八、「血縛の墓」

 十月の雨は目に染みる。佳之は一人ソファに腰掛けており、手にした新聞から窓の外へ目を向けると、静かに溜め息をついた。それに応えるものは、いない。もうすっかり、家の中でも一人でいる事が増えたからだ。しばらく窓に張り付く雨粒を見て、ふっと自嘲気味に笑う。そんな強がりにも似た心模様が、十月の雨と重なる。
 心に渦巻く気持ちが言葉となって生まれてこない。窓打つ雨音に次第に苛立ち、手にしている新聞を握り潰す。いっそ破り捨ててしまおうかとも思ったが、新聞を読むのは自分くらいだと思い直し、ささくれ立つ心で元に戻すと、無造作にテーブルの上へ投げ捨てた。
 みんなで俺をのけ者にしやがって。
 謙人は俺を露骨に避けるようになった。家の中でも俺のいる場所には近寄らないし、俺が近寄ればそそくさと逃げてしまう。食事時も会話は無く、こちらから話し掛けても笑顔の無い生返事しかしない。外だと気付いていない素振りで遠ざかるか、渋々近寄っても生返事ばかりで、またすぐ離れようとする。あまりにもそれが酷いので一度怒ったけれど、逆効果にしかならず、余計に近寄らなくなってしまった。けれど、俺は悪くない、悪いのは謙人の方だ。俺が話し掛けたり、優しくしようとしているのに逃げていくからだ。
 香奈子もそうだ、謙人と同じ様に俺をどこか避けるようになってしまった。謙人程ではないにせよ、家の中での会話も必要最低限に留まり、テレビを共に見ながら喋る事など皆無となり、夜も枕を別にして寝るばかり。たまに一緒にいても、どこか居心地悪そうにしていたり、すぐに側を離れようとする。そんな香奈子に相談を持ちかけたり、あの日の事をまた訊いたりしようだなんて、今はとてもじゃないが思えない。
 気晴らしに外にでも出た方がいいのだろうが、生憎の雨模様だ。まぁ、雨でなくともきっと出なかっただろう。最近は何をするにせよ、面倒臭い。どうにも意欲が湧かず、日々悲観に暮れてばかりだ。これではいけない、どんどん暗い人生に向かうばかりだと頭で理解しているのだが、さてどうしようかと考えれば、そこで思考停止となってしまう。どうしようもないから今に至っているのだ、考えて答えが出て実行に移せるのなら、とっくにそうしている。ああでもない、こうでもないと必死に三時間考えたが、何も出なかった。たかが三時間と人は言うかもしれないが、それでも長いくらいだと俺は思う。三時間の真剣な思考はきっと、今後十年は変わらないだろう。もちろん、それまでの人生を大幅に変える出来事があれば別だが。
 特に仕事も無ければ、見るテレビも無い。昼寝をしようにも、さして眠くならない。けれどもぼんやりしていれば、いつ幻聴が騒ぎ出すかわからず、戦々恐々としている。自由であるが、その実何の自由も無く、色々な考えに縛られており、ソファから動き出せない。側にある携帯電話を手にし、誰かと話そうかと思って登録者を一通り見るけれども、誰も彼も忙しそうで通話ボタンを押せずじまいだ。
 しばらくそうしていたが、やがて窓の外に目を遣りつつ半分寝ていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。無視しようかとも思ったが、二度三度と立て続けに鳴るので、仕方なく立ち上がり、そこへ向かう。ドアスコープを覗くのすら面倒なので、誰かを確認せずそのまま開ける。
「お邪魔します、って兄さんか、驚いた。お義姉さんがいつも出るからさ」
 びしょ濡れの傘の水気を払いながら、百合は驚いたような喜んでいるような表情で、そそくさと家の中に入ってきた。肩口がやや濡れているので、風も多少強いのだろう。触れれば濡れるだろうから慌てて身を引き、一足先に居間へと入ると、先程まで腰掛けていた場所に座った。やや遅れて百合も居間に入り、ふうと息つきながら向き合う様にしてソファに腰を下ろす。
「いや、外は天気悪いね。ここまで来るの、結構大変だったんだよ。だから今日はお土産無いんだけど、許して」
「あぁ、別にお土産はどうでもいいんだが、今日はどうしたんだ?」
「どうしたって、別に実家に帰ってくるのにそうそう口実なんて無いよ。単に、兄さんとかどうしているのかなって、ふと思っただけ。ところでお義姉さんと謙ちゃんは?」
「さぁな、どこにいるのやら」
 素っ気無く答える佳之の顔はどこか寂しそうでもあり、また二人に対して憎しみがあるようにも見える。ついと視線を逸らした佳之の顔はどこか疲れており……いや、疲れていると言うより、もっと深い闇が覆っていた。生気が失われ、何だか不健康にやつれており、ともすれば死相も見えるのではないかと言う不安を与えかねない。百合も当然そんな佳之に目が行き、心配そうに覗き込む。
「ねぇ、兄さん。もしかしたら何か悩み事でもあるの?」
