五、「重い扉」

 昼食を終えた佳之は居間で一人お茶を啜りながら、ぼんやりとテレビを見ていた。さして面白くない昼のドラマだが、食後すぐに仕事に取り掛かろうとする意欲が最近失われがちになってきているので、ついつい見てしまっている。それでも三十分程度なので、さして仕事に支障は無い。心落ち着かせながら、ソファに体を預ける。
 あれから何度か精神科に通ったものの、大したカウンセリングにはならず、結局薬を処方されるだけだった。飲めば多少落ち着くけれど、効果が切れた時に忘れかけていた感情が一気に身を焦がすため、次第に飲まなくなった。カウンセリングも薬も用を為さなくなったが、相変わらず心は苛まれるので、なるべくストレスを溜めないような生活へと移行していった。香奈子も協力を惜しまないでくれているので、以前よりもストレスは減ったように思う。すまないと思うけど、少しばかりそうした考えも止め、ただひたすらに甘えてみようと考えている。唯一問題があるとすれば、謙人と会う時間が減った事だろうか。謙人もどこか顔を合わせるのを怖がっているし、香奈子もなるべく今は積極的に会わない方が良いと言っているので、可能な限りはそうしているけど、やはり寂しい。
 幻聴や幻覚も、ここしばらくは大人しい。いつまた顔を出すのかと思うと気が気でないけど、そのことばかり考えを巡らせていても何もならないので、なるべく割り切ろうとしている。ストレスも、過去のしがらみも疑問も、何もかも振り返らないようにして、ただただ今そこにあるものにしか目を向けない。そうすればいずれ、またあの生活が戻ってくるはずだ。
 ただ、しばらくゆったりした生活を送っているからか、これまでの人生の中で、こんなに穏やかな時はもしかしたら初めてかもしれない。それまで良くも悪くも波のある人生だったから、こんなのもいいかもな。走るだけが人生ではない。そんな事をぼんやり考えていると、玄関のチャイムが鳴り響いた。今は香奈子も出掛け、謙人も幼稚園なので自分しかいないと、佳之が湯飲みを置いて玄関へと向かう。そうしてドアの前に立ち、ドアスコープで訪問者を覗き見るなり、頬を緩めながらドアを開ける。
「お邪魔します。はい兄さん、これお土産」
 百合は手にしていた包みを佳之に差し出す。訝しそうにそれを受け取りつつ、佳之が先立って居間に入り、向き合う様にしてソファに腰を下ろした。そうして百合が持ってきた包みを開けてもいいかと訊き、頷いたのを確認するなり、丁寧に開ける。
「ケーキか」
「うん、ちょっと来る途中に買って行こうかと思ったの。香奈子さんと謙ちゃんとで、分けて食べてね。ところで、当の本人達はどうしたの。姿が見えないけど、買い物かな」
「謙人は幼稚園で、香奈子が買い物だ。まぁ、ありがたく後で食べさせてもらうよ。しかし、何だか今日は機嫌良さそうなんだか悪そうなんだか、よくわからない顔をしているな。何かあったのか?」
 ふっと百合は口元を緩めると、ついと視線を外した。そうしてややしばらく思案深げに首を傾げたり、上を向いたりした後に、静かな微笑みをもって佳之を見詰めた。
「あのね、私、婚約したんだ」
「そうか、ついにか。相手は当然、増畑さんだよな」
「そう、延照とね。結婚はもう少し先の話だけど、年明けにはと考えているんだ。電話で知らせようかとも思ったけど、こういうのは顔を合わせて伝えた方がいいかと思ってさ。それでまぁ、今日こうして来たと言うわけ」
 少しばかり照れ臭そうな百合を見ていると、何だか俺まで照れてしまい、頬が緩む。気まずくなりがちになる間を嫌うように居住まいを正すが、やはりどうにも照れてしまい、言葉が出てこない。つい喋ろうとした口元を閉めて、鼻から笑い声を漏らしてしまう。
「とりあえず、私もこのまま上手くいけば、ようやく結婚する事ができるみたい。やっぱり私も結婚と言うものに憧れていたから、嬉しくて。兄さん達見ていたら、結婚ってすごく良いものだなって、改めて思えたの。愛する人が側にいて、愛すべき子を見守る生活と言うものを、私もしてみたいって昔から望んでいたしね。お父さんが生きているうちは、結婚だとか婚約の以前に、付き合っているだけで色々あったからさ、ようやくだよ」
