六、「あの日の貯水塔」

 一体何故、こうまで謙人と親父を重ねてしまうのだろうか。確かに血は繋がっている。認めたくないけど、俺の体にあの忌まわしい男の血が流れているからには、謙人にだって流れている。俺を経ているし、香奈子の血だって混じっているから薄まるとは言え、隔世遺伝の可能性だって充分あるので、一概にあれがそうだ、これが違うとは言えない。
 思えば七五三の時の写真を見たあの日から、親父と謙人が重なって見え始めたんだ。あの笑顔がどこか親父のと似ていて、それで。そう、それから妙にその関連性が気にかかりだしたんだ。言動が親父のそれと重なって見えてしまい、いつからか親父の生き写しの様に思え、愛せなくなってきた。そうした要因は数あれども、やはり一番大きいのは石岡さんが謙人を見て、親父に似ていると言った事だ。
 年の割にしっかりとしている石岡さんが俺と親父を間違えた事なんて、今まで一度も無かっただけに、何かしらの説得力を感じた。謙人と親父が似ていると言うのがもし、俺の思い過ごしでなかったとしたら。石岡さんの言葉がただの間違いではなく、何か別の意図があり、つい出た本音だとしたら。少し考えるだけで、常識から考えが溢れ出していく。
 会ってみるか。そして、訊こう。もしかして、俺の知らない事実があるかもしれない。そんな思いが膨れ上がるにつれ、石岡さんの部屋へ進む足取りが次第に早まっていった。
「おぉ、誰かと思えば佳之君じゃないか。ささ、上がりなさい」
 玄関チャイムを押し、程無くして現れた石岡老人に案内され、佳之が軽い会釈をしつつ部屋に入る。石岡老人の部屋は小ざっぱりとしており、男やもめの生活にしてはしっかりしていると感じられる。居間に通され適当な場所に座らされると、石岡老人がお茶を差し出してきたために、佳之は再びかしこまりながら受け取った。
「ほうじ茶、確か好きだったよね」
「えぇ、好きです。それでは、いただきます」
「熱いから、気を付けてな」
 ずずっと熱いお茶を啜れば、緊張しかけて何を話せば良いのかわからなくなりかけていた心も、幾分か落ち着きを取り戻し始め、昔から気の置けない相手とこうしている事が、何だか嬉しくなってきた。
「ところで、何の用かね。まさか、寂しい老人の慰問ではなかろう」
 さすがは石岡さんだ、俺がただ訪れただけではないと気付いている。まぁ、俺としても最初から色々訊くつもりで来たから、隠す必要など無い。探るような視線と共に向けられる微笑みに、俺も厳粛な顔付きではなく、どこか砕けた、何て事の無い世間話でもするかの様な表情のまま、口を開く。
「訊きたい事があって、今日は伺いました」
「ワシに答えられる事なら、幾らでも」
「では単刀直入に訊きますけど、先日息子が親父に似ていると言っていましたけど、あれは一体どういう事なんですか?」
「ワシが謙人君と真一君を? はて、そんな事言ったかな。もし言ったのなら、ただの間違いだろうさ。年を取ってくると、目の前に誰がいて誰がいないとわかっていても、つい記憶が混ざってしまって間違える事も多くてね。いや、年は取りたくないものだよ」
 照れ笑いを浮かべる石岡老人に対し、佳之の表情はそれにつられず、どこか硬さを保ったままである。
「それは本当ですか。実は僕に対して、何か隠している事があるんじゃないんですか。僕はもういい年です、子供の様に理解出来なかったり、青年の様に戸惑ったりしない。だから、隠している事がもしあれば、言って欲しいんです。僕は本当の事が知りたい」
「本当の事と言われても、ワシは何も隠しておらんよ。佳之君相手に隠し事なんてしても、何もならないしな。それに、今更佳之君を子供だなんて思っていないから、もし何かあれば遠慮無く物を言うよ」
「それは嬉しいんですけど、でも何かありませんか。謙人が何かしら親父に見えただとか、親父が謙人の様だったとか、そうした何かが」
「いやぁ、別に何も無いが。ならば佳之君には、その二人が似ていると思う何かがあるのかね?」
「いえ、別に。変な質問をして、すみませんでした」
