四、「失われる日常、蘇る記憶」

 集会を終えた佳之は自室で二号館、三号館管理人から渡された議事録をまとめていた。最近ゴミの分別がしっかりされていないと業者に注意されたため、全棟でそれを徹底するように、またどうすれば効果的に行えるかなど意見交換のため、本日集会を開いたのだった。一時間弱の話し合いで得られたものはそう多くはないけれど、三つの議事録をまとめ、最良と思われる方法を見出すのは骨が折れる作業である。
「不純物混入の度合いが酷ければ分別し直しをさせる、ビラを徹底的に配る、全体集会での説明、監視役を日替わりで行う……ビラを配るのが負担も少ないし、いいのかな。分別し直しは反発が強そうだし、全体集会も全員参加できはしないだろう。監視役は、考えておいてもいいか。ボランティアを募集してみるのも、手だな。あぁ、ビラも数刷るより、回覧版に挟んだ方がいいか。最終的には住人の資質に任せるしかないんだろうが、しつこく宣伝し続ければ効果も上がるかな」
 あぁでもない、こうでもないと頭を悩ませつつ、別紙に具体案をまとめる。こうした管理側と住人側との折衝案をまとめるのがいつも苦手で、よく香奈子に相談するのだが、今日は香奈子がカルチャースクールの仲間達と一泊二日の温泉旅行なので、一人で考えなくてはいけない。別に今日明日に答えを出さなくてはいけないわけじゃないけど、そこまで大きな問題じゃない以上、このくらい一人で決断しなければいけないだろう。それに議事録には鳥羽さんと山口さんの意見も書かれてある。まとめられなければ、総管理人としての資質も問われかねない。
「一服してくるか」
 考え過ぎたところで、結論は変わらない。むしろやっぱりあれも駄目、これも駄目だと全てを否定してしまい、何も出来なくなる。そうした思考の袋小路に入り込む前に、外に出て一服をする事が一種のスイッチとなっていた。俺はタバコをズボンのポケットにねじ込むと、玄関に鍵をかけて広場にある喫煙所へと向かう。
 吐き出す煙、たゆとう紫煙をぼんやりと眺めていると、風により流れ消える煙の様に余計な考えも無くなっていく。安息の時間。こうして一人で青空の下、タバコを吸っている時間だけが落ち着く。幸福とも似ているが、それとはどうやら違うみたいだ。香奈子や謙人、また気心知れた友人達と一緒にいるのは楽しいのだが、こうして一人好きな事をしている時間は、何事にも替え難い魅力を持っている。
 何も考えずに一本、青空の動向を思いもう一本、そして将来について僅かに思い巡らせ三本目をゆっくりと吸うと、広場の隅にある自販機へと向かい、いつも飲んでいる缶コーヒーを買う。タバコでややいがらっぽくなった喉を潤すのは、コーヒーが良い。半分程一息に飲んでからぶらぶらと歩いていると、ふと二号館入口のロビーで石岡さんと謙人が何やら一緒にいるのを見付け、そこへと向かってみた。
「あっ、これはどうも」
 石岡さんが俺に気付くなり、柔和な微笑みをもって会釈してきた。同じように俺もそうすると、謙人が俺に気付いたらしく、小走り気味に歩み寄ってきた。
「見回りですか」
「いえ、そう言うわけじゃないんです。ただ、今日の集会の意見をまとめるのに少し疲れたので、気分転換をと一服していたら、丁度石岡さんの姿が見えたものですから」
「あぁ、ゴミ問題のですか。ワシも分別は一応しているつもりだが、正しいかどうかまでは。何だか難しくて、年寄りには覚えられませんわ。っと、こんな事言ったら、必死に対策を練っている佳之君に悪いな」
「いえいえ、僕も正直よくわからなくて妻に頼りきりですよ。確かに何が燃えるゴミなのか、どれがそうでないのか区別付きにくいですしね。慣れるまでが大変なんですよ」
 佳之の言葉に石岡老人は何度も頷く。
「何事もその通り。だが、年を取って色々な事が常識として身に付いてくると、新しい物事に馴染みづらくて、いやはや、生涯勉強とはよく言ったものだね」
「そうですね。僕もゴミの分別だけじゃなく、ここの管理も、育児も、わからない事だらけです。今回もどうすれば一番いいのかとまだ決められず、悩んでばかりですしね」
「佳之君はまだ若い。いや、若いのによくやっていると感心するよ。大した三代目だ。おっと、そうこうしていたら四代目が暇そうにしている。いやはや、どうも年寄りは説教と回顧と言い訳ばかりで、若い人達を退屈にさせがちにしてしまう」
 二人の視線に気付いた謙人はややばつが悪そうに、居住まいを正す。その姿を石岡老人は何とも愛しそうな眼差しで見詰めていた。
「いや、本当に可愛い。ワシも孫、いやひ孫か。もしいたなら、このくらいだったのかもしれないが、生憎ワシらの間には子ができなかったからな、尚更そう思うのかもしれん。しかし、よく似ている。目の辺りが本当にそっくりだ」
 石岡老人の境遇に同情しつつも、似ていると言われ、佳之は上機嫌だった。ついと視線を謙人に向ければ、どこか照れ臭そうに笑い返してくる我が子に、名状し難い幸福を感じずにはいられなかった。
「真一君に、そっくりだ」
 ……えっ?