 百合の問い掛けに窓の外から視線を引き戻された佳之は訝しげに声の主を見詰めるが、すぐに視線をまた外すと、溜め息と共に自嘲気味に微笑んだ。
「いや、何も無いよ。いたって平凡な毎日が続くばかりで、退屈なくらいだ」
「嘘ばっかり、そんなわけ無いくせに」
 毅然とした百合の視線が佳之を射る。
「絶対何か隠しているでしょう、兄さん。昔からそう、嘘をつくのが下手だから、いかにも何か隠していそうな顔をして、そっぽ向くんだから。ねぇ、話すだけでも楽になるだろうから、話してよ。私だって、話くらいは聞いてあげられるからさ」
「別に、何でも無いってば。お前の考え過ぎだ」
「考え過ぎなんかじゃない、私は同じ様な兄さんを十年前に見ているんだから。父さんと兄さんがよく対立していたあの頃、兄さんはほとんど全部一人で抱え、何とかしようとしていた。私に相談なんてせず、一人で苦しんでいたよね。今の兄さんはあの時と一緒よ、でも私はあの時の私じゃない。どうにかしたいのよ。あの時、何もできなかった自分がすごく嫌で、私なりに色々と考えたの。でも、結局あの時の私は何もできなかった。だから、今こそ何とかしたいのよ。今の兄さん、絶対大きな問題を抱えているはずよ」
 久々に心を開き、自分を救おうとしている人間に出会えたからか、胸の奥がくすぐられたかの様な感覚を伴って、嬉しさが湧き上がってきた。けれど、顔を綻ばせて体を乗り出すだなんて、幾ら百合相手でも恥ずかしい。暗闇に差し込む光明を避ける様に、くすぐったさが表に出ない様に、努めて無表情のまま視線を下げたけれど、やはり僅かに口の端が震えてしまった。
「教えてよ、出来る限り力になるから。……まぁ、どうしても話したくないのなら、あまり無理に訊かないけど。こう言うの、無理に訊き出したところで、お互いよくないだろうし。あ、だからと言って投げ出すわけじゃないよ。当然話すべき事があったら、言ってよ」
「あるにはあるけど」
 形だけは苦々しげに、重い溜め息を吐く。
「ただ、話すのをためらってしまう内容だから、言いにくくてね。何と言うか、聞く人によっては荒唐無稽に聞こえるだろうし、普通の常識を持つ人からも人格を疑われそうな内容だから」
「でも、そうして何かを一人で抱えていて、解決できないままだと、自分にも周りにも悪いよ。兄さんは昔から一人で抱え過ぎ。他人に心配かけようとしないのは偉いけど、でもそれで余計に心配に思う事だってあるんだからね」
 真摯な百合の眼差しにようやく佳之も諦めがちに唇を真一文字に結び、ばつの悪そうな視線を返す。
「そうだな、お前の言う通りかもしれない。それじゃあ話すけど、その、何だ、まず何も言わずに聞いていて欲しいんだ」
 厳かに頷く百合を確認してから、佳之が一つ大きく息を吐き、口を開いた。
「実は、親父が死んだあの日の事を思い出したんだ」
 大きく目を開いた百合だったが、声を出さずにじっと次の言葉を待つ。
「あの日、親父は香奈子に迫っていた。それを見付けた俺が止めると、親父は俺を罵倒しつつ、屋上から飛び降りたんだ。それは思い出したくもない記憶の一つだし、こうして話すのもすごく恥ずかしい。だってそうだろう、自分の親父が俺の妻に迫っていただなんて、考えられないじゃないか。今まではそれをショックで忘れていたし、もし覚えていたとしても、話したくなかった。多分お前は、こうして聞くのは初めてだろう」
「そうだけど、そんな、まさか……」
「いいや、本当だ。けれど、本当に問題なのはこれじゃない。ここ最近、謙人が親父の様に見えてきた事が問題なんだ。あぁ、いや、当然血を引いているから多少似る事もあるだろう。けれど、それ以上に謙人の言動が親父のそれと重なるんだ。俺も当初は気のせいだとか、変な妄想だとかと片付けようとしていたよ。けど、きっとそうじゃない、認めたくない真実がそこにあるのかもしれないんだ」
「まさか、兄さん……」
 絶句する百合に、佳之が自嘲気味に笑う。
「謙人が親父の子、つまり俺達の弟なのかもしれないと思っている。それも漠然とではなく、ほぼ間違い無いだろうと言う、妙な確信すらある。それと言うのも、謙人は親父を知らないはずなのに、親父の口癖や仕草を真似る事もあるし、ふと見せる表情が親父そっくりなんだよ。親父が飛び降りた場所なんてただの一度も教えていないのに、その場所で遊び、なおかつここには大切なものがあるとまで言っていた。何の繋がりも無く、ここまで偶然が重なったりなどしないだろうさ。あぁ、言っていてやはりそうだと思えてきたよ」
「でも、それだけで決めるのはどうかと。単に似ているのは遺伝かもしれないし、口調もきっと誰かがどこかで言ったのを覚えたのかもしれないよ。子供はすぐ大人の真似をするから。それに、飛び降りた場所で遊んでいたとかって言うのも、偶然よ。兄さんは少し過敏になっているだけだってば。そんなわけないでしょう」