 申し訳無さそうに頭を下げる佳之に、石岡老人が慌てて手で制す。
「あぁ、いや、頭なんて下げないでおくれ。それこそワシの思い付きで言っただけだ、気にしないでいいから。まぁ、その延長で佳之君に今度はワシから訊きたいのだが、どうしてまた真一君の事などを今更。少し前までは、蛇蠍のごとく嫌っていたのに」
 一瞬顔を顰めたが、すぐに平静を取り戻し、佳之はお茶を一口啜った。
「確かに石岡さんが言う通り、僕は親父の事が憎くて堪らなかった。いや、今もまだ憎いままだ。けれど、あれから結構経ちましたし、僕もいい年になったので、そう言う事にも向き合ってみようかと思いまして。その延長で、つい息子を親父の様にさせたくないと言う考えから、似てはいないかどうかと、やたら気になったもので」
「なるほど、佳之君が考える事はワシもよくわかる。年を取れば上の世代の事を知りたくなるし、良くも悪くも繋がりと言うものを考えてしまうからな。ワシも十五年前、死んだ婆さんと一緒に旅行がてら、自分のルーツを探す旅に出たが、あれはなかなか……おっと、話が逸れたな、すまんすまん。年寄りはつい昔話に頼ってしまい、没頭してしまうな。えぇと、それで何だったかな……あぁ、そうそう、真一君の話だったね。佳之君は真一君をまず、どう思っているのかを聞かせてくれないかな」
 親父の事か、何をどう言えば良いのか、未だによくわからない。今まで散々知られているとは言え、改めて家庭の恥を晒すのは気が引ける。しかし、他ならぬ石岡さんだ。俺の知らない事もたくさん知っているだろうから、隠しても仕方ないだろう。
「親父についてですか、そうですね……幼い頃は親父の事が好きでした。何と言うか、怖い中にもどこか頼れる感じがして、小学生くらいまでは母よりも好きでしたね。好みも僕に幾らか合わせてくれていましたし、親父も僕の気を引こうとしていましたから。ただ、中学生くらいになって物事に分別がつくようになると、やっぱりどこか親父の言動もおかしいと思ってきて、意見も交わすわけですよ。そこから徐々に対立し始め、そうなったら些細な事でも互いに敵意剥き出しです。母が亡くなると、歯止めが利きませんでしたね。そして独り立ちをする頃には、もう完全に何もかもが合わず、顔を合わせ口を開けば言い争っていました。でも、今になってわかるんですよ。きっと親父は僕が色々やるようになるにつれ、居場所が無くなる恐怖を感じていたんじゃないかと。それまで家長として君臨し、ここらを実効支配してきた親父としては、僕が色々覚えていくのが嫌だったんでしょう。その証拠に、僕が土地の勉強を始めてから、より一層嫌がらせに近い罵声などを浴びせるようになりましたからね。だから、立場は理解出来なくも無いですが、同情は出来ないと言うのが今も続く気持ちですね」
 何度も石岡老人が同情や共感を示すように頷く。佳之は長広舌で疲れた喉をお茶で潤わせると、小さな咳払い一つし、再び石岡老人の目を見る。
「けれど、僕の知らない親父だっているはずです。先日親父と祖父の話をして下さった時、到底信じられない親父の一面を知り、驚きました。そんな親父を知りたいんです。もし何か知っているなら、教えてくれませんか。家族ではない視点から見た親父を、はっきり知っておきたいんです。そうしたものから、僕にも謙人にも、何らかの道が見えてくると思いますから」
「真一君の事、か。ふむ」
 やや逡巡したものの、変わらず向けられる懇願の熱視線に根負けしたらしく、ふうっと一つ息を吐くなり、石岡老人は静かに目を閉じた。
「そうだな、真一君は大変頭が良く、先見性のある男だったが、いかんせん考え方などがどこか納得しかねる面があった。分別付く頃の年齢から、そうした感じはあったかな。ただ、それでも人当たりは良く、普段は顔を合わせれば気さくに挨拶なんかをしていたよ。まぁ、一つの物事に執着するとそれしか見られなくなってしまい、頑として他人の意見を聞かなくなる事も多かったなぁ。そうさの、やはり佳之君の言った通り、佳之君が大きくなるにつれ、危機感やら焦燥感からあぁした独善的な姿勢が強まっていったのかもな。だからあんな、屋上での一件を」