 親父に似ているとは、どう言う事だ。子を見れば父や母に似ていると言うのが普通で、祖父に似ているとは言わないだろう。そう、きっと言い違えただけだ。失礼だが、石岡さんはしっかりしているとは言え、かなりの高齢だから、親父と間違えたんだろう。それでも俺としては、納得いかないのだが。
「親父と、ですか?」
 佳之の覗き込む視線にハッと顔を強張らせ、石岡老人が慌てて軽く頭を下げる。
「あぁ、いや、これは失礼。佳之君に、だね。年寄りはこれだからいかんな。ワシもしっかりしていると思っていても、ボケ始めてきたのかもしれん」
 自嘲気味に笑いながら頭に手を遣る石岡さんに、俺はどう言う顔をすれば良いのかわからず、また心も未だ定まらず、曖昧に頬を緩めることしかできない。困り果てた挙句、ふと謙人の方へ目を向けると、退屈そうに足をばたつかせていた。
「謙人、別にお父さん達の話を聞かず、外で遊んできてもいいんだぞ。ほら、あそこに友達もいるだろう」
「うん、そうする」
 弾かれたように立ち上がると、謙人は外へと飛び出していった。元気良いその後ろ姿を、佳之と石岡老人は同じ様な眼差しで見詰めていた。次の世代への期待と言うよりも、単に幼子が愛嬌振りまき、活発に動き回る姿が愛らしくて堪らない様子だった。
「本当に可愛くて堪らないね、あの年頃は。佳之君もそうだったよ。よくそこらを走り回っては、ワシらをはらはらさせたものだ。あぁ、こうして目を閉じれば色々思い出すよ」
 どこかうっとりとしている石岡老人に、佳之は苦笑するしかない。
「子供の頃、か。正直僕はあまり思い出したくないですね。お恥ずかしい話、今も親父の事が許せなくて、未だに憎んでいたりもしますから」
「確かに、佳之君の言いたい事はよくわかる。自らの考え、正義を振りかざし、それは時に他者を傷付けたりもした。だけど、真一君は必ずしも誰も彼もが憎くてそうしたわけじゃなく、守ろうとしてそうしていたんだよ」
「お言葉ですが、それは石岡さんの買いかぶりなのでは。親父はいつも母を困らせていましたし、僕や妹にも暴力こそ振るいませんでしたが、愚痴や罵倒、それに何かやろうとすれば度々邪魔が入りましたしね」
「うむ、まぁ確かに佳之君達に対して真一君は特に酷かった。けれど、結婚して数年間までの真一君はそれはもう真面目で、誠実で、実に思い遣りのある男だったんだよ。特に子供の頃は才気煥発でね、一を聞いたら十を知るような、ワシを含め大体の住人が真一君の様になれたらなぁ、なんて考えたものだよ」
 にわかには信じられない話だった。自分の知っている親父はどうしようも無い人間の極みで、血が繋がっている事すら、未だに受け入れ難い。けれど、石岡さんが言っている事は俺が知っている親父とは全くの別人で、話だけ聞けば立派でどこに出しても恥ずかしくない人物だ。もしも石岡さんの話が本当ならば、どうしてああも変わってしまったのだろうか。
「石岡さん、その話が本当ならば、どうして俺の知っている様な親父になったのか、教えてもらえますか。どうもそう言われても、僕には信じられなくて」
「なるほど、確かにそうかもしれませんな」
 柔和な微笑みを一時忍ばせ、石岡老人は深く一つ頷いた。それは遠い過去を懐かしむ様であり、またどこか気持ちの整理を付けようとしているかの様でもある。
「ワシが知っている真一君は、とても利発な子だった。多少強引と言うか、自信過剰な面もあったけれども、優秀なのには変わり無く、将来に充分期待できる人物だった。だが……」
 そこで一旦言葉を詰まらせたが、すぐに石岡老人は咳払いをして、佳之に視線を合わせるなり、口を開いた。
「真一君の父、佳之君から見てお爺さんにあたる金吾とは、それはもう仲が悪くて、事ある毎に争い合っていたものだ。真一君が己の道理を曲げなかったのは佳之君も知っているだろうけど、金吾もまた昔気質の男でね、子が父に対し意見する事を嫌ったんだよ。真一君は時代の流れと言うものを読むのに長けていたから、いつまでも家長封建を重んずる金吾を古臭く思ったんだろう。そのため、真一君は金吾に負けぬよう、我を通す事にした結果、あぁなったのだよ」
 父の過去をほとんど知らなかった佳之としては、実に興味深かった。真一はいつも自分が一番だと誇示していたため、話半分として聞いておかないと後で恥をかく事が多かったし、また過去に関しても、そのために主観で語られる事が非常に多く、こうして信頼できる人から話を聞く機会もなかなか無かった。
 ただ、佳之が石岡老人の話の中で特に興味を強く抱いたのは父の話ではなく、祖父金吾の話であった。
「石岡さんは祖父と友達だったと前に聞きましたけど、祖父ってどんな人だったんですか。祖父は僕が生まれるずっと前に亡くなりましたし、父も祖父についてあまり話してくれませんでしたから、よく知らないんです」
「金吾か。そうだなぁ、確かに真一君は金吾の事をすごく嫌っていたから、話したとしてもきっと批判ばかりだったろう。他の住人も知らないのがほとんどだろうし、仮に知っていても話そうとしないのがほとんどだろうさ。金吾と真一君の話をよく知るものは、きっと山口さんかワシくらいのものになってしまったんだろうなぁ」
