七、「三十一年間」

 屋上にてある種の確信を得て以来、佳之は謙人からなるべく遠ざかるようになった。それまでも幾度かそうした事はあったけれども、話し掛けられても無視したりなど、露骨に避けたりなどしてこなかった。そのため、幼稚園の送り迎えも今では全て香奈子に任せ、共に遊ぼうと謙人が寄ってきても、仕事があるからと相手にしなくなった。
 最初は忙しかったり、疲れていたりしているのかもと理解を示していた香奈子も、あまりに謙人を避ける佳之を訝しみ、一体何があったのかと訊いてみたけれど、佳之は疲れているからだとか、そんな事は無いなどと、取り付くしま無くかわすばかり。
 そんな様子も香奈子が強がりだと気付いていたが、佳之はそれでも頑なに認めようとしなかった。いや、認められなかった。もし認めてしまったら、屋上で全て思い出した事、そして謙人への想い全てが明るみになってしまう。そうすれば、例え仮面をみながかぶっていても一応平和なこの家庭が、崩壊してしまうだろう。それだけはどうしても避けたかった。
 みなが止めた通り、確かに屋上の一件を知っても良い方向には向かわず、むしろ悪い方向へと向かってしまっている。そうしてもう、誰にも相談できなくなってしまった。香奈子は当然の事ながら、俺を子供の時から知っている山口さんや鳥羽さん、そして石岡さんにも、だ。仮に相談したところで、どうなろうか。訊く前に答えはもう、わかりきっている。
 同情するが、しっかり育てるべきだ。
 誰もがこう答えるだろう。わかっている、俺だって他人から同じ相談を受けたら、そう答える。無責任だなどと、他人を恨みはしないけど、やり場の無い怒りにも似た悲しみが俺の中で暴れ狂い、一人密かに頭を掻きむしったり、骨よ歯よ潰れよとばかりに自らを潰す。日に日に我が身が砂の様に崩れてしまいそうな感覚ばかりを味わう。
 そうした日々を重ねていると、大人しくなりかけていた幻影もまた強くなり出し、昼も夜も親父の声が聞こえてくる。気をしっかり保っていればそう頻繁に聞こえてこないし、聞こえたとしても声が小さくて無視できるのだが、少しでも弱気になれば盛んに幻影がその存在を主張してくるので、じわじわと心が削られていく。
 幻影は言い回しこそ違えども、内容に変化があるわけではない。そう、大体は俺を闇へと引き込もうとする言葉だ。曰く、運命からは逃れられないだの、死ぬか殺すかしかないと僅かな救いすら無いだの、呪われた血だからどうあがいても無駄だの、数え上げればきりが無い。耳を貸せば即破滅だが、そうしなくともその時が刻一刻と近付いているみたいで、今すぐにでも自棄を起こしたくなる。
 人は知り得た知識の分だけ渇望が生まれ、それを満たそうと生きている。時にそれが道徳や倫理から外れるものであっても、どこかで成し遂げたく思っている。しかし、それを成し遂げても得られるのは一時の満足だけであり、それを手にする過程、または得た時に生じる新たな知識が欲求を刺激し、留まる事を知らなくさせる。欲求は常に達成の一歩先を行く。そして達成が見込めない時、人は悲しみと共に空白を抱く。その空白が人生の伸びしろであり、堕落への入口となっているのだ。
 俺にとっての人生は、親父と違った人間になる事だ。土地や建物を相続しても恥じない様に努めた時期もあったし、それを維持して一生困らない生活であるようにしたかったのも事実なのだが、それは目的と言うよりも手段だ。この一生を終える間際に、いや終えてからも家族や周囲の人々に親父と違って素晴らしい人物だったと評価されたい。そしてその延長で、息子である謙人をどこに出しても恥じない人間にさせたいんだ。俺の考えを、影響を正にゼロから吸収していく我が子が明らかに他より劣るのは、俺が他より劣っているのと同義だ。我が子なら、自分を超える程の人格者になってもらいたいものだ。
 だからこそ、評判が悪く、かつ人生で最も忌み嫌う親父の様にならないため、香奈子と共に教育をしてきた。学校で使うような勉強は香奈子が特に力を入れ、俺はさして関わらなかった。そんな知識はどうでもいい、テストで満点を取ったところで、必ずしも人生が有益になるとは考えなかったからだ。
 俺が力を入れたのは主に教養や常識、道徳や倫理と言ったものである。これら人格形成に役立ちそうなものを徹底的に叩き込めば、謙人にも流れている親父の血を眠らせたまま、分別ある人間になってくれるだろうと期待していた。いや、期待なんて生易しいものではない、そうなる未来しか見ていなかった。
 俺の計画はある時期までは成功した。周りの子に比べ、他人の評価も上々だった。年の割にしっかりとした分別があり、また香奈子のおかげで知能も高く、読み書きはもちろん、計算だってできる。そうしたところから、将来を期待せざるを得ない子になっていった。ただ、それも今では変わってしまった。今では俺の言う事も聞かなくなり始めたし、何より親父に似てきた。ゼロから教え、親父の情報をなるべく入れないように努めてきたにもかかわらず、謙人の中に親父が見える。やはり、理性は本能に勝てないのか。
 この体に流れる血が、全てを決めてしまっているのだろうか。幾ら変えようとしても、生まれもったものはどうにもできないと言うのか。謙人は幼いながらもあの通りだ。では、俺はどうか。俺の中で親父と似たところはあるのだろうか。