「そうだな、お前も親父には色々口出しされたりしていたからな。付き合っている人を紹介すればその人を罵倒して、自分の方が良いだろうと妙な負けん気を出したり、少しでもケンカしただなんて言おうものなら相手の家に怒鳴りに行ったり、時にはその人の親元にまで文句を言いに行ったりしていたから、こっちも気が気じゃなかったよ」
「兄さんにも大分迷惑かけちゃったからね、今も申し訳無く思っているよ。お父さんと私の間に何度も入って仲裁してくれたし、時には私のためにお父さんとケンカしたり。そんな兄さんがいてくれたからこそ、私はまた恋をしようと甘えられる事ができ、こうして婚約する事もできた。本当にお父さんが生きていたらこんな事できなかった、なんて言ったら不謹慎なのかもしれないけど、実際そうだったから。本当は家族の誰からも祝福されたかったんだけど、結局兄さんだけだよ、こうして喜んでくれるのは」
「母さんも、きっと喜んでくれているさ」
「そうだね」
 遠いあの日の温もりを思い返すような眼で心馳せながら、それとは違う今、そしてこれからにふっと二人の口元が緩む。あの頃の幸せにもう戻れないけれど、あの頃には成し得ない幸せをこれから得られる。長年、共に同じ苦労を乗り越えてきた二人だからこそ、こうした笑顔が自然と浮かんでくる。
「母さんには何もしてやれなかったな。あの頃は身近な人が死ぬだなんて想像つかなかったし、旅行に連れて行くだとか、美味しい物食べさせてあげるだとか、そうした親孝行できなかったからなぁ。でも、これでようやく兄妹揃って家庭を持てそうだから、安心させられるな」
「私達が何か父さんに言われたら、いつもかばってくれたからね。恩返しとか、そう言うわけじゃないけど、今になってようやく安心させられそうだなって思いは、やっぱりあるんだ。母さんにもそうだし、兄さんに対しても」
「楽しみだな」
「血の繋がった家族はもう兄さんだけになったから、そう言ってくれると嬉しいよ」
 照れ臭さもどこかへと消え、二人は微笑みと視線を交わす。慈愛の込められたそれも、やはり見詰め続けるには足りず、どちらからともなく目を逸らし、外を眺める。特に目新しいものなど無いけれど、再び目を合わせても気まずくなりそうで、満足そうに夏の太陽を浴びる緑を見詰め続けていた。
 しばらくそうしたり、茶を飲んでテレビを見たりしながら談笑しているうちに、香奈子が謙人を連れて帰ってきた。謙人は佳之を見ると僅かに身をすくませたが、百合を見るなり駆け寄り、膝の上に乗った。香奈子はそんな謙人を軽く諌めつつ、お茶を淹れる。
「大きくなったわね、謙ちゃん。見る度にどんどんと大きくなって、男前になっているんじゃないかな。この分だとすぐに、私を越すかもね」
「まだ先だよ。百合お姉ちゃんに追いつくだなんて、無理だよ」
「無理じゃないって、すぐだよ。私も謙ちゃんのお父さんも、謙ちゃんくらいの頃は小さかったんだから」
「そうなんだ。じゃあ、早く大人になりたいな」
 そう言う謙人の眼は未来を向いており、子供ながらに大人の世界を夢見ている。まだ世の中の汚れをそう知らない子供に、大人達は羨ましさと共に色々知った自分に対しての自嘲と相俟って、どこかくたびれた笑みを浮かべた。
「謙ちゃんは大きくなったら、何になりたいの?」
「車掌さん、電車の車掌さんになりたい」
「そっか。じゃあ車掌さんになったら、私を乗せてね」
 大きく力強く頷く謙人と笑みを交わした百合はそのまま、佳之の方へ目を向ける。
「本当、兄さんに似ているね。話す時の仕草もそうだけど、子供の頃の夢も似ているしね。兄さんは確か、バスの運転手だったかな」
「よく覚えているな。俺はもう忘れかけていたよ」
「だってよく、早くここを出たい、遠くへ行ける運転手になりたいって言っていたの、まだはっきりと覚えているから。それで、私も連れて行ってと言ったら、じゃあみんなを乗せられるバスの運転手になるって」
「そんな話、初耳」
 話に割り込んできた香奈子は佳之から更にそうした話を聞き出そうと、目で訴える。