 どこか寂しそうに目を細める石岡老人も、何だか懐かしそうに口元を緩めている。
「佳之君に以前少し話した通り、ワシと金吾は学生時代からの友達で、この秋月館に関しても度々相談を受けたりもしたものだ。まぁ、あの時代に一人で全てやるのは難しかったからな。ただ金吾は、真一君に負けず劣らず才気があった。そう、この秋月館を造り、揺ぎ無い基盤を築いたのは伊達じゃない。それに時流を読む力があったので、次第に上向きとなる経営状況と共に、自信を深めていってたな。年々相談される事も少なくなり、いつしか一人で全てを動かしていたよ。そう、ワシは金吾を友達だと思う以上に、憧れていたんだ。金吾はまたそうした才気以上に優しい男でな、そこいらの庶民でも入居できるよう、秋月館の家賃を安くし、貸し出したんだよ。それは今にして思えば客寄せの一環だったのかもしれないが、当時としてはそんな事どうでもよく、確かに住人から感謝されていた」
 なるほど、祖父はこう話を聞いてみると、初代管理人として恥じぬ人物だったらしい。だとしたら、どうして親父があぁなったのだろうか。元々なのか、それとも祖父の影響からなのだろうか。元々だとしたら、さっき石岡さんが言った事と矛盾してしまうのだが。
「では、どうしてそんな祖父に対し、親父がさっき話してくれた様に反発したんですか?」
 一つ石岡老人は深呼吸をする。
「さっきも少し言ったけど、金吾は古い考えの持ち主でね、ワシから見ても首を傾げたくなる考えがしばしばあった。そして非常に頑固でねぇ、こうと決めた事は最後までやり抜く意志の強さを持っていた反面、一度決めた事に対してどんな人の意見にも耳を傾けなかった。普通こういう人間が事業に手を出すと失敗しがちだが、金吾の凄かったところはバランス取りが非常に上手で、どこか常に客観的な視点を組み込んでいたため、ここの運営が波に乗れたのだろう。だが、真一君はそんな金吾に同調できない様だった。いつの時代も若者はそれまであった物事を古臭く思い、自分の考えこそが時代に迎合していると信じてしまう。真一君はそれが特に強くてね。二つの強烈な個性がぶつかり合い、それで互いを憎み合っていたから、まぁ仲が良い姿なんて、とんと見た事無かったよ」
 俺と親父の仲が悪かったように、祖父と親父の仲もまた悪かったのか。だが、代々親子仲が悪いなんて事は、俺と親父の代まででいい。俺と謙人からは親子協力し合い、いつになっても良い関係でありたいものだ。そうしなければ、何のため俺はあんな親父の下で耐えてきたと言うのか。あれを反面教師にしなければ、物心ついてからの年月が無駄になる。
「そんな金吾と真一君の争いは、ある日唐突に終わりを告げた。金吾が死んだ事によってな」
 石岡老人の寂しそうな呟きに、僅かに視線を落していた佳之も、再び顔を上げた。
「昔から心臓が弱かった金吾はある日倒れ、そのまま亡くなってしまった。経営によるストレスも相当なもんだったんだろうな、ワシにも晩年弱音を吐くようになっていたし。それに加え、毎日とも言える真一君とのいさかいの連続だ、心身共に大分きていたのだろうなぁ」
「祖父が亡くなったのは、確か親父がまだ若い頃でしたよね」
「そうだな、今から三十……三十五年くらい前の事か。まだ二十そこそこになったばかりの真一君が全てを継ぎ、数年で周囲を納得させつつ、ここをより大きくしていったものだ。それにより、真一君は次第に傲慢と言われても仕方なくなってくるが、それでも葉子さんがまだ存命だった頃は大人しいものだったよ」
 石岡さんの言う通り、母さんがいた頃はまだ親父も、それ以降に比べて大人しかった気がする。それは母さんが心の支えとなっていたと言うよりも、俺や百合に迷惑がかからないよう、何とかなだめていたからだろう。母さんの話が出る度、胸が締め付けられる。もしあの時、自分にもっと力があったのなら、母さんを楽にさせられたかもしれない。それを思うと、いつも心苦しくなってくる。
「佳之君、ワシはな」
 長広舌に疲れたのか、石岡老人はゆっくりと肩から力を抜き、ややうなだれがちに長い息を吐き出した。
「新しいものと古いものがせめぎ合い、そうして折衝案を見出す事が発展だと思っているんだ。新し過ぎれば人はついてこられず、古過ぎれば動かない。そうした対立が大なり小なり、どこでも行われているから、世の中動いているのだろう。だがな、その溝が深くなり過ぎると発展どころか、共倒れとなる。それを家庭でやって欲しくないんだよ。家庭は社会の基礎。基礎で乱れて、どうしてもっと広い世界でどうこうできると言うのか」
「そうかもしれませんね」
 石岡さんの言う通りだ。物心付いた時からの相手と上手な関係を築けず、どうして外の世界と上手に関係が築けるのだろうか。もしそれができたとしても、心のどこかでしこりが残る。子供の頃にどんなケンカをしても、最後には家に帰らざるを得ない。大人になってからは帰宅以外の選択肢も生まれたが、家や土地、そして周囲の期待に縛られ、俺はどんなに辛くとも留まる事を選んだ。仕方の無かった事。……そうして自分を納得させてきた。本当はずっと前から気付いている。俺を縛っていたのは、他でもない俺だ。家だ土地だ期待だと、自分でそうしなければならないと半ば諦めにも似た気持ちがあったからこそ、こうしてここにいるのだろう。それが失敗だったとか成功だったとか、語る事自体ナンセンスだ。考え様によってはどちらにでもなる、それが人生と言うものだろう。
