三、「安寧を求めて」

 謙人を叩いてから一ヶ月経ったけれども、傷は癒えるどころか益々深まっていくばかりだった。あの日の夜に聞こえた真一の声は今なお佳之の脳裏にこびり付き、より一層強く大きくなっていた。それだけじゃない、聞こえてくる頻度も日に日に増し、次第に身も心も削られ、目に見えて痩せてきている。
 何度か謙人が忌まわしき親父に見えたり、脳裏に響く声によって再び手を上げそうになったりもしたが、痩せ細った理性で何とかそれを抑え、胸を締め付け歯を食い縛り、それまで自分が学んできた育児法を何度も復習し直しては、落ち着いた態度を取り続けてきた。しかし、それももう限界だった。今までできてきたが、これからもずっとできるわけじゃない。限界を超えつつある我慢に理性が壊されかけ、佳之は以前ほど外出をしなくなって、部屋に閉じこもりがちになっていた。
「一度、病院で診てもらったらどう?」
 香奈子に幻聴が聞こえると沈痛な面持ちで相談したところ、すぐにそう返された。幻聴が聞こえると言っても、親父の声でとは言わず、ただ死ねとか何だとかと酷い言葉ばかり聞こえてくると説明しただけなのだが、香奈子は俺の様子を見て、すぐに勧めてきた。
 どうもこうした精神内科と言うものに行く事に対し、抵抗があったのは事実だ。精神内科にかかるなんて、気がふれた人の行く所だと思っていたからだ。世間を見渡せば鬱病などにかかっている人は予備軍も含めてかなり多く、特別視する必要など無いのだろうが、しかしどうしても自分がそうだと認めたくなくて、最初は通院を拒んでいた。
 けれど、いつか治ると信じているのだが、日を追う毎に悪化するばかりで、家庭にも仕事にも支障をきたしつつあるために、通院する事を決意した。ワガママばかり言っていられない。これを克服してこそ、ようやく忌まわしい幻影に怯えずに済む毎日となるんだ。
 香奈子の勧めによると、家から電車で一時間程かかるけれど、隣の市にある大学病院の精神内科がどうも評判が良いらしく、香奈子の知り合いも生活に支障をきたすレベルの鬱病だったらしいのだが、しばらく通院しているうちに大分よくなったらしい。他人の体験談をあまり信じる方ではないのだが、無名のところへ行くよりも、一つでも成功例のあるところへ行きたくなるのが人情だろう。
 初診なので早目に行こうと、外来受付の始まる三十分前に到着したけれども、予約患者が思ったよりもいたために、たっぷり二時間以上待たされた。持参した小説を読みながら、世の中病んでいる人は結構多いものだと、一見すると何でもなさそうな人が呼ばれるのをちらちらと見ながら思い、さして小説に集中できないまま、自分の番となった。やや緊張しつつ内部待合室に入ったが、そこは特別何か変わったものがあると言うわけではなく、白を基調とした壁や天井、精神内科に関するポスター数点、そして力無い瞳で順番を待っている人達。ポスターさえ貼り替えれば、ここが消化器科と言われても疑わないだろう景色に、多少面食らいつつも大人しく長椅子に腰掛け、呼ばれるのを待つ。一人、二人と呼ばれては出て行き、そろそろ自分の番だろうかと思う事しばし、ようやく宮川佳之の名前が呼ばれた。
「どうぞ、そこにお掛け下さい」
 担当医として目の前にいるのは、年の頃三十になったかならないかと言う、自分と同じくらいの女性だった。こうしたものはもっと人生経験を積んだ人がやるものだと、勝手に想像していただけにやや面食らい、もう一度掛けるように言われるまで呆然としてしまっていた。
「宮川、佳之さんですね。初めまして、荒井と言います、よろしくお願いしますね。さて、本日はどのような悩みでここへ来られたんですか?」
 肩まで伸ばした髪、やや童顔の人懐っこい笑顔に一抹の不安を覚える。本当にこの人で大丈夫なのだろうか。確かに話し掛けやすい雰囲気はあるけれども……。
 そんな佳之を察したのか、女医はにっこりと微笑みかけてくる。
「不安なのはわかりますよ、誰だって自分の心を気安く話したくないものですから。また、私も一応は若いと言う事で、大丈夫なんだろうかと思う患者さんも多いみたいですけど、任せて下さい。こうした治療において大事なのは、私達医者を信頼すると言う事です。信頼と言っても、すぐには難しいと思いますけど、でももちろん、私達も一人の人間として、患者さんの手助けになりたく思っています。ところで、精神内科は初めてですか?」
「えぇ、そうですね、初めてです」