「兄さん、お義姉さんにそう言う昔話、話していないの?」
「まぁな。隠していたわけじゃないけど、特に話す機会が無かったから、話さなかっただけだよ。それに、どうも昔話となると愚痴っぽくなるからね」
「でも、たまには聞きたいな、そんな話も」
 好奇心を多分に含んだ香奈子の視線と、それを促す百合の視線が突き刺さる。それに加えて、謙人も我関せずと言った素振りだが、どこか期待した眼差しをひっそりと向けてきていた。そうした視線群から逃れられる術を持たない俺は、わざとらしく大きな溜め息をつく。
「子供の頃は毎日が辛かったし、母さんが生きている時はその苦労している姿が、亡くなってからは、いない事が心を蝕んでいたからな。かと言って、そう悪くもなれなかったから、夢ばかり見ていたのかもしれない。その一つが、バスの運転手だったってだけ。百合がさっき言った理由もそうだけど、やっぱり一番の理由としては格好良いから、だったかな」
「男の人って、そうした運転手に憧れる人、多いよね。謙人の車掌ってのもそうだし、血は争えないんだね」
「謙ちゃんは立派な車掌さんになってね」
 笑い合う香奈子と百合、照れ臭そうにしている謙人に愛想笑いを浮かべながら、ふと香奈子の言葉が気になったので、一人こっそりと思い悩む。血の繋がりは争えない、か。確かにその通りだろう。脈々と続く血は大なり小なり、表へと出てくる。謙人だって、幾ら教育や躾を施しても、結局は親父の性格に近いものが出てきてしまっているので、絶望ばかりが身も心も焦がし始めている。三つ子の魂百までと言われているけど、実際には産まれた時からある程度決まっているのかもしれない。
 視線を謙人に集中させていると、それに気付いたのか、やや恥ずかしそうに笑い返してきた。見慣れた笑顔に俺も笑顔で返すけれど、何だか上手く笑えない。以前と同じ笑顔にしているつもりなのに、ただ顔を歪めているだけの感じがする。きっともう、謙人に対して心からの笑みではなくなってしまっているからだろう。
「それにしても」
 百合はぐるりと周囲を見回す。
「自分がこうした家庭を持つかもしれないと思うと、何だか感慨深くなるものだね。兄さん達みたいに早くなりたいと思う反面、もう少し気ままでいたいなぁって思ったりもして、どこを向いていれば良いのか、たまにわからなくなっちゃう。ほら、よく結婚は人生の墓場だなんてみんな言うから、不安なところもあって。お義姉さんはどうでしたか、結婚前の不安とか、そう言うものはありました?」
「結婚前の不安は当然あったわよ。それこそ上手く家庭を築けるかどうか、子育てはどうすれば良いのか、佳之さんのお義父さんと上手くやっていけるかどうかなど、もう不安になる事が多くて。でも、考えたって答えなんか出ないから、なるべく思い詰めない様にしたの。初めてする事なんて、どれも同じ様なものよ。本を読んだり誰かの体験談を聞いたところで、実際に自分がやらないと不安なんて消えないもの」
「そうですね、少し楽になりました」
「いえいえ、どういたしまして。ところで、そう言う事を訊くって事はもしかして、結婚の予定でもあるの?」
 あっと短く叫んだかと思うが早いか、面目無さそうに照れ、そうして伺うかの様に百合が香奈子を見遣る。そんな百合に香奈子がおかしそうに頬を緩めると、百合も居住まいを正しながら笑い返したが、やはりまだどこかばつが悪そうだった。
「実は私、婚約したんです」
 ぱっと香奈子の顔が弾ける。
「おめでとう。それで、式はいつ頃に?」
「まだはっきりとは決まっていなくて、でも年明けにはと考えているんですよ。私達、付き合いが長いものですから、結婚してもこれと言った新鮮味は無いでしょうけど、でもこのまま一緒にいるなら、一つのけじめとして籍を入れようかって」
「子供ができたら、良くも悪くも毎日が新鮮になるわよ」
「先の事はなるべく考えないようにと、お義姉さんの教えを守ります」
 哄笑が居間を包む。そのためか、佳之の心にへばり付いている悪しき想いも、どこかへ押し流されて行く。そうして一頻り笑い終えた頃に、謙人が外で遊んでくると言い出したので、百合も立ち上がり、帰り支度を始めた。