 ドアが閉まっているのに、穏やかな風が吹いたかの様に二人の頬が緩んだ。普通話さないような事を話したからか、それとも外でいつの間にか友人と楽しそうに遊んでいる謙人を見ているからなのか、それは当人達にもわからない。ただ、静かな期待が揺らめいている。
「それでは、そろそろ失礼するよ。久しぶりにたくさん話したからか、どうも疲れたみたいだ。一眠りするよ」
「はい、それでは」
 石岡老人がエレベーターに乗り、その扉が閉まるまで、佳之は見送った。そうしてエレベーターの階数表示灯が一階から二階へと移るのを視認するなり、外へと出る。ゆっくりと歩いて最寄のベンチに腰掛けるなり、タバコに火を点け、謙人に目を向けつつ紫煙を吐き出す。
 親父が高く評価されていたとは、意外だったな。あんな最低の人間なのに才気があり、時流を読む力に長けていただなんてにわかに信じ難いが、石岡さんがあぁもはっきり言うのだから、間違い無いのだろう。そしてもう一つ意外だったのが、祖父の事だ。今まで祖父について知る機会もほとんど無かったし、会った事も無かったのでそう知ろうとしなかったけど、こうして話を聞くと、繋がりと言うものを感じられた。そして知識としてだけ知っていた人が思い出話により、その人間味を交流の無かった俺にも感じられ、今初めて祖父を祖父として受け入れられる。
 祖父がいて、親父がいて、俺がいて、謙人がいる。ごく当たり前の事なのだが、こんな事を考えたのも初めてかもしれない。脈々と受け継がれる血。それを感じた瞬間、得も言えぬ恐怖が背筋を凍らせた。
 逃れられない。
 不意に聞こえてきたその言葉が、一体誰のものなのかわからないけれども、心よりも深い部分で首肯してしまう、諦めにも似た強い納得を覚え、目眩に襲われた。そんな事無い、やろうと思えばいつでもできる。そう何に対して逃れられないのか自分でも曖昧なまま、必死に否定する。認めてはいけない。もし認めてしまったら、自分が崩れてしまいそうな気がしたから。
 しばらくして、すっかり灰となった吸殻を灰皿に投げ捨てると、謙人に帰宅する旨を伝え、佳之は再び仕事をするために自宅へと戻った。その背は仕事を中断した時よりも幾分か曲がっており、表情もどことなく暗かった。
 新案をある程度まとめ上げると、佳之は大きく伸びをしてから、缶コーヒーを飲み干した。コーヒーが好きなのだが、いちいち淹れるのが面倒なので、スーパーなどで一箱購入してはこうして何かにつけて飲んでいるのだった。
「五時か」
 そろそろ香奈子が帰ってきてもいい時間だが、まだ帰ってこないところを見ると、きっと友人とお茶でもしているに違いない。しょうがない、そろそろ謙人を家に連れ戻すとするか。最近は色々と物騒だし、そうじゃなくとも幼子を日の沈むまで遊ばせておくわけにはいかない。
 連れ帰ってくる頃には妻も帰ってくるだろうと期待を抱きつつ、外に出ると、佳之の穏やかだった顔が固まった。子供同士の喧騒。声の方へと目を向けると、敷地内に備え付けてある公園の砂場で、二人の子供が取っ組み合いをしているのが目に入った。
 まさか。
 慌てて駆け寄ると、半べそになりながら謙人とその友達が殴り合っていた。謙人の左眼が少し腫れているけれど、それより相手の子が鼻血を出している方が気になった。二人は俺が来た事に気付いていないらしく、殴り合いを止めようとしない。
「おい、何やっているんだ」
 周囲の空気を切り裂く様な怒声に、謙人とその友人がビクリと体を強張らせ動きを止めるなり、堰を切った様に泣き出した。その様子を一瞥する通行人は少なくはないが、誰も足を止めようとしない。二人の間にかがんで顔を寄せると、佳之はもう一度二人の顔を見る。
「一体何があって、ケンカなんてしたんだ?」
 しかし二人はただただ泣き、しゃくりあげるだけで一向に埒が明かない。とりあえず佳之は二人を水場に連れて行き、泥や血を洗い落とし、少しでも落ち着かせようと専心した。するとやがて二人は泣き止んだものの、ばつが悪そうに誰とも視線を合わせようとしない。
「なぁ、一体何があったんだ。怒らないから、教えてくれないか」
 何度目かの問い掛けに、ようやく謙人が重い口を開いた。
「だって、折角作ったトンネル壊すから」
 いつの時代も子供のケンカなんて、他愛も無いものだな。そんな微笑ましさが浮かびそうになったが、やはり相手を怪我させてはいけない。ぶつかり合って人は学んでいくけれども、無闇にぶつからずとも学ぶ方法を知ってもよい頃だろう。体験した事に対して指針を示すのが、大人や親の義務だ。
「謙人、確かに壊したのはよくないが」
「嘘つき」
 話の途中で謙人の友達がぽつりと呟いた。反射的にそっちへ振り向くと、その子は苦虫を噛み潰した様な面持ちで、体を震わせている。