 そこまで言うと石岡老人がハッと口を噤んだが、佳之は聞き逃してはおらず、訝しそうな視線を強く向ける。
「屋上の一件とは、一体何ですか」
「いや、何でも無い。気にしなくて結構」
「何でも無いだなんて、嘘だ。さっき言ったじゃないですか、僕もいい年になったから事実に向き合いたいと。なのに、どうして今更隠そうとするんですか」
「事実を知りたいと思うのはもっともだが、あえて知らない方が良いと言うのも、この世界にはたくさんある。これがその一つなんだよ」
「それでも、僕は知りたいんです。屋上のその件は、特にそうだ。どうしてかよく思い出せないけれど、親父についてとても重大な事があるんでしょう。あの日、親父があそこから飛び降りるに至った何かを、石岡さんならば知っているはずだ」
 更に強く眉根を寄せた石岡老人だったが、何か思い至ったのか大きく眼を開く。けれど口を開こうとはせず、小さく横に首を振る。
「石岡さん、お願いします。辛くとも、僕は知っておきたいんです」
「佳之君、知ると言う事は必ずしも自分だけが関わるものではない、周りの人にだって影響を及ぼしかねない。言う言わないに関わらず、知らないうちに態度や雰囲気にそうしたものが出てしまい、変わってしまう。特にこれは佳之君の奥さんである香奈子さんや、謙人君にも関係する、忌まわしき記憶だ。それに、ワシ自身もう忘れたい、思い出したくもない。あんな事を覚えていても、誰の幸せにもならん、不幸になるだけだ。ここは……」
 最後はもう搾り出そうにも言葉にならないくらいで、はっきりと聞き取れなかったが、深々と刻まれた顔のしわ、力一杯拳を握り締めているからかぶるぶると震える体に、俺はもう今は一切を聞けないと感じた。石岡さんの言い分はよくわかる、知らない方が幸せになれる事も知っているし、俺だって守るべきものがたくさんあるから、おいそれと自分の都合だけで動けない。不自由だが、そんな箱庭の幸せが一番なのかもしれない。
 ただ、それでもこれだけは知っておきたい。どうしてあんな事になったのか、それを知る事ができれば、俺の中で何かが変わる気がする。それがどう働くかわからないけど、少なくとも親父と謙人が重なって見えたり、親父の幻聴や幻影についてわかったりするかもしれない。あぁ、でも石岡さんがこうでは、もう何も聞けそうにない。
「そうですね、ありがとうございました。それでは、失礼しますね」
 うつむいたまま、石岡さんは何の反応も示さない。俺は頭を下げるなり踵を返し、石岡さんの部屋を後にした。足も背も心も、何もかもが重くて仕方無い。どこか冷え冷えとした廊下を歩いていると不意に溜め息が漏れ、そのまま手すりに手をついた。
 他に誰がいるだろうか。山口さんや鳥羽さんも親父や祖父の代からの人達だから、何か訊けば手掛かりになる話を聞けるかもしれないけど、あの二人に親父の話をすればどうなるかわかったものではない。石岡さんより良くも悪くも感情の起伏が激しいので、下手に話題にすればどうなるものやら。他の住人も親父の事を知らない人も今は多いし、知っていたとしても腹を割って話せる程には親しくないので、訊けないだろう。
 八方塞か。やはりこの問題は人知れず闇の中へと消えて行く……いや、まだいる。香奈子だ、香奈子なら何か知っているはずだ。石岡さんは香奈子や謙人にも、あの一件が関係あるみたいな事を言っていた。その時、謙人は産まれていないから、きっと香奈子にも深く関わりがあるのだろう。もしかしたら、あの場に。
 しかし、それを訊いても良いものだろうか。きっと香奈子にとっても辛い記憶だろうに、下手に刺激してしまえば、夫婦の絆も壊れてしまうかもしれない。大人としては、黙っているのが正解なのかもしれないけど、でも、それでも俺は知りたい、知っておきたい。これを乗り越えないと、仮面をかぶった家庭の幸福でしかなくなるだろう。
「ただいま」