「そうですか。ではこちらから治療にあたって大事な点を述べておきますが、こうした治療において大事なのは先程も言った通り私達を信頼して下さる事ですが、そのためには気を楽にする事が重要です。宮川さんの気をなるべく楽にするため、私達がいます。そのため、宮川さんの心をしっかり話してくれなければ、なかなか私達も楽にしてあげられませんので、包み隠さず話して下さいね。さて、先程も申しましたが、本日はどうなさいましたか?」
 未だ少々懐疑しているものの、先程よりは信頼してもいいかなと言う気になり、佳之の肩の力が少し抜けた。
「えぇと、変な話なんですけど、その……ありえない声が聞こえてくるんです。ありえないと言うのはつまり、亡き父の声が夜な夜な、いえ、酷い時には昼夜問わずに昔受けた忌まわしい記憶の中にある言葉や、また記憶に無い罵倒などが聞こえてくるんです。それがすごく辛くて、仕事をしている時でも子供と接している時でも聞こえるので、不安になったり苛々したりと、心が不安定になりがちなんです」
「それはつまり、幻聴と言うことでしょうか。いない人の声が聞こえる、と」
「そうですね。ただ、声だけではなく、酷い時にはおぼろげながらも見えるような気もするんですよ。本当に酷い時なんですけど、自分の全てを否定するような言葉を吐かれ、嘲笑う顔が見えたりだとか」
 奥底から血を吐き出す様な告白に、女医は神妙な面持ちで二度三度と頷く。そしてしばらく視線を外した後、女医は眉根を寄せながら佳之と目を合わせた。
「その嫌な記憶と言うか現象は、今も感じたりしますか?」
「今は特に、どうこう感じたりはしません」
「では、不定期だけど割と頻繁にそうした侮蔑や罵倒の声が聞こえてくる、と」
「えぇ。それが特に息子と接している時に、よく起こるんですよ」
「息子さんの年齢は?」
「六歳です。もうすぐ七歳になりますけど。あぁ、でも息子は可愛いと思っています。それに、頭を悩ませ続けられていると言うわけでもなく、どちらかと言えば手のかからない子供でしてね、家内共々息子には愛情を注いでいます」
 女医は微笑み混じりに頷くなり、手元のパソコンにそれまでの情報をまとめ始めた。カルテの製作作業なのだが、ふと見せた仕事としての眼に、佳之はどこか寂しさを覚えずにはいられなかった。親しみを覚えても、幾ばくかの信頼を寄せても、所詮それは医者と患者と言った、どこか機械的な振り分けをされるものだと。そこまで考えると、佳之は女医に気付かれぬ様、小さく苦笑した。
 何をそこまで期待していたんだろうか。ここに来る前まで求めていたものは薬や治療法、または対策等であって、繋がりを求める事では無かったはずだったのに。
「とりあえず」
 女医はまたも佳之に向き直る。
「過去のトラウマが心身に悪影響を及ぼしているみたいですね。人には記憶を呼び起こす、一種のスイッチみたいなものがあります。それは不意に入る事ももちろんありますけど、多くの場合は何かに接した時にスイッチが入ってしまうのです。宮川さんにとってそれが、息子さんなのではないでしょうか」
「でも俺は息子を愛している。忌まわしい親父なんかと、同一視していない」
「えぇ、それはお話している中である程度把握したつもりです。ただ、だからこそなんです。愛する息子さんと憎むお父さんとでは、一見接点が無いようにも思われますけど、深いかかわりがあると思われます。それはきっとアンビバレンス、つまり好き嫌いが同時に生じる事によって、葛藤が出てきてしまうんですね。更に言うならば、息子さんとお父さんに何らかの繋がりを見出してしまっているからこそ、そう感じているのでしょう。幻覚や幻聴も多分その延長で、意識の混在によって起きているのかもしれません」
 確かに思い返してみれば、あの七五三の写真を見てから、特に強く親父を思い出すようになった。笑顔がどこか似ていた。そんな思いから謙人と親父をつい重ねてしまい、いつしかその二人を近いものだと見てしまいがちになっていたから、苛立っていたのかもしれない。
「とりあえず幻覚幻聴障害だと思うので、お薬を出しておきますね。幻覚と幻聴を抑えておくお薬と、胃腸薬、それに抗鬱剤の三種類です。もしまた何かあれば、いつでも来て下さいね」
 診察室を出て、会計やら薬の受け取りやらを全て済ませ、帰りの電車に乗る頃、佳之は釈然としない気持ちになってきていた。どうも、上手くはぐらかされたような、結局は決まった薬を与えるだけの会話だったような、そんな気がしてならなかったが、やがて過程はどうあれ治るならばそれでもよいかと、そんな思考の転換さえ生じてきた。