「壊れそうだからカチカチにしてねって言ったのに、ケンちゃんがそのまま掘るから壊れたんだよ。僕が壊したんじゃない」
 弾かれた様に謙人の方へ目を向ければ、謙人は顔を真っ赤にして小刻みに震えている。
「違うよ、ゆうちゃんが強く叩き過ぎたからだよ」
「そんな事無いよ、嘘つき」
「嘘じゃないよ、ゆうちゃんの方が嘘つきだ。言う通りにしなかったから、壊れたんだ。あれはゆうちゃんが悪いんだよ」
「悪くない。悪いのはケンちゃん」
「違うよ、嘘つきゆうちゃん。壊したのに、壊してないだなんて言って」
「何さ、バカバカケンちゃんのくせに」
「いい加減にしろ」
 今にも相手を掴みかかろうと二人が気勢を上げると同時に、佳之の怒声がそれを潰した。大きく息を吐き、佳之は再び沈み始めた二人の眼を見詰める。
「ともかく、理由はどうあれ、相手を殴ったり叩いたりするのは、一番やってはいけない事だ。自分がされたら嫌な事は、相手にもしちゃいけないんだ。わかったかい?」
「わかった」
 先に答えたのは、謙人の友人であった。俺はその子に優しく頷くと、帰ってもいいよう伝えた。しつこく言い聞かせたところで、意味をなさないからだ。そうして俺と謙人が二人きりになってから、俺はもう一度しっかりとその瞳を見詰める。
「どうして謙人は何も言わなかったんだ」
「どうしてって、だって」
 そこで一旦口をつぐんだが、すぐに謙人は特殊な笑みを浮かべつつ、口を開いた。
「僕は間違ってないから。悪いのはゆうちゃんなのに、僕が謝る必要無いじゃないか。もう、ゆうちゃんなんて嫌いだ。折角仲良くしてあげていたのに、裏切るなんて酷いや。そんなやつは、死んじゃえばいいんだ」
「謙人?」
 何を言ってるんだ、謙人。お前はそんな子じゃないだろう。聞き違いであって欲しいけれど、確かに死ねと言った。初めて謙人の口から、そんな言葉を聞いた。謙人、一体何がお前をそうさせるんだ。お前は心優しく、真面目な男だろう。
「そうだ、ゆうちゃんなんて死ねばいいんだ。嘘つきは死んじゃえ」
 眉根を寄せ、爛々と憎しみに瞳を輝かせつつ、口元はどこか楽しそうに歪んでいる。その顔、佳之の記憶の底に埋めたあの忌まわしい顔と重なり、目眩にも似た喪失感が彼の中で急速に膨らんでいく。
 親父だ、親父の顔だ。自分の意見にそぐわない人に対し、よくこんな言葉をぶつけていた。そうしてその時、決まってこんな顔になっていた。この目、この笑み、そして自分以外の人間一切を認めようとしない言動。過去に親父から受けた様々な事が思い浮かんでは消え、また浮かんできては断片的な記憶が凄まじいスピードで飛び交う。罵倒、侮蔑、叱責、嘲笑、欺瞞、嫉妬……。目の前にいるのは親父ではなく、謙人だ。しかし親父と同じ顔をし、同じ様な事を言っている。親父と謙人の違いは何だ。年か、背格好か、声か、親子関係か、それとも別の何かか。俺は親父を憎んでいる。今もそうだし、死んでくれた時には喜びさえあった。だがどうだ、目の前の謙人はまるで親父と一緒じゃないか。同じ考えを抱いているのならば、姿形は違えども同一人物だ。目の前の人間は謙人であるが、親父。親父であるが、謙人。謙人、親父。親父、謙人……。
 俺がいない。
 確かにいるのに、どこにもいない。二人の居場所に俺がいない。いなければ成り立たないはずなのに。どうして俺だけこうなんだ。俺が立ち上がったら、いつも転ばそうとしてきた親父。そんな親父の様にさせたくないからと、懸命に教育に取り組んできたのに、それを全否定する謙人。いつもいつもそうだ、どうして俺を否定する。どうしてそんな事をする。何故俺の言葉に耳を貸さないんだ。
 目の前の景色が急激に薄れていき、何も見えなくなった。光の中とは違うが、暗闇の中ともまた違った盲目。地に足をつけているのかもわからない奇妙な浮遊感が、ただひたすらに気持ち悪いと感じるばかりで、他に何も考えられない。
 あそこで立っているのは誰だろう、後ろにあるのはなんだろうか。
 白いのか黒いのかすらもわからない世界の先で、誰かが立っている。それが誰なのか、どんな表情をしているのかわからないが、懐かしいと感じている。その人物の後ろには何か大きな物があるけれど、それが何かわからない。ゆっくりとそこへ、ふわふわした足取りで向かう。
 不意に遠くから幼子の声が聞こえてきた。耳を傾ければ、どうやら泣いているようだ。この声は聞き覚えがある、前もこうして遠くから聞こえてきた。誰だったろうか。まぁ、いい。俺の謙人が笑ってさえ……。
「謙人?」
 ぼやけた思考、視界が幕引く様にさっと晴れると、目の前で謙人が尻餅ついて左頬を押さえ、顔を真っ赤にしながら壊れたサイレンの様に泣いていた。また、やってしまったのか。もう二度としないと誓ったはずなのに、またこうして叩いてしまった。叩いた事は気持ちより記憶より、この手に残る痺れが何よりもはっきりと証明している。
「俺は、何て事を……」
 否定したいが、できない。確かにやってはいけないとわかっている事を、もう二度としないと心に刻んだ事を、こうして簡単に覆してしまった。あぁ、どうして叩いてしまったんだ。わかっていたならやらないだろうに、わからないうちにやってしまったのが問題だ。何を信じたらいいんだ。俺は今まで自分の意志で我が身を制御してきたと思っていたのに、どうしてこんな。