 誰に報告するわけでも無く、ただの習慣でそう呟きながら香奈子を探す。玄関側の居間にはおらず、奥の居間にもいない。台所や寝室にもいないけれど、玄関の鍵が開いていたので、出掛けてはいないだろう。その証拠に気配はするので、きっとどこかで家事をしているに違いない。
「香奈子、いるのか」
「はい、どうしたの?」
 半ば物置として使っている畳敷きの部屋から香奈子の声が聞こえてきたので、足を運んでみれば、何やら押入れの中にある物を引っ張り出して、整理をしている様子だった。懐かしい物から、いつ入手したのかわからない物まで様々であり、これをしっかりと整理するのは骨が折れるだろうなと、我が家の事なのに他人事に思えてしまう。
「片付けか」
「えぇ、使わない物とか増えてきたから、少し整理しようかと。ほら、このクーラーボックスなんか使わないでしょ、新しいの買ったんだし。それにこのバッグももう何年も使っていないから、捨ててもいいよね」
「それはかまわないんだが。ところで、謙人はどうしたんだ。姿が見えないけど、遊びにでも行っているのか?」
 先程居間などを見て回った時、謙人の姿が無かった。これから話す事は謙人がいない方がやりやすいから、どこかで遊んでくれている方が好都合だ。だが、もし家にいた場合はどうしようか。一人で謙人に留守番させるのも危険だし、どこかへ一緒に連れて行けば話しにくい。
「謙人なら、石川さんのとこで遊んでいるわよ。お昼過ぎ、貴方が出て行ってからすぐ、遊びのお誘いがかかって、それっきり」
「そうか、なら丁度良い」
「何が?」
 整理する手を一旦止め、訝しげな視線を佳之へと向ける。
「訊きたい事があるんだ、謙人がいたらちょっと話せない、大切な事なんだ」
「うん、それで何なの?」
 緊張する香奈子に、佳之も僅かに視線を落しては大きく一つ深呼吸をする。
「七年前、親父が死んだ時の事だが」
 途端、香奈子の顔から血の気が失せる。
「あの日、親父が何をしたのか、詳しく俺に話してくれないか。それと言うのも、俺はあの日の事をよく覚えていないから、今一度知りたいんだ。なぁ、あの日に何があったのかお前なら知っているだろう、それを教えてくれないか」
「何なの、突然。その話はもうしないって、前に約束したじゃない。それに私、そんな話はお義父さんに悪いけど、あまり話したくないのよ」
「大切な事なんだよ。これからの事に、重大な影響を及ぼしかねないんだ」
「大切な事かどうかわからないけど、少なくとも蒸し返せば嫌な影響を及ぼしかねないなんて事、私にだってわかる。今更そんな話して、どうなるってのよ。もういいじゃない、終わった事なんだしさ」
 露骨に嫌がる香奈子を見ていると、益々何かあるのではないかと思えてくる。石岡さんや他の人に期待できない以上、ここで聞き出さなければ、もうずっとわからなくなってしまうだろう。
「だけど、いつまでもそうして臭い物に蓋をしていたのでは、どうにもならないだろう。誤魔化しているだけだ、自分も周りをも。俺は今までそうして曖昧なままでいたけれど、それだといつまでも過去に苛まれるだけなんだと気付いたんだ。だからこれからそうならないよう、本当の事を知って、解決をしておきたいんだよ」
「そんな事言っても、嫌よ。もう忘れたいの。どうして今更そんな事掘り返さないといけないのよ、今まで何事も無くやってきたじゃない。どうして放っておけないわけ。まだ忘れられなかったり、不意に思い出す事だって私にもあるし、その度に何とも言えない気持ちにもなるけれど、少しずつそれだって小さくなってきているのに、どうして貴方は」
 涙を目に浮かべ、振り絞る様に香奈子は声を荒げる。こうまで激昂する香奈子は珍しく、佳之も一瞬ひるんだものの、すぐに引きかけた背中を押し戻し、きっと睨む。
「いつまで続くのかわからないから、すぐに何とかしようとしているんじゃないか。いいから、何か知っているのなら早く言え。お前のためにも、家族のためにもこの問題を一刻も早く解決すべきなんだ」
「そんな事言って、結局は自己満足のためじゃないの」
「うるさい。いいから言え」