 完全に無いと言えば、嘘になる。親父と共に過ごしてきた二十数年間で、何らかの影響を受け、育ってきているからだ。例えば色に関してはかなり好みも似通っていたし、野球観戦などの趣味だって親父から教わった事だ。もっとも、応援球団は別々だったので、互いの応援球団同士が対戦すれば、最後には喧嘩になるくらい争ったものだが。
 思想や行動はほとんど似ていないと言っても、差し支えないだろう。親父は外面が良かったものの、その実、誰も彼をも敵視して、自分以外を認めようとしなかった。自分以外を全く信じていなかったと言い換えても良いだろう。あの人はすごい、この人は素晴らしい言えども、信頼できると言った事はただの一度も無い。少なくとも、俺は一度も聞いていない。
 そんな親父を軽蔑し、俺はそうならないように今日まで生きてきた。親父とは別の視点で物事を見るようにしてきたし、事実他の人からも親父とは違って素晴らしい、とも言われている。俺は親父と違うのだ。それだけを信じ、またそうなるように生きてきた。そしてそれに、一片の間違いなんて無い。
 けれど実際問題になりそうなのは血、血、血。親父も俺も謙人も、結局は同じなのだろうか。俺の中に潜むものも、親父や謙人に現れているものも、本質は同じなのだろうか。あぁ、俺の中で俺が叫ぶ。二つの人格が対立して、それぞれ相容れない主張をしており、それが健全な方向へ向かずに、ゆっくりと俺を闇に誘う。
 理性と幻影のせめぎ合い。不惑を誓った家庭なのに、疑惑しか抱けなくなってきた。家族の絆は戸籍や血だけでなく、信頼が大事だとわかっているのに、どうして幻影の声を無視できずに、信頼を投げ捨ててしまおうとしているのだろう。耳を傾ければ苛立ち、頭に血が上り、身悶え、迷い、惑い、そして大きな不安に怯えてしまうのに、確認のためにと再びそれを思い出す。当然、そうすればまた苛立つのだが。
 三十一年培ってきた自我が、こんな幻影なんかに惑わされるなんて、何ともおかしな話なのだが、そんなおかしな話に日々精神状態が悪化している。何とかそれまで大切にしてきた子を思う気持ち、親としてのあり方、家長として一家を守ろうとする決意が幻影により、終焉への崖っぷちに追いやられている。けれど、それら理性が何とかそこで踏み止まってくれているので、それまでの自我を保てられているのかもしれない。もっとも、言い換えればいつ終焉になっても不思議ではなく、今は終焉にならないだけなのかもしれないが。
 以前と比べ、よく怒るようになったし、一人で塞ぎ込む事も多くなってしまったと、自覚している。そしてもう、精神科にも通院しなくなってしまった。精神科医など結局は赤の他人であり、給料のために建前の頷きをもって接し、受け答えできなくなれば睡眠薬を処方するだけだ。精神がおかしくなりかけて頼るべき医者ですらこうだ、他人なんか信じられるものか。香奈子だって俺と謙人のどちらかを選べと問うたら、謙人と答えるだろう。
 愛だ恋だと男女の間で囁き合っても、結局それは性交渉を詩的に包んだものだ、肉体的な性交渉を持たなくなれば、男女間にあるのは恋愛ではなく、愛着だ。もっと打算的に言えば、生活のためのしがらみと言えるかもしれない。体裁と言っても、過言ではないだろう。
 親と子ならどうだ。母親は自分を痛め苦しめ、十月十日の苦難の末に子を産む。子はそんな母の乳を吸って育つ。そこに父親の介入する余地は無い。生まれて数年は母親の庇護下にあり、食事も家事も育児も、母親がする。古風な考えと友人に言われた事もあったが、世の中には適材適所と言うものがある。
 つまり、産道の苦難を共に乗り越えた者同士であるから、母親が子に対して思う気持ちと、子が母親に対して思う気持ちには密接なものがあるのだろう。対して父親はそんな二人の苦難を傍から見ていただけであり、すぐに子と共に手を取り合い、喜べる間柄ではないのかもしれない。
 従って、俺の苦悩を受け止めてくれる者は、この世に誰もいない。誰も信用できない。この考えに至ってからと言うもの、余計に悩みを言えなくなった。だが、それは当然の事であり、悲しむ必要なんて無い。生れ落ちれば一人、死んで行くのも一人。そんな人生において、過度に他人に期待してはならない。胸の内を話せば、自分がより傷付くだけだ。相手も不快になるだけだ。一人でいても平気な強さが欲しい、それさえあれば悲しみだって減るだろう。
 そうした考えは自ずと表出してくるもので、以前より一層佳之の瞳に狂気じみたものが宿るようになった。他人を避け、信じようとしなくなった佳之に、住人は次第に近寄らなくなり、マンション管理状況も徐々に悪化していった。それでも佳之は自分を信頼しないからだと、住人への愚痴を香奈子や謙人に連日こぼし、そのため妻子も距離を置くようになった。
 佳之の側には誰もいない。いや、唯一いるのは幻影。もう朝夕関わらず呪詛に似た言葉をぶつけ、確実に闇へと誘っている。それを幾ら否定しても、確かに佳之は示された道を歩んでいた。目を背けつつ、ゆっくりと……。

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