 しばし呆然と立ち尽くしていたが、謙人の喉を潰すような泣き声、くしゃくしゃとなって戻らなくなるのではないかと心配する程に歪めている顔に、もう消し炭同然かもしれない親心と言うものが疼き、そっと謙人を抱き締める。だが謙人は暴れ、俺の腕から逃げ出す。
「謙人、すまなかった。お父さんが悪かった」
 きっと俺は泣きそうな顔をしている事だろう。親の威厳も何をも無くし、息子に対し縋っている。そっと腕を伸ばし、来るようにと誘いかけるが、謙人はより遠くへと離れてしまう。諦め切れず、ゆっくり一歩二歩と踏み出してみたが、謙人は怯えた様に息を呑み、逃げ出す。
「謙人、すまなかった」
 だが、何度やってみても結果は同じだった。近付けば逃げ、近付けば逃げられてしまう。
「謙人……」
 もう戻れないのか。取り返しがつかないと思った出来事は数多くあれども、本当にどうにもならなくなった事は少ない。今回はそのレアケースではないと信じたい。今はもうそれ以上、何も考えられない。ようやく前の事が消えようとしていたのに、どうしてこんな事に。俺は子を守ろうと、良き理解者になろうとしているのに、どうして。
 どうして俺は二度も、こんなあやまちを犯してしまったのだろう。
 一人で帰宅してから奥の居間で新聞を広げ、そうしてしばらく経った後、香奈子が謙人の手を引いて帰ってきた。泣きじゃくり怯える謙人は困惑する香奈子の背に隠れ、どこか恨めしそうに俺を見ている。何を言ったところで今はどうにもならないと考え、ついと視線を逸らす。そこでようやく香奈子が何かを察したらしく、謙人を連れて台所へと向かった。今日は三人で食事もできないだろうし、川の字で寝られないだろう。
 二人の姿が見えなくなってから程無く、佳之は自室に入った。謙人が産まれてから使う機会は減ったけれど、一人になりたい時や仕事が山積みの時などに入り、机に向かっている。けれど、こうして半ば逃げる様に自室に閉じこもろうとするのは、結婚以来初だった。佳之は鍵をかけず、パソコンの前に置かれてある椅子にどっかりと腰を下ろし、それと同時に肺の中にある空気を全て吐き出さんばかりの溜め息をついた。
 どのくらい経ったろうか、いつしか机に突っ伏して寝ていた佳之の耳にノック音が響いた。それに気付くなり弾かれた様に起き上がると、入ってもいいとドア越しに伝える。
「晩ご飯、持ってきたけど、食べるでしょ。あっ、謙人はもう向こうで寝たから」
 食事をする気分ではなかったが、美味しそうな鍋焼きうどんの匂いと香奈子の優しさにふと頬が緩み、側のテーブルに置くよう頼んだ。食事を目にする前までは食べないつもりだったのだが、それも中途半端な贖罪意識の顕れだったのだろう、勧められるがまま食べているうちに雲散霧消していった。
 半分程食べた頃、ベッドに腰掛けていた香奈子が意味ありげに息を吐いた。俺はすぐ後に続くだろう質問に答えるため、口の中のうどんを嚥下すると、水を一口飲んでから振り返った。
「信じたくないし、勘違いだと思いたいんだけど……もしかして、また謙人を叩いたの?」
 そこに一切の批難の色は無かったが、胸が潰れてしまいそうな程、苦しくなった。この事実は香奈子を裏切ったと言う以上に、それまで俺がこうあるべきだと培ってきたものが、二度もこの手で壊してしまった事に対し、今なお大きな衝撃を与える。だが、これは厳然たる事実であり、自分がしたあやまちなのだ。目を背けてはいけない。都合の悪い事から目を背けるだけならば、親父と一緒だ。
「そうだよ、お前の考えている通りだ。俺はまた謙人を叩いてしまったんだ、この手で」
 じっと手を見詰める佳之の顔は取り返しのつかなさに対する無念に溢れており、香奈子もつられて顔を顰める。
「どうしてなんだろうな、あんな親父になりたくなくて、必死に色んな勉強して、少しでも良い父親になろうとしているのに、気付けば叩いてしまっている。一度ならず、二度までも。俺は父親失格だよ、幾ら良い父親になろうとしたところで、無理なのかもしれない」
「そんな事無いってば」
 香奈子が立ち上がるなり、佳之の肩に手を置く。
「貴方は本当にしっかりやっているじゃない。お義父さんみたくならないよう、一生懸命にやってきたじゃない。確かに謙人を叩いた事はショックよ、普段の貴方から考えられないもの。ねぇ、一体何があったの。殴るだなんて余程の理由があったんでしょ、話してよ」
「つい、だよ。香奈子が思う程、特別な理由なんて」
「嘘、何でそんな嘘つくの」
 逸らしかけた視線は、再び香奈子の勢いある言葉によって引き戻された。
「別に嘘なんて、ついてないよ」
「昔からそう、貴方は嘘をつく時に必ず目を逸らし、苦笑いするもの。一体何があったの、何で私に話せないのよ。いつもそうよ、大事な事は一人で抱え込んで。心配をかけないようにしてくれているのかもしれないけど、そうされるのが一番心配なのよ」
 ぐっと佳之は唇を真一文字に結んだかと思うと、申し訳なさそうにうつむいた。