 しばらく睨み合いが続いた。涙目の香奈子、鬼の様な形相の佳之。両者一歩も退かぬかの様に見えたが、やがて香奈子ががっくりと肩を落とし、大粒の涙を膝に落す。そんな妻の涙に佳之は顔色一つ変えず、ただじっと紡がれる言葉を待っている。
「あの日、お義父さんが亡くなった日、私は屋上でお義父さんに……迫られたの。私は嫌がって、必死に抵抗したんだけど、お義父さんは私を力づくで押さえて、そして……」
「親父が、お前を?」
 俺の金を勝手に使ったり、自分の非を絶対認めなかったりと言った非常識な親父が、俺の予測を越えて、更にとんでもない事をしていただなんて。許せない、死してなお許せない。だがこの怒りはもう、どこにもぶつけられない。あぁ、しかし無理矢理迫ったと言う事は、まさか。
「か、香奈子」
 赤く腫れた眼を向けられると、何か訊こうにも言葉が喉の奥で引っ掛かり、そのまま消えてしまう。二度三度口を金魚の様にパクパクとさせるが、思いが言葉にならない。
「もう、いいでしょ。今は一人にさせて」
 ようやっと出た香奈子の言葉にそれ以上どうこう言う気は無く、俺は大人しく重い足取りでそこから去った。なんだか幾ら軽蔑すべき親父でも、まさかそこまでしていたとは俄かに信じられず、呆然としてしまっている。
 けれど、これで今まで漠然と思い描いていた妄想と思っていたものが、僅かに現実味を帯びてきた。誰にも言えず、ただの妄想だとわかっていても向き合えず、かと言って拭い切れなかった一片の疑惑。未だ明確に思い浮かべる事すら辛いけど、香奈子にあぁ言った手前、俺が知ろうとしているものの可能性から逃げてどうする。俺はこの可能性に、今こそ目を向けるべきなのだ。
 謙人は親父の子、俺の兄弟かもしれない。
 馬鹿な考えだと自分でも充分理解しているけど、こう考えれば辻褄の合う事だって多々ある。俺を経ずに、より親父の血が濃いとするならば、あの親父と見紛う仕草や考えも納得できそうだし、親父が死んだ場所での遣り取りだって、何かしらの見えない絆によるものだろう。
 確証とは言えないけれど、信じるに値するものだと思えるのが、悲しい。もし本当ならば、一体どうなってしまうのか。一家はどんな方向へと進むのか、いや、それ以上に俺は正気でいられるのだろうか。それが現実だと受け止められるのだろうか。
 この道がどこに通じているのかなんて、わからない。けれど、それを確かめるためには、あの屋上へと向かわないといけない。きっと、あそこに何らかの答えがある。長年近付けなかった忌まわしい場所にこそ、長年求めていたものがある。今こそそれを手にすべき時だ。
 エレベーターで十二階に降り立つと、しっかりとした足取りで屋上へと通じるドアの前へと向かう。目下の喧騒とは無縁な高層階において、自らの足音こそ強く心に残り、自ずと緊張感が足裏からじわじわと湧き上がってくる。半分も行かないうちに佳之は生唾を飲み込み、呼吸のリズムが徐々に乱れ始める。
 屋上へと通じる安っぽくも重そうなドアの前に立つと、ぶるりと一つ身震いし、深々と息を吸い込んでからもう一度それを見詰めるが、情けないくらい膝が笑っている。ポケットに入っている鍵を取り出そうとしても、手が入っていかない。たたずむ程に視線が下へ下へと落ちて行く。
 この先に、きっと忘れていた記憶がある。こんな所で立ち止まるわけにはいかないのだけど、果たして俺は受け止められるのだろうか。もし今までの価値を全てふいにする何かがあるとしたら……いや、それでも俺は知ろうとしたからこそ、改めてここにいるんだ。今行かなくて、いつ行くと言うのだ。
 鍵を鍵穴へと差し込み、一回しすると金属のぶつかり合う音が指先から脳へと響く。鍵を引き抜き、ポケットにしまってからドアノブに手を掛け、回す。いつもよりも回る事に恐怖感が生まれてくるが、大きく息を吐き、意を決してドアを押せば、少しばかり錆付いた耳障りな金属音が鳴り響いた。目の前には薄暗い階段が上へと伸びており、見上げれば金属製のドアがあり、その小窓から日光がこぼれている。