「いいや、そんな事は無い。偶然で片付けるには納得のいかない事も多い。事の始まりは、謙人の笑顔が親父のそれと似ていると思った時から、親父の声が聞こえたり、姿が見えるようになったりした。それは幻覚や幻聴だとはっきり自覚しているが、どうしてそうなったのか考えると、もしかしたら俺はずっと前から謙人の中に親父を見ていたからなのかもしれない。そうしたものが似ていると思ったと言う些細なきっかけで、一気に確信に変わったのだろう。そしてその確信に対する確証として、あの日に親父が香奈子に迫ったと言う事実がある。これでわかったろう、謙人は俺の子じゃない、親父の子なんだよ。香奈子が犯され、出来た子だ」
 徐々に興奮してか、目は血走り、肩を上下させ、口の端に泡を抱きながら熱弁する佳之に、百合は少なからず恐怖を覚えたものの、それでも顔色一つ変えず、何とかなだめようとする。
「落ち着いて、兄さん。そんな思い込みだとか推論で熱くなるなんて、らしくないよ。疲れているんだよ、きっと。子育てだとか、ここの管理とか、お義姉さんの事とか、気付かないうちにストレス溜めていたんだってば。幸せだと思う毎日にだって、どこかしら不満はあるものだろうし、そうしたものが積もりに積もって、そう思うようになったんじゃないのかな」
「そんな事」
 言い返そうにも上手い言葉が咄嗟に出ず、そのまま奥歯を噛み締めながら視線を下げる。百合の言う事にも一理あるかと思ってしまったから、反論できなかったのかもしれない。確かに見えないストレスから過去の記憶を掘り起こしてしまい、その矛先が謙人に向いた可能性は否定できない。謙人の一挙手一投足に無理矢理親父と重ねて、強引に嫌悪感を生じさせていなかったとは、言い切れないからだ。
「そんな事、お前なんかにわかるか」
 テーブルをあらん限りの力で叩き、空気を大きく震わす怒号で佳之が百合を睨み付けた。その勢いにテーブル上の小物は激しく揺れ、百合も思わず身をすくめる。
 今更そんな事言われても納得なんかできるはず無い。そんな推論よりも、あの日香奈子が親父に迫られており、その翌年に謙人が産まれ、その謙人が親父の言動を教えたわけでもないのに、真似ている。そうした状況証拠が幾つもあるから疑い続けてしまうのだ。単に思い込みだとか、そんなもので片付けられる問題なんかじゃない。
「でも、兄さん」
 おずおずと百合が再び体を佳之の方へ乗り出す。それに佳之は睥睨するも、百合もひるまずに見詰め返す。
「私はいつまでも、どうなっても、優しくて頼りになるいつもの兄さんを信じているから。父さんがいた頃、私をいつもかばってくれた兄さん。この土地やマンションの事を一身に引き受けてくれた兄さん。そんな兄さんがいてくれたからこそ、私はこうしていられる。いつかまた前の様になると信じているから」
 今度は反論を咄嗟に言えないからではなく、考えさせられたからでもなく、ただその訴えが心を強く響かせたから、何も言えなかった。いい大人となった妹が今にも泣きそうな瞳をして、訴えている。そんな百合に思わずつられて涙ぐみそうになったが、泣くのは恥ずかしい。そっと瞼を下ろし、嘲るように一つ笑うと、薄目のまま足元を見たきり、百合の視線を外し続けた。
 窓打つ雨だけが、それからの時を語った。二人は何か言おうとするも、結局何も言えず黙ったまま、見慣れた景色を何度も見回し続ける。立ち上がる事すら何となしできず、力強く息を吸い込んでから相手を見るが、数秒して力無く鼻から抜けていく。
「それじゃ、そろそろ行くね」
 ようやく百合がそれだけ言うのに、雨脚が弱まる程の時間が経っていた。伏し目がちに百合が荷物をまとめて上着を羽織るが、佳之は相変わらず興味無さそうに窓の外を見続けている。
「それじゃ兄さん、またね」
 言葉の尻尾がドアの閉音にかき消されても、佳之に動きは無かった。ただ弱まった雨音と、ゆるやかに窓ガラスを伝う雫のみに集中しており、他一切に興味が無いと言うよりも、それ以外の世界が見えていないかとすら感じられた。
 何だか、もう。
 苦々しげに奥歯を噛み、テーブルを強く叩くと、佳之は傘と鍵を持って外へと飛び出した。勢い良く締められたドアの近くにいた数人は驚いて佳之の方を見たが、すぐに目を逸らし、どこか怯えた様に小声でまた先程までしていた会話を続ける。そんな住人を睥睨し、佳之は足早にエレベーターに乗り込んだ。
 いつもはさして気にならないモーター音がやけに耳につき、まるで耳元で何台もの車が暴走しているかの様だ。そう広くないカゴの中で暴れ狂っている音は外からのものか、はたまた内からのものか。知っておきたい気もするが、うるさい事に変わりないので、どちらでも良い気がする。無心、そう無心のままでいいのだが……。
