十三.

 優美が持ってきたキャンバスには、子犬と戯れている少女が描かれていた。どこかの公園で楽しげにしているその絵は、暗い浩介の絵と違って明るく、真っ直ぐな希望に溢れている。それは柔らかいタッチからも表されており、良作だった。
 多少雑な感じがした。直すべき点はある。けれど、これは素直に綺麗だと思えた。俺は感心頻りに頷き、まじまじと眺める。
 元々、優美は絵に興味が無かった。姉の水花が浩介と知り合い、浩介が水花の家で度々絵の話をしたり、ラフ画を描いたりなどしているのを見て、話に加わりたい一心から絵を学び始めたのだった。
 そんな優美の気持ちを汲み取ってか、浩介も水花も優美に絵を教えた。絵に対する真摯な姿勢と幼さ故の吸収力、そして持ち前のセンスで優美の実力はどんどん上がっていった。
 今年十六になる優美は八年間描いてきただけあり、既に浩介や水花にひけを取らない力がある。この絵もまた、浩介の絵とは違った形で人を魅了する何かを秘めていた。
 だが、このタッチは優美本来のものではないように思われる。優美のタッチはもう少し力強く、男性的なものだが、これは母性を前面に押し出している。優美の絵としては初めてだが、よく接したタッチ。
 水花か。
 そうだ、これは水花のタッチだ。水花はその穏やかな性格が絵にもよく表れており、柔らかで包み込むようなタッチが、主な題材として取り上げていたファンタジーとよくマッチしていた。
 そんな水花のタッチが、この絵からありありと感じ取れた。浩介は思わずキャンバスから視線を水花に移し、凝視する。
「ん、どうしたの」
「あ、いや、この絵に水花のタッチを感じたから」
 水花はもう一度優美の優美の絵に目を戻す。
「うん、そうかも」
「えへへ、実はお姉ちゃんにアドバイスもらってたから、そう見えるのかもね」
「やっぱり」
「ねぇ、ダメかな、この絵」
 不安げな優美に、浩介がゆっくりと横に首を振る。
「そんなこと無いよ。この題材だからこそ、そのタッチがよく栄えていて、いい感じになってるよ」
「よかったぁ」
 途端に優美の顔が晴れるのを見て、三人もつられて頬を緩めた。
「ところで、この前見せてくれた絵は応募したんだよね。だったら、そろそろ結果が出る頃かな」
 以前優美が浩介に見せた絵は、黒猫が空を見上げている絵だった。あれも綺麗にまとまっており、なかなかの良作に見えるのだが、浩介は正直なところ、それほど好感触を抱いていなかった。どこにでもありそうな、ありふれた平凡な絵。優美独自のタッチが黒猫に力強さを与えていたとは言え、応募してどうこうなるような作品には、到底思えなかった。
「えへへ、実は驚かせるってのはそのことなの」
 得意気に口元を歪ませる優美を見て、浩介は言い知れぬ恐れと焦燥感が湧き上がるのを感じた。
「あの絵ね、入選したんだよ」
「そうなのか」
 驚きはしたものの、どこかでこう言われるような気がしていた。だが、いざこうして発表されると、祝福よりも嫉妬が湧き上がる。いい絵ではあったが、まさか入選だなんて。
「なぁ、水花は知っていたんだろ。何で教えてくれなかったんだよ」
 つい語調が強まり、水花が僅かに肩を震わせたが、すぐに調子を取り戻した。
「知ってたよ。でも優美が浩介を驚かせたいからって、強く口止めされてたの。絵を教えてくれた浩介には、私が一番に報告したいから、絶対に言わないでねって」
 浩介は次に優美へと視線を移す。優美は本当に嬉しそうに笑っている。
「お兄ちゃんのおかげだよ、何も知らなかった私にしっかり教えてくれたんだから。お姉ちゃんもそうだけど、やっぱりお兄ちゃんがいなかったら絵を描いていなかったと思うし、こんな賞をもらうことも無かった。本当にすっごく嬉しくて、感謝してるんだよ」
「おめでとう。でもきっかけを与えたのは俺なのかもしれないけど、優美ちゃんの実力が大きいよ」
 言葉を続ける程に、深い寂しさが広がった。