 中に足を踏み入れれば、普段使っていないからか、カビ臭さが鼻をつく。やや眉をひそめて、ひどく重く感じる足を上げ一歩、また一歩と進んで行く。淀んだ空気が肺に溜まり、体中を濁らせる。十数段程度なのに、何十段もの長い階段に思えてきて、ふと気を抜けば挫けてしまいそうになり、心をしっかりと保つ。
 時間にして一分少々だろうが、既に何十分も上り続けていたかの様だ。それでも終わりがあるもので、俺は今、屋上へのドアの前に立つ事が出来た。小窓からの光が、目に痛い。この先に広がっているのは本当に光か、それとも二度と戻れなくなる闇か。どちらにせよ、ここまで来た以上は確かめないとならない。
 しっかりとドアノブを掴み、捻りながら押し開けると、風が壁となってぶつかってきた。同時に陽光眩しく、思わず目を閉じてしまう。白から黒への闇の転換にも心の揺れはさほど変わらないが、やけに瞼が重い。風はもう穏やかになっており、日光も肌に厳しくないけど、どうしてか開けられない。どこかでこの先に広がる光景を拒絶しようとしているのだろうが、そうしていても何もならないと、ここに来るまで何度も考えてきた。今更迷ってどうする。
 ゆっくりと瞼を開けると、色が咲いた。
 目の前に広がるのはそれなりの広さを有しているが、殺風景なコンクリート畳に落下防止のフェンスがあるくらいだ。他はがらんとしているが、唯一の例外として中央に威風堂々と貯水塔がそびえ立っている。その高さはおよそ五メートルくらいだろうか。
 一歩二歩と歩き出し、屋上に立つ。柔らかな日光の匂いがどこか心地良く、風が心をも撫でる。周囲をもう少ししっかりと見回せば、幾つか新しいマンションが建っているものの、そう数は多くない。再び貯水塔へと目を向け、心の底に沈んでいるだろう記憶を掘り起こす。あの場所に、確かに何かが……。
 引き返せと頻りに心や体が騒いでいるけど、僅かな義務感と好奇心、そして多大なる過去からの不透明な記憶のざわめきがそれを許さない。そんな気持ちに支えられる様に貯水塔を注視し、記憶を探る。
 貯水塔を背にした女、迫る男。
 一瞬、絵画の様に見えた幻影が、妙に心に響く。いや、きっと幻影ではなく、現実にあった記憶だ。ここにはそうしたものが数多く眠っており、その一つ一つが俺の認識を変えるだろう。大きく息を吐き、もう一歩踏み出す。
 女に手をかけ男が笑う、そんな男を必死に振りほどこうとする女。
 近付くにつれ、どんどん鮮明になっていく映像と同調し、塞がっていた心の蓋も奥底から押し上げられ、次第に抜けていた記憶のパーツが組み合わさっていく。嫌な汗も歩みも、もう止まらない。まるで何かに操られているみたいに、引き寄せられる。
 呆然とそれを眺める自分、抵抗する香奈子、そして下品に笑いながら妻を抱き寄せる親父。
 気付けば貯水塔の前に立っていた。目の前にそびえるそれはひどく雄大かつ、不気味に見える。触れれば影となっている部分がひんやりとしていて、僅かに錆付いた質感と相俟って、心をひどく騒がせる。手を離し、周囲の建物を眺めつつ、今一度じっくり七年前の風景を思い起こす。当時、ここより高い建物は少なく、周囲からここを見ることは容易で無かったろうが、その中でも北側には建物が少なく、最も誰の目にもつかなかっただろう。そう、丁度ここだ。
 足元に目を落とし、忌々しげに地面をにじると、コンクリートと砂の擦れ合う音がやけに耳につき、それがまた一層心をささくれ立たせたらしく、苦々しげに顔を顰めた。佳之はしばしそうしていたが、やがて左へと目を向け、備え付けられているフェンスを注視する。
 あの日、香奈子はここで犯されたんだ。俺を憎み、かつ香奈子に度々色目を使っていた親父が俺の隙をつき、人目に付かないここへ妻を連れ込み、暴力でもって犯したんだ。情けない事にしばらく呆然と俺の瞳はガラス球の様にただそれを映していたが、突如失いかけていた感情を思い出し、駆け寄るなり親父を突き飛ばした。最初、親父は卑しく笑いながら誤魔化そうと冗談めかして言い訳をしていたが、目の前で妻が犯されたのだ、幾ら親と言えども許せず、二三発思い切り横っ面を殴った。すると親父も逆上し、俺に襲い掛かってきたんだ。しばらく揉み合い、殴り合っているうちに体力で勝る俺が優勢となり、親父はふらふらとフェンスの方へよろめきつつ逃げると、ありったけの罵声と呪詛をぶつけ、飛び降りてしまった。