『お前が下手な考えさえ身に付けなければ、万事丸く収まっていたんだ。お前が悪い。お前さえいなければ、俺はもっと良い人生だったのに』
 耳鳴りと相俟って、頭が怒りで爆発しそうだ。ならばどうして産んだ、産ませておいて文句を言うなんて、どう言う事だ。罵声を親父から浴びるため、俺は生まれてきたわけじゃない。それが前提の人生なら、元々こちらから願い下げだ。それにしても、俺は何か悪い事でもしたのだろうか。どうして俺が、俺だけがこんなに憎まれた人生を送らねばならないのか。
 気が付くとエレベーターは十二階で止まっていた。いつから止まっていたのかわからないが、慌てて飛び出すと、体を取り巻く秋風の冷たさに一瞬ひるむ。溜め息だけが熱い。ゆっくりと歩を進めると、背後から誰かがぴったりと付いて来ている気配を感じるが、どうせ気のせいだろう。その証拠に足音が俺のしかない。自然と自嘲気味の笑みが浮かんだけれど、特にそれ以上考えない事にした。
 屋上へと続くドアは今日も冷たく見える。思わず天を仰ぎ、肺の底から溜め息を搾り出すと、少しばかり楽になった気がしたが、再びドアに目を向ければそれが気のせいだったと思い直す。重たい手をポケットに突っ込んで鍵を取り出し、意を決して開錠する。ドアを開ければ段上から沈殿したカビ臭さが冷気を伴い、鼻孔をくすぐった。
 やっぱりここは、辛いな。けれど、引き寄せられる。
 階段を上りきり、突き当たりのドアを開ければ、その先に広がっているのは雨に濡れた鈍色の世界だった。傘を開き、ふらふらと一歩二歩前へと進む。ぴちゃりと踏み出す度に足元で、パタパタと傘を打ち付ける度に頭上で雨が泣く。パタタ、パタタタと泣き続けている。ぴちゃり、ぴちゃりと叫んでいる。重い空、黒ずんだコンクリート、まるで涙を流しているかの様な貯水塔。そのどれもが心を切り裂く。錆びた包丁で無理矢理切り裂くかのごとく。
「これが、俺の人生なのかな」
 外を歩いても幻影が常に付きまとうようになった。どこへ行っても常に憎しみが心を占めて、そんな自分に対して嫌気が差し、死への衝動が離れられなくなってしまった。幻聴が語りかけてくるように、俺はもしかしたら死んだ方が世間のためなのかとすら思う。そこに明確な根拠など見えないが、ともかくそうした方がいいかもしれないと。
 その一方、自分の知らない所で親父の意志が受け継がれており、それを良しとしない俺を殺そうとしている者がいるかもしれない、いや必ずいると日々戦々恐々としている。確かに親父は酷い男で、血の繋がりがある事すら否定したいくらいだが、それはもしかしたら俺だけが嫌悪しており、実はみんな親父の方が良いと思っているのかもしれない。事実、以前石岡さんも親父の事を全て悪くは言わなかった。あんな人間なのに少しでも擁護すると言う事は、俺よりも親父の方が素晴らしいと考えているからなのかもしれない。石岡さんだけでなく、もっと他にも、より強くそう思っている人がいるに違いない。そうした延長で、俺を殺そうとしている奴がいるはずだ。山口さんも鳥羽さんも、もしかしたら謙人を産んだ香奈子もか。謙人もいずれ……。
 もう、誰も何も信じられない。犯された事を隠していた香奈子、謙人の出生、親父の人間性、住人の真意、そして何より、何も出来なかった自分。香奈子が犯され、孕まされたと言うのに、自分はそんな大切な事をつい最近まで忘れ、のうのうと生きてきた。多くの苦悩から目を背け、一人楽しそうに家庭の平和を堪能していた。それは何物にも代え難い罪だ。
 そう、自分は罪人。側にいるものの苦しみを知らず、後継ぎだからとそれまでの信頼の輪の中へ強引に入り込み、そうしてしたり顔で指図している。人との関係だけでない、社会全体から見ても、全く無価値な存在だ。土地や建物を持ち、それを貸して生活しているけど、それが一体世の中の何の役に立とうか。生活の提供? 俺が所有していなければ、彼ら一人一人が持っていただけだ。独占して、搾取しているに過ぎない。
 人は俺を羨む。曰く土地がある、楽して生活できる資産があるなどと言うが、俺にとってそれらは時に恥ずかしく思う。決してわかり合えない壁を造られ、持つべき者が憧れの対象とされた反面、異端視されてきた。子供の頃から同年代からはおろか、その親達からもそうした扱いを受けてきた俺は、そんな自分の生活を恥じるようになっていった。家庭内では親父が暴れ、外では妬まれ、どうして生活に誇りが持てようか。いつしか俺は平凡な家庭、何かを生み出す人々に強烈な劣等感を抱くようになった。
 俺は無価値である上に、狂った人間の子。生きていればきっと、周囲に害悪をもたらす。今までは砂上の楼閣と言えど、善意や幸不幸、そして周囲と自分自身が抱く評価を鑑みて、何とかバランスを取っていた。だが今ではそれも崩れるのは時間の問題だ。内から湧き上がる忘れかけていた強烈な罪悪感が、全てを呑み込もうとしている。