「もう帰るの?」
「えぇ、そろそろ行こうかと」
「もっとゆっくりしていっても」
「すみません、これから用事があるもので」
 それで全てを察した香奈子はもう引き留めようとせず、見送りのために立ち上がった。そんな二人に少し遅れて佳之も立ち上がると、今度は誰よりも早く玄関へと赴き、靴を履き始めた。
「あら貴方、どこか行くの?」
「百合を見送りがてら、少し見回りでもしてくるよ。見回りと言っても細かく隅々までやるわけじゃなく、まぁ散歩みたいなものさ」
「そう、気を付けてね。そして百合さんも、またいつでも来て下さいね」
「えぇ、また近いうちにお邪魔しますね」
 二人頭を下げて別れると、佳之と百合は揃って外へと出た。やや重そうな雲が空を覆っているけれど、降り出しそうではない。先程まで饒舌になっていたり笑っていたりしていたためか、通り抜ける風が火照った体を丁度良い具合で冷やしてくれる。
「しかし、百合も結婚か。もし親父が生きていたら、どうなっていたんだろうな」
「何だかんだ言って、反対したんじゃないかな。いつも父さんは私の事が大事だとか、私の事を一番に考えているだとか言って、結局何もかも壊してばかりだったからね。もしかしたら愛してくれていたのかもしれないけど、それが空回りだったのか、妨害だったのかだなんて、今となってはわからないよ」
 親父は百合の言う通り、百合に対しては味方だとか大切にしているからだとか言って、いろいろ言ったり実際に行動したものだが、そのほとんどが傍から見ていて迷惑そうだったし、時には俺をも巻き込んだ。だから味方になろうが敵となろうが、どちらにしても害にしかならない親父だった。そのため晩年には側にほとんど誰も近寄らず、孤立する事が多くなっていた。
 だけど、憎かろうが自分の父親であったから、ふと一人でいる親父を見て可哀想だと思う事も少なくなく、適当な世間話などを持ちかけたりもした。二言三言は別に問題無いのだけど、少し長く話していれば、すぐに嫉妬や猜疑、うんざりする程の自己主張ばかりで、やはり話すべきではなかったと密かに溜め息つきながら、半ば逃げる様にその場を立ち去ったものだ。
「ところで兄さん、最近随分父さんの事ばかり話すけど、どうかしたの? 少し前までの兄さんなら、父さんの話をする事はおろか、そう言う話題になりそうになると、むすっとして口を開こうともしなかったのに」
 訝しそうに眉根を寄せ、百合が佳之の顔を覗き込む。その視線を無理なく外した佳之は少しばかり考えたふりをして、小首を捻る。
「いや、特に意味は無いよ。もう親父が亡くなって七年経つんだ、わだかまりもそろそろ捨てて、前だけじゃなく後ろも少しくらい確認しても良い頃だろう」
「そう、ならいいんだけど。あっ、もうここでいいよ。兄さんも仕事あるんだろうし」
 敷地と道路の境界で百合はそう言うなり、笑顔で佳之と別れた。佳之はその背が小さくなるまで見届けると、踵を返して一号館の方へと向かった。住み慣れ、かつ色々な因縁の含まれたこの一号館を少し離れて眺めれば、天気のせいだけではないだろう、どこか暗くそびえ立っている様に見える。
 気が滅入りがちだからと言って、自宅にばかりいても逆効果なので、頻度は減ったものの、こうして気が向いたら見回りをやる事にしている。すれ違う住人と挨拶を交わせば、何だか心軽やかになり、労をねぎらわれれば活力が湧く。そんな些細な触れ合いが人間らしさをはっきりと気付かせてくれ、生きている実感を得られる。
 しかしそれも、そう長くは続かなかった。ややくすんだクリーム色のドアの前に立つなり、自分の顔から微笑みが消え、胸騒ぎと緊張が噴き出る。そのドアは屋上へ続くドア、忌まわしき記憶と共に封印したものだが、やはりここに来れば嫌だと言う想いを思い出してしまうし、一刻も早く立ち去りたいと思う反面、何故だか気になって仕方無い。過去の束縛と言う名の悪魔が手招きしているのか、それとも別の何かがあると言うのか。どちらがあるにせよ、今は開ける気がしない。ここは開けてはいけないのだから。
『おい、ちょっとした冗談だろう』