「すまない、本当に。お前の言う通りだよ、俺は嘘をついていた。だが、心配をかけまいとするために黙っていたわけじゃない、俺自身信じられない事が起こったから、信じてもらえないだろうと思って話さなかったんだ」
「どう言う事なの」
 訝しそうに香奈子が渋面の佳之を覗き込む。
「俺は決してやるまいと思いつつ、謙人を二度も叩いてしまった。確かに謙人は俺に対して信じ難い言葉を言ったよ、友達に対して死んでしまえばいいとかね。でも、そんな言葉だけじゃ手なんて出さない。俺が謙人に手を出した時、例外無く謙人が親父に見えたんだ。謙人の言動が、生前の親父の言動と重なり、そうしてつい何も考えられなくなり……叩いたんだ」
「謙人と、お義父さんが?」
「あぁ、そうだ。だから俺は二度も謙人を、親父じゃないのにその代わりに、叩いて……」
「落ち着いて、貴方」
 がりがりと頭を掻きむしり、出口を求めようともがく佳之に、香奈子が慌ててなだめる。
「一体どうしたんだろうな、俺は。見間違えるだなんて、ありえないじゃないか。確かに血は繋がっているから、顔立ちが似てくる事もあるだろう。それすら、認めたくないけどな。でも今の謙人がそこまで似ているとは、どうしても思えない。だから余計にわからないんだ、どうして親父に見えてしまったのか、何故無意識のうちに叩いてしまったのか、さっぱりわからない。幾ら考えてみても、答えが見えてこないんだよ」
「佳之」
 頭を押さえ、苦虫を噛み潰したとも泣き出しそうともつかない顔をうつむかせ、肩で息をする佳之を香奈子は抱え込む様に抱き締めた。しかしそれでも、佳之の表情は和らがない。
「もうお義父さんはいない、佳之を苦しめるあの人はいないのよ。謙人がどうしてお義父さんに見えたのかはわからないけど、きっと謙人が悪い事をした時のストレスがお義父さんの記憶を呼び起こしたのよ。謙人はまだまだ幼いし、汚い言葉や大人の道徳とはかけ離れた行動をとる事だってあるわ。だからこれからも、私達がしっかりと育てていかないといけないんじゃない」
「そう、なのかな」
「そうよ。だからもう終わりだなんて考える必要無いし、父親失格だなんて考える必要も無いの。お義父さんの事だって、徐々に忘れていくって。思い出す事があっても、はっきり思い出せなくなっていくものよ。そして今、謙人から避けられていても、それを上回る父親としての魅力を持ち続ければ、いつか謙人だってわかってくれる。佳之は父親としての義務も意識も勉強も、素晴らしいと誇りに思えるくらい、よくやっている。だから、もっと自信を持ってよ。少し強引なくらいでいい、一歩下がって頭を下げるだけが大人じゃないの。佳之は多少強引なくらいで丁度いいと、私は思うのよ」
 脱力していた佳之の腕が香奈子を抱き締め返した。求めるように彼女の背を掻きむしり、互いに互いの肩口に眼を埋める。必要とされている、そんな夫婦間の自負が二人を衝き動かし、ゆっくりと顔を上げ、視線がぶつかったかと思うが早いか、唇を重ねた。
「ベッドに行きましょう」
 長いキスの後、肩から力を抜きつつ微笑を浮かべた香奈子が+そう言うなり、立ち上がった。俺はそっと舌で自分の上唇に残る香奈子の感触を確かめると、大きく息を吐きながら妻の待つベッドへと向かう。場所を移した俺達は再び唇を重ね、燃え上がるようにと舌と心を絡ませる。
 抱き慣れた香奈子の体には飽きと言うものが確かに存在していたし、行為にもマンネリと言うものがあるけれども、抱いていて得られる安心感だけは他の女とは比べられないくらい大きいと思う。慣れた感じでそっと抱き寄せ、髪や背により大きな安らぎを求めるかの様に撫でさすり、掻き悶える。香奈子も鼻から抜ける甘い声を漏らし、ゆっくりと俺の頭を抱え、背を撫でる。
「一週間ぶり、かな」
「十日ぶりよ。昔程じゃないけど、私だってこうされたいし、求めたく思っている。お互い、普段の生活でそれを見せるのは難しくなっちゃったけどね」
 苦笑いもそこそこに俺は首筋に舌を這わせ、そっと服の上から胸を揉む。ゆっくりと弧を描く様にして。香奈子が反応する度に俺も嬉しくなり、愛撫に熱がこもる。生涯の伴侶と決めた人だからこそ、丁寧かつ大胆に抱ける。
 頬に手を添えてから愛撫の手を止め、離れるのは脱衣のサイン。互いに全て脱ぎ捨て、再び相対するなり優しく佳之が香奈子を押し倒す。軽いキスを始まりの合図とし、這う様にして香奈子の体を愛撫していく。よく知った関係だからこそ、欲求と相手の限界とのバランスを上手に調節できる。
「いいよ、もう」
 香奈子の艶やかな微笑みに、俺も同じ様にして返す。そっと加奈子のそこにあてがい、挿れようとした途端、目の前の景色が壊れたテレビの様にぶれた。何事かと思う間も無く、視界が明滅する様に薄れたり、はっきりしたりする。
 親父? いや、気のせいだ。
 自分の中に生じた異変を気取られまいと、俺は香奈子の中へ挿れるなり、唇を重ねた。その間にも頭の中は揺さぶられる感覚を抱き続け、それと並行して何かしら見てはいけない気がする映像が、徐々に形を成していく。思考をそちらへなるべく向けず、香奈子を愛する事に専心する。感覚を肌に集中させ、心を香奈子へ傾けながら甘い声に我が身を委ねる。