 まるで疲れた腕を下げるかのごとく、ごく当たり前に佳之は傘を持っていた手を下げ、そうして天を仰いだ。冷たい雨が容赦無く顔を打ち、服を濡らし、体を固まらせ、心を削る。打たれるがままに受け入れ、濡れるがままに苦しみ、けれど一向に癒されない。禊にも似たやけくその行為すら、嘲笑われているかのようだ。ただひたすらに、贖罪意識を膨らませていく。これが罰であるかのように。例えこれで倒れても、まだ足りないと思っているのか、粛々と冷たい雨粒の殴打を受け止める。
 本当に俺は死んだ方がいいのかもしれない。何の役にも立たず、周りに迷惑ばかりかけ、のうのうと生きてきた。香奈子だって、今も俺と親父の板挟みで苦しんでいる事だろう。謙人を俺の子であると見せていたが、その実、親父との子であった事をずっと明かさずにいた香奈子の胸中は、推して計るまでもない。下手に俺がいれば気を遣い続け、彼女の人生を壊してしまうだろう。
 いや、俺だけじゃない、俺一人死んでも半分しか意味を持たない。謙人もだ。呪われた血を絶やさねばいけない。親父の血を濃く受け継いだ俺と謙人、いや我が弟は共にこの世から去るべきだ。それが世の中のためであり、俺に課せられた最後の社会貢献だろう。
 雨の冷たさも空の重さも、気が付けばさして感じなくなっていた。すっかり重くなった服と体を引きずるようにして貯水塔の前に立つと、そっと触れてみる。やや錆びかけているからか、ぬるりとした感触が手に伝わり、それが漠然とした未来を暗示しているかのようだった。これからどうしようか。そう自分に問い掛けてみるが、答えは既に決まっている。ただ、それを行うのにもう一つ何か理由が欲しい。些細なものでもかまわない、何か一つ……。

 日付をまたいでも、雨は変わらず窓を打ち付けている。風も少し強まっており、時折ガラスの軋む音が心を波立たせ、闇の深さを知らしめていた。時刻は午前一時十五分。耳を澄ませたところで、生き物の脈動は一切聞こえず、まるで世界で唯一となったかの様な錯覚が佳之にはあった。
 大きな溜め息が夜風の嘆きにも呑まれず、室内に響いた。そうしながら佳之は吸う息と共に普段はあまり飲まないズブロッカを呷り、喉を焦がす。ロックではなくストレートなのでよりそれが強く、思考も熱く麻痺していく。既に目は虚ろ、息もアルコール臭く、呼吸も肩で行っている。しかし視線はただ一点のみを見詰めており、それだけは一分の揺らぎも無かった。
「やるしかないのか。だが、しかし……」
 頭の中では決意が固まってある。その手段、そしてその後に対しても一応の筋書きはあるけど、それは一般の倫理に照らし合わせればあまりにも恐ろしく、やってはいけないとわかっている。もしやれば、何もかもが破滅する。だがしかし、黒い考えばかりが湧いては渦巻いて止まらない。幾ら考えまいとしても後から後からそればかりが浮かび、心がその度に思い乱れてしまう。
「くそっ」
 グラスに残っていたズブロッカを一息に飲み干すと、テーブルにグラスを叩きつけたと同時に体も崩れ、突っ伏した。
 どうすればいい、いや、どうするかなんて決まっている。ただ、それが二つあるから困っているんだ。一つは倫理観によるもの、もう一つは呪われた血に対する自分なりの清算についてだ。わかっている、どちらが正しいかなんて事も、それによりどんな結末になるのかなんて事も、何百回考えたかわからない。
 一人で考えていても、答えなんて出ない。考えてどうにかなるなら、とっくにこの問題は解決している。それが叶わないから、実際に謙人を見て判断してみよう。謙人を見てなお心が優先するならそれを、頭が優先するならばそれを。どちらにせよ、俺は諦めてその未来を受け止めるしかなさそうだ。選択なんてものは、どちらかを無理して諦め受け入れる事なのだから。
 むくりと体を起こし、しばし息を止めて胸に渦巻く感情を受け止めてみる。一秒、二秒と過ぎる程に漠然としていた決意が固まり、体を動かした。俺は立ち上がるなり、もう一度窓の外を見遣ると、小さく頷いてから部屋の外へそっと出た。
 廊下を灯すものは自室の明かり以外、何も無い。それも念のためにと消せば、微かな闇のグラデーションで彩られただけの世界となった。それでも、僅かに見える視界と習慣とで二人が寝ている部屋の前までは容易に行く事ができた。当然、極力物音を立てず、そのためいつもより長い時間かけてしまったが、その間に心が揺らぐどころか、益々決意を強固にさせていった。静かにドアの前で二度三度深呼吸をし、冷たい自分を抱き締める。そう、全ての未来はこのドアの先にある、これで決まる。