 不意に聞こえてくる亡父の声に、佳之は今更驚きはしなかったが、やはり少なからず眉根が寄り、奥歯を噛む。それ以外は耳鳴りにも似た静寂ばかり。佳之は大きく息を吐き、二度三度と首を横に振り、その言葉と想いを呑み込もうとする。
『何だよ、大した事じゃない。ちょっとふざけただけだろう、おい』
 より一層、佳之の顔が歪む。拳にはこれ以上無いくらい力がこもっているらしく、掌を破りそうな勢いで握り締めており、歯も悲鳴を上げているが、踵を返そうとせず、その場に留まっては幻聴と向き合おうとしている。
『お前が生まれてきたから、俺はこうなったんだ。お前さえいなければ』
 何度も何度も言われ、結局一度も慣れなかった言葉。今なおその言葉が自分の存在意義を揺るがし、心に影を落す。親にそう言われ、人生を否定された自分に何があるのか。共に笑い合った時も何度かあったが、あれは全て偽りだったのかと、今更ながら悩まされる。虚構でしかなかったと言うのか。
『今になってわかったよ、俺の全てはあらかじめ決まっていたんだな。お前もそうだ、今はわからなくても、必ずわかる時が来る。馬鹿げている、全くもって馬鹿げている。何も知らないくせ、したり顔で俺に説教か。はは、そんな事を言えるのも今だけだ、精々いばってろ』
 確か死ぬ直前に言った言葉だが、何を言いたかったのか、今でもよくわからない。何だか悟り切った様な、それでいて嘲り倒した顔が今も瞼の裏に焼き付いている。狂人の一言と片付けるには妙に気にかかり、しかしまともな一言として考えるにはどうかと思う。何しろ、自己完結してしまっていて、何もこっちには伝わってこないのだから。
 あぁ、過去なんて幾ら思い返そうがどうにもならないのに。頭でわかっていても、心がどうにもならず、何もかもを縛る。そうした見えない力が、人生に影響を与えてしまう。懸命に生きようとしても、深い闇に引きずられて行く感じがして、堪らない。
 いつもそうだ、俺はそうした方へ傾いてしまう。きっとそれは、宿命に近いのだろう。親に憎まれ、母に若くして死なれ、愛すべき息子を忌まわしく思ってしまう俺には、そうした奈落が似合っているのかもしれない。世の中で一体どれくらいの人が、親に呪われたのだろうか。どれだけの人が、己の存在意義を身内に否定されたろうか。生きていてはいけない、そんな一度は封じ込めた想いが、今日をもって再び湧き上がってくる。
「うっそ、それって本当の話なの?」
 不意に聞こえてきた階下からの声はどこか素っ頓狂で、続く言葉も下世話な噂話。どうやら何人かの主婦が他愛も無い雑談をしているらしい。けれど、そうしたものが離れかけていた日常を強烈に引き寄せ、我に返った佳之は幾分か怯えた様に周囲を見回す。階下からの声とは打って変わり、誰もいなければ、何も無い。ただ寂しい風が吹いている。
「戻るか」
 エレベーターで一階に戻ると、まだ帰宅するには早いと思い、外へと出る。館内にいるよりは幾分か心穏やかになれるが、先程の幻聴がまだ心に影を落しており、どうにも頬が強張ったままだ。何だか、気が滅入って仕方無い。親父が生きている時は死んでくれれば、この辛い日々の連鎖が終わるものだと思っていたのに、親父が死んだ今もこうして苦しみの連鎖を断ち切れずにいる。最近、溜め息が増えたのはきっと気のせいではないだろう。
「やぁ佳ちゃん、見回りかい?」
 背後の声に振り返れば、山口さんがにこにこ笑いながらゆっくり近寄ってきていて、俺は咄嗟に愛想笑いを浮かべた。立ち止まり会釈をすれば、山口さんも同じように返してくる。山口さんは隣に並ぶと、やや不躾に顔を覗き込んできた。
「何だか佳ちゃん、元気無さそうだけど、大丈夫なんかい。前より少し痩せたみたいだし。管理が大変なのはわかるけど、もっと食べたり、気分転換に何かした方がいいんじゃないの。幾ら若いと言っても、無理したら体もたないからな」
「心配してくれて、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ、多少痩せましたけど、体調はそう変わっていませんから。それより、山口さんの方こそ大丈夫なんですか」
