、何と無し先程の様子を思い浮かべた。
「前のあの人の時と一緒ね」
 ふっと口元を緩めると、遥は手を止め、昔の主人を思い返し始めた。いつも胸に在り、常に物差しとなっている彼の人を。
 あの人もよく悩んでいた。悩んでいる姿の方が圧倒的に多かった。だから、納得のいく作業を終えた時の顔がとても無邪気な笑顔で、堪らない愛しさを感じたものだ。
 苦しみがあるからこそ、その後の幸せが光り輝くのだろう。日常生活においては、肉体よりも精神の苦しみの方が辛いように思える。特にそれは芸術家ならば、なおのことなのだろう。
 芸術家とは内的世界の中で完成形がありつつ、表現したくとも、外的世界、つまりは現実にそれを表現し形作れないもどかしさ故に悩み、葛藤詩、悶えつつも追い求めるものなのだろう。妥協は当然あるだろうけど、それでも自己を傷付け、作品に血を与えるため必死に向き合う。
 だからこそ、負けたくないのだろう。完全に自分のためだけに何かをすることは、自慰だ。誰もが誰かに認められたくて、褒められたくて、一生懸命がんばる。それは悪いことではない。必要なことだ。
 しかしそのために、人は他人の成功を妬む。今回の浩介さんがそうだ。きっと優美さんの入選を妬んでいる。でも、その気持ちはわかる。私だって同じような立場だと、同じような反応をしてしまうだろうから。
 認められなければ生きて行けない。だから芸術家とは、いや、人とはやはり他者に勝ってこそ存在意義を見出すものなのか。誰かに何かに負けると、途端に自分がちっぽけに思えてしまうのだろうか。
 逆に、成功を収めると他人に妬まれる。妬みは憎悪となり、亀裂を生み、成功に影を呼ぶ。純粋な祝福を望んでいても、エゴがそれを阻んでしまう。
「……考え過ぎね」
 とりとめの無いことをつい考え込んでしまうのも、また悪い癖なのかもしれない。こんなこと考え込んでも何もならない。そうわかっているのに、つい。
「今は自分のことに集中しなくっちゃ」
 まだここに来て日は浅い。ある程度のことは覚えたものの、それではまだ管理とは呼べない。私はここを管理するメイドとして派遣されたのだ。
 カップを拭き終えると、遥は窓の外に目を移した。少し主そうな青空が寒々しく、じっと見詰めていると何だか切なくなってくる。そんな空に向かって、遥は目を細めた。

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