十四.

「でも優美、よくがんばったよね」
「そうですね。私その絵は拝見していませんが、この絵からでもレベルの高さを伺えます。本当におめでとうございます」
「えへへ、ありがとうございます」
 浴びせられる祝福に、優美の心は満たされていた。筆が止まった時の焦燥、思うような色が出せない時の苛立ち、もどかしさ、提出してから発表までの拭えない不安などが一気に晴れ、心地良い解放感にその身を漂わせては、美しい笑顔を溢れさせていた。
 長い苦しみは、この一瞬の代え難い幸福のためにある。前に浩介が語ってくれた言葉を、優美は噛み締めていた。愛読していた作家の言葉だと浩介は照れながら付け加えたが、優美にはそんなことどうでもよかった。誰の言葉の引用だろうが、教えてくれたのは浩介だったのだから。
 浩介は優美に色々なことを教えた。絵はもちろんのこと、教訓から下世話なことまで、実に幅広く。そんな浩介に優美は非常な尊敬を抱き、遥かなる目標として接してきた。
 だから今回の入選も、自分の力よりも浩介のおかげだと強く思っていた。やはり自分は浩介の影響で絵を始め、浩介の指導があったからこそ。普段は姉の水花に見てもらっているとは言え、言われて心に響くのは浩介のアドバイスの方。それに幾ら近付こうとしても、描こうとしても、あんなにも奇妙に心を撫でる絵は描けない。このように心の底から、優美は浩介を師事していた。
 そんな浩介にもっと褒められたいと思い、優美は浩介の側に寄ろうとしたが、その姿はどこにも無かった。
「ねぇ、お兄ちゃんはどこ行ったの?」
「あれ、そう言えばどこだろ」
 辺りを見回す水花と優美に、遥が一歩歩み寄った。
「浩介さんなら、おトイレに行くと言って、出て行かれましたよ」
 いつもならば何も思わないその一言も、今は何故か妙な胸騒ぎを覚える。どうしてだろう。もしかしたら私は、お兄ちゃんを傷付けてしまったのかもしれない。お兄ちゃんは私の受賞を、快く思っていないのかもしれない。だとしたら、私はなんてことを……。
 嫌だとか不安だとかを越え、怖くなった。
「あ、ちょっと見てくるね」
「私も行きますよ」
「私一人で大丈夫ですよ。それに、お兄ちゃんが戻ってきて、誰もいなかったら寂しいでしょうから、ここで待っていて下さい」
 それだけ言うと、優美は返事を待たずにアトリエを飛び出していた。
 母屋の方へ上がると、そこから一番近いトイレを目指した。と言っても、そこそこ距離があり、裏玄関すぐ右手なんてものではない。
 第一のトイレの前に立つと、優美は二度ノックしてみた。しばらく待ってみたものの、反応は無い。
「お兄ちゃん、いるの?」
 もう一度ノックを繰り返してみたが、反応はやはり無かった。誰かがいる気配も無いと知ると、優美は違うトイレへ向かった。
 もう一つは表玄関に程近い所にある。優美は先程と同じよう、二度ノックする。やはり反応は無い。
「お兄ちゃん」
 再びノックしてみるが、同じだった。
「ここもいないか。もう戻ったのかな」
 一旦アトリエに戻ってみよう。そう踵を返そうとした途端、中から物音が聞こえた。
「お兄ちゃん、いるの」
「んー」
 低い呻き声は、すぐにお兄ちゃんだと気付いた。私は安心したと同時に恥ずかしさを覚え、そこから数歩離れた。
 少しして、中から浩介が出てきた。優美の胸騒ぎとは裏腹に、浩介は普段と変わらぬ素振りで、何事かと優美を見詰める。
「どうしたんだ」
「遅いから心配したんだよ」
「ちょっと便秘気味でね。でもそんなに待たせたかな」
「と、とにかくアトリエに戻ろう」
 焦りを感じて捜してみれば、この結果。優美はばつが悪そうに僅かにうつむきながら、浩介とゆっくりアトリエへ歩を進める。
「ねぇ、お兄ちゃん」
 思い切って顔を上げれば、やはり褒められたい気持ちが湧き上がる。何度も言葉にしてもらいたくて、でも露骨に言い出せなくて、私は微笑みで訴える。
 お兄ちゃんは微笑み返してはくれる。けど、どこか憂いを帯びた複雑な表情。何で、何でそんな顔するの。どうしてもっと喜んでくれないの。お兄ちゃんがいたからなんだよ。お兄ちゃんがいなかったら、ダメだったんだよ。この賞は、お兄ちゃんと半分こなんだよ。
「お兄ちゃんは嬉しくないの。私が入選したこと、嬉しくないの」
 言わないようにしていた言葉が、つい口をついてしまったことに優美は後悔したが、それよりも今は浩介の気持ちを訊いてみたかった。
「教えてよ、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんがいたからできたんだよ。なのに、何でお兄ちゃんはそんな悲しそうにしてるの。嬉しくないの。私が入選したこと、嫌なの。ねぇ、教えてよ……」
 溢れ出る言葉と相俟って、涙が出てきそうになった。必死な自分がいじらしくも、いやらしい。だけど、どうしようもない。自分の気持ちを止められない。
 そんな優美の頭に浩介がそっと手を置くと、思い詰めた顔から一転し、莞爾として目を細めた。
「いや、嬉しく思うよ」
「じゃあ何で」
 優美の頭から浩介が手を離す。
「俺自身も少し驚いて、現実を上手く飲み込めなかったんだ。実力あることは知っていたけど、いきなり入選しただなんて聞かされると、どうしてもね。でも、もう大丈夫だから」
「本当に」
「あぁ、改めておめでとう」
 軽く肩を叩かれた瞬間、私の心の靄がさっと晴れていき、濁っていた微笑みも、心からの喜びに変わっていった。
「ありがとう」
 その言葉が聞きたかった。この言葉を言いたかった。そのために、ずっとがんばってきた。がんばってこれた。どんな偉い評論家よりも、どんなに大勢の人達よりも、自分が本当に尊敬してやまない人に褒められ、認められる方が、自分の功績を実感できる。
 嬉しいとか幸せだとかでは言い表せない程、あぁ、いい言葉が浮かばないけど、とにかく嬉しい。私は今、幸せなんだ。
 優美は浩介の腕に抱きつきながら、どうしようもない程に顔を綻ばせ、アトリエへと足取り軽く向かった。

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