「あぁ、俺は大丈夫よ。いやでも、本当に佳ちゃんが調子悪そうに見えて、心配なんだ。利権云々抜きにして、昔から見ているから、ついな」
 やはり山口さんは昔からよく俺を見ているだけあって、何か悩みを抱えていたり、体調が悪くなっていたりすると、すぐ気付く。けれど、俺ももう子供じゃない。いたずらに心配させたり、不安にさせたりする必要も無いだろう。
「いえ、本当に何とも無いですから」
「そうかい、それならいいんだけど。けど、何かあったらすぐ言ってくれよ、俺は佳ちゃんの味方なんだからな。期待しているのよ、俺は。やっぱりこれからずっとここを管理していくわけだし、健康に気を遣って、しっかりしてもらわないとな」
「そうですね。僕も何だかんだ言って三十一ですし、そろそろ体も気遣っていかないと」
 軽やかに笑う山口に、佳之も愛想笑いを強める。一頻り笑い終えた山口は気持ち良さそうに、ぐるりと周囲を見回す。
「ずっと健康でいないとな、お互い。特に佳ちゃんはほれ、あの四代目を守っていかんとならんしな。大事な体だからね」
 山口さんが顎で示した方へ目を遣ると、一号館の片隅、少し日当たりの悪い場所で謙人が一人で遊んでいる姿があった。木の棒を振り回し、何やらわぁわぁ言っている。大方、先日見たアニメの主人公にでもなっているつもりなのだろう。他愛も無い遊びなのだが、やはり棒を振り回している以上、もしかしたら誰かを怪我させるかもしれない。
「ちょっと注意してきます。元気なのは僕も喜ばしいんですが、怪我したりさせたりでもしたら不味いので」
「なに、あのくらい大丈夫だと思うが、本当に佳ちゃんは子煩悩だねぇ」
 山口さんに一つ頭を下げてから、謙人の方へと向かう。棒を振り回している事もそうだが、あんな人目に付きにくい所にいると、誘拐されるかもしれない。最近はこの辺も人が増えたから、それだけ物騒にもなった。
 ふと、足が止まった。佳之の顔が次第に強張っていき、それがピークに達するなり、ぶるりと一度震え、駆けた。
 あそこは、あぁ、あそこは間違い無い。七年前に親父が飛び落ちた場所だ。どうして謙人はよりにもよって、あんな所で。やはり、何かあるのだろうか。いや、そんな馬鹿な。ただの偶然だと信じたい。
 近寄ってきた佳之に気付いた謙人が顔を綻ばせたが、それも一瞬の事で、すぐにどこか怯えた表情になり、体を僅かに縮こめた。佳之は謙人の側に立つと、肩を上下させて見下ろす。それでより一層、謙人の顔から色が失せていった。
「ここで何をしていたんだ」
「えっと、遊んでいた、だけ」
 震える声を耳にし、忌々しげに佳之が周囲を見渡す。
「ここは暗くて危ないから、他の場所で遊びなさい。それに、そんなもの振り回していたら、なおさら危険だ。すぐに捨てなさい。誰かを怪我させた後じゃ、遅いんだから」
「ごめんなさい」
 言うなり謙人は足元に棒を放り投げたが、その場から立ち去ろうとはしない。ためらっていると言うよりは、ここが危険だと全く思っていないから、佳之の言葉を疑っているみたいで、小首を傾げている。
「どうしたんだ、早く行かないか。こんな薄暗くて人目に付きにくい所にいたら、変な人に連れて行かれるかもしれないぞ。だからほら、違う所で遊びなさい」
「でも、ここは大丈夫だよ」
 何を言ってるんだ、俺の言った事が理解出来なかったのか。でも、前々から俺と香奈子がそうした危険性を教えているから、もし誘拐されたらどうなるかなんて事が、わからないはず無い。現に、こんな場所に謙人がいる事自体、そう無い事なんだ。
「どうして、ここは大丈夫だと思うんだ。前からお父さんもお母さんも、こう言う場所は危ないって言っているだろう」
「うん。でも、ここは大丈夫なの。それにここ、大事な場所なの。大切な物があるんだ」
「大事な場所? 大切な物って、一体何だ?」
 訝しむ佳之に対し心に余裕ができたのか、謙人がいたずらっぽく微笑む。
「それは秘密。だってここは秘密基地だから、言っちゃ駄目なの」