 音を立てないよう、ドアノブに力を込めてゆっくりと押し開くが、どうしても軋むドアに心臓が裏返りそうになる。けれど、体をぶつけずに済むくらいまで開けても二人は起きる素振りすら無く、耳を澄ませば寝息と時計の音しか響いてこない。そっと一歩踏み入るが、変わらない。二歩三歩と謙人に近付くものの、二人は気持ち良さそうに眠ったままだ。天を仰げど地を見詰めど、何も変わらない。俺は謙人の側にしゃがむと、その顔をじっと見る。可愛い寝顔だ、罪の一片も感じられない。
 やはり何だかんだ言っても、謙人に罪は無いな。
 忘れかけていた子に対する親としての心が強く思い出され、じんわりと胸が温かくなってきた。そうだ、こんな想いに囚われるまで、俺は謙人を愛しんでいたじゃないか。どうにかして立派な人間になってもらいたく、香奈子と共に謙人の手を取り、歩んできたじゃないか。もう一度、もしかしたらやり直せるかもしれない。
 気付かないうちに頬が緩んでいた。あんなに暗いと思っていた室内も、豆電球の明かりがやけに眩しく感じる。側にいれば、いつか気付くかもしれない。起こしては悪いから、そろそろ戻ろうと、静かに立ち上がった。
「死んじゃえばいいのに」
 踏み出しかけた足は前へと進まず、その場に留まった。佳之が顔を強張らせて振り返るけれど、謙人は静かに寝息を立てている。
「死ね」
 先程まで抱いていた親子愛は消え失せ、表情もこの部屋に入る前へと戻った。いや、より一層険しくなったろうか。体を謙人の方へ向き直るなり、そっとまた顔を近付けた。
「邪魔なんだ、みんな」
 謙人はやはり、生きていてはいけない人間なのかもしれない。ふと見せる無邪気な様子は、親父のそれにも通ずる。親父もそうだった、激しく対立したり、くどくどと連日に渡り嫌味を言い続けたり、事ある毎に俺を意識して何かと比較しては優位に立ちたがったりとしていたけれど、時折見せる人懐っこさや気配りが、嫌いになりきれない要因でもあった。ただ、そのためになかなか見捨てられず、長年本気で対立しきれなかった。それが間違いだったと気付いた時には既に手遅れで、取り返しのつかない事態になりつつあった。
 謙人もそうなる可能性は充分にある。今は子供だから周囲も気付いていないだろうが、大きくなってからでは遅い。謙人が成長し、俺が抑えられなくなった時、本当の崩壊が始まるだろう。この秩序も、財産も、土地も、思い出も歴史も何もかも、消されかねない。俺は家を守らなければならない、そのために生まれてきたし、そうするよう育てられ、周囲の期待を背負ってきた。例え我が子だろうが、それを壊そうとするのは許さない。俺が当主なんだ、俺の決定が全てなんだ。ここは、俺のものなのだ。
 そっと謙人の首に両手を添え、一気に握り潰す。柔らかく細い首だが、瞬時に手応えが伝わらず、もどかしい。けれど首の骨がぐにゃりと軋む触感が伝わってきた。
 突如、謙人が目を大きく開いた。今にも飛び出さんばかりの眼は、大いなる驚きと憎しみを映し出している。青ざめた表情、断続的に漏れる呻き声。みるみるうちに血色を失っていくけれど、憎しみだけは色褪せない。
 これだ、この眼だ。
 あの時、親父も俺に対してこんな視線をぶつけてきた。やはり謙人は親父の生まれ変わりなんだ。何だその眼は、どうしてそんな眼で俺を見る。悪いのはお前じゃないか。死んでしまえ、お前が生きていれば全てが悪くなるんだ。お前が、お前こそが邪魔者だ。
「何してるのよ」
 布団から跳ね起きた香奈子が佳之を全力で突き飛ばす。佳之は驚きと衝撃で謙人の首から手を離してしまい、転がった。気道が確保された謙人は狂った様に咳き込み、泣きじゃくる。そんな謙人を抱きかかえた香奈子は、驚きと怒りの視線を佳之にぶつけるが、当の佳之はと言えば、呆然と見詰め返しているだけで、現状を把握しきれていない様子だ。
「何してるのよ、謙人を殺す気?」
 ゆっくりと体勢を立て直し、その言葉をどこか訝しむ調子で佳之は首を傾げる。
「そうだけど、何故止める。こいつは死んだ方がましな奴なんだよ」
「何言ってるの、私達の子じゃない。死んだ方がましだなんて、どうかしてる。何考えてるのよ」
 皮肉っぽく、佳之が一つ笑う。
「もう嘘はつかなくていいんだよ」
「嘘? 嘘って何の事?」
 この期に及んでしらを切る気か。もういい、もういいのにどうしてこんな。気遣ってくれているのだろうけど、そんな優しさが今は腹立たしい。
「謙人が俺達の間にできた子だと言うのが、嘘だと言ってるんだよ」
「ちょっと待って、何を言ってるの。謙人は私と貴方の」
「もういいんだ、気遣いなんていらない。辛くなるだけだ」
 香奈子の言葉を遮り、眉根にしわを寄せ、怒号で返す佳之はどこか泣き出してしまいそうな表情にも見える。床を殴りつけ、小刻みに体を震わせ、世界中のやるせなさを背負ったかのような佳之に、今度は香奈子が呆然としていた。
「気遣いなんて、特にしてないわよ。ねぇ、一体何を言ってるの、どうして謙人が自分の子じゃないなんて言えるの。貴方の子じゃないと言うなら、一体誰の子だって言うのよ」