「おかえりなさい、どうだった」
 帰宅するなり、香奈子が小走り気味に出迎えてくれた。やや遅れて、謙人も駆け寄ってくる。あの時に謙人を叩いてから十日くらい、俺に対して怖がったり避けたりと嫌われていたが、最近ではまた懐いてくれるようになった。ただ、俺も謙人の中に親父を見出しては密かに苛立ってしまったりもするので、謙人の方も俺に対して完全にわだかまりが消えたとは思えない。
「どうと言われても、話をして薬もらってきただけだからね。特にこれと言って、変わった治療とかはしていないよ」
 佳之は香奈子と謙人の間を抜け、奥の居間へと向かう。テーブルの上に薬袋を置いてから手を洗い、そうしてようやくソファに座るなり、香奈子の方へ目を向けた。香奈子は謙人を別室で遊ぶように伝え、佳之と向き合う形で腰を下ろす。
「それじゃ、症状を伝えてどうすれば良いのかって訊いただけなんだ」
「どうすれば治るのかと言うのは、特に言われなかったような気がする。幻覚とか幻聴とかがあるんですよと答えたら、恐らくこれこれこう言う事が原因でしょうと言われ、薬を出されたくらいだな。ほら、そこにあるやつだ」
「何だか噂と違って、あまり良くなさそうなところだね」
 不満げな香奈子に佳之は苦笑を浮かべつつ、優しくなだめようとする。
「でも、担当の先生は若かったけど、何だか良さそうだったよ。それにもしかしたら薬が良いのかもしれないし、まだ初診だ、はっきりと駄目だとは言い切れないかな」
「そうかも。まぁ、二三日様子を見て、薬が合わなかったらまた行けばいいしね。ところで、病名は何なの」
「幻覚幻聴障害、とか言われたよ。もっと別な名称なのかもと思ったけど、案外そのまんまなんだな」
「何にせよ、早く治ればいいね。あっ、お茶飲む?」
「ほうじ茶で頼む」

 その日からしっかりと薬を飲み続けてみた。薬を飲んだ後は凄く眠くなり、何も考えられなくなる事も多い。最初は気のせいかもしれないと自分を納得させていたが、どうも薬を飲んでから三十分くらいすれば、特に眠くなってくるので、薬がそうさせていると思わざるを得ず、よくよく処方箋を見てみると、確かにそうした副作用があると書かれていた。それまで薬を飲んでも、特に副作用が無かっただけに驚いたが、神経に関わるからそういうのも出やすいのだろうと、自然に納得できた。しかし、薬を飲んで眠くなる、その事に疑問と恐怖を抱くのにそう時間はかからず、一週間もすれば薬を飲む前に悩み出した。
 眠る事で幻覚や幻聴から逃れられるけれど、同時に生活のほとんどが奪われてしまう。仕事も育児も香奈子との夜もままならず、常に夢現の様な心地の中で生きる事に不安を覚えた。確かにこのまま薬を飲んでいれば親父から逃れられるかもしれないけど、自分も駄目になってしまう。共倒れなんて、まっぴらだ。けれど薬を切らせば親父の幻影が強く現れ、理性も野性も等しく掻き乱される。
 そうしたバランスを無理に保とうとしていたら、やはり心のどこかが破綻しかけてきたので、俺は再び病院へ行き、薬を変えてもらえないかと頼んだ。すると先生は何事も無く、あっさりと違う薬を処方してくれた。新しく処方されたものは前のより効き目は弱かったが、そう眠くなる事はほとんどなく、それまでと変わらない生活を送れるようになった。ただ、その代償として前の薬を飲んでいる時よりも頻繁に、親父の幻影を見るようになったが、まだそれでも我慢できる程度のため、今も同じ薬を飲んでいる。
 俺は今、不安だ。それはこれからずっと薬を飲み続けなければならない事ではなく、薬を飲んでいても次第に親父の幻影が強く濃く見え始めているからだ。認めたくないけれど、確かに同じ薬を飲み始めた頃よりも、親父の幻影に苦しめられる頻度が増えてきている。対処法としては、二つある。一つは前の様に強い薬を飲んで、無理矢理忘れる事。もう一つは、自分自身がその呪縛を克服する事。正直に言えば、どちらもできない。だが、前者はいつか俺をも壊す。いや、相手は幻影だ、駄目になるのは俺ばかり。となると、必然として後者を選ぶしかないわけだが……。
 一時期よりは大分現れる頻度が減ってきた。喜ばしい事だ。けれど唯一不安なのが、前の時よりも一回一回のダメージが心に強く深く刻まれる様な気がし、このままではどうなるものかと、香奈子や謙人を見ていて一抹の不安を抱かざるを得なかった。

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