 息子の微笑みとこの場所の因業の深さに、得も言えぬ恐ろしさを感じずにはいられず、思わずなりふりかまわず逃げ出したくなった。だが、あと一歩のところで親としての威厳と常識がそれを踏み止まらせ、恐怖を打ち消そうとつい謙人を強く睨んでしまう。すると謙人も先程までの余裕ぶった微笑みを顔から消し、またもおどおどした顔付きに戻る。
「ともかく、ここは駄目だ。帰るぞ」
「でも」
「でも、じゃない。ここは駄目だ、とにかく行くぞ」
 無理矢理謙人の腕を掴み、半ば引きずる様にしてその場を立ち去る。必死に抵抗しているが、所詮は大人と子供、たたらを踏むかのごとく二歩三歩と進ませれば、大人しく歩き出した。ところが今度は大声で泣き始め、明らかに周囲に対し俺が何かしたかと思わせる。
 けれど、今はそんな事どうでもよかった。謙人が俺をどう思うか、世間が俺をどう思うかなどいつも気にしている事が、ひどく些細に思える。それよりも俺には、謙人が亡霊の手を握っているような気がした。そうした得体の知れない恐ろしいものから守るためには、泣かれてもかまわない。いつかわかってくれる、これが親の愛情だと。

 しんとした夜の静寂が、逆に耳をつく。そんな静けさを許すまいと時計ががんばっているものの、今度はそれが際立ち、耳障りだと思えてしまう。そんな煩わしさに苛まれたわけでは無さそうだが、佳之は気だるそうに目を開けると、不満げに目元を擦り、枕元の時計を手にする。一時十五分。夜明けには程遠い。
 そのまま寝てしまおうと、未だぼんやりとした頭に残る眠りの切符を離すまいとしたが、ゆっくり訪れる尿意にそんな決意もままならず、のっそりと布団から這い出した。寝汗がすぐに冷え、ぶるりと体を震わせながら、便所へと向かう。
 薬が効いていないのかな。
 処方された睡眠薬を飲んでいるのだけど、どうも最近こうして夜中に目覚めてしまう。体が薬に慣れてしまったのか、それとも更に心が病んできたのだろうか。どちらにせよ、眠れなくなってきているので、どうにかしたいところだ。
 おや、誰かな。
 用を足し終え、寝室に戻ろうとしたところで不意に気配を感じたので、周囲を夜目で見渡してみれば、ソファに誰か座っている。テレビの正面にある、一人掛け用の革張りソファ。寝汗の冷えとは違う感覚が背筋を走り、まだ半ば寝惚けていた思考が急速に覚醒していく。
 あのソファに座っているのは、まさか。
 認め終えるよりも先にその人物は立ち上がり、ゆっくりとこちらに振り向く。あぁ、やっぱりそうだ、香奈子でも謙人でもない、けれど確かにこの家にいる第四の人物。どうしてだ、どうして死してなお、俺にまとわりつくのか。どうして安眠を許してくれないのか。
『お前も俺だよ。どんなに嫌っていようが、同じなんだ。認めたくないよな、そうだよな、もし認めたらどうなるかわからねぇものな。でも、こればかりはどうにもならない。血で結ばれているんだから。家族だからな』
 何が家族だ。自分の意見に従わない者には裏切り者だの、頭がおかしいだのと叫んでいたくせに。俺は親父と違う。客観的に物事を見られるし、家族を常に気にかけ、顧みる。他人の評価だって、上々だ。
『上辺だけのものに踊らされ、お前は本当に下らない奴だ。それにお前は知らないんだ。七年前のあの日、お前の妻を俺は』
 嘘だ、幻聴だ、馬鹿げている。そんな事、あるはず無い。
『あの日から七年経ち、お前の子は六歳。さて、何の関係も無いとは言えないよな。はは、あの子を見てわかったよ。あれは俺の子だ。兄弟だな、お前にとって。お前だってどこか、薄々勘付いているんだろう。無視するのはよくないな。そう、お前は目を背けている。その事実からも、何もかもからも』
「やめろ」
『認められないよな。もし認めてしまうと、お前は』
「うるさい、うるさいうるさい。嘘だ嘘だ、全て嘘だ」
 佳之は今が夜中だと言う事も忘れ、大声で叫びながら頭を抱え、うずくまる。必死に耳に残る声を振り消そうとし、頭を掻きむしる。けれどそうしたところで、僅かすらも消えない。それどころか、佳之にはそれがただの妄言ではないのではないかと、そんな思いさえ抱き始めており、より一層抱える力を強め、体を丸めた。

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