『ハハッ、冗談だよ。何をそんなに怖い顔しているんだ、お前は』
 突如脳裏に響く親父の声。これはいつのものだろうか。空想ではなく、確かにどこかで聞き覚えのある親父の声がした。どこだ、一体どこでこの台詞を聞いたのだろうか。香奈子に集中しなければいけないと知りつつも、妙に心がその方へと傾く。もしかして、このおぼろに映る映像が答えなのだろうか。
『ちょっとした冗談だって言ってるだろう、このクソ野郎が。何だよ、冗談も通じないなんて、面白味の無い奴だ。昔からそうだ、気の利いた台詞一つ言えないんだよな、お前は』
 どこだ、どこで言われた。すごく大切な事だと心が騒ぐのに、思い出せない。今まで聞こえてきた幻聴や記憶とはまた違った、何かこう、自分を変えてしまいそうな記憶からの声。そんな感じだ。もしかしたら俺はその記憶を、忘れたがっているのかもしれない。だから、こんなにも胸騒ぎのする記憶をはっきり思い出せないんだ。
 過去に何があったのかよく思い出せないが、そんなにも心の奥底に封じ込めたものだ、きっと思い出してはいけないのかもしれない。思い出したところで、幸せになんてなれないどころか、再び酷く傷付くに決まっている。だが、一つ確信めいた気持ちが生まれているのも、また確かだ。親父の死後こうも頻繁に、はっきりと親父を思い出す事は無かったのに、ここ最近の間によく思い出す。それは謙人が親父と似ていると思い始めた時からだ。
「貴方、どうしたの?」
 謙人と親父、どうしてこの二人が結び付くのかわからないけど、きっと俺の中で何かあるはずなんだ。そこにきて、この思い出したくない記憶。何か手掛かりがあるとするならば、きっとこれだ。例えこれが違っていたとしても、一体自分は何をそんなに忘れたかったのか気になって仕方なくなってきている。
「どうしたの、貴方。また何かあったの?」
 香奈子の不安げな声も耳に入らない様子で、佳之は僅かに掴まえた記憶を手繰り寄せる。おぼろに見えていた記憶がゆっくりと、しかし確実に見えてくるにつれ、次第に佳之の顔が強張る。
 貯水塔?
 そう、あれは貯水塔だ。それも秋月館の屋上にあるやつだ。貯水塔を見れば、親父の自殺を思い出す。どうしようも無い人間で、早く死んで欲しいといつも願っていたが、実際に目の前で飛び降り自殺をされると、何とも言えない気分になったものだ。
 親父?
 写真が入れ替わる様にして、下卑た笑みを浮かべる親父の顔が浮かんだ。側に貯水塔がある事から、これは親父が自殺した時の記憶に間違い無いだろう。けれど、どうして今、それを思い出すんだ。何だろう、何かがひっかかっている。
『何もしてねぇって言ってるだろう。お前は俺の言う事を聞いていればいいんだよ、俺が一番偉いんだからな。大体誰がお前をここまで育ててやったと……』
 何だろう、この胸をこうまで騒がせているものは。どうもまだはっきりと思い出せないけど、何かとても大切な事を忘れている気がする。気のせいなのかもしれないけど、それだけで済ませられない火種が奥底でくすぶり続けている。
「貴方、しっかりして」
 勢い良く両肩を叩かれ、弾かれた様にうつむきかけていた顔を上げるなり、佳之はつい忘れかけていた目の前の香奈子に焦点を合わせる。香奈子は既に佳之から離れており、正座しつつ、心配そうな瞳に狼狽している佳之を映していた。
「あ、あぁ」
 何やっているんだ、俺は。香奈子としている最中に親父の事を思い出しては一人思い悩み、妻をないがしろにしてしまった。気にすればする程、泥沼へと沈んで行くのにそれでも考えを止められず、何にもならない物事に執着してしまっている。いけない、これでは謙人だけでなく、香奈子をも失いかねない。謙人が俺から離れてしまっている今、香奈子も離れたりでもしたら、俺は何を守るために、何を支えに生きればいいのか。
「ごめん」
 どうしていいかわからず、とりあえず心に浮かんだ言葉を口にした途端、何故か涙が一粒二粒ぽろりぽろり、数えられないくらい溢れ出てきた。はっきりと悲しいだとか、悔しいだとか言う気持ちを掴めず、涙腺が壊れたかの様に涙が出てきて、次第に泣いている自分自身が悲しくなり、止められなくなった。
「私は大丈夫だから、落ち着いて。佳之、一体どうしたの、どうなっているの?」
 不安げに見詰める香奈子に対しての罪悪感とはまた別に、何かよくわからないが、途轍も無く胸を締め付けるものが俺を苦しめる。悲しいだけじゃない、苦しいだけじゃない、ましてや疲れからではない。ただ真っ暗な津波に襲われているかのごとく、自分と言うものを掴めないまま、涙が出る。
 佳之はうずくまった。そうしてただひたすらに涙を流し、叫んだ。乱暴にシーツを握り締め、声を押し殺そうとしても漏れる叫びが、痛々しい。そんな佳之を包み込む様に、香奈子は抱き締めた。妻と言うよりも、母としての優しさをもって、幼子をあやし寝かす様に、鼓動のリズムで佳之の背を優しく掌で叩く。ゆっくりと、安らぎの世界へ導く様に。

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