 目の前での親父の自殺と妻の強姦と言う二重のショックに、今まで忘れていた。いや、身も心も忘れようとしていたのかもしれない。香奈子や石岡さんの言う通り、思い出すべきものではなかったのかもしれないが、こうして知った以上、受け止めなければいけないんだ。妄想と片付けてしまいたかった事、全てをも。
 謙人は俺の子じゃない。親父の子、つまり俺の弟だ。それも俺が愛した女性との間に生まれた不義の子。俺が懸命に育て、見守り、愛したのが自分の子でなく、生まれてきてはならない腹違いの弟だったなんて。俺よりも濃く親父の血を受け継いでいるだろう謙人は、きっと後々俺に不幸をもたらすだろう。ひたすら幼い頃から色々香奈子と二人で教えてきたのに、結局あんなにも親父の色を濃く出し始めてきている。もしこのまま育っていけば、親父と同じ様な人間になってしまうだろう。あぁ、妄想と思っていた事が現実になってしまう。
 それだけは、何としても阻止したい。いなかる手を使ってでも、だ。もうあんな人間を世に出してはいけない。そのためには、道徳に反する事すら……。
 夕食は一人で外食する事にした。どうにも家族と顔を合わせる事ができず、旧友から連絡が入り、急遽外出すると伝えておいた。下手な嘘だと自覚しているけど、そうでもしないと今にもどうにかなってしまいそうだった。外食は久々だし、昔から通っているファミレスなので味は悪くないはずなのだが、何だか美味くない。好物のハンバーグも肉汁溢れて良い出来なのだが、ぼそぼそとした食感しか得られず、満足とは程遠いからか、苛立ちばかりが増す。
 謙人はまだ、何の力も無い。けれど、確実に獅子身中の虫となるだろう。こうまで未来に不安があるとわかっていて、何も出来ないだなんて。ただ、さてそうならばどうしようかと思っても、どうしようもない。倫理的な問題もあるし、住人達の目もある。
 佳之は一口水を飲むと、コップを置くのと同時に大きな溜め息をついた。まるで見えるかの様なそれは佳之の心を刺激し、荒々しく手で払われる。けれど当然ながら何の抵抗も無く、ただひたすらに奥歯をすり潰すだけにしかならなかった。
 帰宅し、自宅のドアノブを握った頃、時刻は午前一時を少し回っていた。なるべく音を立てず、静かに中に入る。真っ暗なままでもある程度大丈夫なのだが、こうした曖昧な境界は俺の心を蝕む。手探りで廊下の電気をつけると、まず玄関側の居間に行き、ソファにどっかりと腰を下ろしてから、天井を見上げる。
 このままここで、目を閉じてしまいたい。暗闇も一人ならば、俺だけ苦しめばいいのだ。下手に誰かと会えば、その人の心をも引き込んでしまいそうで、それが堪らなく怖い。いや、本当は俺だって暗闇から抜け出せるよう手を引いてもらいたいし、この苦しみをわかってもらいたくてぶち撒けたいけれど、そうしたからと言ってどうにもならないと、自覚している。答えはもう二つしかないのだから。
 深々と溜め息を一つ吐くと、佳之は立ち上がり、寝室へと向かった。寝室の辺りで明かりを点ける事を避け、豆電球の明かりのみを頼りにしてパジャマに着替える。そうしてそっと、香奈子の隣の布団に潜り込もうとしたのだが、佳之の視線が謙人に吸い付いた。
 謙人、その安らかで可愛らしい寝顔の下に一体何を秘めているんだ。ずっと俺の子だと信じ、親父の様にはさせまいと教育してきたのに、お前は次第に親父の色を濃く表し出してきている。親父は俺に僅かばかりの媚びと、多大なる迷惑を与えてきた。謙人もそうなるのか、そうなってしまうのか。これから成長していくにつれ、知恵も体力もつけていく。対して俺は老いから逃れられず、衰えていくばかりだ。この先、俺はどうなる。謙人が親父の様になれば、俺はまた辛い人生となるかもしれない。それも、俺が死ぬまで。