「親父との子、だろう」
 言葉も出せず、香奈子が眉をひそめ、腕の中で恐怖によって小刻みに震えている謙人と、真剣な佳之とを交互に見遣る。
「謙人は親父との子だ。俺とお前の間にできた子じゃない、お前と親父の間にできた子だ。ついこの前まで、すっかり騙されていたよ。七年前のあの日、お前と親父は屋上にいた。その時の事を俺ははっきりと思い出したんだよ。あの日、お前は親父に迫られ、体を求められた。お前は必死に抵抗したが、やがて……」
 力の限り、佳之は床を殴り続ける。
「そんな事、信じたくなかった。けれど、最近謙人はどんどん親父の様になっていく。言動や仕草が、親父とそっくりだ」
「そんな事」
「お前は親父をよく知らないだけだ」
 視線が言葉を飲み込ませる。
「謙人は親父の血を濃く受け継いでいる。幾ら教育しようが、幾ら道を正そうが、いずれ親父の様になってしまう。あんな人間になれば、周囲は大迷惑をこうむってしまう。それどころか、このマンションや土地だってどうなってしまうかわからない。お前だって、俺を前にしてあんな男の子を育てていくのは辛かろう。みんなが不幸になる、育てば育つ程、歪みが大きくなる。ならば、今死んだ方がみんなのためだ。こいつは生きていても、何の価値も無い」
「間違っている、貴方は間違っている」
「あぁ、世の中の倫理だの道徳だのの観点から見れば、間違っているだろうよ。だがな、このまま生かしておくのは、尚更悪い。例え汚名を今かぶったとしても、最後に俺が正しいとわかるはずだ。だから」
「違う、間違っているのは貴方の記憶。倫理だとか道徳だとかじゃない、思い違いをしているだけなのよ。だって私は、お義父さんに犯されてなんかいないもの」
 夜目が再び失われたかの様に、目の前が暗くなる。豆電球に異常は無く、閉め切ったカーテンは相変わらず外界を映さない。髪の毛程の沈黙、それがやけに重く、深く、鋭く心を抉る。
「嘘はもういらないと、何度言えばわかるんだ」
「嘘なんかじゃない、本当よ。あの日、用があるからと私はお義父さんに呼ばれ、屋上へと確かに行った。何の用事かとお義父さんに訊けば、少しでいいからその体を味わわせろと。幾らお義父さんと言えど、そんな事認められないから、私は必死に抵抗したの。そうしたらお義父さん、少し触るだけでいい、妻が死んで久しく女の感触を忘れていたから寂しくなった、それに自分はもう勃起しないからこれ以上はできないって。お義父さんは私の手を凄い力で掴み、股間へと持って行ったら、確かに何の反応も無かったのを覚えている。でも、それでも嫌なものは嫌、仮にも親子なのに、そんな事許されるわけ無いじゃない。最後には見るだけでいい、何ならお金も相応に渡すと言ってきたら、そのうちに貴方が来たのよ」
「嘘、だ。そんなの、嘘だ。何を言ってるんだ、もうそんな嘘なんていらないんだぞ」
「例え嘘でも冗談でも、愛した人の父親を悪く言うわけ無いじゃない。それとも貴方は、私をそんな人間だと見ていたの?」
 それを言われれば、佳之もぐうの音が出なかった。付き合った当時から、香奈子は真一に対して不満はあれど悪口を言った事は無かったからだ。どんなに周囲が悪く言っていても、悪口一つ言わずに香奈子は真一の世話をしてきた。それを知っているからこそ、佳之はこの言葉の重さを反論できないくらいのものとわかっていた。
「話を戻すわ。そうこうしているうちに、貴方が屋上のドアを開けて現れたの。最初はどこかぼんやりとしていた風だったけど、すぐに凄い形相でお義父さんに掴みかかっていった。最初はお義父さんも笑って誤魔化そうとしていたんだけど、やがて激昂している貴方につられたのか、揉み合いになって。そしてそのまま、貴方はお義父さんをフェンスの端まで押していって、抵抗するのもかまわず、突き落として……」
 そこから先は言葉にならず、香奈子は謙人に顔を埋め、声を押し殺しながら泣いた。
「そんな、馬鹿な。親父は確かに、自分から飛び降りて死んだはず」
「いいえ、確かにお義父さんは貴方に突き落とされたのよ」
 記憶と証言の食い違いに、どちらを信じれば良いのかわからなくなってきた。確かに親父は自ら飛び降りた、はず。目を閉じなくとも、あの日の映像が思い浮かぶ。香奈子に迫り、揉み合い、そして一旦離れた親父が俺に罵詈雑言を浴びせながら飛び降りた。けれど、それは違うと言う。何だ、この食い違いは。どちらが正しいんだ。
 いや、俺の方が正しい。そう確信できる決定的な証拠があるじゃないか。
「もし、香奈子の言う通り、俺が親父を突き落としたとしよう。だったら何故、俺は警察の取調べを受けていないんだ。尊属殺人として、逮捕されていてもおかしくないじゃないか」
 そっと哀しく薄い笑いを香奈子が向ける。
