十一.

 昼食を終えると、浩介は水花を連れてアトリエへと向かった。片付けをする遥に水花が手伝いを申し出たのだが、浩介が半ば強引に水花を誘ったのだった。
 少し強く頼めば水花は断らない。その思惑通りアトリエに連れてくることに成功した浩介は、水花をベッドに座らせるとティーパックで紅茶を淹れ、渡した。
「ありがと」
 自分の分の紅茶を淹れると、浩介はイーゼル前のいつもの椅子に腰を下ろし、それを一口啜った。食後すぐだったために満腹で入りそうもなかったが、仄寒いアトリエだからか美味しく飲めた。暖かい紅茶がゆっくりと心身をほだしていく。
「来てくれてありがとうな」
「邪魔じゃなかった?」
「そんなことないよ。水花が来てくれて、嬉しいんだ」
 照れ笑いを浮かべながら、普段あまりこういうことを言わない浩介に、水花は少し驚いた面持ちになったが、すぐに浩介にだけ見せる微笑みを浮かべた。
「私もこうして浩介といられるの、嬉しいよ」
 満たされていく。こうしているだけで、もう充分だ。望むとするならば、この瞬間が永遠に続けばいい。触れ合い、甘い囁きを繰り返すだけが安らぎではないのだから。
 だけど、それを壊してしまいそうな自分が怖い。こうして違いに微笑み合っていると、相手が自分を少しでも許してくれているような気持ちになり、甘えたくなる。甘えればきっと、胸に渦巻く苦悶を吐き出してしまうだろう。
「なぁ、寒くないか」
「ううん、大丈夫だよ。紅茶飲んだから少し暑いくらい」
「そっか」
 会話が続かない。何故こんなにも緊張しているのだろうか。沈黙は依然二人の世界を維持するが、どこか先程より重い雰囲気が漂っている。
「なぁ」
「ねぇ」
 口を開いたのは同時だった。更に気まずくなり、目で互いを促す。
「あ、いいよ」
「いや、俺のは何でも無いから」
「そう」
 数瞬間を置いてから、水花が目を僅かに伏せたかと思うと、すぐにまた浩介を見詰めた。
「最近調子悪そうだったけど、何かあったのかなって。あ、答えたくないのならいいの。ただちょっと気になっただけだから」
 そう言われ、途端に全てを話してしまいたくなった。ただ、前に遥さんに言った時、思わず苛立ち、怒りをぶつけてしまった。あの時はひどく後悔したものだ。押さえ切れなかった愚かな自分。優しさを示してくれた相手に、牙を剥いてしまった。
 もう、あんな思いはしたくない。あんなことをすべきではない。
「特に答えたくない秘密ってわけじゃない。けど、愚痴になりそうだからいいよ」
 また俺は甘えている。水花にこう言えば、それが何なのかと心配そうに訊いてくるはずだ。聞かせたくないなんて体裁だ。本当は全てを言いたくてたまらないんだ。
 案の定、水花は浩介の方に身を乗り出してきた。
「いいよ、聞かせて。一人で悩んでいるより、誰かに話した方がすっとするよ」
「そうだな」
 目を伏せ、演技している自分が憎い。いちいちこうでもしないと何か話せないのが悔しい。親しいはずの水花にすらこんな……。
「そうだよ。だから、ね」
 その瞳に、俺の意思は脆くも崩れた。
「うん。いや、実は少し前から悪夢がひどくてね。なかなか寝れなかったんだ」
「どんな悪夢なの」
「そうだな、例えば俺のやっていることは全て無意味だとか、優しくするのは後で優しくされたいからしている偽善じゃないかとか、働きもしないで絵ばかり描いているのはダメだとか、まぁそんなことが渦巻くんだよ」
「そんな」
「でも、そうなのかもしれないんだ」
 不安そうな水花を見て、自嘲気味に口元を歪める。これは演技なのか、本心なのか。
「絵だって、水花やみおは褒めてくれているけど、やっぱりどこかで考えちゃうんだ。もしかしたら、お世辞以外の何物でもないかもってな」
「そんなことないよ」
「この年になっても親の金で好き勝手やって、責任すら自分で負えず、のうのうとしている。そんな自分がたまらなく嫌だけど、結局はそこに甘えてしまう」
「浩介、お願いがあるの」
「お願いって、何だ」
 寂しげな水花の瞳が全てを物語っており、何を言いたいのかある程度わかった。それでも俺は訊きたかった。野暮とでも、無粋とでも、何とでも罵られようとも。
「少し、ほんの少しでいいから信じて欲しい。浩介がどう思ってくれてもいいけど、少なくとも私は浩介の味方だからね」
「ありがとう」
「私がついているからさ。頼りないかもしれないけど、そんなに自分を責めないで、たまには信じて頼ってよね」
「あぁ」
 わかっていて訊いた言葉だけど、この上なく胸が締めつけられ、水花を愛しく思えた。そして、同時に自分の愚かさを呪う。
 こんなにも水花は俺に優しくしてくれる。頼りないのは俺の方なのに、俺を信じてくれている。もっと俺がしっかりしていれば、こんな無駄な思いをさせずに済むのに。
 いや、今は自分を責める時ではない。
「約束だよ」
 水花と見詰め合い、口元を緩めながら頷く。それで、もうよかった。これ以上の言葉は何も意味を為さない。でも、それでも俺は一言だけ言いたかった。
「ありがとう」
 これ以上瞳を合わせられなくなった浩介は、おもむろに木炭を手に取り、キャンバスへに向かった。そんな浩介を見て水花がくすりと笑うと、じっとその姿を見詰めた。
 アトリエにゆったりとした風が、どこからともなく流れ込んでいた。

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