 こいつが、謙人が生きていたら、俺の人生はまた滅茶苦茶になってしまう。もう嫌だ、二度とあんな時を繰り返したくない。何もかもを妬まれ、邪魔され、そしられる人生など、もう味わいたくないんだ。そんな事をされるくらいなら、いっそこの手でそうならないようにしてやる。我慢を重ねても、良い事なんて無かった。耐え続けても、更に辛い日々が続くだけだった。ならば、我慢などいらない。こいつを殺しても、一生刑務所生活で済む。死刑ならば、それでも良いさ。それより辛いのが、これから何十年と苦しめられる事だ。
 殺してしまおうか。今なら、できる。いや、今しかない。まだ力を得る前にやっておかないと、俺が危ない。人は危険を排除し、己の幸福を求め続けるのが、生きる目的。俺は謙人を排除して生きる権利だってある、親だからと言って子だからと言って、何でもかんでも我慢する必要はどこにも無いんだ。
 布団に入りかけた体を謙人の方へと向け、自ずと荒くなる呼吸を何とか落ち着けようとする。そうすれば今度は鼓動が際限無く高まっていき、暗い室内が薄ぼんやりと白む。佳之は生唾一つ飲み込むと、膝一つ分だけ静かに謙人の方へと進ませた。
 もう嫌だ、本当に嫌なんだ、二度と味わいたくないんだ。だから可哀想だなんて、全く思えない。何事も無く、ただ息絶えてくれ。さよならも浮かばないくらい、あっけなく。
 更に一膝分。あと少しで首を難なく締め上げられる。例え抵抗されても、今の謙人ならば簡単に組み伏せる事が出来る。香奈子に気付かれず、謙人をこのまま……。
 不意に香奈子に目が行った途端、動けなくなった。そうだ、謙人を殺して一番悲しむのは香奈子なのだ。嫌々ながら産まざるを得なかった我が子を殺され、挙句夫である俺が側を離れ、犯罪者一族の汚名をかぶるだなんて、幾ら何でもそんな事はさせられない。ここまで愛した女なんだ、生きてくれるからには幸せになって欲しい。あぁ、どうすればいい。どの道、俺には救いなんて無いのだろうか。それを求める事自体が、おこがましいとでも言うのか。
『何をうだうだと考えているのだか。お前はどうする事も出来ず、ただ苦しめばいいんだ。殺したところで、解決するものか。殺さなければ、考えている通りだ。それに、お前が幾ら愛した女だろうが、俺の子を産んだ女には変わりないだろうに』
 反論しようにも上手い言葉が見付からず、ぐうの音も出てこない。噛み締める歯が心の悲鳴を代弁し、力一杯握り締める拳よりも心が締め付けられる。
『全て繋がっているんだよ、俺もお前も、あのガキもな。いや、世の中全てが。その中で逃げ道なんてどこにも無い、例え死のうが縛られ続けるものだ。お前の考えはいつも浅はかで、見ていられないな。何をしようが、どう思おうが、死ぬまでどうにもできないんだよ』
 悔しくても、涙なんて出そうにない。苦しくても、血など出てこない。言い返したくても、言葉が出ない。耐えようにも、それがどうにもならない事だと気付いているから、今すぐにでも暴れ出したいけれど、その術を俺は知らない。
『生きるも死ぬも、等しく価値が無い。逃げ出す事なんて、できないよなぁ。資産は当然ながら、お前の性格だと住人を見捨てる事などできないだろう。仮にそうしたとしても、今更何ができるんだ。ゴミの様にくたばるだけだろう。無能一人、煩悶するだけだ』
 悔しくて堪らなくて、けれど正しくその通りで、ただただ闇へと落ちて行く。その間にも何か聞こえるけど、闇が耳に詰まり、目にかかり、何を掴む間も無く心が消える。やはり抜け出せないものなのか、あの日から思い続け、俺を捕らえ続けていた苦悩は偽り無く続くとでも言うのか。
 俺は本当に、どうすればいいのだろう。迷うのもそろそろ終わりにして、近いうちに何らかの答えを見付けなければならない。その答えが例え、人の道から外れるものだとしても、だ。

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