「貴方、お義父さんが亡くなってから一月の間の事、思い出せる?」
「何言ってるんだ、そんなの」
 ……どうした、どうして出てこない。日常ならともかく、通夜だの葬式だのと言った大きな行事すら出てこない。生涯忘れないだろう出来事なのに、どうして。
「あの日、お義父さんを突き落としてから、貴方はまるで魂が抜けてしまったかの様に、全く反応をしなくなってしまった。ううん、自分で考える力が無くなってしまったと言った方が正しいのかもしれない。当然すぐに警察が来て、色々調べられたわ。でも、屋上にいたのは貴方と私だけ。私は貴方を人殺しとして認め、家庭も人生も滅茶苦茶になってしまうのが怖くて、お義父さんが自発的に飛び降りたって言ったの。貴方はそのショックで心神喪失状態になってしまったと。嘘をつくのは悪い事、けれどそうしてでも守らなければならないものだって、あるわ。綺麗事だけじゃ、どうにもならない。もちろん、私達の話だけじゃなく、住人のみなさんからも事情聴取をしたみたいだけど、お義父さんが常々おかしな人だと言う認識があったから、そうした行為も不思議じゃないとして、この件は自殺と片付けられたのよ。後で密かに聞いた話だけど、お義父さんよりは貴方に管理を任せたかったから、みんな貴方の不利にならないよう、警察に言ったらしいの。まぁ、これはどこまで本当かはわからないけど」
「そんな、まさか」
「覚えていないのは、ただの物忘れじゃない。あれから貴方の様子がおかしかったから病院で診てもらったら、心因性健忘症だと言われたわ。それは強烈なストレスにより、一部の記憶が失われてしまう症状らしいの。だから貴方はあの日の事をよく覚えていないみたいだし、覚えていると言っても、それは思い込みや推測から創られた記憶なのよ」
「なんてこった……」
 何もかも、そう、自信も記憶も自我さえも、全てシャボン玉の様に消えていった。すとんと底無しの穴に何の前触れも無く落されてしまったみたいだ。何もかもが、思い違いだったのか。親父に犯されていたと思っていた香奈子は、何もされていなかった。親父の子であり俺の弟だと信じていた謙人は、紛れも無い俺の子だった。ならば、謙人の中に見た親父の幻影とは、即ち己の映し鏡であったと言う事だ。謙人は俺を見て、あぁなった。謙人は親父を知らない。その中で最も親父に近いのは、俺だろう。ならば、あれは全て俺だったと言うのか。ずっと封じ込めていたと思っていたものが気付かぬうちに溢れ出し、それを謙人が汲み取っていたなんて。
「俺は、俺は……うわああああああああああああぁ」
「許して。貴方をこれ以上傷付けたくなかったから、何であれあの日の事を忘れていてくれたままなら、幸せだと思ったの。どんなに問い詰められても、墓までこの秘密を持っていくつもりだったのに、なのに」
 俺も香奈子も、泣き叫んだ。声の限りに、見栄も外聞も建前も常識も何もかも捨てて、泣き叫んだ。それに驚いた謙人が顔を上げたみたいだったが、今はひどく些細な事の様に思えた。それ程までに、真実は俺達の胸を再び激しく切り裂いた。
 あぁ、何て事だ、俺も親父も同じ立場であったと言うのか。あんなに忌み嫌っていた親父も、今の俺と同じ考えだったのかもしれない。そう考えれば、認めたくないけれど辻褄が合う。この土地から逃げる事などできず、一生を縛られている境遇。年を経る毎に、我が子がいずれ自分を押さえつけるかもしれないと言う恐怖。もしかしたら、俺は祖父に似ているのかもしれない。俺が謙人に対して抱いたのは、このまま大きくなれば親父の映し鏡だろうと言う事だ。老いた父ならまだしも、これから力をつけて行く我が子が自分を潰しにかかれば、太刀打ちできなくなるだろう。親父もそう考えていたに違いない。事実、俺が土地や管理について学び始めてから、より一層の敵対意識を強めたからだ。
 血、なのか。それとも、この地が俺達を作っているのだろうか。まるでここは墓場、血の鎖で縛られた墓場。祖父から父、そして自分から子、孫へと連鎖していく。いずれ謙人も大きくなり、今より世の中を知るだろう。当然、この土地と管理についても、紆余曲折あれども執り行う立場となる。時と共に、新しい考えと力が俺を置き去りにしてしまう。俺に色々言うだろう、そして忌み嫌うだろう。
 涙も声も枯れ果てた、自分さえも崩れている。今なら血の涙だって流せそうだ。幼い頃から周囲の人間に妬まれ、親父に罵られ、それでも家のためにと生きてきたのに、どうして。俺は仲良くしたいだけなのに。頭を抱えても、掻きむしっても、潰れんばかりに目を瞑っても、答えは出ない。いっそ、このまま死ねたらどんなに楽か。
 このまま朝が来なければ、どんなに楽か。

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