 優美が今回こうして入選となったのに素直に祝ってあげられないのは、ひとえに浩介が未だ賞と言うものを手にしたことがなかったからだ。学生時代から友人達の評価は上々だった。描き上げる程に、皆がその絵を褒めた。
 だが、発表会や展覧会などでの評価は、惨憺たるものだった。下される評価はいつも暗い、若さが無い、単調、奥行きが無いなど、その一つ一つが浩介の自信を崩すのに充分だった。
 それ故、浩介は周囲の評価を信じなくなった。褒められれば相変わらず喜ぶが、それも以前とは違って、一歩引いた所で聞くようになっていた。
 同時に、プライドは高くなっていった。誰も自分をわかってくれない、だからこの絵をけなすんだ。そう思い込み始めた。そうする方が楽だから。
 だから優美に絵を教えていても、どこか優美の絵を蔑んでいた。浩介から見ても遜色は無かったが、それでも粗を探しては優位に立ち、それを優美に指摘してきた。そして指摘する度に、こんな絵は自分の作品の足元にすら及ばないと信じてきた。
 しかし、そんな浩介の思いを越えて、優美の絵は入選した。自分が未だ辿り着けない境地を、教え子として見下していた優美が。
 一人静かに歯噛む浩介をよそに、水花と遥が優美の側へと寄り、祝福の言葉を頻りにかけている。それを耳にする程に、浩介の心は波立っていく。
 だが、どうあれ優美は賞を取り、自分は世間にまだ認められていない。それは覆しようも無い事実で、それを見詰めていると、例えようも無い苦痛と自己愛が浩介の中に生まれた。
 ふと気付けば、自分は蚊帳の外。全ては優美ちゃんの方へと向いている。そうだ、今の主役は彼女だ。俺は結局どんなにがんばっても、主役にはなれない。ははっ、そうだ、がんばっても駄目な奴は駄目なんだ。忘れていたよ。
 自嘲気味な微笑みを浮かべる浩介の側に、少し興奮したような遥が寄ってきた。
「優美さんの絵、とっても素敵ですよね。優美さんの実力あってこそでしょうが、その基礎などを教えられる浩介さんも、すごいです」
「そんなこと無いよ、本当に」
 浩介は視線を床に落としながら一歩下がると、トイレへ行くと言い残し、力無い足取りでアトリエを出た。
 母屋へ上がり、アトリエがすっかり見えなくなると、浩介は大きな溜め息を一つついた。
「何でかなぁ」
 現実を見詰めれば目が眩み、思わずその場に膝をつきたくなる。得体の知れない恐怖が胸を揺さ振り、上手く息が吸えない。気持ち悪い。
「うあぁ」
 呻きながら、トイレに入ると同時に鍵を閉め、両手で顔を押さえながらうずくまった。目を開けているかいないかすらわからないまま、眼前の闇が渦巻く。あの忌まわしい声が、心の奥底から聞こえ始める。
「言うだけで実力の伴わない男だと、これで証明されたな。自分が取ったこと無いから、悔しくて悔しくて仕方なく、やり場の無い怒りを認めない人々だけに留めず、受賞した優美やそれを祝福している者にまで向けている。違うか」
 言い返せないことが更に心に爪を立てる。固く目を閉じても、闇は渦巻き続ける。泣きたくても泣けない。
「実力も持たずに妙なプライド振りかざして、何様のつもりだ。今度からは素直に教えを乞うことだな。とりあえずは優美に土下座して、靴の裏でも舐めながら、下司な私に絵を教えて下さいとでも言えよ。お前なんてそんなものなんだ」
 頭が破裂しそうだ。心がバラバラになりそうだ。こんなはずじゃない。俺は確かに羨ましかった。妬ましくも思った。だけど、素直に祝福したくもあったんだ。
「また自分に嘘をついてる。よく言えるな、反吐が出そうだ。本当の自分は汚いものだから、それを認めたくなくて、曝け出したくなくて、知られたくなくて……」
 本当の自分。
 では今見詰めている自分は、考えを巡らせて思い悩んでいる自分は、時に喜び時に涙する自分は、一体何者だと言うのか。わからない。
 もう何も、見えなくなっていた。

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